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交通事故にあった人が初めて知る医学用語、「症状固定」。
2012/06/30(Sat)
これ以上治療する意味がないという医師の判断で、後遺障害の認定に必要とされる医学用語。三か月から半年程度の通院が保険会社の出す目安であり、医師も患者も「もう改善はないかもなあ」とあきらめムードになる。
症状固定だよなあ→どこにどんな症状が残ったか、書類上にとどめ、→認定機関に等級を決めてもらう→等級に応じてお金が支払われる。
このような機械的な社会システムで交通事故はおおかた終了する。

どんなに軽い交通事故でさえ、どこかで区切りをつけなければ永遠に終わらない。
そういうものなのだ。
問題は、本人がそれで終わりにできるかということである。
確かに気持ちの整理はつく。しかし体の生理は落ち着くことがない。お金で終わりにはならない。ずっと同じ体で生きていかねばならないのだから。

つらいけど、お金をもらったからしょうがないという心理がないと言えばウソになる。
気は、済んだ。元の体に戻せと騒いでもどうしようもないから、そこは納得する以外に方法はない。
つらいのは、事故にあう前も、事故にあった後も、ほんとうは、あまり変わらない。
そう思うことにしている。
人が一度に引き受けることのできる苦労の重さは、一定量で決まっている。こっちで悩みがなければあっち。あっちで悩みがなければそっち。そのようになっていることがほとんどではないのか。
事故後の新しい悩みを引き受けるかわりに、事故の前にかかえていた古い悩みは吹き飛んでしまった。
その程度のものだったのだなあと思う。

「こんな目にあって、それまでやっていたことが今はできなくなって、ぜんぶお休みしてるんです」と訴える人の姿を見ていたら、ふと、「新しいことのできるチャンスじゃないですか」と口に出た。
「それまでやっていたこと」が、元通りにできるようになるのかどうか。それはもう誰にも分からない。
しかし、「今はできない」というのが事実だとすれば、すでに新しいことは始まっている。
新しい時間の過ごし方が始まって、日々新しい体験が始まったのだ。
そこで泣いてばかりいることもできるが、新しい発見は、なぜか人に喜びをあたえるものだから、驚くべき発見の喜びも、いつか必ずある。

よいことづくめのよいことはない。わるいことづくめのわるいこともない。
事故から五年。私はようやく少しずつ収穫が始まっているところだ。

※七月の操体法講習は以下の日程で行います。
野間教室…11日、18日、25日、28日のいずれも昼二時から。
天神…14日昼三時から。飲み会は参加自由。

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歩く足の運びはたくさんのおしゃべりをしている
2012/06/29(Fri)
朝の通学路。制服姿に囲まれながら歩く。みな同じ服に同じ靴だから、かえって違いが目立つ。
左の靴底ばかりをすり減らす人もあり、右のズボンのすそを踏んづけながら歩く人もある。
それぞれにそうならざるを得ない事情がある。
すぐ目の前を歩く男子高校生は、左足の裏をいちいち私に見せながら歩く。地面から足が離れるとき、ひざがくるりとねじれるのだ。本人は痛くもかゆくもないようで平気である。

上半身もパンをかじったりしゃべったりで忙しいが、彼らの足の動きもまた、ずい分にぎやかだ。私が話しかければ彼らは迷惑そうに口をつぐむことだろうが、誰だって自分の歩き方を隠すことはしないし、ウソをつくこともない。
一人だけ、右足にも左足にも特にねじれもひっかかりもなく、わざとらしい動きのない人がいた。靴底の減りかたも、離れて見たくらいでは分からない。左右どちらの側も股関節や肩甲骨までの力の伝わりにムダがなく、先頭をキープして、ひょいと縁石にのっかったりなどして、狭いところも広い地面とかわりなさそうに歩いてみせる。そのさりげない風情がかえって私の目をひく。
この人のはよく聞こえてこない。もう少し、と思ったら足が止まった。校門だ。時間切れである。

クセのある足の運びを操るからくりは、足だけにあるのではない。全身に及ぶ。百メートルかそこらを一緒に歩くうち、それぞれと気心の通じ合う気持ちにさえなる。
どんな顔つきで、どんな体つきをしている人が、どんな足の運びをして、どんな生き方をするのか。
操体法の先達たちはそんなことに関心を持たせてくれたと思う。
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ペダルは自分の足の下にあり、ハンドルは自分の手の中にある。
2012/06/27(Wed)
後部でバンと音がして軽い衝撃が伝わった。「あ~やった」と誘導者の声。
「あ~やった」もないもんだと、ハンドルを握っていた私はあきれてる。
アドバイスを出す側と受ける側との関係は、車の運転手と誘導者との関係に等しい。人の言うことをうのみにすると、車は平気で崖下に転落する。
運転初心者の私には分かっていなかった。
いかに車のベテランでも、車の外にいる限り、運転席から見える光景を直接見ることはできない。誘導する人は車の外にいる。そこに値打ちがある。運転席からは決して見えないものを、見ることができる。そこが有難いのだが、それは同時に限界があるということだから、運転者はそこのところよくよく承知しておかないと、結果を出せない。

アクセルペダルとブレーキペダルに置かれた足は、他ならぬ自分自身の足であり、ハンドルに置かれている手は、まぎれもない自分自身の手である。
走り続けることができるかどうかは、あくまでハンドルを握る本人の感覚の正確さにかかっている。
誘導者の判断とハンドルを握っている運転手の判断は、ぴたり一致することなどないはずで、それも当り前なのだ。それでも車は難所を通過する。判断を一致などさせなくてよいし、誘導者の考えに遠慮もいらない。運転者である自分さえしっかり把握して結果を出せば、それ以上によいことなどありはしない。
少しでもおかしいと思えば、運転者はいったん車を降りてでも、自分の目で確めるべきである。誘導者が少々頼りなくても、運転者自身が必要なことを理解している限り、大いに助けともなり、役にも立つ。

運転席から分かることと、誘導者から分かること。この二つを合わせて正しく判断すれば、車は無事難所を通過する。それが自力療法の操体法でやっていることだ。
しかしながら運転する本人があやふやで、「わたしが運転するよりあなたに運転してもらうほうが確実じゃないでしょうか」などと言って運転席を降りたがっているようでは埒があかない。
人生のハンドルは誰にも替わってはもらえない。それをときどき替わってもらってうまいこと切り抜けるつもりでいても、それはまったくの幻想だ。
足に力を入れればアクセルやブレーキを踏んでおり、手を握ればそこにハンドルがある。
よほどのっぴきならない事情がからんでいる場合も、目の前に広がる光景をよくよく見つめていれば、ほとんど全ての場合において、突破口は見えてくる。
腰をすえるというのは、そういうことだろうと思う次第である。
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男は子がいても、いないようなもの。女は子がいなくても、いるようなもの。
2012/06/26(Tue)
夢で自分の子と遭遇した。案外大きく育って、もう世話など必要ない。育つとどの子も少々ぶさいくで、あまり賢こそうでもないが、自分の子だから、どんなのでもかまわない。自分の子ということで全部ゆるす。不服も不満も一切ない。そう思った。
「子供」とは一般に幼児の意味もあるが、必ずしも赤ちゃんや幼児のことではない。人間関係という目に見えないものをも意味する。そして子を生み、育てるというのは、無形の体験である。
私には子はないが、親はある。あるが、関係は必ずしも一定しない。他人よりもよそよそしくなったり、急に身内になって心強い味方になったりもする。それと同時に厄介な弱みであり、害悪をもたらしさえする。
まったくゆらめいてとりとめないものだからこそ、形式的に限定するのがラクであり便利だ。
「親は、親だ」「子は、子」。それ以上でもそれ以下でもない。

「ぼくに子供はいるけれど、女は自分で生んでいるから違うよね」。
ある文化人類学者が話してくれた。
「男には子供がいても、いないような感じだよ。ぼくは自分の書いた本を踏まれると、すごく心が痛むんだ。でもワイフは本は本だと言う。自分の本がどうなっても平気っていう、あの自信は女だね。男のぼくは、自分が確かに生んで育てたと思えるのは自分の書く本しかない。でも本も研究も子供のかわりにはならないよね。男ってかわいそうな生きものだよ」。

子供を生み育てないかわりに、それに匹敵することを見つけなければならない。そう意気込んでいた時期もあったが、女の、子供への執念というか、子に対するエネルギーは無条件に強いと認めざるを得ない。
子供の頃、「子を生めるなんて」。自分の体はすごい、ぜったい一度は生もうと思っていた。自分の子が生まれたら何を伝えよう、何を話そう。そんな想像にふけって過ごすことも少なくなかった。
存分に生みちらかした母などは、「子供なんか真っ平ごめん」と平気で言い、「子供なんかぜったい持つもんじゃない」とあちこちで言いふらす。
しかし子供を生み育てることに匹敵するだけのものを見つけるのは、そうそうカンタンではない。一大事業だ。ひょっとして私の命への関心は、我が子をはらみ、育てていないというところが原動力なのかもしれない。
「男には子供がいても、いないようなものだ」というのなら、「女には、子供がいなくても、子供がいるようなもの」。
いてもいなくても、変わらないものが、ある。

子供もそうそういつまでも親のエネルギーを受けとめる対象とはなりえない。
子供が必ずしも親のエネルギーの受けとめ手という役割を果たさねばならぬというわけでもない。
子に向けるエネルギーを転化できずに子を苦しめ、ダメージを与えていることもある。
いつまでも母としての地位に甘んじているわけにもいかないのだ。
子を生み、育てることに匹敵するだけのものを見つける旅に、親のほうも出かけなければならない時がくる。
自分はちょっと早合点して、生むより先にさっさとその旅に出かけたようなものだった。
誰にも邪魔されない、気楽な女の一人旅ではある。
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人間の幸せはどっちに転んでも大丈夫な安心保証
2012/06/25(Mon)
子を持つ幸せは子を持つ不幸せで帳消しだし、子を持たぬ不幸せも子を持たぬ幸いで帳消しになる。
人間の幸せはどっちに転んでも大丈夫にできている安心保証だ。自分が幸せかどうかくらいは自分で決める。人はそのくらい自分で決められるだろう。そう思う。

「卵子の老化」というテレビ番組は時間をかけて見る必要はなかった。「子供を生まない人生はかなしいものです」と一言いえば済む番組だからだ。
自分は仕事でたくさんの親子の相談を受けてきたから、人間どちらに転んでも幸福量と不幸量にさして変わりはない、泣きわめいて大騒ぎするほどのことなどほとんどないのだなという感じを持っている。
とらわれて身動きできなくなることを不幸という。
しかしテレビ番組は時として新たなとらわれを我々に吹き込む。
不幸になりたくなければ「とらわれ」に捕まってしまわないことだ。そう自戒する機会となった。

番組構成を見れば主張が偏っている。いや、偏りではない。はっきりとした意図が感じられる。「病院に行け」。子供がいない人は病院に相談に行けというメッセージである。
ある一つの行動を促す効果を持つ番組。ドキュメンタリーの手法をとった宣伝・広告に近いといえるだろう。
自分は子を持たないし生んでもいない。それゆえの不幸は感じたこともない。世話する子供に不自由もしなかったが、この番組は最初から最後まで見た。子を持たないからこそ、最初から最後まで見て、自分の心にどんなさざ波が起こるかを確めた。テレビ画面と自分の心とを眺めながら、「この番組はきつい」という印象を持った。いや、「不妊治療の現場はおかしい」という印象かもわからない。

人間の持つ期待や望みは、裏も表もある一枚のコインである。叶ったら叶ったで幸と不幸がワンセットだ。それを裏だけ強調して表を見えなくしたり、表だけを強調して裏を見えなくすると、判断を誤る。しかし「裏と表のどっちもありですよ」という番組ではインパクトがない。何を言っているのだか分からない話になる。分かりやすいストーリーに沿って説得力のある構成と納得のいく材料をかき集める。プロデューサーはそういうことをするプロである。
身寄りのない子供は世界にあふれている。「自分の子を自分で生み育てたい」という人々の願いが世の中にあふれているのと同じように、「親がほしい」という切実な願いもこの世にあふれている。不妊治療を行う病院だけが人間の不幸を幸せに変える場所ではないだろう。

願いとは、エネルギーだ。人々の期待や希望も、エネルギーだ。それをさまざまなところに転化できるというのが、人間の強みだ。
とらわれは不幸である。とらわれを転化するということが幸いであり、安心である。
光エネルギーは熱エネルギーや電気エネルギーに転換できる。エネルギーはさまざまに転換することができる。それは動かしがたい事実である。自然法則である。
子供を持ちたいというのは食欲と同様、自己保存の本能に直結するため、エネルギーは小さくない。
大きなエネルギーは転換のしようによっては大きな幸いともなる。
幸福力は、転換力。
私はそのように思う。
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生きようという意思=生命に囲まれて生きている。
2012/06/24(Sun)
味噌を作るつもりの豆が、夏と冬を三回越して古くなってしまった。
これを火にかけ、カラカラと煎ると実にうまかった。
命は少しも古くはならない。
豆に宿っていた命は決して古くなっていない。そう思った。
宿した命を守って耐えて、豆も豆なりに、生きていたのだった。そう思うと胸がいっぱいになってしまった。

ベランダでは一本の長い茎にユリの花が咲きそろった。食べそこねた百合根を鉢の土に埋めたらぐいぐい伸びたのである。
しかしこの豆たちは植えない。どうでもこれは食べる。
「ご飯は、お米の卵だよ。卵を食べているんだよ」。誰かがそう話していたのを思い出す。
私は煎り豆を、食べる。お豆の卵を食べている。
土に戻してやれば、豆は命のやりたがっていることを実行にうつすのである。
芽を出したい、根を張って茎をぐんぐん伸ばしたいという意思が、この豆にはこめられている。そして花を咲かせる。実を結ぶ。命はそうしたいという意思を持っている。
そのような意思のことを、生命エネルギーという。
私たちはカロリーを食べるのではない。栄養を食べるのでさえ、ない。
生きとし生けるものは、まさに生きようとする意思、生命エネルギーをとりこみ続けて生きている。

「不思議ですよね。生きものは互いに生命エネルギーをとりこみながら、生きていくんですもんね」。
そう話しかけてくれた人のことを、思い出す。
八つのオレンジ色の花は午後の光を浴びて満足した様子である。すでに下のほうはくたびれているが、私も大いに満足した。
芽を出したい。根を張って、茎を伸ばし、花を咲かせよう、実を結ぼうという意思。生きようという意思に囲まれて私は生きている。
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体にメスを入れる。それは筋肉の流れを断つということ。
2012/06/23(Sat)
「わたしら医者は筋肉についてはシロウトです」と担当の整形外科医。「解剖的なこと以外は大学でもやらないし、国家試験にも出ない」。そう言って、「リハビリは病院以外でおやりなさい」と勧めたのである。当初は「放り出すのか」とも感じたが、結果的にいうと大いに幸いした。

日本の医療は手術に頼る傾向が世界一と聞く。操体法は筋肉の研究を中心とするから、体にメスの入った方の話をうかがう機会も多い。
実はメスを入れられていない体など、もうめったにお目にかかからない。そのくらいバサバサ切られている。
「カンタンな手術と言われ、自分もカンタンに考えていた」「一般的な手術だと」「軽い手術で命に関わるものではない」およそそのような話である。自分も幼児期に手術経験がある身なので、それは何となくわかる。
手術が終わればあとのことは医者の手を離れる。分業である。
元の生活に戻るといろいろ変化を感じる方も少なくないが、何によってもたらされた、どういう変化なのかハッキリしない。おおかたは「たまたま体がそうなっていっただけ」としか思われない。

寝た子を起こすようなこともどうかとは思うが、ここをはずせば体の調整のほうはいっこうに進まない。
傷を負うと、体はどんなダメージをこうむるのか。
手術だろうと事故だろうと、傷を負うということは、皮膚や筋肉が切り裂かれるということだ。傷は回復こそするが、縮んで固くなる。それが筋肉のこわばり・コリということだ。元通りではない。医者もあんまり話したがらないが、切られれば本人には分かる。科学やら医学やらを持ち出すまでもない。
力が通りなれたハイウェイがあちこち分断されている。動こうとするたびに力はコースをはずれ、いちいち迂回せざるをえない。なんかヘンだとは感じる。
これまで頼りにしていた幹線道路は断たれたのだ。補修されたところで元通りの支える力はないから別のところがあちこちで補いあう。

力の伝わるルートはつま先から頭の先まで筋肉の流れでつながっている。だからたいていどこを切られても、あちこちで補いながら動くようにはなる。しかし逆をいえば、どこを切られてもつま先から頭の先まで影響を受けないところなど、ない。切っても「命に別状はない」。切るのも「カンタン」だから「一般的」に「軽」く切られている。
しかし切られた後のルートはややこしく、効率がわるい。よけいな負担もかかって疲れやすい。「それは切ったんだからしょうがない」ということだ。まさに「肉を断って骨を断つ」。患者さんは「ライフオブクオリティ」のことまでよくよく考えて治療法を選択しなさいといわれるのも、こういうことだろう。
最後の最後まで体とともにあるのは他の誰でもない、自分自身である。医者にはカンタンで朝めし前の手術だとしても、患者にはその後のマイナス要素を一生引き受けるくらいの覚悟は要求される。

「新しいルート」がよけいなストレスなく、きちんと機能するためには多少の時間も必要だが、それなりの技術と忍耐も要求される。本来のルートは生まれつき最も無理がなく、生活を支え、ともに歩み、慣れ親しんできた道筋なのだ。矛盾が小さく、疲れの少ないルートであるのも当然だし、その変更が心身ともに余計なストレスをもたらすのも当然だろう。体の調整(リハビリ)は、そうした「本来のルート」を参考に進められるべきで、ただ動くようになればよいというものでは決してないのである。

手術を受けるということは、メスによる傷を負うということ。
あなたが手にメスを握る側だったら、どうだろう。
自分の持つ刃物で人さまに傷を負わせるのだ。手が震え、いろんなことを想像するかもしれない。
自分の負わせる傷は、多少なりとも相手の身体にダメージを与え、将来の生活にも影響する。それは想像するに難くない。
法的な責任はどうであれ、後遺症までのことを配慮するのが、刃物を持つ側の最低限の責任ではないだろうか。だからこそ、メスを握る手もふるえ、安易に刃物に頼ってはならないと慎重にもなる。
いろんな方策をやったうえ、どうしてもしょうがないという場合の、最後の切り札。
百パーセントの成功は望めないが、後遺症は百パーセント発生する。麻酔やミスを含め、必ず何らかのリスクを伴う。それが手術なのだと私は考える。
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チャンスはくる。ぜったいにくる。-へたれのウォーキングで可能性をつなぐ-
2012/06/20(Wed)
チャンスがこないと思うことはない。自分の持つ可能性は小さいかもしれないが、そのできるだけ高いところをキープしていればよい。それが自分のベストである。
へたれウォーキングでも、やめてしまえば山歩きに戻れる可能性を小さくする。逆に、無理をして失敗しても可能性は小さくなる。ここは「慎重かつ大胆に」といきたいところだ。

最近は症状が強く出る。湿度と気温には人間逆らえない。
しかしつらくても出かける。「出かけてつらいなら戻っていいよ。でもまず出かけなきゃいけないよ」と自分に何度も言い聞かせる。あんなに好きだった「歩く」という行為が、こんなに嫌いになっている。出かけてしまえば案外と歩けている。へたれのウォーキングで自分の可能性をつなぐ。

なまじ山歩きなんか知ったものだから、いつまでもこうして未練を断つことができない。こんなことなら山なんか行かなきゃよかった。歩きながらそう思うこともある。しかし、もし自分に「あの山の光景の中に再びこの身を置きたい」という気持ちがなかったら、今ごろ自分は生来のナマケモノ性を大いに発揮していること間違いなしである。
何かやれそうだと思う時に遠慮せずにやってみてよかった。同じ状況がいつまでも続くはずはないのだから。

すでに心の半分は、「べつに山なんか歩けなくても、どうってことないじゃん」と思っている。
しかしもう半分の心は、「もしもう一度行けるのなら、何を捨ててでも山に行く」と切実に思っている。
二つの心に二股をかけてチャンスをねらっている。そうやって日常を送れるのだから二股でも三股でも好きなだけかければいい。
還暦までにチャンスをつかめたらうれしいけどなあ。
十年後の楽しみをあたためながら歩いている。
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魔法で治すのでもない根性で治すのでもない
2012/06/19(Tue)
目の前に浮かぶのはうねうねした枝ぶりの松の木。風が吹いたり枝が折れたりを経過した姿は真っすぐではない。でも倒れずに立っていることが一番だいじだ。
病気もけがも、正比例グラフ式に経過して、あとはすっかり忘れるというようなら苦労はない。
「こんなに真面目に頑張ってるのにあちこち痛くなってきたの」と大腿骨折の知人が苦にする姿が数年前の自分の姿と重なった。
「子供の風邪とはわけが違うんさ。ムチウチも大腿骨折も」。

「ムチウチ? そういや何か事故にあったってね…でも治ったんでしょ?」
「治ったといえば治った。でも最初に考えていたような治り方ではなかったんさ」。苦笑いで受ける。
振り返ってみれば何のことはない、最初の二年は坂道を転がり落ちて行くようなものだった。底を打ってのち、浮き上がってこれたからよかったものの、生きた心地はしなかった。
「わたし明るくなったやろ。元気になったやろ。でも元通りの自分かなんて分かりゃせんの。あんなに登っていた山は一つも登れんくなった。でも事故からもう五年よ。どうして歩けないかなんて誰にも分からんやろ。でももういいと。体には体の事情があるんやけん。やるだけのことやっとったらね、あとは痛くなろうと少々おかしくなろうと、文句つけたら体をいじめるばっかりやろ。だけん、よかとよ、もう。なんにもできんわけじゃない。完全によくなりそうな感じの時もある。いつかまた山を歩けるようになるかも分からん。そんなの誰にも分からんことよ」。そばでは師匠が施術の最中だというのに、私はするすると言葉が出てきて止まらない。

知人は「ふうん…そんなもんかねえ」とうかない顔である。こんな話を今やってもムダなのだ。少しずつ自分の体の現実に向き合いながら承知していくほかは、ない。
患者さんという立場になると、摩訶不思議な力で体が治りそうだと思ったり、根性で治りそうだと思ったりしてしまう。体が人間の思い通りになるのならそれでうまくいくが、自分の場合そうはならなかった。
頭では分からない。心でも分からない。自分の体で分かっていくしかないこともあるのだ。
「大腿骨折二カ月でそこまで回復している。それはすごいことだと思うよ。じぶん五年ですよ、五年。たかがムチウチにですよ。元の歩き方でもない。バランスも何もかも変わってる。これだけ変更しながらじぶんの体はここまできたんだなって思いますよ。これで終わりということはないしね」。
三人のお医者に「こんなムチウチ治らない」「治ったのを見たことがないですよ」とはっきり言われたことは、今となっては幸いだ。彼らは今の私を見て「けっこう治ったな」と思うかもしれない。

言葉の洪水が止まったとき、それまで黙っていた師匠が破顔一笑した。
「おれは三十年だ。一生かかるぞ」。
生きている限り体は変化する。病気やけがや、いろんなことを経過しながら枝を広げ、天に向かって伸びてゆく。体はつねに新たな突破口を見つけ、バランスを更新しながら生き抜いていく。
それだけのことなんだな。
そう強く私は思った。
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ねばる動き・もがく動き・体に備わったしぜんな動きを引き出す
2012/06/17(Sun)
ゆるくなった田んぼの泥に足を突っ込む。一歩一歩が重い。ずぼった足を引き抜こうったって少々では抜けず、長靴をとられたり靴がすっぽ抜けたりする。そういうときの動きには腰が入る。
全身はがいじめにされ、身をもがくときも同じ。
ねばる動き・もがく動きは、無意識のうちに腰が入り、正しい動きに近い。

水を多めにして強力粉をどんどんかきまぜる。
両手を突っ込んでこねてゆくとコシが出てきて重いのなんの。
ゆるくなった田んぼの泥と同じだ。手を引き抜こうったってこれも少々では抜けなくなる。
これを抜こうとするときに、無意識に腰の入った動きになる。
力づくではダメだ。気持ちによゆうを持って、抜こう~とすると、全身が協調したきれいな動きになる。
パンをこねるとき、肩や腕は力を伝える通路としてよけいな力みを抜く。すると腰の入った動きとなって疲れない。また、イスに座ってこねるのは苦しい。足元から手の先まで力の通路を確保した立ち姿でないと、長時間こねることはできない。力づくでは無理がある。やってみれば分かる。

体はちゃんと知っている。
先端を中心にした動きでは力がじゅうぶんではなく、役に立たないということ。
体の重心にできるだけ近いところを軸にして動けば、効率よい動きで力が発揮されるということを。
操体法の動きでじゅうぶんに体を調整したい場合、「重心=腰、へその付近」を意識することだ。
あらゆる動きを、重心の移動で行う。バランスを崩さない体の運びであり、どこにもムリのかからない動きである。
そういう動きを身につけるために操体法はあるといってもいい。
相手をねじ伏せ倒そうとする格闘技も、力づくでやるものではない。重心をはじめとする、見えない力のバランスを操作することを身につける。その点でむしろ操体法は格闘技に共通する部分がある。

いつまでもまんぜんと動くだけでは操体法が、泣く。
今の動きは、どこを支えに、どこに力が伝わっているか、伝わらないか。重心は、重心線は、などと、ちょいちょい意識する。
意識しても分からないときは、もがく動きをよみがえらせ、そこから力みを差し引いてみる。
いろんな動きを引き出せるよう、泥田に入るもよし、強力小麦粉をこねてみるもよし、体の具体的な実験を積み重ねる。体に備わった動きを引き出して、記憶させておく。
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大人の味は大人の食べ方に。子供味はおのずと子供の食べ方に
2012/06/16(Sat)
「子供にはもったいない」「子供には分からない」などと言って、大切そうに保管して食べているものが昔の大人たちにはあった。大人というのは、あのように「もったいない、ああ申し訳ない、ありがたいありがたい」などと言いながら、貴重なものをちびちびと口に運ぶものなのかもしれない。
「量より質」は、「食べ物の質」ばかりではない。「食べ方の質」を高める、食べものに向き合う自分の感性を磨くということも、「量より質」に関わってくるのだろう。

大食をするのと、味覚の発達が関連するという話がある。
長年の大食で体をこわしている者が身内にいるが、これに当てはまるように思われる。年齢と味覚がちぐはぐというか、カレーにシチュー。チキンライス、オムレツ、トンカツ。アイスクリームにホットケーキ。これではファミリーレストランのメニューそのものだ。子供の喜びそうな洋食しか受けつけない舌の感覚である。そして口に入れたらすぐ飲み込むという食べ方。
「子供の味」を好み、「子供の食べ方」を続けている。

子供の頃は吐き出していた山椒の実。独特な香りと渋み。舌のしびれがあとを引く。食べ物というよりむしろ漢方の薬に近い。その山椒の佃煮が最近は美味いと感じる。ぱくぱく食べたくなるような美味さとは違う。ちびちびっとやって、食が丁度いい具合におさまる感じ。
子供は子供の強い消化力で「質より量」をこなし、子供としての心身の健全を保つ。
そして大人になれば大人の食べ方になり、大人としての心身の健全がおのずと保たれる。そういうことなのかもしれないと思う。
とはいえ、朝から晩まで一気飲み映像を脳みそに送り込まれ、お茶までペットボトルの直飲みで、多食・早食いのお手本には事欠かないという現状。
テレビの画面を眺めるたびに、まあこれでは仕方ないのかもしれないとも思われてくる。
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混乱の中で泳いでいたくはない-体の動きを通じた感性のトレーニング-
2012/06/14(Thu)
海で抜き手をきってさっそうと泳いだのだ。しかし何のことはない。流れにのせられてとんでもないところに流されている。気がつくと沖ははるか遠い。泣きそうになりながら必死で戻ったが、あのときは往生した。
情報の海で泳ぐのもまったく同じ。かしこく上手に泳いでいるつもりが、あとで振り返ってみると何のことはない。大きな流れの渦に巻き込まれ、つかまってしまっている。

情報はもともと対立し、矛盾する。
人の感性がちがうのだから、ものの見え方も考え方も違うのは当たり前で、意見も異なるのだ。
もともと情報とは混乱のもと、雑音である。情報に耳をかすことそのものが、リスクを負っている。
自分の心の声によく耳を澄ます。心の声ははじめのうちはあまり大きくない。聞こえてくるまで静寂の中でじっと耳を澄ませる。心の声はそういうことを要求する。

そういうことをしないうちに、手っ取り早く雑音の海の中に飛び込んでしまう。飛び込まされてしまう。だって、忙しいのである。
雑音の海から岸辺に戻って心の声に耳を澄ませてみる。すると雑音の余韻がわいわいがやがや耳の中でうるさいだろう。頭に鳴り響く、対立しあい、矛盾しあう情報の波が、やがて食いあい、食われあい、勝ち残ってゆくものがある。
それは「正しい情報」という名の誤解や、ただ強い印象であるにすぎないことのほうが多い。
触れた回数が多く、心地よい音声や音楽や映像を伴って強いイメージを残せた情報が、勝利者となって勝ち残っている。社会的な人気や肩書や社会的信頼において安心のイメージを強く印象づけられた情報もまた、勝利者となって勝ち残る。
情報戦でゆけば、最初から勝負はついているようなものである。

情報は、対立し矛盾する。
判断力は、情報そのものでは磨くことができない。
むしろ精神の問題、心の問題、知性の問題も含まれている。精神も情報で養う、心も情報で何とかする、知性のほうも情報の力で、というのなら、ずっと一生情報の海で泳いでいれば済む。体を通じた体験などは必要ない。目と、脳みそがあればじゅうぶんということになるだろう。

あとで振り返ってみると、確かに大きな流れの渦に巻き込まれ、取り込まれてしまっているといっても、誰がいちいちあとで振り返って確認に時間をさくことなどするだろうか。
新しい情報は次から次へと流れこんでくる。その流れは真っ二つに分かれたあと、それぞれがいくつもの支流をつくり、対立と矛盾をはらむ他人の感性の波にさらされ、あっちに巻き込まれこっちに巻き込まれして、「あれは結局どうなった?」と思い返す間もなく忙しい毎日である。

感覚を磨くと、おのずと正しく選択するようになり、みずから迷路をつくって頭を混乱させることがなくなる。
感覚を磨くのに少しは訓練の時間をかける。
右を選ぶか、左を選ぶか。
自分の操体法は肩こりや腰痛の対策というよりむしろ身体を通じた感覚のトレーニング法である。
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①腕を磨く②治ると③喜ばれて④金も入る、繁盛する。この四つがそろうのが理想
2012/06/13(Wed)
「さするだけでもじゅうぶん。子供の肩たたきだって喜ばれる。プロなら歩けない人を歩けるようにするのが本筋。技術だよ技術」。そう説教されたことがある。
人に喜ばれて有頂天になっていた時期。おばあちゃんの肩をとんとんしてあげたら喜ばれお小遣いまでもらった。そういう話と大差ないわけだった。
それでずっと続けていくのなら、それでいい。人に喜ばれる仕事。そのどこがわるい。

喜んでもらえるというだけでは続かないこともある。開業して行き詰まるのは「繁昌しないから」とは限らない。
繁昌して人気のある先生が「つまらない」とため息をついたりもする。
何ごとも道を歩み続けるのは厳しい。
続けなければ技術は身につかず、関心が深まらなければ技術が磨かれることもない。
喜んでもらえるというのはいい。お金がたまるのもけっこう。しかし自分の好奇心をつないで腕を磨いていくのは自分の側の問題。
勉強する時間がとれないという人もいる。それもまた、繁昌してるかどうかとはあまり関係がない。お金があっても時間がない。そういう人もいる。それぞれの事情があるのだ。
腕を磨かなくても商売にさしつかえないとなれば、勉強するより稼ぐほうがいいという向きもある。

「おまえにとって幸せとは何なんだ」と師匠に詰め寄られたことがある。
何も不満のない条件で生きているはずの日々が、味気なくつらかった。つい不満を口にしたら「おまえの幸せは何だ」とカミナリが落ち、とっさに「毎日が充実していること」と答えてしまった。
そう。すごく単純なのだ。充実した毎日を送るにはどうすればよいかを考えればよかった。
他人にほめてもらえば誰だって嬉しい。しかしほめられることがメインになってくると、つまらなくもなる。繁昌する、人気が出るというのは他人の評価。他人にウケるかどうかだ。しかし自分自身がつまらないと感じるようでは先が見えている。
それでも仕事だから頑張るしかないが、自分にもウケる、他人にもウケるというのが理想には違いない。
他人の顔色がだんだんどうでもよく感じられてきたら、そういうときにこそほんとうの勉強に取り組むときなのかもしれない。
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むしろ水木サンに負けない丈夫な胃腸をつくりたい
2012/06/12(Tue)
毎朝喜びをもってステーキを平らげる。ステーキを平らげる喜びが、くもりやかげりを見せない。健康や長寿のためではなく人真似でもなく、日々純粋な欲求と喜びのために食べ続けるのである。
衰えない食欲はむしろ彼の誇りであり、食べるのは彼の得意芸といえる。
「なんでも食べるから」丈夫で長寿なのではない。「胃腸が丈夫だから」なんでも食べられ、丈夫で長寿というほうが筋が通る。

テレビで水木氏がアイスやバーガーをぱくぱくやれば全国民の食い気は刺激され、しばらく売上げはのびる。食べる理由なら何だってかまわないだろう。そして売る側は売れる理由があれば何だってかまわない。経済の発展という結果が待っている限りは。
「あの長寿で元気な水木氏も食べているから」というのなら、中途半端な追随ではなく、徹底的に、自分の胃袋がどこまでついていけるか、やってみたい。

他人の知識や情報に足元をふらつかせることなく、心から望み、まっしぐらに一心に食べる。それが毎日できて体もこわさないんだったら、ただ胃腸が丈夫というだけのこと。
体の弱い人は胃腸も弱く、食欲も安定しない。おいしく食べられるというものも限られ、食べる量も限られる。それでいて病気もせず達者で生きているという話だったら、よほど耳を傾ける価値があろうというものではないか。
「これならどうまちがっても長寿だろうな」という話もいいが、「こんな人がなぜ長寿で元気に過ごしていられるんだろう?」という話のほうが、おもしろいじゃないか。そう思ってみたりも、する。
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虫は地球を救うのか-汚れた大地や身体を浄化する虫たち-
2012/06/11(Mon)
山でダニにくわれた。そう話すと、「陰性のやつに虫はたかってくるんだ」という。「くわせておけばいい。瘀血を吸ってくれる」。そんなことを言われるので、「えっ?ヤですよ、あとがかゆいし」と騒ぎ立てたら、「かゆいのを掻くのが、またいいんだ」と真顔である。「そんなのマクロビオティックの常識じゃないか」。
ゴキブリだとかダニだとか、害虫とされるものは、害虫といわれるだけに、かえっていじめてはならない気がする。しかしだからといって自分から好き好んで「さ、くってくれ」と虫の前に体を投げ出すだけの勇気は、さすがにまだない。

「虫をころさないで」。風の谷のナウシカでは大地の汚染を浄化するために虫たちは立ち働いている。
それが分からない人間どもが虫を殺そうとやっきになる。
あの宮崎駿のアニメは虫が地球を救うという話だ。
マクロビオティックでも同じことが言われている。虫も病気も、汚れた大地や身体を浄化するというのだが、アニメとマクロビとどっちが先かというと、それはマクロビのほうだろう。

病気も虫も、殺そう殺そうとするのが今の人間の主流だけど、病気が生じたり虫がたかってくるにもちゃんとした理由がある。そこに汚染や毒素が関わっているというコンセプトで方策を立てるのが東洋医学の基本である。
しかし毒素を排泄するにもエネルギーが必要である。もともと体に力がないから老廃物がたまるのだ。口に入れるのはカンタンでも、出すのはそうカンタンではない。それを考えれば虫に食わせるくらい、何でもない。むしろありがたいというのが本筋である。

「ダニも蚊も、山にはいくらでもいるしなあ。あいつらにタダ働きしてもらうか。かゆいのだって、まあ一週間や二週間そこらのことだし」。
確か、外で一晩じゅう座禅を組んでいた人の話があった。定からさめて体を動かすと、胴回りに吸いついていた蚊がばらばらとこぼれ落ちた。身動きが取れないほどたらふく血を吸った虫たちは、赤いグミの実さながらであった。そのような話である。
蚊をぱちぱちやりながらではたしかに座禅も組めまい。「さあ、くえ」と身をさらすようでなければ。
ひょっとして、そうやって虫にくってもらいつつ質素な食事と激しい作務をこなすうち、毒素が追い出されてクリーンな体となり、頭も冴えて悟りが開ける。そういう話なのかもしれない。

虫はこれから増えてくる。修行僧になるか、ならないか。わたしの中では今、そういうことが考えられている最中である。
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渓流を見下ろす岩の上で握り飯を食べる。
2012/06/10(Sun)
魚たちにお相伴してもらう。飯を放るたび、岩陰から大小の魚たちが躍り出てきて、ゆらゆら沈む白いものはあっという間に消え去ってしまう。
空から降ってくる飯は何の不審も持たれない。食べ物に群がる正直な生きものの姿はあまりに無防備で、それがかわいくもありまた哀れなようでもある。

岩の上から黙って見おろす私のことを、彼らは知らないだろう。私だって彼らについてそう多くは知らない。
私もまた水に泳ぐ魚たちのように、陸上で泳ぐだけのこと。人気のない山中で、誰も見ていないのをいいことに、岩の上にのんきに座り込んで、豆ご飯のお握りなんかをむしゃむしゃやってよろこぶ私もまた、他愛もない一匹の魚と何ら変わりない。
握り飯を食らう私のことを、どこか遠くで眺めている存在が、ぜったいにいないなどと、誰が断言できるだろう。

午後から雲が厚くなってきた。
夕方にはひと雨来るらしい。
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生活の中で失われてゆくもの-自然にたくす・土に返すということ-
2012/06/09(Sat)
友だちが柿をかじっているなと思ったら、それをぽーんといきなり放ったのである。柿は気持ちよさげに空をきって野原のどこかに落ちた。そんな子供の頃のワンシーンが目に焼きついている。
あのように潔く、むしろ捨てるようにして何かをたくすということを、私はまだ一度もやったことがないような気がしてならないのである。

腐りかけた玉ねぎが生きるか死ぬかは、土に埋めてみればわかる。
何日待っても芽が出てこなければ、土に帰ったのである。
しかし芽が出てきたら、そこは玉ねぎの生きる場であり、繁栄の場である。
土には玉ねぎの生も、玉ねぎの死も、いずれも折りこみ済みなのだ。このようなゆるしと包容が、土が土であるゆえんである。土のぬくもりとか、土のあたたかさとかいう言葉は好きではないが、土は人間には望みようもない、はかりしれない包容力を持つと感じている。
それをぬくもりとか、あたたかさと言いたくなるのかもしれないが、冷たさもあるのだ、土には。
人間も玉ねぎと同じ、生命を持っている。だから土に埋められた玉ねぎの気持ちで過ごすしかないときも、ある。

「医療技術の発達」のもたらす世相を見るに、もともと面倒なところを無理にかかえこもうとすると、さらに面倒、厄介をかかえこむということになるのだろうと思う。
生きるにせよ死ぬにせよ、人は生命を持てあますものなのかもしれない。あの宙を舞い、土に落ちた柿のごとく、ぽーんと自然のもとに返してやるしかないことも、あるのではないか。

虫にでも食われたか、ふみつぶされたか。種は腐ったか。芽を出したのか。
どこか遠くへ飛んで行った、あのかじりかけの柿の実の行く末も、わたしのあずかり知らぬところである。
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人は死人のポーズで死ぬとは限らない-筋肉をゆるめ、ほぐす-
2012/06/08(Fri)
ヨガでは床で大の字に寝る「死人のポーズ」をさせられるが、全身脱力しやすく一番リラックスできるというのはウソである。体の条件によってはあれほどつらい格好もない。

少し固めの床に大の字になって寝てみよう。全身の重みを支えているところが背中で感じ取れるだろうか。強化ガラスの床を裏のほうから見ると、大の字になった背中側の様子がよく分かる。さらに圧力に反応するセンサーをとりつけて、圧力が強くかかるところは黄色に、それから次第に橙いろ、赤、紫、青など色で圧力の違いを見せてもらえば、どこが強く押しつけられ、どこが浮いているかは一目瞭然である。

下半身はかかとや腰回りで支えられ、上半身は主に背中や肘、それに頭が支えるが、どこでどう支えるかについては大いに個人差があり、変化もする。
本来、人の体はいろんな姿勢に柔軟に対応できるようにつくられている。少々固い床の上に大の字になって寝ようと、うつ伏せになって寝ようと、全身にかかる重力を全体でらくに受けとめ、支えられるようにできているものなのだ。
しかし大の字になってしばらく寝ていると、腰がつらい、あちこち痛いということがある。頭がムリに床に押しつけられている感じがして肩や首がつっぱったり、床で支えている肘が痛かったり。背骨がごつごつ床にあたって耐えられないとか、足を片足ずつ上げようとすると、びくとも動かないこともある。

本人の意思でそうなっているのではないから、よほど注意しない限り気づかないが、たいていは支えに上下左右片寄りが見られる。体重をのせやすいところと、体重がのりにくいところができてしまう。不均衡なのである。
うつ伏せの姿勢も同じことだ。
うつ伏せが長くできない人は上半身にこわばりをかかえている。左のほほ骨を床につけて、顔をきれいに右に向いたうつ伏せができるか。右のほほ骨を床につけて、顔がきれいに左に向いたうつ伏せができるか。顔を真ん中にもってくるとあごで支えることになるが、どこを向いてもうつ伏せの姿勢を保持して、つらくならないか。
それが健康の目安になったりする。
そういうことに関心を持つほうがよほど実りがあるというものなのだ。
体の調整をやったあとは、やる前よりもじょうずに大の字にもうつ伏せにもなれる。
体の条件がととのい、いろんな姿勢に対応できる能力を得たのである。

このような片寄りの現象は、イスに腰掛けたときにも、正座をしたときにも、立った姿勢、かがんだ姿勢、ありとあらゆる姿勢や動きに見られる。
それを不均衡、アンバランスという。
こうした不均衡・アンバランスが、筋肉のこわばりを増長し、不自由な体すなわち体調不良をもたらすという考え方がある。その考えが有効ならば、体の不均衡・アンバランスを軽減することを目的とした、操体法のような体の調整も有効だろう。あとはやってみるしかない。

姿勢や動きにともなう現象として見られる不均衡・アンバランスは、体の内部に生じているゆがみやひずみをあぶり出している。ゆがみ・ひずみを漢字で書くと、「歪み」すなわち「不正」の組み合わせとなる。
そこで、姿勢や動きにアンバランスが見られるときは「骨格に不正がある」という。
大の字やうつ伏せで全身脱力して数分ほどらくに寝ていられないという場合には、骨格の不正で日常大いにソンをしていると思われるが、本人はそうは思わない。
体の調整が進んで日常生活の疲れも軽くなり、ふと気がつくと、大の字に寝るのもうつ伏せで寝るのも苦にならなくなっている。それでもやはり、骨格の不正が自分を苦しめていた元凶だったとは、なかなか認めようとはしない。そういうものなのだなあと思う。
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テントという名の別荘。キャンプ地という名の避暑地。
2012/06/06(Wed)
河原に小さな砂地を見つけ、ヒマをみては通う。テントを張って集中したいことに取り組む。日が暮れたら帰る。キャンプ地に出勤するようなものだ。カジカガエルのフィフィフィというやさしい声が川面に広がり、周辺の木立からは鳥の声がさえずる。ここで過ごす一日は生きている最高の楽しみの一つだ。

しばらく来ないでいると、いろんな侵入のあとが見つかる。
人間の靴痕のこともあるが、たいていは糞である。「われここに参上せり」とばかりに、私がテントを張る地面のど真ん中にイタチの排泄物の干からびたのがいくつか転がっていたりする。
岩の上には小鳥の落としたものが点々と残されている。そしてサギの大きな白い糞が流れて固まっている。よどみにいた魚たちが格好のエサになったわけである。河原の岩には巻貝や、糸トンボ、ハグロトンボ、ヤンマなどさまざまな種類の幼生たちが脱皮した殻が張りついている。

ここは誰もが生活に使う場なのだから、もちろん何をされても文句は言えない。私も苦笑することはあるが、生きものの生きたあかしをむしろうれしく思う。
いろんな草までが、この地をねらっている。マツヨイグサが丈を大きく伸ばしていたり、ヨモギが茂みになっていたり、草の芽があちこちに育っていたりして、すぐにテントが張れなくなる。
しかし草もまた、虫たちが卵を生みつけ、巣くい、生活を営む場である。テントの周辺は、もう草丈がずいぶん高くなって美しい茂みをつくり、虫たちの活動もさかんだ。
ここは夏でも涼しい風が吹き渡る、最高の場所。

昨夏から、このあたりは私が大きな顔をして居座っている。私のいる間は、みな、なりをひそめているが、いつかは私もすっかり消えていなくなる。私がいなくなったのをいいことに、また誰かが、何ものかが、この場所を使う。
誰もがこうして使う場所だから、誰がどう使うのもいいけれど、壊されるのだけは、みなが困る。泣く。
以前、こんなふうに通っていた場所がもう一つあったが、ある日たくさん人が入ってきて、ダンプカーで整地をするなどして、そのうち台無しになった。そういうふうに使われてしまうと、もう他には誰も使えなくなる。そして誰もいなくなる。

お金を出せばもう自分の土地だ、何をしたってかまわないという感覚は、私はあまり好きではない。
お金を出そうと出すまいと、そこは誰の土地でもないし、誰のものになるわけでもない。みんなが生きて過ごす場所ということだけが事実だ。そう思えば自然破壊という言葉さえ不要だろう。
テント一張りもはみ出しそうな、こんな小さな面積の土地の平和。それが今の自分の考えうる限りの幸せである。
どうかこの地の生きものたちの平和がこのまま続きますように。
そう祈らずにはいられない。
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心に一握りの土-食べようか植えようか-
2012/06/05(Tue)
食べそびれた百合根を鉢に植える。一つ食べたらホクホクと甘くて美味かったが、残り二つは傷んで捨てるにしのびず、植木鉢の土に埋めたら、太い茎がにょきにょき伸びてゆき、今ではたくさんのツボミまでつけている。ゴミ寸前からずいぶんな出世をしたものだ。

おいていた野菜や、切って残ったままのお野菜が、萎びながら傷みながらも生きる営みをやめないでいるのを見ると、合理的に捨てるのはしのびない。
傷んだ野菜は食べる気も失せるから、「食材はムダのないように買いましょう」という標語もあるが、これを土に戻すのなら枯れようと生きようと、全くムダになることはないのである。

マンションやビルに住んでいると、それでも捨ててしまわないとどうしようもない。
「食材は、過不足のないように」という合理性と、「傷んだらゴミとして捨てる」という合理性とを身につければ生きやすい条件なのである。
身近に土のある暮らしだったならば、生きたものを、ぽいとそこらに逃がしてやれる。自然のふところに返してやれるのである。掘って埋めてやるくらいの親切は、すぐにできる。そこが墓になるもよし、新しい生命の営みと繁栄の場になるもよし。あとは運まかせ風まかせだ。
井戸端で野菜など洗ったりする生活だったら、そこらじゅうの土は肥え、花が咲き、何年かするうちにはふたたび立派な収穫をもたらしてくれることだろう。
そんならちもないことを想像する。

口にするものは、できるだけ新鮮なものがよいという。
加工食品はすでに死んで時間が経ちすぎている。土に埋めたらまた息を吹き返すようなもの。それを基本にすると間違いないように思われる。
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摂生なんかおぼえられたら経済は成り立たない
2012/06/01(Fri)
ガラス屋が窓ガラスを割って歩く。もののたとえの話だが、経済は他人の不幸で繁栄する面を持つ。戦争で景気が回復されるのも一例だ。
平和な国にもガラス屋の役と、窓を叩き割る役が、はからずも連携プレーをしていることが少なくない。お菓子屋さんと病院の関係も、知られるところだ。

我が家のかかりつけの病院長は、気のゆるみから出た失言により、六名の治療熱心な患者を失うというヘマをやった。
いや、そうではない。彼は「お菓子食べてると治らんもんなあ」の一言で、六名もの難病患者を治した名医だったのだ。それは恐らく、長い年月を患者と接するうちに養われた彼の直観だったろう。おかげで私たち家族は病院通いからスッカリ解放されてしまった。

難治性の感覚障害の方が、ふと思い当たって四十年来毎日欠かしたことのなかったチョコ菓子をやめ、操体法に取り組まれた。現在半分ほどまで回復されていると聞く。チョコレートが必ずしも原因というのではない。チョコ菓子をやめたら病気が治ってきたということは事実である。
菓子を断つことが個人に幸いをもたらす一方で、経済は少なからず痛手をこうむる。
四十年間にわたり菓子業界にもたらされていた年間十万以上の売上げは全面カットされ、医療業界分野にはこの方の財布から落ちてくるお金の可能性が大きく削られた。

節制とは消費の引き算である。経済への痛手以外の何ものでもない。今の経済を維持もしくはさらに規模を拡大するには、「お菓子をやめたら病気が治った」とか、「薬をやめたら病気が治った」(新潟大学の安保徹の著書のタイトル)などとは口が裂けても言ってはならないのだ。
日本にはおよそ三十万人の医者がいる。高給取りの彼らを国民が維持し、養っていくには、毎年どれくらいの病人を差し出せば足りるだろうか。高度設備を誇る病院を維持してゆくには、どのくらいの病人が必要とされるだろうか。
もしも本気で医者が生活指導にとりくめば、病院はたちまちつぶれてしまう。
健康な社会づくりというのは、ほんとうはそういうことだ。そういうことなのだなあと、思う。
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