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学びは賭けであり、リスクである-ケチなそろばん勘定をしないから子供は学びの天才なのだ-
2012/03/21(Wed)
もともと学びとは、値札のついてないものに自分で最高の値段をつけて買い取るようなものなのだ。
私たちは時間も限られているし、学びには労力も苦痛も伴う。さいしょから見返りがあると分かっていれば、自ら進んであらゆる犠牲をはらい、苦痛を喜んで受け入れることもできよう。

しかし分かっていることに取り組むのは、学びとはいわない。分かっていないことに真剣に取り組むのが、学ぶということである。
きちんと取り組まなければ、いつまでたってもほんとの値打ちは分からない。
価値があるだとか自分に向いているだとか、そういうことも、目をこらし、しっかり取り組んでみなければ、何も分かりっこないのである。

私たちは真っ暗で中味の見えないブラックボックスにちらちらと視線を送りながら、自分に一番都合のよいことを夢想する。
学びはつねに賭けであり、リスクであり続ける。中味が分かってからしか飛び込まないというのだったら、なんにも得るものはないわけである。しかし、さんざん苦心を重ねたあげく、実はまったくのダメ路線だったということも、この世には珍しくない。橋本敬三医師も、現場に出て患者と向き合って初めて「医学部でやってきたことは、現場の役に立たない」ということを実感し、療術の世界へと踏み込んだ。
療術は人間の数だけ流派があるといってもいいくらい、実にバラエティゆたかであるが、それだけに玉石混交。どれがいいんだかサッパリ分からない。そんなにたくさんの流派がありながら、なぜ操体法なのか。師匠にたずねたことがある。「さいごは人間」。きっぱりと、一言。

大学でも聞いたことがある。科学的な問題、学術的な問題でさえも、その内容の真偽のほどを判断するときに、人物というのは重要な要素だと話してくれた研究者がいた。
「やっぱり直接その人物に会う。顔を確かめにいく」という。論文に感動して出かけていったら、人物を見てガッカリしたり。ピンとこない論文だなと思って期待せずに出かけてゆくと、大いに人物に感心したり。思った通りだったり、ちぐはぐだったりと、いろんなことがあるから、分からないものだという。
「学問だから、人物で判断を下すということもないはずとは思うが、どこかで納得する部分もあるからね。面倒のようでもかならず出かけて人物を見たほうがいい」。

マニュアル人間という言葉がある。マニュアルと人間とがドッキングされた、奇妙な言葉である。人間と切り離して知識や技術があるという意識を指摘している言葉なのかもしれないとも思う。
以前の自分を振り返ってみると、知識や技術に興味はあっても、その背後にある人間の存在にはまったくの無関心。むしろ無理やりにでも知識や技術を人間から切り離し、ものにしようという姿勢ではなかったか。
操体法の施術を受け始めてから数年も過ぎたころに、私はやっと、橋本敬三という人物に目を向けた。『からだの設計にミスはない』を手に取り、二、三行を目で追ったときに、こんな人物が、こういういきさつで操体法がつくられたということを、もっと早くに知っておけばよかったと思った。

振り返れば自分は立派なマニュアル人間。今はそうじゃないと断言する自信はないが、操体法のおかげで少しはくずせてきたかもしれないと思う。
子供が言葉をおぼえるときは、文法から習うことはない。文法など知らなくても、文法など全く分からなくても、もともと言葉は心と直結して沸いて出てくるものとして身につくだろう。療術の技もまた、言葉や歌が口をついて出てくるように、自分の中から出てくるものでなければならない。少なくとも私はそう思う。
子供は学びの天才といわれる。言葉を身につける子供の意識というのは、父や母、周囲の人々、そして生きとし生けるもの、生命のあるなしにかかわらず、全体と一体化した意識である。だから子供は学ぶことに旺盛である。ケチなそろばん勘定をしないから、びっくりするほどメキメキと身につけてゆける。
まずは人間。まずは自分の意識。そこらあたりは学びが結実していくためのカギを大きく握る要素であろうと、私には思われる。
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