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☆飲み食いのことで終わってしまえばそれまでだけど☆
2012/05/02(Wed)
パン作りの小麦粉を練る。生地の弾力が心地良い。手触りが変化してなめらかになっていくのも心地良い。
感覚はこういうことでも磨かれているのに、筋肉の手触りがなぜ分からなかったのかが不思議である。

水や塩の加減でもこね具合はまるで違う。ふくらみかたも弾力も、まるで違い、焼きあがりも違う。その違いが楽しくて夢中になった時期があった。そういう微妙な違いが分かる感覚だのに、「筋肉もそれと同じでいい」という頭がなかった。「ここが固いだろう」といわれて触っても、サッパリ分からない。「ほら、ゆるんだ」といわれても分からないから退屈なばかり。「そんなちょっとの違い、分かるはずない」と思っていた。「体はべつ」という頭もあったかもしれない。「治療は料理とはべつ」という頭もあったろう。
結びつかなかった。

「なあんだ。同じじゃないの」と分かってきたら、がぜん体のことがおもしろくなった。
料理をやってきた人なら分かるはずなのだ。
野菜や果物を選ぶのがじょうずな人も、分かるはず。
体のどこがどのくらい固いか。どのくらいゆるんだか、ゆるまないか。そのくらい、さっと触れれば分かるはずなのだ。
小麦粉だってお野菜だって果物だって、生きものだ。人間の体も筋肉も生きものだ。そこらあたりの共通点で、私たちは分かるようになっている。
残念ながら最近は、野菜や果物を手にとって手触りを感じながら買うということが少なくなったようだが。

小麦粉を練ってこね始めた瞬間から、パンを焼いたときの匂いがただよい、パンの味が口中に広がっている。野菜を手に取ると、その野菜の味が手から伝わってくる。果物も、そのマズイ・ウマイが手に取った重みや感触でたちどころに分かってしまう。「食」の感覚は鋭く、「食べること」に結びつくことには感覚がはたらく。

飲み食いへの強い関心から出発し、あとはどうしたら、飲み食い以外のほうへと広げていけばよいのか。
そこが問題だ。そこは大きな問題になるのかも、しれない。
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