警告のアラームが鳴ったとき、あなたはどうするか-体のアラームに耳をすませよう- |
2012/03/19(Mon)
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異常を知らせるアラーム。「うるさい、面倒な」と切ってそのままにしているとどうなるか。
対症療法はアラームのスイッチをバッサリ切る行為である。 痛みや異常感覚は、自然からの警告。雑音ではない。危険を知らせる大切な合図の役割をになう。 鎮痛剤は痛みをオフにする以外、何もしない。「とりあえずアラーム切っておきましょう。日常生活にさしつかえますものね」。 足りないものがあれば足す。飛び出してきたものは切り取る。これらもまた、別バージョンの警告無視。 次のアラーム、そのまた次のアラームも突破した先に、どんな危険が待っているだろうか。 操体法のコンセプトは、「体のアラームに耳をすませよう」である。 アラームに関心をよせ、耳をかたむける。すると耳がこえてくる。アラームにもいろいろあるということが聞き分けられていく。 自力的な運動をすることにより、もっとも自然な経過をたどってアラームが静かになってゆく。安全な状態になりさえすれば、痛みや異常感といったアラームは、おのずと鳴りやむ。それがほんとうの安心だ。自分の体が自分で分かるというコンセプトである。 「アラームが聞こえてくるまでぼーっと待っている必要もない」。 それも操体法の重要なコンセプトである。どこのアラームが鳴りそうか、自分から探しにいける。基本的な自力の動きを、朝と晩に5分する。それが見回り点検になる。 アラームの鳴りそうな場所をいくつか見つけ、気持ちよい動きを数回実行。それでアラームの緊張はほどける。 だんだん身についていくと、体がオートマチックに見回りをし、解除してまわるようになる。「見回りしなきゃ」と思う必要もがんばる必要もなくなる。究極の予防医学といえるだろう。 操体法とは、橋本敬三という医師から出された提案である。橋本敬三は医学的立場から対症療法に疑問を投げかけ、『操体法の医学』の提唱に一生をささげた医師だった。 おかげで私は対症療法の連鎖から抜け出し、病気にビクビクして生きることから解放された。ささやかながら周囲にも「体の見回り」と「アラームへの関心」を知らせている。 私たちの耳は、さいしょは鈍い。ふだん使わないままにして、アラームが鳴っているか鳴っていないかさえ分からなくなっていることもある。しかしもとの感覚を取り戻すのは時間の問題。もともと備わっていたものが、ふたたび働きだすと、喜びに満ちてくる。安心に満たされてくる。 わたしのからだはどうなっていますか、いつ死ぬのでしょうか死なないでしょうか、といちいち調べてもらわなくても済むというのが、ほんとうの安心であるとわたしは思う。 警告無視で走り続けるための手段が、おびただしい対症療法として発達している。 警告無視で走り続けるというのは社会の中心的な考えであるが、一つのアラームで済んでいたのが時間の経過とともに、あちこち別なところで鳴り始める。こっちのスイッチを切って、あっちのスイッチを切って、と忙しくなり、気がつけば日常を走り続けられなくなっている。 病的な日常に、自分はもう迷い込みたくはない。健全な日常へと戻る道は、いつでも私たちの目の前にひらけているのである。 スポンサーサイト
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