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一本を通すということ-お手本は自分の外に求めるものではなく、自分の中から取り出すものなのだ-
2012/03/18(Sun)
矛盾だらけの現実を切り取って、注意深く矛盾を取り除き、つじつまをあわせるのが本づくり。本屋さんにはきれいなマニュアルが八百屋や魚屋のように陳列されている。本の世界に踏みとどまる限り、この世は矛盾なくうまくいく。しかし一歩踏み出した途端につまずきそうになる。それが現実である。

野口体操に長いことひかれるものがあった。操体法は医師がつくったもの。野口体操にはもっと広い遊びの要素を感じていた。
結局はどちらも自然法則のことをやっていて、どちらも体の動きを追求している。どっちが面白いとか面白くないとかいうことは、決してない。しかし自分の限られた理解の範囲で勝手な思い込みがあった。誰だって、自分の限られた理解の範囲でしか身動きとれないだろう。だからそれはそれでよかったと今は思う。
とにもかくにも身動きしてみることだ。自分が動けるフィールドをつくらない限り、理解が非常に限られているということさえ知ることはない。当時の私はそんな状況にあった。

野口体操の創設者はお亡くなりになっており、継承者のところへ意を決して出かけていった。話をして、いっしょに体を動かして、福岡に戻ってよくよく考えてみた。
それまでも接触がなかったわけでもなかったが、心にえがいていたのとはぜんぜん違っていた。当然である。自分の心にえがいたことを他人がやってくれているはずはない。
野口体操をとるか操体法をとるか、ドッキングさせるか、というようなことではなかった。自分自身の信じるところでしか人間は一歩も動けないということ。それをつくづく思った。

お手本は、自分の外に求めるものではなく、自分の中から取り出すものだ。自分の中で「これだ!」と思ったことがあったならば、自分の目の前に「ほれ」と取り出さなければならない。
自分の目の前に、すがたかたちをとって現れるようになるところまで、自分自身の手で徹底的に積み上げてゆく。
それは他の誰にどうしてもらうこともできない。自分自身で取り組む。それが生きる意味というものだろう。
本に書いてある、きれいなマニュアルどおりで満足だったなら、わざわざ自分が生きる必要もないではないか。
「さあ生きてみよ」と、どこかから言われたような気が、しないでもなかった。

そんなこんなですったもんだするうちに、操体法への自分の理解のほうが少しだけ広がりを持ち、少しだけ深まったように思う。自分で疑っては自分で確かめる。納得しては、また疑う。その繰り返し。疑うのも自分なら、確認するのも自分。当たり前のことだった。
「操体法というカードは強い」。今の自分はそういう印象を持つ。操体法もさることながら、自分の操体法の世界が以前よりしっかりしてきたともいえるのかもしれない。
他のことも勉強したらしたで、「あれは、ああいう部分がよい」とか、「これはこういう部分がすぐれている」とか、いろいろ役に立つことも学べると思うが、山を歩いたり川遊びもしたいし、やらなきゃいけないことが積みあがってゆくばかりで、よゆうはない。出入りされる方々からうかがうことで今はよしとさせていただくとしよう。
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