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☆ラクじゃなければ節制じゃない。ただのストレスだ☆
2012/04/30(Mon)
真面目な性格でことにあたるとバカをみる。しかめツラしてやるものではない、べつにノルマじゃないのだから。成績つけてノーベル賞もらうでなし、制限数値を超えたらおまわりさんに罰金とられるでなし。
自分も周囲も楽しく愉快で過ごせるように、節度の精神を身につける。それが節制だと思う。

腹を下したのであえて暴飲暴食するという人もないだろうが、ふだん散歩もしなかった人が、足を故障したからといって一足飛びにジョギングや山歩きに興味・関心を持つというのはよくあること。
けがや病気は節度を知るまたとないチャンスだが、その体験にとぼしいと、節制までが過激になって節度を失いがちではなかろうか。
デジタルな節制はとくに墓穴を掘りやすい。
一日何回だとか、睡眠一日何時間だとか。一日野菜何グラム、水は何リットルで何キロカロリーだとか。速度何キロ、距離は何メートルだとか。そんなややこしいこと人間が楽しく実行できるわけがない。
じっさい糖尿病を予防するという勧めで数年間の節制に取り組まれた結果、うつ病を発症した上、糖尿病にもなったという笑えない話もある。
きっちりデジタルは機械の生き方。人間はアナログでいくのが相性がいい。

職のあるなしに関わらず、体は死ぬまで休みなく働き続ける。
食べたものの処理(消化と解毒・排泄)は体の労働の中でももっとも重要だ。体調だって気分だって、ここがどれだけうまくいっているかに左右されている。
朝ごはんもしっかり食べたうえ、夜の九時十時でもちょっとつまんで、なんてやっていれば、体は残業続き、長時間労働である。そこにちょっとした病気やケガなどが加われば、「早く治ってくれ」と拝み倒したところで、体は対応できなくなる。
長く患っていれば「治るのかしら」「わるくなっていくのでは」と不安にもなり苦にもなる。不安は痛み苦しみを倍増する。それでよけいに苦しむ結果を招く。

体を重労働から解放して負担を減らし、心身に余力をつくる。その余力でさっさと治してしまえば元の生活に戻ることもできる。
苦にする。気にする。これはまさにストレスそのもの。いちいち頭で考えなくても、節度のある行動が、時と場合に応じてサッと自動的に出てくる。それがストレスのない、自分にあった節制だと思う。

節制は、心も軽く、身も軽くするためのものだ。
どれだけラクに生きられるか。それを追求するのが節制とするならば、節制をスッカリ忘れていることこそ理想の節制といえるのかもしれない。
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☆一番の弱みが精神ならば強みもまた精神、かもしれない☆
2012/04/29(Sun)
精神を生かすのにはむしろ物資は不足気味がよいと聞く。
物がじゅうぶんにあると、なぜか精神のほうは衰弱し、適応力が奪われやすいともいう。
適応する能力が奪われるのは、物を奪われることよりも困ったことになるのかもしれないと思う。

日本は非現実的な精神一辺到で戦争に負けた。そんな解釈をよく耳にする。精神に頼り、精神を信じすぎた日本人はバカになり、何も見えなくなっていた。次からは精神のことは忘れて現実に向き合って経済のほうを中心にしようということで、日本は今日のゆたかさと大成功を得た。そんなストーリーもまた、よく耳にする。
精神という言葉が好きじゃなかった。「精神一到なにごとか成さざらん」。精神といえば「目を吊り上げ、歯をくいしばり倒れて死ぬまで一直線に走り続ける」というような力みのある行動を思わせたからだ。
じっさい、そういう使われ方をされている。悲喜劇を思わせる言葉だ、精神って。そう、思う。

しかし心の底からわいてくる気持ち、これが精神というものなのかなと思われるもの。その効果がじつは絶大というのも事実ではなかろうか。
金がダメとか物がダメというのではない。金があっても金にたよる精神ではなく、物があっても物にたよる精神ではない。人がいてくれるからといって人にたよるのでもない。自分に備わった感覚や精神を総動員して生きてゆく。

そんな姿勢を養うことを、操体法では「気持ちいいことを積み重ねて生活する」ということにしてしまうところが画期的だと私は思う。実行して気持ちいいことばかりなんだから、精神を養うといっても、こんなにラクなことはない。「目を吊り上げる」ことも「一直線」も、かえってそういうのは操体法に反するというのだから。
きちんと冷静に感覚をはたらかせながら、ラクということを判断する。気持ちいいということを、吟味する。
そういう生きるためのこころもちのようなものを、自分も実行したいし、操体法の講習や施術に足を運ばれる方にも提供したい。そう考えている。
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☆噛みつかれる条件。噛みつかれない条件☆
2012/04/28(Sat)
野犬や野良猫が好きだった。大人たちの禁止にも関わらず、野犬の群れにこっそり一人で近寄るようなところが子供時代の私にはあり、じっさい彼らは警戒をといてよく頭をなでさせてくれもした。
一頭一頭の性格が、一目で分かるような気が、した。群れ一つ一つの性格も読みとれる感じが、した。姿を見せたと思ったら、再びどこかへ立ち去ってしまう彼らの世界にわけもなく惹かれ、そんな私を彼らも認めてくれているように思われて、平気で近づいて行った。
一歩誤れば危険なことを、なぜ事故もなくやれていたのか。偶然とか運がよいとかも含めて思い起こすことがある。偶然にせよ運がよいにせよ、噛みつかれないは噛みつかれないなりの条件があるだろうからだ。

治療の世界では「犬や猫に嫌がられないように鍼を打てたらほんもの」などということがまことしやかに言われるが、治療のうまい人は犬や猫、そして赤子の機嫌をとるのもうまいようだ。人間と犬ネコの、どちらがご機嫌をとりやすいか。
もちろん場合によるが、犬や猫は肩書や言葉にだまされない。操体法のT先生は少々恐いところもあったが案外に動物好きで、「この製品はすごいぞ。犬ネコが喜んで近づいてくるんだ」などと褒め言葉で使うくらい、犬ネコの感覚を信用されておられる様子だった。
「これは何万円もするホンモノで実績もある」と犬ネコに説明したところで「プラセボ効果」が期待できないのも確かだろう。

犬や猫が好きな人は、触っているときに、相手がどこを触ってほしいと思っているか、無意識に読み取ろうとする。犬ネコもまた、「ここを触ってほしい」「そこはイヤ」などとボディランゲージで応じてくる。それが対話にもなる。自分の元に長くとどめておきたいと思ったら、「気持ちいい」ことをしてあげるしかない。
これはまさに治療の基本だと思う。
「気持ちいい」ことで一番手っ取り早いのは食べ物。しかし満腹すれば見向きもされない。その点、触れる、タッチするというのはずいぶん長持ちで、食べ物より優先されることさえ、ある。
どこを、どのくらいの力加減で触れると、目を細めてくれるか。その場でころんと寝転がってくれるか。
自分の飼っているペットなら適当でかまわないが、いつ、どこの、どんな犬ネコにでも通用するコツを身につけようとするならば、これは操体法の立派な訓練になる。
ただし食べ物には頼らない。モノには一切頼らずに、である。

橋本敬三医師の残された論想集や著書の中に、「圧痛」を説明しているところがある。
圧痛とはやさしく触れると、反射的に緩解、つまり反射的にゆるんでほどけるところだと書いてある。触れて気持ちよいところ。そこにやや圧を加えると、くすぐったいとか、さらに圧を加えると、圧による痛みを感じるのだと説明が続く。
犬ネコの、警戒をとき、目を細めてメロメロとたちどころにくずれてしまうツボ。あれは基本なのではないかと思われたりもする。日がな一日道端にしゃがみこみ、犬ネコのツボの研究に費やしていた子供時代。ああ三歳ごろと自分はあまり変わらないなあと、あらためて驚く。
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☆便利な不便と、不便な便利☆
2012/04/27(Fri)
戸外でからだを動かすと、頭も心も休まると同時に、いつもと異なるスイッチが入って生き生きと活動を始める。山歩きを始めたときの発見だった。

私の祖父祖母の時代、ずいぶん遠いところまで平気で歩いて移動していた。戸外での肉体を使った労働も多く、それは不便でたいへん苦労な時代に思われる反面、間が抜けてのんびりした時代のことのようにも思われる。
しかし実際にはそうではなかったろう。
戸外での労働は体を動かす苦しさと同時に、体を動かす喜びももたらしてくれていたはずだ。
それはまた気晴らしでもありうる。自然の厳しさを味わいながら、季節の移り変わりや自然との一体感を感じ取っていただろう。機械にたよるわけにもいかないから、のんびりどころか頭も感覚も今よりフルにはたらかせていた生活だったはず。

車の運転や、パソコンの前に座って仕事をするのは、一見ラクに思われるが、やってみればあれほどツラい労働もなく、心身ともに消耗が激しいのである。
エアコンで平均化された気温の中で、皮膚感覚をはたらかせることもほとんどない。
自分の感覚をたよりにしてものごとを決めるのではなく、感覚はむしろ封鎖して、上下関係で決められたことを決められたようにやれと要求される空間に一日閉じ込められている。景色も見えず、鳥の声も聞かれない。オフィスワークで生きものとしての人間が健全で幸せな生活を送れるのか、はなはだ疑問にもなる。

「現代は便利でけっこうな時代」といわれたり、「現代人はストレスをかかえて大変なんだ」といわれたりして、昔と比べてどっちが「けっこうな時代」なんだか、足して二で割ったらちょうどになるんだかならないんだか、さっぱり分からない。
人は幸せを追及するために、生きて労働するというのは、きれいごとすぎるだろうか。
昔の人の写真と、今の人の写真で比べてみる。
どちらの人間がいい顔をしているように見えるか、客観的に見て自分で決めればいい。
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ヤミツキになりクセになり中毒になる食べ物文化
2012/04/26(Thu)
「ヤミツキ」が褒め言葉というのが面白い。言葉は気づかぬうちに人の心をあらわすことがあるからだ。
病的に好きという。それは病だという。病気にとりつかれる感覚がうれしい。「ヤミツキ」とはそういう表現のように思われる。
「クセになりそう」という場合の「クセ」。チョコレート中毒という場合の「中毒」。これらもまた最高の褒め言葉として広く使われている。
「ヤミツキ」「クセ」「中毒」といった褒め言葉は今の日本の食文化が病的だというに等しい。自分たちの食が、健全な精神を見失っているということをはからずも指摘している。そのように思われることがある。そしてもちろん言葉の源は、味覚をはじめとする感覚。そして人のこころとからだそのものだ。

病的になる自分を喜ぶ。病的な感覚のくるいを求めてしまう。
ふと目が覚めて周囲を見渡せば、いつのまにか、そんなことになってしまっているのではないか。
「ヤミツキ」になって、「クセ」になって、「中毒」になったら、それは適応する力が失われているということ。支配されているということだ。鎖につながれた自分を喜んで「あたしヤミツキなの」「中毒なの」と言うということは「不自由が好き」と言っていることにはならないだろうか。

人間はもともと自由に好きにするということが好きだし、じっさいに「自分は自由に過ごしている」と思って過ごしている。しかし何かしらねじれが入ると、不自由が自由で、自由は不自由だというような、ややこしい倒錯もおこる。
「不自由な自由」に疲れた人をよく見かけるように思う。病気や症状で困っている人の中にも少なくない。不自由な自由の疲れを操体法で少しずつ落として、元気も出てきて、だんだんと操体法に居座ってくる人も出てくる。勿論だんだんと遠ざかってゆく人もいる。そのくらいでちょうどよいのかもしれない。
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気持ちよいことの中にも不快感あり。不快な中にも快感あり
2012/04/25(Wed)
体の声に耳をすませるというけれど、音にはいろんな音があり、同じ「ラ」でもピアノとバイオリンと人の声とでは違う。
音は単純な音に分けることができるという。音にもさまざまな成分があり、それらが一つに混ぜ合わさって、イヌの声だとかピアノの音だとか、一つの音として聞こえるのである。

「一番気持ちのよいことをするとなおるんだ」。
気持ちのよいことを積み重ねた先に、心と体の元気があり、元気の先に治癒がある。
体の動きにともなう感覚の中には、あらゆる臓器の、あらゆる関節の、あらゆる筋肉の都合や事情が語られる。そこに耳をかたむけてゆくのである。
どこかに都合よくても、別のどこかには都合のよくないことが生じて、からだのすみずみまで調和のとれた動きというのは、なかなか達成されない。
複数の成分から成り立つ声を聞き分けながら、「このくらいの角度で、このくらいの力加減にしよう」「このくらいの間、じっとしておこう」「ゆっくりゆるめよう」「一気にゆるめよう」などと判断していく。
それが操体法の第一ステップである。

いちいち判断する、そんな面倒な手順をふまなくても、「ここらあたりで、このくらいの加減がいい感じ」「あ、このときは、こうすればいいんだな」と自動的に決まってくる。こころとからだがだんだんと一致してくるのである。それが第二ステップである。不調和が調和に向かい、不協和音が減ってゆくと、もう楽しいばかり。ありがたいばかりである。
「あ、きょう操体法やるの忘れてた」なんていうこともなく、「きちんと取り組まなきゃ」なんて頑張ることもない。操体法という名さえいらない。びしょぬれの体をふるわせて水をはねとばす犬たちのように、不快なものをぶるぶるぶるっと一気にはねとばす、体の修復コースが反射的な動作として身につけばよいのである。
体の感覚は微妙なものだということも、おのずと分かってくる。「よい」「わるい」とぴしゃり二つに分かれるわけもない。「正常」と「異常」、「健康」と「病気」、「強い」と「弱い」、そうした西洋的な二元論が生命には全く通用しないということが、「な~るほど、そういうことだったか!」と実感される。
その先のことはまだ自分の想像の領域にすぎないが、自分と宇宙という二元論さえも、必要なくなるのかもしれないと思われることが、ある。
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たくさんのしかばねの上に誕生して根をおろして生きている。
2012/04/24(Tue)
山では落ち葉が土となり、そこに種が落ち芽吹きがあり、新しい命が根をおろす。虫も動物も生きて排泄物を落とし、やがてそこに身を横たえて新しい命の栄養となって吸収されてゆくのである。
自分も同じ。
死んでいった人々が遺すさまざま目に見えるもの、目に見えないものの上に誕生して根をおろし、それらを吸収して生きてきた。
気づこうと気づくまいと、顔も名前も知らない、たくさんの人々のしかばねの上に私たちは根をおろして生きている。何十代とも何百代とも知れない人々の連なりの結果として、このからだ、このこころを、いただいている。
山に入るといつもそのようなことを感じている。

私は、一人ではない。私に連なる過去のたくさんの人々とともに、生きている。
いずれ自分も土となる。自分もまた、誰かの栄養となり、また害毒ともなるのかもしれない。そのようなことを、思う。
顔も知らない相手だから、かえって私はその人々のことを想像し、思いをはせるのかもしれない。
どんな人々が、どんな思いで、生きて生活して死んでいったのか。それがまるで分からないことだとしても、自分自身がそういう連なりで今を生きているのは確かなことで、そこに何らかのつながりがあると感じるか、つながりなど一切ないと言い切ってしまうか、それは自由だ。

死んだ人に思いをはせる。戦争や天災、病気で亡くなった人、天寿を全うした人。
「あたしは忙しいの。死んだ人々?そんなこと考えてられるもんですか」「あたしの世代は戦争は関係ないのよ」。
ぷりぷりする母に何とか一羽の千羽鶴を折ってもらう。テレビのお守りをして一日過ごしていても、人には人の都合っていうものもある。それはそれでまた、それぞれで、いい。
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いくつのシナリオが描けるか-心身ともにニュートラル-
2012/04/22(Sun)
自分の馬が行方不明になっても悪いシナリオだと決めつけず、野生馬を連れて戻ってもよいシナリオだとは決めつけず、野生馬が息子の足を駄目にしても悪いシナリオに支配されない。障がいを持った息子は戦争で連れて行かれることはなく、周囲は「よかった」と思い、塞翁という男は「よいともよくないともいえない」と言う。

一つの事象を、どうしても「よい」と「わるい」のどちらかに決めたくなる。立場によって、「よい」と見えたり「わるい」と見えたりしてしまう。しかし決めてしまえばそれまでだ。一つの経過と一つのシナリオにしばられて身動きできなくなる。

検査の数値にとらわれるのも、そういう思考のあらわれではないのか。
今日の数値が基準値に違反してなければ「よかった」と思い、明日の数値が基準値に違反すれば「わるい」と思う。そういう毎日をいくつも積み重ねてゆくことで、どういう経過と結果とが考えられるだろうか。

『医療から命をまもる』(2005年日本評論社)『がん検診の大罪』(2008年新潮社)『定説だってウソだらけ』(2008年ワック出版)『命を脅かす健康診断の恐怖』(2011年別冊宝島)『長生きしたければがん検診を受けるな』『長生きしたければ病院に行くな』(週刊現代2012年2月15日号、3月5日号)。
テレビやラジオをはじめとする厚生労働省の描くシナリオとは別の視点。岡田正彦さんは元新潟大学医学部教授(富山医科薬科大学、福井医科大学併任)で現在水野記念病院で施設長という立場から、シナリオの一つを提供する。

一つのシナリオしか描けない状態になってはいないか。
二つ以上のシナリオを自分の中で自由に描ける状態をキープしているか。
いつも自分に問いかける。
心身ともにニュートラル。
それが塞翁という男の生きる姿勢であり、自分の一つの理想ではある。
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お野菜が植物に見えたり、植物が食物に見えたり。
2012/04/21(Sat)
見慣れないお野菜を頂き手をつけずにいたら、芽や根が出てきたので畑に戻してもらう。再び同じものを頂いたが、すぐに芽吹いてさかんに根っこを生やす。もう野菜というより植物に見えて仕方がない。

野菜なら腐らせるまで置いておくが、命なら死なないうちに手を打たねばなるまい。
山に出かけて土を少々失敬し、プランターに植える。枯れるまでそこで長らえていただくのである。
古くなった里イモやジャガイモも、ベランダに土を運んで避難させておいたのが毎年芽を出したり、いつしか姿を消したりする。庭があれば勝手にはびこっていくのだろうに申し訳ないことだ。

勝手にはびこったといえば、植えたこともないシソやヤマイモがベランダの植木鉢で芽を出して、世話もせぬのに毎年みごとに成長する。
あんまりみごとなので「よし食べてやろう」という気になって、葉っぱやむかごを失敬する。
山にもあちこち食料となるものがあり、目をつけている。「あそこのあれは、いつか食べよう」などとねらいをつけているのだが、場所を忘れたり、気の向くまま出かけていくうちにタイミングを逸してしまうことも多い。
気がつくと、ワラビも大きく葉を開き、ぜんまいもぐんぐん背筋を伸ばし、こちらの油断を笑っている。「今年はまんまと逃れたね」笑って、「来年は食べてやるからね」などと負け惜しみを、いう。
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あらゆるところに通じている不思議なドア
2012/04/20(Fri)
一つのことに打ち込み、深めたいという気持ちがある一方で、目うつりもする。体のことを追い続け、操体法に打ち込む師匠の姿に圧倒されながら、自分も操体法やっていこうかと思い始めた。しかし自分のことだから途中で投げ出さないか、気になっていた。

操体法の扉を開けてしばらく進んでいくと、四方八方に大小の扉がついている。まっすぐ進んでもいいのだが、どの扉を開けてもちゃんと進んでいけるようである。進めば進むほど扉の数は増えてゆく。そのまま進んでも、横道にそれても、先の先のほうでは同じことになる。

奥が深いというのはこういうことなのかもしれない。
東洋医学の分野に限定する必要もなく、医学に限定する必要もない。病気治しや健康のことに限定する必要さえ、ない。天文学だって、物理学だって、動物学だって、何だってかまわない。民俗学でもいいし社会学でもいい。宗教でも落語でもだいじょうぶ。ぜんぶ操体法に役に立つ。施術に役に立つ。

好奇心はだいじで、飽きてもかまわない。目移りしてもよいのだった。
逆にいうと、どんなジャンルに関心がある方にでも操体法は楽しんでいただけるということなのだろう。
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あらゆる行動は自由だが、報いは少しも自由ではない
2012/04/19(Thu)
手のひらの無実の虫けらを握りつぶそうとつぶすまいと、それは手のひらの持ち主の自由だが、握りつぶせば握りつぶしただけの報いと、つぶさなければつぶさないだけの報いとが、気づくか気づかないかは別として、人の自由にならないものとして、すでに用意されているだろう。
あらゆる行動が、人の前に「自由」として陳列されていても、一つ一つの自由にはありとあらゆる報いが、自由にならないものとしてあるのだなあと思う。

よりによってこんな私に裁判員の知らせが届いたものだから、少しずつ考えていたが、結論を放っておいたら操体法の予約が入った。裁判所に呼び出された日時とちょうど重なる。係の窓口に連絡したら親切な女性が、また次にまわしておくから心配しなくていいのですと言ってくれた。心配しなくてよかったのである。

関わりたい人は関わればいいけど、関わりたくない人は、関わらなくていい。自由にして、いい。いずれにせよ、どっちをとろうとそれぞれの報いがあって、裁く人、裁かれる人、証言台に立つ人、傍聴する人、いずれも人には決めることも判断することも許されない報いを受ける日常を送ることしかできない。何を選択しても、どっちが得で、どっちが損なように思われても、どっちが善で、どっちが悪だと思われようとも、自然の掟でそれぞれに報いが用意されているのだから、あまり騒ぐこともない。あわてることもない。そのようにも考えられないだろうか。

いずれにせよ人間の思うことやることに完全はない。それが何らかの救いであるのかもしれない。
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ぶれない意識のセンターを求めて
2012/04/18(Wed)
いのちを形で表わすとどんな形になるだろうと思ったら、たまごになった。ぷよぷよしたのや大きいの小さいのいろんなのが浮かんできて、それらの元の、そのまた元をたどってゆくと、円。丸。球。何一つ欠けていない形になった。自分が一粒の卵だったころのことを、私はいまさらながらに思う。

体に向き合うとき、その始まりの形のことを思い浮かべる。
円。丸。球の姿かたちは、あらゆる全体の隅々までがセンターに集まってゆく動きの表れといえる。バラバラではない。あらゆる部分が中心の一点を通じて全体につながりを持ち、全体は中心の一点を通じてあらゆる部分に通じている。
部分は全体であり全体は部分である。

円。丸。球のかたちを思うとき、自分たちが卵細胞であったという事実のことを思うとき、手とか足だとか、脳とか心臓だとか、胃袋とか肝臓だとか、全身をバラバラに切断する意識のギロチンは消え去り、中心点へと向かう数限りないベクトルと、中心点から全方向へ向かう数限りないベクトルのことを思い、生命力という命の力の作用のほうへと導かれる思いがする。

私たちにも元のかたちがあり、命にもかたちがあるのならば。
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誰にとって、なにが大病でなにが小病なのか-病気の鑑定-
2012/04/17(Tue)
高い塀の上から転がり落ちる。猫の体には大したストレスではない。人間なら過剰なストレスで耐えられないことだ。
結核でも平気な体があり、風邪一つでも耐えられない体がある。
体の条件しだいだ。結核が大病で、風邪は小病(?)というような区別をしていると、体の事実を見誤る。

体の状態を調べるというと、血液を抜いて成分を調べたり、粘膜にウイルスがいるかを調べたり、自分自身ではできないことばかりだ。
しかし血液の成分やウイルスを調べてどうするのか。病気の名前を決めるのだろう。しかしその病気が果たして自分にどういう意味を持つのか。それを知らなければ、どう受け止めてよいかさっぱり分からない。
どのていどのストレスとなりうるか。どの程度の大病もしくは小病なのか。
それは自分自身の生活の中で、自分自身の感覚で、分かるほかは、ない。
異常なほどの苦しみでなければ大病でない可能性も高く、騒がなくていい。騒がないほうがいいことだって、ある。しぜんに消滅してゆくのを待つ構えでいたほうがよいことも、ある。
結核といえば大騒ぎして、風邪といえば静かになる。
そんな単純なことではないように、思う。

大きく騒がれる代表選手の一つ、ガンについても騒げばよいということではないようだ。
騒いだことが判断を狂わせ、自分のことが分からなくなる。よけいな手出しをしたことが裏目に出て、かえって命を取られる。そんなケースも少なくないと聞く。となれば、ここはちょっと立ち止まって考えたいところだ。
ガンといえば大病なのか。ガンといえば致命的なのか。
専門家の中でも大きく意見が分かれる。それを死ぬのを待たずにあえて自殺するという人まで出る。しかし高い塀から転がり落ちてものんきにあくびをする猫のように、ふつうの人がふつうに乗り越えてしまうケースも少なくないと分かれば、「社会的にはそういわれているが、自分にとってはどうなのか」と保留の姿勢をとることもできる。
ガンになってあわてる前に、そういう事実のことも知っておいてソンはない。

ガンをさっさと格下げしている専門家には岡田正彦さんや近藤誠さんがいる。現場から十年以上にもわたって発信されている意見も参考にしながら、自分なりの「病気の見方・とらえ方」「病気の鑑定のしかた」を身につけていくことは、誰にだってできる。
自然界に害虫と益虫の区別が存在しないように、もともと健康と病気に区別はない。むしろ周期的に調子を下げたり上げたりと、バランスをとりながら、長期的に振り返ってみると、ある一定の健全さが保たれているのが見えてくる。そのようなものではなかろうか。健康だとか病気だとかは、人間のほうの勝手な都合で区別して決めたがっているだけのこと。
ほんとうに役に立つ区別なら、それも手段であり道具となるけれど、ほんとうに役に立っているか、どのようにやくに立っているといえるのか、それを鑑識するのは、それぞれの自分自身の鑑識眼なのだろうと思う。
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思いが通じる体・通じない体-目玉はきちんと動いているか-
2012/04/16(Mon)
目玉の動きは案外いびつだ。
全身でおじぎをするのが前屈。視線を下に向けると目玉全体でおじぎになる(①)。
目線を下から上へうつすと目玉がふんぞりかえる(②)。
眼球の筋肉6本が協調して動きながら、視線をいろんなところに向ける。

視線が上と下に動く動きでは、どちらの動きがスムーズになめらかに動くか。
途中で立ち止まりがちだったり、途中をポンとスキップしたり、もどかしさを感じたりはしないか。
ゆっくりと何度かやってみれば誰にでもわかる。

体を「|」から腰を曲げて「く」の字になるように、そのまた逆になるように動かすのが左屈・右屈。目玉でやると、黒目が目の中でワイパーの動きをすることになる。端から端まで半円を描くように動かす。
これは左へ動かしやすい(③)のと、右へ行きやすい場合(④)がある。

体を左から振り向いていくのと右から後ろを振り向いていく動きが、左右の回旋運動。目玉でやると、黒目は左右横一直線に動く。左へ動かしやすい(⑤)のと右へ動かしやすい(⑥)場合がある。

最後に、風ぐるまのように、左回りと右回りで黒目で円を描いてみる。
やはり、得意なほうと不得意なほうとがある。

眼球に直接くっついている筋肉そのものの状態もあろうし、各々筋肉の付着しているところの状態とも関係があるだろう。大きくいうと、全身の状態が目玉の動きにも、出る。
体を前後に曲げたり、左右に曲げたり、回旋した姿勢にして目玉を動かせば、また動きに違いが出ることを確かめてみるのも、よい。
体を整える前と後とで、目玉の動きをチェックすることもできる。
やりにくかったのが、たとえば目玉の前屈と、右屈と、左回旋だとすると、「①④⑥」がやりにくかったとなる。
それが改善したかどうか、チェックするとよいのだ。

操体法ではないけれど、眼球の動きをチェックし、やりにくかった番号を唱えるだけという実験もある。「①番、④番、⑥番」とまとめて唱えてもよいし、一つずつ番号を唱えるたびに動きに改善があったか調べていってもよいのである。
利き手、利き足と同じく、目の使い方に左右の違いがあり、紙に適当に開けた穴から向こうのものを両目で見、片目ずつ視野を手でさえぎると、どちらの目を中心に見ているか、傾向がすぐ分かる。利き手の左右を決定するのも利き目かもしれないという仮説を、操体法の橋本敬三医師は挙げている。

これらのことを応用して考えると斜視もまた筋肉の問題であり、全身との関連で見ていく必要があるという仮説も容易に成り立つ。
目線は全身の動きを決める。
スポーツでは玉の行方を目で追うというのが重要だし、歩いたり走ったりするときも目線が先に走っていく。
目は体の動きを決定する重要な要素なのだ。
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周囲に影響されない、いつでもどこでもストレスフリーの心と体をつくる
2012/04/14(Sat)
嫌いな人のそばにいると、見破られまいとしても思うように行動できない。気持ちを平静に保とうとしても気分はわるくなるばかりだ。
嫌いな人のそばではのびのびと過ごせない。身も心もきゅうくつになるから嫌いなのである。そばにいると身も心も羽がはえたように気持ちよく動く。そのような相手をキライになるわけがないだろう。

好きな人ばっかりと過ごせたら、どんなに愉快か。
さらにいえば、どんな人のそばにいても苦にすることなくすいすいと身も心も運べたらどうか。あの人は好きだけど、あの人は苦手だ嫌いだなどと、いちいち好き嫌いで区別する必要もなくなってしまうのではないか。

周囲に影響されず、いつでもどこでもすいすいと調子よく動ける心と体があっていたら、ストレスもなく、毎日が楽しいはず。
そんなことを小学生のころから不登校だった自分はどれだけ願ったかしれない。
学校が、苦痛。どの人も、苦手。何もかもが、イヤになる。そんなさえない子供時代を、前世を眺める気分で振り返ることがある。不登校のお子さんの出入りする仕事場でも「やはりな」と感じることが多かった。
背中や腰、肩など体が固く、思うように動けない。これでは気持ちもがんじがらめになる。ほんの少しのストレスの追加で限界を越え、あふれてしまう。充たされたコップの水を一気にこぼすには、ほんの一、二滴の水の力でじゅうぶんなのだ。

ささいなことが一気に苦痛に結びつく。人間関係だけではない。ありとあらゆることが苦痛で、好き嫌いがはげしい。すいすいどころか、どぼどぼだ。どこを向いても行き詰る。
この状態から脱出するには、どうすればよいか。やり方は実にカンタンなのである。
昨日のブログ記事「思いが通じる体・思いが通じない体―つま先にまで神経は通っている―」で紹介したが、ああいうことでよいのだ。

いや、そうではない。ああいうことでなければ無理だ。
生きていれば大小いくらでも困難にめぐりあう。そのたびにいちいちストレスでは身が持たない。どんなことがやってきてもストレスにならない心のかまえと体のかまえを、平素から少しずつ築き上げてゆくほかは、ない。
不登校のお子さんと親ごさんの話につきあって二十年近くの時間をついやした。心理学的アプローチの限界をイヤというほど感じた末の体験から結論する。

「まず体をゆるめては、いかがですか」と。「できれば自分で自分の体をゆるめるやり方を、身につけたらどうなんでしょう」と。そうすればこの世にこわいものなしだ。
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思いが通じる体・思いが通じない体―つま先にまで神経は通っている―
2012/04/13(Fri)
足の指に、ちょんと触ってもらう。どの指に触れられたか当てるゲームだ。これがウケる。さっぱり当たらない。足の人差し指と中指、薬指の三本は、どれがどれだか分かる人はそういない。
触られたことは分かるのだから、感覚神経の情報は届いている。しかし自分の意識のところまでじゅうぶん伝わってこない。もやでもかかったみたいでもどかしい。
神経の伝達がよくないというのは、こういう感じになる。

操法で腰をゆるめてあげる。カンタンな動きを一つ。もしくは二つ。
それで再び「どの指ふれたかゲーム」に挑戦する。結果はどうか。
よほど不健全な方でない限り百発百中だ。神経が通っているのだから当然といえば当然。それでは「さっきはなぜ?さっきのは何だったの?」ということになる。
①筋肉が固いと、体の情報が自分に伝わってこない。
②筋肉をゆるめると神経の伝達がよくなり、伝わってくる。
こういう説明は、おおやけには仮説ということになっている。

次に、足の指を一本一本動かせるだろうか。自分の体だ。足の指一本一本、つま先にまでちゃんと神経は通っている。
足の指に触れられると、感覚神経にその刺激が伝わって、背骨の中を通って脳へ。
これが「あ、触れられたな」と意識するルートである。
次はこの逆のルートだ。「触れられたな」と意識されたところに、「動け」と命令を下す。
するとその命令は神経を伝って背骨の中を通り、運動神経を伝わって指先へと向かう。それでつま先は動く、はず。
足の指が器用な人は、足で自由に何でもつまめる。小さなゴミもサッとつまみ上げ、好きなところへ移動することができる。これはなぜか。
①感覚神経の刺激が背骨の中(脊髄)を経由して脳に伝わりやすい状態であるということと、②自分の意思が背骨の中(脊髄)を経由し、運動神経を通じて指先へと伝わりやすい状態だということだろう。
すべての伝達は脊髄から脳へ、脳から脊髄を経由して行われている。
だからこそ、背骨の周辺の筋肉の状態、首の骨の周辺の筋肉の状態は、重要なのだ。
この仮説を、自分の体で、他人の体で試してみればよい。仮説がどこまで通用するか、じっさいに確かめてみる。せっかく操体法を知っているのだったら、やってみると、いい。
2、3分の動きが、どれだけ人を不器用から器用へと変身させられるか。やってみたら、いい。

「腰が固い人は指先も不器用だ」。はじめてそう聞かされたときは、「腰と指先?なんの関係ありますか」とバカにした。「腰が固い人は頭も固い」。そう聞いたときは、「イヤなこと言うなあ」と思った。
しかしなんのことはない。筋肉の柔軟は、全身と自分の意思とを行き来させる感覚神経と運動神経のルートをスムーズにする。「こう動いてほしい」という思いがストレートに体の各所に伝われば、それは「器用だ」ということになり、自分の気持ちが思ったとおりに体の各所に伝わらなければ、人はそれを「不器用だ」という。
それだけのことだった。
自分の気持ちが自分で思い通りにならず、「ウツだ」とか「食べまいとしても勝手に手が動き口が動いていうことをきかない」というのも、ルートのどこかに問題があるのかもしれない。
足の指一本さえいうことをきかせられないようでは。そうは思いませんか?
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山の気配に耳をすませば、発見があり驚きがある
2012/04/12(Thu)
山中の、竹の林で竹の鳴るのを聞いていた。生きた竹の音ではない。切って捨てられた竹の胴体が一瞬にして縦に裂け、パクッと細長い口を開ける。そのときの音。カーンッと遠くで響くかと思うと、別のところからカンッ。張りつめたつづみが平手で打ち叩かれるときの思い切りのよさと厳しさが伝わってくる。
ほどよく手入れされた明るい竹林の、ひときわ大きな陽だまりの中に腰をかけ、あれこれと思いをめぐらせる。静けさが勝ちを占めて空気が凝り固まってくる。そこを研ぎ澄ました斧で勢いよく振り下ろすと、ちょうどこんな澄んだ音をたててパカリと割れる、などとらちもないことを思いもし、どこかで誰かが薪割りをしているという錯覚に身をまかせたりするうちに、すぐそばでバンッという破裂音がする。そのたびに覚めて、あたりを見回す。

山の中でじっとしていると、たいてい何か発見があり、驚きがある。
ダダッと小さな風が顔のそばで巻きたったと思ったら、目のまえの地面にはったと降り立つ小さな鳥。白、黒、グレーのモノトーンにあざやかなオレンジ色が背中にちょっと見え、手を伸ばせば届くところに困ったように立ちつくしている。近くでうずくまっているトカゲの子がお目当てだったのらしい。
茂みの中からガサガサとたいそうな音が近づいてくると思ったら、全身くすんだ黄色の、ぼさぼさした毛に覆われた、細っこくて小さいのが、ひょっと顔をのぞかせ、そのまま目の前をてててと横切られたこともある。
妙に短い手足で枯れ葉をかきわけながら、鼻先を宙に吊って左右に振り振りする。ちまっとしたつくりの顔がよく見えた。イタチだか、テンだか、わるいことでも気づかないまま平気でやらかすような、とぼけた顔が、わざと汚したみたいに黒っぽい。
匂いに気を取られ、すぐ鼻先にいる私の姿も分からないまま、たいそうな音を引きずりながら通り過ぎていった。

風通しのよい竹の林の、青くて澄みとおった空間に、乾いたカーンカーンという音が鳴り響く。
竹鳴りの音に包囲され、胸のすくいさぎよさを聞きとるようなつもりで、あらてめて耳を、すませる。
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私たちの生命は、もともとアウトローだった
2012/04/10(Tue)
体の生命の営みを、時には正常呼ばわりし、時には異常呼ばわりし、あげくには「人間様の定めた基準値に合わせて生きろ」と言われても、体には迷惑以外の何ものでもない。

生命活動はアウトローと考えると分かりやすい。私たちの日常は、目に見える・見えないかたちの「ロー」=「きまり」にしばられているが、生命の感覚はまさに自由の感覚なのである。
検査の基準値をどんなにたくさん専門家に定めてもらっても、体は必要なとき必要なことを必要に応じて忠実に行って、生命の維持、恒常性の維持を行うという使命を果たそうとする。
時には人間の目には不合理・不都合と映っても、自然法則・生命の法則からして見れば、実に合理的でむしろ都合のよいことなのかもしれないのである。

「血圧は上の基準値が140って、そんなこと仰言られても、わたしはわたしでべつに困っておりませんし、おかげさまで子供のころからよそさまよりもむしろ元気なほうでやってきておりますのでね、今さら基準値がどうのと仰言られましても困りますよねえ。わたしそういうこと一切知りませんし、関係ありませんから」とこう、見事に言い切ってしまわれれる方を知っている。
これでこの方、健康に大雑把かというと、そうではない。
施術のさいには、今週は正座するとここらあたりがどうだとか、ここは胃経に関係しているのかとか、実にこまやか。しかし健診であるとか病院方面の話となると、もう取りつく島も港もないという風情。
体の強い方にこういうタイプは多いが、私の母方の虚弱な血筋の面々にしても、不平不満をこぼしつつ、すぐにどうと困ったことも起きずに生きのびて、むしろ長寿の家系だ。母自身、健診など無縁なまま齢を重ねている。そこを今さら基準値がどうと言われていろいろやらされたところで、生まれ変わったように爽やかな日々が到来、長年の不具合も解消し、元気になるという見込みがあるのだろうか。

アウトローのローは、「法律」「法則」という意味だが、人間がこしらえたものもあれば、人間の手によらない、人間の都合と無縁のところでこしらえられたものもある。
人の生活は六法全書や慣習を代表とする法律体系と、自然界のおきて・自然法則に関わりを持って営まれているが、医療制度は前者の「法」に属し、こちらは専門家にまかせておくほか我々庶民にはどうすることもできない。しかし日常のじっさいについては、どんなに素晴らしい制度にも頼りきれないものがある。
それを操体法の橋本敬三医師は「自然法則」「息食動想」と言い切った。
我々の、日々の呼吸のやり方について、素晴らしい医療制度がどう関われるだろうか。
我々の食生活のやりくりについて、優秀な保健政策がどう関われるというのだろうか。
一人ひとり、経済面感情面いろいろな事情がある。小さいころからの体の傾向も、体のかかえている苦労も、それぞれにちがう。そこを何とかやり過ごしたり、工夫してやりくりして日常を送ってきている。
それを「朝飯は毎日食べるように」「食べものは毎日30品目以上にするように」「タバコは吸わず酒もひかえるように」「定期健診を受けるように」と注文をつけてこない日が一日もないというのでは、左右の脇をぶこつなガードレールに挟まれて歩かされるようなもの。ストレスだ。そしてストレスこそ万病のもと。人間はストレスにめっぽう弱い、繊細な生きものなのだ。

24時間休みなく生まれてから死ぬまで働き続けるわたしたちの体には、労働基準法の考えは通用しない。「睡眠」を「体の休憩時間」というのも、ある意味まちがいだ。睡眠中に休憩する部分があれば、睡眠中にこそ活発に働く部分もある。それが生命の営みではないのか。
人間のこしらえた「ロー」が生命の営みの妨げになっている場合、体にかかる負担と疲労を余計に増やし、それが生活の質の低下と短命という結果を招くということも考えられる。

週刊現代3月17日号の「長生きしたければ病院には行くな」の医師たちの対談は、そんなことを考えさせてくれる。
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「人間の幸せ」という根っこで万人がつながっている。
2012/04/09(Mon)
お金に困っている人がいたら都合してあげたくもなる。目の前で苦しむ姿があれば苦痛を取除いてやりたい。他人の苦しみは自分の苦しみというように人間はつくられていると思う。

自分の手に負った傷が痛々しい。かわいそうにこれを何とかしてやりたいと思う。人はすぐ自分が手出しするのが親切、いいことだと思うから、よしいっちょ消毒してやろうと思う。消毒剤をふりかけ毒を消すのだ。毒とは何か。バイキンである。
あとは薬を塗ってやる。サアこれだけ力を貸してやったんだ、もう大丈夫というわけ。
毎日お手入れして「早く治れよ」と声をかけてやる。そのくらいやればじゅうぶん親切といえる、だろう?

『傷はぜったい消毒するな』(夏井睦著 光文社)の内容も広く行き渡ってきたようで、周囲でも「赤チン体にわるいんですってね」と笑い話にもなり、「消毒はいけないってですね」などと話を向けてこられたりする。
形成外科の名医といわれる人の、現場での多くの実例と証言がここまで広まるのにも、どれだけの年月と努力がはらわれてきたか。この人は、何が親切で何が親切でないことか、ものすごく考えてきたろうなと思う。
自分の体をいたわること一つ取っても、無知のままでは、平気で逆のことをしてしまう。
これがさらに他人さまのことともなれば、「こうすればいいのに」「ああなればいいだろうに」といともカンタンに結論づけるわけにはいかない。銀行やサラ金がいい例で、お金のことで済むならと、カンタンに考えてポンとお金を出してやったら、さらにひどいことになったという場合だってある。

親切のつもりで安易に手出しをすれば、ただ見過ごしにしなかったというアリバイづくりに終わってしまう。手を出すなら出すで、その後に必要なケアが分かっていないといけない。その後にもいろんなことがその人に振りかかってくる。あとのあとまで見守りは必要ではないか。
医学も同様で、治療という手出しをしたら、死ぬところまではどうなるのか、きちんとデータが必要だろう。
『治療は大成功、でも患者さんは早死にした』(講談社 岡田正彦)ではないが、ある治療をすれば、そこから先、死ぬのは早くなる。それでは困るだろう。
ある治療をすると数年後にこういうことになり、結局は病気を増やし、苦しみが増す生活を送る破目になって、その挙句ストレスで早く死ぬ。そういうことでは困るのである。
そこまで含めての治療であり親切。裏目に出ると分かっている親切なら、やらぬが親切。手出しせぬのも治療ということだ。

裏の裏まで分かっていないと、ほんとうの親切はできっこない。役に立ちたい・救いたいと真剣になればなるほど滅多な手出しも意見もできなくなるはずだ。
じゃあ他人は他人、自分は自分で知らんふりするのがベストだろうか。
他人の幸せのことは、どれだけ真剣に考えても考えすぎることはないと私は思う。他人の幸せのことも分からないようでは自分の幸せのこともそのくらいの理解でしかないと思うからだ。
人によって幸せのかたちは違って見えても、「人間の幸せ」という根っこは万人でつながっている。だからもし他人に助けをかりたいようなときがあったら、お金のことであれ、病気のことであれ、自分自身の幸せのことに理解が進んでいるような人に助けを求めなければ、かえって妙な回り道や迷い道に引き込まれ、一緒にさまようことになるかもしれない。そうではないだろうか。

どこまで行っても人間が決め手。それは動かしがたい事実であると、私は思う。
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肉体をたよりにして生きていく生き方
2012/04/08(Sun)
おじいさんの代から三代にわたり射撃の名手だったという人としばらく生活していたことがある。体に対する意識が、父と非常に似ているところがあった。

思えば父は学生時代に九州代表で甲子園に出場している。正確には甲子園のできる前の時代だそうで、投手だったと聞く。
今の時代のアスリートとかいうきれいな言葉とは別の、ただふつうの人間の、肉体労働的な働きをする体として、私は父の体になじんでいた。その立派な肉体を、やけて擦り切れた畳の部屋で、メザシとか豆腐のみそ汁の匂いだとか、そういう気取らない日常の一部として過ごすような生活に、自分は縁があったのだと思う。
上半身をほとんどいつも外気にさらし、戸外でも町中でも、すぐ上半身シャツ一枚になる人だった。もう半世紀近くまえの日本である。夏だろうと冬だろうといつも濡れたタオルを持ち歩き、冷水摩擦というか、しょっちゅう全身を磨きあげるようなことをしていた。
実にいい肉づきだったが、日本人としていい筋肉のつきかたという感じで、アメリカ風のぎとぎとした筋肉を目指す意識とは一切無縁。むしろ自分の肉体の機能美のようなところを何よりもだいじにしている様子である。
少しもじっとしている人ではない。食事がおおかた済むと、自分だけぷいと散歩に出かけてしまう。とかくよく歩いてばかりいて丈夫だった。妙に甘いもの好きで、夜分に果物をとる。年をとるうちにそうした長年の食生活による不具合を抱えてはいたようだが、私が子供のころから見慣れていた体は驚くほどによくキープされていた。甘いものがどういう結果をもたらしているか気づいたときには、劇的な改め方を見せ、不具合を克服していた。
父の、体に対するこだわりは相当なものだったのだと、今さらに思う。

射撃の名手のほうも、一人で勝手にどこにでも出かけていくような人で、丈夫で長持ちの体とサバイバルの方法以外にはほとんど何も持たないような感じの生活状況だった。一定の禁欲と規律正しさがほどよくキープされていた生活ではあったが、私の知る限り、わざわざ体を鍛えるというようなことは一切頭になかったようだ。北アルプスに一度だけ遊びに連れて行ってもらったが、私が山小屋で二日つぶれている間に、ほとんど装備もなしに縦走しては戻ってきてケロリとしていた。その丈夫さ頑丈さはケタ外れという言葉がぴったりだった。これももう三十年も前のことになる。

今でいう、男性を見る尺度というか、一般女性から見た、経済力をはじめとする男性の尺度と比べると、まさに別世界。彼らは今の女性たちから見たら、どこにも引っかかりそうにもない生き方をしていた男たちなのだ。しかし私はむしろ彼らに共感するところがあり、学ぶところがあるということで、今もなつかしく思い出だすことが、ときどき、ある。
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静まりかえった山の中で、季節をほんの少しだけ、巻き戻す
2012/04/06(Fri)
つぼみから開花までがあっという間で気持ちが桜に追いつかない。
満開の桜は日本を一気に終末思想へと追いやる。
「ああ終わってしまう!桜が終わってしまう!」日々の桜情報に接しながら、「終わるまえに、やらなければならないことがある」と強く念じるのである。

花芽出てきたな。ふくらんできてるな。開いてきたか。まだ三分咲きだ。もう五分咲きか。満開は、も少し先か。
今年はそういう経過もなしに、ある朝、目が覚めてみると、一気に打ち上げが始まって、せいだいに花弁をまき散らしなどしている。
桜に置いていかれまいとして、あちこちの木の下に青いシートが広げられ、人々が集まって飲んだり食べたりを始める。「待ってました」という喜びの光景というよりも、あわただしさが目についてしまう。

半時も車を走らせた山では、じつは花芽が一つも眠りから覚めていない。町のにぎわいをよそに、まったく静かなものである。静まりかえった山中で、わたしの季節が、少し巻き戻される。
次の日も、そのまた次の日も、山に出かけて行った。
一分咲きというところから、三分咲きというところまで、やはりペースははやいが、ここから気持ちをつくっていけそうな感じがした。
山を歩き回ってみる。ふもとのほうはもう完全に開ききり、花吹雪である。
上のほうでは、咲いているのやら咲いてないのやら、場所によってずいぶんとまちまちだ。
二分咲きや、五分咲きや、まちまちな、いろんなのを見て回っているうちに、私の中で巻き戻しや早送りの調整が行われている。

町に戻ってみる。車窓から見える風景にはどこかしら桜の爆発的な満開の姿がうつりこむ。爆竹の音のようなものまで聞こえてきそうな勢いだ。それがだんだんと愉快に感じられてくる。満開の桜の向こうから、昔の光景が、いくつもいくつもよみがえってくる。これが自分の桜気分だなあと、思う。
桜。ああ、さくら。サクラ。
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無理がないのがムダもない。-それぞれの、そのときどきに応じて-
2012/04/05(Thu)
山の道具はそろえるというより自ずとそろっていく。
そのときどきの必要に応じるうちに、役に立つだいじなものを見分ける目も備わってくる。道具には命がかかっている。高価でなくてもお金をかけるべきところと、思い切って省略してよいところとが、だんだんに分かってくる。何を優先し、どこにお金をかけるか。そこは各自の戦略である。

健康も、困らないうちから心配するのはどうかと思う。困らないうちは、困らないていどにしか、ものごとは見えてこない。
ほんとにピンチのときは、つぶれるリスクと隣り合わせだから真剣にならざるをえない。先人の例を挙げるまでもなく、ピンチはチャンスの可能性を秘めている。真剣にものごとにあたることでピンチをチャンスに切り替えることもできる。ピンチをいくつもくぐり抜けることで確かに人は何らかのチャンスを得、成長する。

一生困らない流れにいるということも人間なかなかないだろうから、いつかどこかでピンチに直面したときには勇気のふるいどころ。本気で真剣になって流れを乗り越えるという覚悟は、常日頃からだいじにしたいと思う。
ピンチのときに力になるもの、頼りになるものを持っているか。
本気になって流れを乗り越えるのに、ほんとに役立つものを、常日頃から見つけ、身につけるようにしているか。
最大にして不可避のピンチは生老病死。
操体法が、あなたにとって、イザというとき頼りになるものとなってくれることを、願う。
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いつまでも聞いていたくなる、さざ波の音のつくりかた
2012/04/04(Wed)
レインスティック。竹筒に米を入れて揺する原理で長い筒を傾けると、中のつぶつぶが転げ落ちて、ざざ~しゃらしゃらしゃら~と鳴る。聞いているとトテモ癒されるのである。
売ってあるが手軽に作れる。ちょっとした工夫でステキな音になる。

ポリラップなどを使い終えた筒でいい。表面にキリなどでらせん状に穴を開けてゆき、ツマヨウジや竹串を刺す。筒の内部がトゲだらけになり、この引っかかりで音が豊かになる。串の不要な部分は切りおとし、ボンドなどで固定する。
中に入れるものにより、音にバリエーションができる。筒の両端は布などでふさぐ。固いものでフタをすると、底をたたく音がして、また味わいが出る。
小さな固体がざらざらと移動することで流体の音になる。光の粒子が波の性質を持つというのにも似て、おもしろい。

操体法の体の動きを、レインスティックになぞらえる。
自分の腕を動かすときも、中身がざらざら~っと移動して流れていくように。
足を上げるときも、高いところから低いところへと、たくさんの粒子がしゃらしゃらしゃら~っと、流れ落ちていくように。
重力に逆らわない動きで。
全身さざ波の音をたてながら、重心の移動がとどこおることなく、矛盾なく、行われてゆく。
ああ気持ちいい。夢のようだ。
体を動かしながら、いつまでも聞いていたい、わたしの体の中の、この、さざ波の、音。
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心にいつも好奇心という名の虫とり網をたずさえて
2012/04/03(Tue)
幼少の頃、捕虫網を手にするだけで世界が違って見えた。まるで舞台の仕掛けのように、くるりと世界が変わるのが、おもしろくてワクワクした。捕虫網は魔法の杖。握れば空を飛ぶこともできる。

まっすぐ上向きに寝て、右足をそろそろと天に向かって上げてみる。
右足をおろして一息休んだら、左足はどうかなとやってみる。
これが朝と晩の寝床の中の、わたしの好奇心である。
操体法という名の虫取り網で、左右の動きにともなって生じる感覚のちがいというチョウチョをつかまえる。操体法のポイントを押して確認してゆきながら、圧痛という名のカブトムシやクワガタの変異種を見つけに探検するのである。
それの、なにがいいんです? どこがいいんですか。
おもしろくない人にはおもしろくないかもしれない。そしておもしろい人にはおもしろいだろう。ただそれだけの話。

さいしょのうちは、年長者に補助してもらった。
「ほら、あそこに隠れているだろう。あれを、こうして、こうする」と教えてもらった。
近所には、たくみな網の使い手がわんさといて、「ほら今日はこんなのが、あんなのが」と話に熱が入る様子も実にたのもしかった。
ああしたすばらしいえものを、いつかきっと、自分のこの手に握った網で。そう思った。
病気とか、症状とか、そういうのもまた、虫をつかまえる手段にすぎないのではないか。
病気や症状そのものを捕えに行く専門家もいるが、「うまくいったという例を見たことも聞いたこともない」と聞く。「ご自分でいいと思ったことを、おやりになったらよろしいのです」と釘を刺されもした。
虫取り網は自分の手から離してはいけないのだと、そのときつくづく思った。
虫取り網を一刻もはやく手から離し、「どこかの名人にうまいこと取ってもらおう」という気持ちが、まだまだ自分の中にはあるのだなあとも思った。

朝と晩の、寝床の中のわたしの好奇心。
そんな他愛もないようなことが、大きな危機を脱する決め手になったりも、する。
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自由に慣れれば不自由なほうに戻りたいという人もいない
2012/04/01(Sun)
生まれついたときの体はすでに歪みをかかえている。からだの設計にミスはなくとも、生まれてすでに本来でないところに、人の業とでもいうべきものがあるのかもしれないと思う。
歪みのない体がどういうものか知らなければ、傾き、ねじれ、あるいは引っ込んだり飛び出たりしていることには一向に気づかない。気づいてもかえって愛着を感じたりするのかもしれない。
骨組みに生じた歪みから、動きのクセも生じるが、クセのある仕草にもまた、愛着が持たれることもあるだろう。

調整を終え、「ああラクになりました」と言われたときには、傾きもねじれも出っぱり・引っこみも、ほとんど目立たなくなり、からだの本来を、かいま見せてもらう心地がする。「歪みのどこがわるい」と開き直るのも一考だが、日々少しずつでも自分で整えることをおぼえてゆけば、確実に首輪はゆるみ、鎖も軽くなる。どんどん軽くなってゆけば、どんどん自由に近づいてゆける。

分からないうちは首輪や鎖の存在に気づかないかもしれない。チャラチャラいう鎖の音は子守唄の調べに聞こえ、首根っこにかみついている首輪は愛情に満ちた抱擁か、親身なボディガードが肩にまわしてきた頼もしい腕だとカン違いすることもあるかもしれない。
身体感覚の声が響くよう、発声練習を積み、聞き取りの訓練で鎖の音を聞き分ける。
どこまで自由になってゆくかは、それぞれの望みのていどに、よる。
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