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生きようという意思=生命に囲まれて生きている。
2012/06/24(Sun)
味噌を作るつもりの豆が、夏と冬を三回越して古くなってしまった。
これを火にかけ、カラカラと煎ると実にうまかった。
命は少しも古くはならない。
豆に宿っていた命は決して古くなっていない。そう思った。
宿した命を守って耐えて、豆も豆なりに、生きていたのだった。そう思うと胸がいっぱいになってしまった。

ベランダでは一本の長い茎にユリの花が咲きそろった。食べそこねた百合根を鉢の土に埋めたらぐいぐい伸びたのである。
しかしこの豆たちは植えない。どうでもこれは食べる。
「ご飯は、お米の卵だよ。卵を食べているんだよ」。誰かがそう話していたのを思い出す。
私は煎り豆を、食べる。お豆の卵を食べている。
土に戻してやれば、豆は命のやりたがっていることを実行にうつすのである。
芽を出したい、根を張って茎をぐんぐん伸ばしたいという意思が、この豆にはこめられている。そして花を咲かせる。実を結ぶ。命はそうしたいという意思を持っている。
そのような意思のことを、生命エネルギーという。
私たちはカロリーを食べるのではない。栄養を食べるのでさえ、ない。
生きとし生けるものは、まさに生きようとする意思、生命エネルギーをとりこみ続けて生きている。

「不思議ですよね。生きものは互いに生命エネルギーをとりこみながら、生きていくんですもんね」。
そう話しかけてくれた人のことを、思い出す。
八つのオレンジ色の花は午後の光を浴びて満足した様子である。すでに下のほうはくたびれているが、私も大いに満足した。
芽を出したい。根を張って、茎を伸ばし、花を咲かせよう、実を結ぼうという意思。生きようという意思に囲まれて私は生きている。
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