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混乱の中で泳いでいたくはない-体の動きを通じた感性のトレーニング-
2012/06/14(Thu)
海で抜き手をきってさっそうと泳いだのだ。しかし何のことはない。流れにのせられてとんでもないところに流されている。気がつくと沖ははるか遠い。泣きそうになりながら必死で戻ったが、あのときは往生した。
情報の海で泳ぐのもまったく同じ。かしこく上手に泳いでいるつもりが、あとで振り返ってみると何のことはない。大きな流れの渦に巻き込まれ、つかまってしまっている。

情報はもともと対立し、矛盾する。
人の感性がちがうのだから、ものの見え方も考え方も違うのは当たり前で、意見も異なるのだ。
もともと情報とは混乱のもと、雑音である。情報に耳をかすことそのものが、リスクを負っている。
自分の心の声によく耳を澄ます。心の声ははじめのうちはあまり大きくない。聞こえてくるまで静寂の中でじっと耳を澄ませる。心の声はそういうことを要求する。

そういうことをしないうちに、手っ取り早く雑音の海の中に飛び込んでしまう。飛び込まされてしまう。だって、忙しいのである。
雑音の海から岸辺に戻って心の声に耳を澄ませてみる。すると雑音の余韻がわいわいがやがや耳の中でうるさいだろう。頭に鳴り響く、対立しあい、矛盾しあう情報の波が、やがて食いあい、食われあい、勝ち残ってゆくものがある。
それは「正しい情報」という名の誤解や、ただ強い印象であるにすぎないことのほうが多い。
触れた回数が多く、心地よい音声や音楽や映像を伴って強いイメージを残せた情報が、勝利者となって勝ち残っている。社会的な人気や肩書や社会的信頼において安心のイメージを強く印象づけられた情報もまた、勝利者となって勝ち残る。
情報戦でゆけば、最初から勝負はついているようなものである。

情報は、対立し矛盾する。
判断力は、情報そのものでは磨くことができない。
むしろ精神の問題、心の問題、知性の問題も含まれている。精神も情報で養う、心も情報で何とかする、知性のほうも情報の力で、というのなら、ずっと一生情報の海で泳いでいれば済む。体を通じた体験などは必要ない。目と、脳みそがあればじゅうぶんということになるだろう。

あとで振り返ってみると、確かに大きな流れの渦に巻き込まれ、取り込まれてしまっているといっても、誰がいちいちあとで振り返って確認に時間をさくことなどするだろうか。
新しい情報は次から次へと流れこんでくる。その流れは真っ二つに分かれたあと、それぞれがいくつもの支流をつくり、対立と矛盾をはらむ他人の感性の波にさらされ、あっちに巻き込まれこっちに巻き込まれして、「あれは結局どうなった?」と思い返す間もなく忙しい毎日である。

感覚を磨くと、おのずと正しく選択するようになり、みずから迷路をつくって頭を混乱させることがなくなる。
感覚を磨くのに少しは訓練の時間をかける。
右を選ぶか、左を選ぶか。
自分の操体法は肩こりや腰痛の対策というよりむしろ身体を通じた感覚のトレーニング法である。
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