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どうやら絵に描いたような平和な母子らしくなってきた。
2012/03/07(Wed)
母親を心配させるのは赤子の手をひねるよりカンタンである。母親は子を心配するのに余念がない。時にはこの上ない悪夢を容赦なく叩きつけてくる存在、悲観的なものの見方を植えつける作用を持つ存在となって、子供の健康に大なり小なり影響することもあるだろう。
私の母は幼い頃に父親を亡くし、実家に預けられて育ったという。母親とは生き別れのような境遇であるが、それだけで不幸かどうかは一概にはいえない。「おばあさんと楽しく毎日を過ごしていた」とあっけらかんと言う母の口ぶりにウソはあるまいと思われる。

そんな母が、厄介きわまる母親だった。寒ければ風邪をひくと騒ぎ、暑ければ熱中症になると騒ぐ。何かと子供をふびんがって病院へ連れて行く。子を虚弱児よばわりし、過度な病院通いを続け、いっそ、こんなことなら子供も生まれてきたのがかわいそうで悔やまれる、というくらいに母は心配性であった。
あんまり煩わしいのでこちらもつい邪険にふるまった。「おかあさんには母親などという厄介なものがいなくて、よかったわね」というような、心ないことを口走った記憶がある。そのとき母は急に大人しくなり、「いや実のところ、そう思うことは多いんだよね」。母と子がこんなにわずらわしいもんだとは知らなかったよ、みたいなことで、その場は笑っておさまったのではなかったか。

母親を心配させない工夫を講じることは子のつとめであり才覚でもあるというが、母親の悲観度に応じ、要求される工夫のレベルも異なる。振り返ってみれば私も不器用であったが、母のほうもとくべつとは言わないまでも、並み以上のレベルに属していたのではなかったか。
いまだに母は人一倍苦労症であり心配性な人間であるが、そのこと自体は私にはいかんともしがたい。目の前に子供がいないほうがどうやら安楽なようでもある。年に何度か顔を見せ合えば、もうそれでお互い十分なのではないか。

今では絵に描いたような平和な母子らしくなってきた。
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