たくさん施術をこなせば「腕」はあがるのか-素人とプロの境目はどこにある?- |
2012/03/24(Sat)
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素人もプロも、同じ土俵にのっている。土俵に残る条件は素人とかプロだとか資格の有無だとか、そういう区別は関係ない。むしろ素人のほうがイイ線いくのではと思われることさえある。
「はじめてだったが何とか対応できた」と初心者の方から報告されると、素人の強みだと感じる。 へんに知識や思い込みもなく、すなおに信じて実行する人は、文句なしに強い。 自身の回復の体験から、そのまま施術の道に入り、プロとして立派に食っている人もある。 「腕」である。実力の世界である。決め手は何か。感覚だ。 指先や手のひらから伝わってくる感覚で、なんとなく「こうだな」という感じが、どれだけ的確にくるか。こないのか。感覚を日々、研ぎ澄ましてゆく。 思い込みや知識に汚染されていない、ピュアな感覚が、大きなカギになる。 みそぎでもして人に向かうことだと思う。みそぎをして体に向かう。そのくらいのかまえが必要だと自戒する。 素人でもテレビや雑誌やなんかでめったやたらに詰め込んでしまっている頭では、どうかと思われる。 体に向き合うときは全てをかなぐり捨てて一本勝負だ。命とられるわけじゃないのだから、生まれたての赤ん坊の目ではじめて人間の体を見るような気持ちになって、無心に体に向き合う。そういうことも必要なんじゃないかと私は思う。 プロとアマとのちがいで大きなウエイトを占める要素の一つに、お金がある。お金をわずらわしく感じるアマチュアはけっこう多い。お金をとらないプロというのもあっていいのかもしれないが、とる・とらないのいずれにせよ、お金は人間の弱みだ。お金をもらってピュアな感覚を保つにも訓練が必要かと思う。とくにたくさんもらってしまうと、代償として長時間こまごまとお世話をやくモードに入りがちなのだ。 お金で施術の内容や方針までが影響を受けてしまう。しかし体も生命も、お金の法則で営まれてはいない。お金の影響を受けた施術が、自然法則が営まれているところに持ち込まれるのが果たしてベストだろうか。 素人の方の成功例は、友人や身内や家族が相手であり、外からの雑音が入りにくい。子供が目の前で苦しんでいる姿を見て、ピュアな一心を持って、習いたてのやり方を一つでも二つでも真剣にていねいにやってあげる。最善をと願う心がプロに勝つことだってあるわけである。 互いの信頼の強さはいうまでもない。人が最後の最後に頼るところは、友人や身内や家族ではないだろうか。 プロが繁昌するには「腕」とは限らない。自分が長年、患者の立場であちらこちらに足を運び、治療や施術を受けた体験から出てきた私の結論であるが、腕がよくても繁昌しないところもある。病院にも同じことがいえるだろう。 知識人だろうと有名人だろうと、患者になればたいていは素人なんだから、「腕」を見抜くためのシッカリした基準を持たない。患者として何を基準に信頼を寄せ、何に身をまかせるかは、人それぞれ。科学的な根拠よりむしろ案外テキトーだったりする。 一つだけいえるのは、「腕」のある人は必ず誰かの頼りにされるから、規模が小さくても長く続けていくことはできる。旅先ででも、世の中の大きな変化のさいにも、人の社会がある限り、飢えて死ぬことはない。これが療術の実力の強みだと私は思う。 自分の腕が、どの程度のものなのか、きちんと判定できる人はほとんどいないのかもしれない。 人間の生きた体には自己回復力・生命の力が宿っていて、いつもひそかに患者たちを応援しているからだ。 薬や手術やもんだり叩いたりといったプロの努力が、どのていど患者の回復に貢献できたのか。ひょっとして回復をさまたげていたのか。こうしたことをどう証明すればいいのか。 一人は治せたが、一人は治せない。その理由が不明というのでは困る。回復のていどの差はもちろんあるが、生きている限り改善する可能性はある。回復は生命の営みだからだ。わるくなる一方ならそのまま死ぬだろうが、どこかで踏みとどまっているのなら、何らかの改善の余地は、ある。改善の余地があると思うところに、治療の意味はある。改善しないだろうと心中で思っていながら治療を施すというのは演技もしくは気休めだと言われても仕方がないだろう。 スポンサーサイト
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