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身体感覚の声が響くように発声練習を積み、歌声を判定する耳も訓練を積んでいく
2012/03/31(Sat)
自分の身を守る一番だいじなこと。
体から発せられるアラームを聞きのがさない。身体感覚のアラームを勝手に切らない。
操体法は発声練習と聞き取り訓練の場を、同時に提供する。
一つでも早い段階で警告のアラームを聞きとれば、逃げ遅れることもない。

これ以上カンタンな方法があったら教えてほしいくらい工夫考案された操体法であるが、現実問題として、そうそう身体の声にばかり耳をすませているわけにもいくまい。あらゆる人間はいそがしいのである。遊びのお誘いやお財布の声、そして日常の雑多なことで耳はふさがれている。少々のゆとりを見つけたとしても、ラジオのチューニングと同じ。体であちこちのアラームがじゃんじゃん鳴り響いていても、周波数を合わせられなければとんと聞こえない。そこは人間じつに便利にできている。
ほとんどの警告が聞き逃されたままに生活を送っていて、ある日あるとき「おや?」「あれっ?」と意識に引っかかりをおぼえることもあるが、たいていは泣く子に眠り薬を与えて黙らせるようなことをする。
かくして警告の関門はやすやすと突破される。

いくつもの関門があらゆる人為的手段で破られていく。破られるたびに「棺おけが近くなるだけ」とは師匠の口ぐせ。
「どうせ人間一度は死ぬ」「好きにやらせていただく」とうそぶいているうちはいいが、泣けど叫べど戻れない関門というのがある。その関門を前にして、「好き勝手やらせていただいたから悔いはない」と胸を張って言う人にはいまだお目にかかったことがない。助けてくれと泣きつく相手を探そうにも、自然法則に逆らえる人間などいようはずもない。戻れぬ関門に行き着く手前で何とかしましょうと呼びかけるのがせいぜいだ。

『治療は大成功、でも患者さんは早死にした』(講談社)というタイトルの本が、お医者の手で書かれる時代である。
医療も医療制度も万人によかれという崇高な精神と善意で成り立っているとしても、その運用がかえって関門の突破をうながし、さらなる苦痛と早死にをもたらすという皮肉な結果を引き起こしているのを、どう受けとめればよいのか。
一人一人が自衛の意味で考えてゆくほかはあるまい。
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生きるというのは生きようとする傾向。最後の最後まで光を集めるのをやめない意思。
2012/03/30(Fri)
しぶとい花だ。首から下は刈り取られているというのに、いつまで持ちこたえようというのか。
鉢植えはわずらわしく、切花は痛ましい。無造作に生けられた菊たちの首が、少しずつ曲がってきた。ひやりと冷たいイソギンチャクの触手のような花びらはほとんど動きがないというのに、首だけが、光を求めてここ数日で確実に曲がってきている。

向日性のはたらきは、生きて光をより多く集める行動をうながすことであるが、根っ子との交通を断たれた菊たちが、少々の努力をして光を集めようと、残された生活にはほとんど資するところがなさそうに思われる。
にも関わらず、菊の花の向日性は、わざわざ余分なエネルギーまで費やし、数日にわたり重い頭を光のありかへ向かわせて最後の最後まで光を集めさせようとする。
生きるというのは、生きようとする傾向なのだ。最後の最後まで日の光を集めようとするのをやめない意思なのだ。死につつある人間も、まだ生きている。死につつあるから寝たきりにさせておこう、それが本人もラクなんじゃないかというのは、どうなんだろう。死ぬ一方と決まっているのだから有効利用させてもらっても、かまわんじゃないかというのは、どうなのか。

菊の花たちは仏さまのお下がりでしおれかけたのを、水切りして葉を減らし、一晩水に漬けていた。しなびた花びらはふっくらとし、全身がばりばりとして、そして今では首まで曲げて光に届こうとしている。
「もう少しラクしてもいいんじゃないの。まだまだそこで咲いているつもりなの?」
白や黄色の花びらの、規則的に重なり合った連なりは、固い決意を周囲に伝えているようにも見えてくる。
「よし、これは最期まで見届けてやろう」。
足のない花たちを抱きかかえ、朝の光の差し込む窓ぎわに、そっと移してやる。
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辛い目にあう時間とウキウキ過ごす時間の比率が違ってくる
2012/03/29(Thu)
物心ついたときにはひどい低血圧。午前中は生きるのもつらいという感じ。朝をさわやかに過ごすというのが子供時代からの切実な夢。
それが実現し、寝起きが安定したのは操体法を実行してからのこと。操体法をやっていると、体の奥のほうからぐう~んと突き上げて全身に快感の波が押し寄せる。伸びである。とくに朝はおもしろいように次から次へと押し寄せてくる。
操体法を早く知れば知るほど、人生の中でつらい目にあう時間を減らし、うきうきして過ごす時間を増やすこともできるのではないか。

ところで私の祖母たちはじつに長生きをした。ずいぶん勇ましく元気もあった。父方のほうは、もとから恵まれていた。暗いうちから起きて町内のお掃除や、庭の草むしりをしないではいられない人で、私が幼少時にさわやかな朝の目覚めを願ったのも、このおばあさんのことが頭にあったからだと思う。足の裏が肉厚で、ふかふかしてとっても気持ちがよい。「あの感触は」と今でも話題にされるくらいだ。
母方のほうはまるで違った。ぬぐいきれない不安を抱えているような顔をしていた。よくあんなふうで長く生きたものだ。大病こそしなかったが寝つきもよくない。何かにつけ不平不満をこぼしながら一人で過ごす人だった。

そんな祖母も、孫の私があまりに頼りなく思われたのか、あるときふと「いいこと教えてやろうか」と私にささやきかけた。
「あたしは寝床の中でこんなことをやってるからね。いつもこれでだいじょうぶなんだ」言いながら、「寝どこ体操」をやってみせてくれた。朝と晩に、老人が人知れず熱心に取り組んでいるという体操が、今にして思えば操体法の原理に似ているのだった。

「これはおばあちゃんが自分で工夫していろいろ考えたんだよ。あたしはなんでも自分で考えて工夫してるの。朝と晩に寝どこでこれを欠かさない。だからこうして一人で、誰の世話にもならず、ずっと畑しごとをして、食費もせつやくしてる。おばあちゃんを見習いなさい」。
寝どこで両肩を交互に上げ下げしたり、足の先を左右交互に突き出すなどして、骨盤をかたむける動きが左右できちんとできているかを確認するのだという。骨盤の動きのよくないところが解消していくように、工夫しながらいろいろてきとうに動くのだという。
「これで、たいがいの痛みは、消える。やってごらんなさい」と話す祖母の顔つきは自信に満ちていた。「だれも助けてくれないよ。シッカリ自分でやりなさい」と励まされた。
あとにも先にも一度きりの話。静まりかえった家の中で、二人だけの一瞬の立ち話のようなこと。曇りガラスを通して差しこむ日ざしが、私たちに降り注いでいる。

長生きで元気な人の話は聞くものだ。
そして、その元気を、本人の意識にはない何らかの条件によるものと、本人の意識的な工夫によるものとに、分けてみるといい。
本人の申告をそのまま受け入れることはできない。しかしいろいろな人にあたってみれば、共通点はある。
寝どこで操体法をやるようになってから、朝の目覚めは理想どおりになってきた。寝ぼけ眼でいきなり寝床を這い出すというようなストレスフルなことは、やらない。まず寝どこで足先を左右交互に突き出し、骨盤の傾きや動きをチェックする。足を天井に向かって左右上げ比べをする。うつ伏せでも似たようなチェックをする。
チェックをするうちに、体の奥のほうから、ぐう~んと突き上げてくるものがある。全身に快感の波が押し寄せる。伸びである。おもしろいように、次から次へと突き上げてくる伸びが、わたしのほんとうのお目当てだ。

起き抜けの足どりも軽く、このたのもしい歩みに「ようし今日も楽しく過ごしてやろう」というモードが自動スイッチで入る。
おばあちゃんの言いつけは四十年近くも経って、今ようやっと孫の私に生かされているといえようか。
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「自然」と言うはカンタンだが、口で言うほど分かりやすくはない
2012/03/28(Wed)
自然食、自然農、自然療法。「自然」がつくと受けはよいが、そこに人が引き寄せられる根っこにあるのは必ずしも自然への信頼ではない。「自然農法が好き」と言う一方で、実は自然への不信感も大きい。矛盾は人間の常だ。

農薬がこわいだけなら、ふつうに農薬不使用、無農薬栽培と言えばよさそうなものだ。自然農のことは門外漢だが、たんに危険な薬を使わず安心な野菜を食べましょうということではないだろうと思う。
自然農を自然の方向へ延長すれば、最終的には山菜や野草の自然採取に行きつく。
自然農の営まれているところでビニールハウスのないところを私は知らない。慣行農業と比べれば自然だろうが、野生と比べれば人工。農というのはどこまで行っても人工である。

人工がせめて反自然とならない方向を目指す。それが人のできることのせいぜいか。
人工的な操作は人を安心へと導くが、必ずしも安全へと導いているとは限らない。
自然農の難しさは、どれだけ人の手を入れないかということだと聞く。
人工的な操作をやりたいという気持ちをどうおさえるかが一番むずかしいのである。
もともと農薬や肥料の存在には自然への不信がある。自然にまかせておいたら人間にとってろくなことにならない。自然にまかせておいたら人間にベストということにはならない。だから人の操作でよりよく、素晴らしくしていこうという。それで今は人工食や人工農や人工療法みたいなことになっている。

人はどこまで野生を許せるか。どこまで自然にゆだねることができるのか。
子育て。教育。健康。医療。老化と死。これら全ては自然農と同じ問題をはらんでいる。
言葉はたいへんあいまいなもので、「自然派の子育て」とか「自然教育」とか、自然をくっつけてしまえば何とでもいえる。「自然」という言葉で安心を得ようとするのは本能の働きかもしれないが、子は、基本的には育てなくても育つ。病気は、基本的に治さなくとも治る。最初から育つ力が備わっていなければ、どこをどう押しても育たない。治る力が備わっていなければ、どうしたって治りっこない。
いろんな力がもとから備わっている。それが自然ということではないのか。

無理に教え込まないほうが、みずから周囲のことをぐんぐん吸収する力が発揮される。善しにつけ悪しにつけ教えないことまでいつの間にか身についてしまう。そして体は無理に治さないほうが、結果的には仕上がりのよいことだって、あろうというものではないか。生命数十億年の営みを脈々と受け継いで今日に至り、誰にどう命令されなくとも常にまちがいのない選択を同時並行的に行っている。奇跡の営み。それが私たちの体であり生命ではないのか。

自分に備わっているもののことにはよく目を向けもしないで、とかく付け足そう付け足そうと努力したがる私たち。自然の力に対して大きな不信を抱く一方で、自然というものにあこがれ、期待を寄せる。相反することを平気でしている人間の姿が見えてくる。
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宇宙という大海原のまっただ中で、歌を口ずさむようにお経をとなえる
2012/03/27(Tue)
可視光線という言葉は、不可視な光もあるということを表している。
私たちはたくさんの光からごく限られた範囲のものを集め、それを頼りに結ばれた映像を自分たちの世界としている。
しかし光はほんとうはもっとたくさんある。そして世界はもっとたくさんの姿を持っているのである。

お経メニューの処方をある方から授けていただいて一年と半年近くが過ぎた。丸暗記して一日も欠かさず実行している。
最初は呼吸にハマった。お経の読誦は案外と「息つぎ」がむずかしい。慣れてくると、息つぎせずに泳げる距離が伸びるのにも似て、すらすらと読めるようになる。
次にハマったのは発声である。ここはやっぱり日本人。お経を読ませれば坊さんのような発声になってくる。腹の底から響く声を出すのが文句なしに楽しい。操体法で体をととのえながらやると、これが自分かと思うほどのろうろうとした声が出てくる。

人はグチを言うときはグチの発声、負の思考のときは負の発声になる。お経が仏教の発声を促し、仏教の思考を促すということもあるだろう。ひところ般若心経の流行で、その手の本がたくさん出ていたが、私のメニューにも般若心経は入っている。意味をひもといてみると、分かったような分からないようなで奥が深い。
で、可視光線なのである。

ミミズは明暗はわかるが、ものがきちんと見えていないらしい。さぞかし不便だろうと思うが、ミミズはそれで食っていくに困らない。生まれたときから「世界とは宇宙とは、こんなものだ」と思って、案外満足に暮らしていると思う。
私たちはミミズより目が見えると思うが、それでも全てをとらえているのではない。食っていくに困らないくらいの光しかとらえず、食っていくに困らないくらいの世界しか見えはしない。
目だけではない。鼻も耳も、私たちは犬にも及ばない。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。人間の五感というものは、ごくごく限られたものだ。それに比べ、この世界は壮大だ。宇宙は広大だ。外には光やら何やらがいっぱいにあふれているのにちがいないが、人間はそれをとらえきることはできない。

科学が進歩したおかげで、人間だって世界のことはもうかなり分かっているという気になってはいないか。
「世界とは宇宙とはこんなもの」と思いこむところに無知ゆえの傲慢があり、混乱のもとがあり不幸のもとがある。お経はそう指摘しているように私には思われる。
「世界とは宇宙とはこんなもの」と思って暮らすのなら、ミミズも人間も大差ない。「こんなものではない」と認めることができ、とらえきれない自然の壮大さを認めたときにはじめて人間は人間らしくなるように思われる。

般若心経を読むたびに、無知ゆえの傲慢のまっただ中に生きて苦しむ自分の姿がありありと見える。無知を治す、傲慢を治すといっても、これは一筋縄ではいかない。しかしお経を読むのはカンタンである。車を運転するときも、山を歩くときも、歌が口をついて出てくるように、お経を気軽に読誦する。そして私の感覚の外に広がっている重層的で壮大な世界のことに思いを馳せる。繰り返すうちに、何だかものの見え方までが変わってしまったように思う。何がどう変わったというのでもないが、日々いろんなことに気づく。毎日が新しい発見で、トテモ愉快である。
お経なんて仏教なんて死人か死の近い人のためのものかと思っていたが、それではもったいない。生きてピンピンしている人にも効果絶大な可能性を秘めているのではないかと思う。
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たくさん施術をこなせば「腕」はあがるのか-素人とプロの境目はどこにある?-
2012/03/24(Sat)
素人もプロも、同じ土俵にのっている。土俵に残る条件は素人とかプロだとか資格の有無だとか、そういう区別は関係ない。むしろ素人のほうがイイ線いくのではと思われることさえある。
「はじめてだったが何とか対応できた」と初心者の方から報告されると、素人の強みだと感じる。
へんに知識や思い込みもなく、すなおに信じて実行する人は、文句なしに強い。
自身の回復の体験から、そのまま施術の道に入り、プロとして立派に食っている人もある。

「腕」である。実力の世界である。決め手は何か。感覚だ。
指先や手のひらから伝わってくる感覚で、なんとなく「こうだな」という感じが、どれだけ的確にくるか。こないのか。感覚を日々、研ぎ澄ましてゆく。
思い込みや知識に汚染されていない、ピュアな感覚が、大きなカギになる。
みそぎでもして人に向かうことだと思う。みそぎをして体に向かう。そのくらいのかまえが必要だと自戒する。
素人でもテレビや雑誌やなんかでめったやたらに詰め込んでしまっている頭では、どうかと思われる。
体に向き合うときは全てをかなぐり捨てて一本勝負だ。命とられるわけじゃないのだから、生まれたての赤ん坊の目ではじめて人間の体を見るような気持ちになって、無心に体に向き合う。そういうことも必要なんじゃないかと私は思う。

プロとアマとのちがいで大きなウエイトを占める要素の一つに、お金がある。お金をわずらわしく感じるアマチュアはけっこう多い。お金をとらないプロというのもあっていいのかもしれないが、とる・とらないのいずれにせよ、お金は人間の弱みだ。お金をもらってピュアな感覚を保つにも訓練が必要かと思う。とくにたくさんもらってしまうと、代償として長時間こまごまとお世話をやくモードに入りがちなのだ。
お金で施術の内容や方針までが影響を受けてしまう。しかし体も生命も、お金の法則で営まれてはいない。お金の影響を受けた施術が、自然法則が営まれているところに持ち込まれるのが果たしてベストだろうか。
素人の方の成功例は、友人や身内や家族が相手であり、外からの雑音が入りにくい。子供が目の前で苦しんでいる姿を見て、ピュアな一心を持って、習いたてのやり方を一つでも二つでも真剣にていねいにやってあげる。最善をと願う心がプロに勝つことだってあるわけである。
互いの信頼の強さはいうまでもない。人が最後の最後に頼るところは、友人や身内や家族ではないだろうか。

プロが繁昌するには「腕」とは限らない。自分が長年、患者の立場であちらこちらに足を運び、治療や施術を受けた体験から出てきた私の結論であるが、腕がよくても繁昌しないところもある。病院にも同じことがいえるだろう。
知識人だろうと有名人だろうと、患者になればたいていは素人なんだから、「腕」を見抜くためのシッカリした基準を持たない。患者として何を基準に信頼を寄せ、何に身をまかせるかは、人それぞれ。科学的な根拠よりむしろ案外テキトーだったりする。
一つだけいえるのは、「腕」のある人は必ず誰かの頼りにされるから、規模が小さくても長く続けていくことはできる。旅先ででも、世の中の大きな変化のさいにも、人の社会がある限り、飢えて死ぬことはない。これが療術の実力の強みだと私は思う。

自分の腕が、どの程度のものなのか、きちんと判定できる人はほとんどいないのかもしれない。
人間の生きた体には自己回復力・生命の力が宿っていて、いつもひそかに患者たちを応援しているからだ。
薬や手術やもんだり叩いたりといったプロの努力が、どのていど患者の回復に貢献できたのか。ひょっとして回復をさまたげていたのか。こうしたことをどう証明すればいいのか。
一人は治せたが、一人は治せない。その理由が不明というのでは困る。回復のていどの差はもちろんあるが、生きている限り改善する可能性はある。回復は生命の営みだからだ。わるくなる一方ならそのまま死ぬだろうが、どこかで踏みとどまっているのなら、何らかの改善の余地は、ある。改善の余地があると思うところに、治療の意味はある。改善しないだろうと心中で思っていながら治療を施すというのは演技もしくは気休めだと言われても仕方がないだろう。
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からだのお試し実験-筋肉のゆるむメカニズムを確かめる方法を知ってますか-
2012/03/23(Fri)
知識ではなく、自分の体ですぐに答が出る。「気持ちのよい動きをチョッピリやる」ほうが筋肉はゆるむのか。それとも「無理のないていどに、じゅうぶんに伸ばしたりねじったりする」ほうがゆるむのか。
自分の体といいながら、実のところ、「ゆるむメカニズム」を知っているとは限らない。
おおまかな流れは次の①~④である。これは操体法の動きの手順。自分のやったことが、具体的にどういう変化をもたらしたか、きちんと確認するのが大切な点だ。人は思い込みが強いから、「ほぐしているつもり」がよけいに硬くしていても、平気で気がつかない。操体法を体験すると、誰もが「わ~ほんと。今まで自分の体なのに知らなかった」と驚く。
操体法は自分の体と出会う感動体験なのだ。

①イスまたは机に深く腰かける。
②「動きの診断」をして、最初の体の状態をおぼえておく。
③気持ちのよい動きをチョッピリやる。
④「動きの診断」を再び実行する。これでどのくらい変化したかが、確認できる。

「動きの診断」で使う動作は二つ用意した。一つは「振り向きの動作」。もう一つは「お尻で立つ」動作である。
結果がよく分かるのは、「お尻で立つ」動作。腰を固くしている人は「そんなことできるのかな?」と思うくらいに、苦手な動作である。

「お尻で立つ動き」…深く腰をかけ、体重を右の尻へゆっくりと集めて、体重を右の尻にのせる。上半身が右に倒れてゆかないよう、右のお尻ですうっと真っ直ぐ背筋が上へ伸びていくイメージで、体重をのせる。
このときできるだけどこにも力を入れない。慣れると、体にかかった重力を右の尻の骨へ水が流れていくように移動するだけのことというのが分かる。力づくでひょいっと動かすのは、筋肉の動きにくさをカバーする動きだということも分かってくる。力で動かすから体を傷め、筋肉をさらに固くする。

それでは実験にうつる。
①足が床につかない高さのイスまたは机で行う。「深く腰をかける」とは、膝のうらがイスまたは机にぶつかる一歩手前くらいまで深いところで腰を落ち着けるということ。
②「動きの診断」…体重ののせにくさ、のせやすさを、尻の左右で比べてみる。上半身を力ませることなく、できる範囲でほんの少し、体重を左右のお尻に交互にゆっくりとのせかえてみて、比べる。
右と左のどちらのほうが「つらい感じのする動き」で、どちらのほうが「つらくない動き」であるのか、きちんと判定する。
③「つらくない動き」のほうを、ゆっくり、じわーっと行う。体重がきちんとのり、真ん中に戻ろうとする前に、3~5秒ていど動きをストップさせて姿勢をそのまま保持し、それから一気に全身の脱力と同時に真ん中へ戻る。一休み。これを数回ていねいに行う。
上半身を力ませることなく、できる範囲でほんの少し、体重を右のお尻にのっけたり、左のお尻にのっけたりと、もぞもぞしているだけでも、ほぐれてくる。
④「動きの診断」を再度行う。「つらい感じのしていた動き」と、「つらくなかったほうの動き」を、ゆっくりと行って、最初の「動きの診断」のときと、どういう変化が出たか、確認を行う。
左右の差が少なくなったら、③のやり方が成功したことになる。

「振り向きの動作」…顔をゆっくりと右を向けていって、そのままゆっくりなめらかに上半身で後ろを振り向いていく。首や腰やひざなどに、ツッパリは感じられないか。上半身に力が入っていないか。全身がラクになめらかに後ろを振り向いていけるのか、などが確認のポイントである。次に、ゆっくりと顔を真ん中に戻し、一息休んでから、左のほうも同じ振り向きの動きをして、感覚を確認する。右と左が、まったく同じように、同じ感覚で、鏡で映したように動けているか。
動けていないとすれば、総合的に、左右どちらかを判定。「つらくない動き」を、「つらくないくらいの加減」で、なめらかに、軽やかに、そして大事なのはゆっくりと、行う。振り向ききって真ん中に戻ろうとする前に、3秒から5秒ていど動きをストップさせ、姿勢をそのまま保持し、一気に全身脱力と同時に真ん中へ戻る。同じことを、三~五回ほど行う。

※この実験についてやり方に分からないこと、質問などがありましたら、コメントでも、メールでも受け付けていますので気軽にご連絡ください。
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何をやっても心からの充足があったら正解だ
2012/03/22(Thu)
お金は節約すればサイフにとどまったままでいてくれるが、時間を入れたサイフには穴が開いている。中味はイヤでもこぼれ去ってゆく。すっかり空っぽになったら、この世の生活とおさらばだ。

だからといって時間を節約して大切にしましょう、でよいのか?
子供のころ学校でスケジュール表をよく書かされた。時間についての教育だろうが、規則や秩序を守るのと同じように時間も守れという。決められたとおりに過ごすということと、時間の節約とは、ほぼイコールのあつかい。おかげでわたしは子供のころ、決められたことからはみ出すと、たちまち罪悪感である。時間を忘れて楽しく過ごした時ほど、あとで奇妙な罪悪感にとらわれるようになった。

時間を大切にすることと、時間を節約することとはイコールではない。時間の蛇口は水道の蛇口と違って、どこをひねっても止まらない。この出しっぱなしの蛇口から出ていく時間は、否が応でも使うしかない。節約できないのが時間。わたしは時間を大切にしようと思えば思うほど、いつ何をやってもかまわなくなってきている感じだ。
どうせ何をやっても他人の目には浪費に映る。山を歩くにしても、わたしの身内などは「怠けている」「時間のムダづかい」としか思わない。仕事にきゅうきゅうとしてグチに時間を割く彼らの姿は、私の目には気の毒なようにも映るが、「これこそ有効な時間の使い方。おまえも見習え」と胸を張って言うのだから、これはお互いにしょうがないことと思う。
山から降りてくるときの私は、じつにすみずみまで充たされている。「いい時間を過ごさせてもらった」と晴々として、にこにこしたり、胸がいっぱいになって涙ぐんだり。大往生っていうのはこういう感じだろうかと感謝の思いでお山を降りてゆくこの瞬間は、何ものにも替えがたい。そういう気持ちの充足が今の自分にとって最大になるのが、山と操体法なのである。今日ここで、このような時を過ごしたことの、一体どこがどうまちがいなんだろうかと思う。

時間は限られているだろう。時間のサイフがいつまでもつのかさえ、誰にも分からない。心おきなく気持ちよく使いきる以外に、どうしようもないのではないか。
時間の使い道を考えるときのわたしの基準は、充足感である。
人はきゅうくつな思いをするために生まれてきたのではない。幸せになるために生まれてきたのだと、わたしは考えるようになった。それは操体法が快と不快の微妙なところを感覚でききわけて、快方向のロープをたぐりよせながら解決を導くということと、無関係ではない。誰が何をやって過ごそうと、自由だ。心からの充足があれば全部正解。そう思うことにしている。
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学びは賭けであり、リスクである-ケチなそろばん勘定をしないから子供は学びの天才なのだ-
2012/03/21(Wed)
もともと学びとは、値札のついてないものに自分で最高の値段をつけて買い取るようなものなのだ。
私たちは時間も限られているし、学びには労力も苦痛も伴う。さいしょから見返りがあると分かっていれば、自ら進んであらゆる犠牲をはらい、苦痛を喜んで受け入れることもできよう。

しかし分かっていることに取り組むのは、学びとはいわない。分かっていないことに真剣に取り組むのが、学ぶということである。
きちんと取り組まなければ、いつまでたってもほんとの値打ちは分からない。
価値があるだとか自分に向いているだとか、そういうことも、目をこらし、しっかり取り組んでみなければ、何も分かりっこないのである。

私たちは真っ暗で中味の見えないブラックボックスにちらちらと視線を送りながら、自分に一番都合のよいことを夢想する。
学びはつねに賭けであり、リスクであり続ける。中味が分かってからしか飛び込まないというのだったら、なんにも得るものはないわけである。しかし、さんざん苦心を重ねたあげく、実はまったくのダメ路線だったということも、この世には珍しくない。橋本敬三医師も、現場に出て患者と向き合って初めて「医学部でやってきたことは、現場の役に立たない」ということを実感し、療術の世界へと踏み込んだ。
療術は人間の数だけ流派があるといってもいいくらい、実にバラエティゆたかであるが、それだけに玉石混交。どれがいいんだかサッパリ分からない。そんなにたくさんの流派がありながら、なぜ操体法なのか。師匠にたずねたことがある。「さいごは人間」。きっぱりと、一言。

大学でも聞いたことがある。科学的な問題、学術的な問題でさえも、その内容の真偽のほどを判断するときに、人物というのは重要な要素だと話してくれた研究者がいた。
「やっぱり直接その人物に会う。顔を確かめにいく」という。論文に感動して出かけていったら、人物を見てガッカリしたり。ピンとこない論文だなと思って期待せずに出かけてゆくと、大いに人物に感心したり。思った通りだったり、ちぐはぐだったりと、いろんなことがあるから、分からないものだという。
「学問だから、人物で判断を下すということもないはずとは思うが、どこかで納得する部分もあるからね。面倒のようでもかならず出かけて人物を見たほうがいい」。

マニュアル人間という言葉がある。マニュアルと人間とがドッキングされた、奇妙な言葉である。人間と切り離して知識や技術があるという意識を指摘している言葉なのかもしれないとも思う。
以前の自分を振り返ってみると、知識や技術に興味はあっても、その背後にある人間の存在にはまったくの無関心。むしろ無理やりにでも知識や技術を人間から切り離し、ものにしようという姿勢ではなかったか。
操体法の施術を受け始めてから数年も過ぎたころに、私はやっと、橋本敬三という人物に目を向けた。『からだの設計にミスはない』を手に取り、二、三行を目で追ったときに、こんな人物が、こういういきさつで操体法がつくられたということを、もっと早くに知っておけばよかったと思った。

振り返れば自分は立派なマニュアル人間。今はそうじゃないと断言する自信はないが、操体法のおかげで少しはくずせてきたかもしれないと思う。
子供が言葉をおぼえるときは、文法から習うことはない。文法など知らなくても、文法など全く分からなくても、もともと言葉は心と直結して沸いて出てくるものとして身につくだろう。療術の技もまた、言葉や歌が口をついて出てくるように、自分の中から出てくるものでなければならない。少なくとも私はそう思う。
子供は学びの天才といわれる。言葉を身につける子供の意識というのは、父や母、周囲の人々、そして生きとし生けるもの、生命のあるなしにかかわらず、全体と一体化した意識である。だから子供は学ぶことに旺盛である。ケチなそろばん勘定をしないから、びっくりするほどメキメキと身につけてゆける。
まずは人間。まずは自分の意識。そこらあたりは学びが結実していくためのカギを大きく握る要素であろうと、私には思われる。
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達人はなにがちがうのか-正しく実行しさえすれば、ちゃんと結果が出る-
2012/03/20(Tue)
目の前で、やって見せてもらう。そのまねをする。その繰り返しである。
目を皿のようにして、見る。見る。達人の体の中に、のりこませてもらうくらいの勢いで、見る。
最初のうちは、やり方しか目に入らない。「ここを、こう押さえる」「ここを、こう倒す」「ここがこうなったら、次にここを確認して、それから…」
師匠の姿を、師匠の動きを、目に焼き付けようとする。自分が、体に向かうのではない。体に向かうときの自分は、師匠に変身している。師匠の目で見て、師匠の手で触れて感じとる。そのくらいの勢いでなければと思うが、自分はまだまだ集中が足りない。修行が足りない。

ずっとずっと以前に、療術の古い家系の方と縁があり、いろいろ話を伺っていた時期がある。あちらこちらの達人のもとで修行を積んだ話がおもしろく、酒をかわしながら、達人は何がどうちがうのだろうという話題で盛りあがった。
あるところでは、三つか四つくらいのパターンの中から、施術する相手によって一つか二つだけを選んでいたという。まず単純なパターンを全て教えてもらい、身につける。それから先生のかわりに現場に出て施術をやらされる。先生は別室にいて指示を出す。驚いたことに、施術室に入るまでの間に、「この人は、このパターンでやってくれ」と指示が出ていたという。
「よろしいか。施術室に入ってきたときには、もう決まっていたんだよ。べらぼうな話だ」と、話し手は目をむいて一同を見渡した。
医者なら、まず相手の話を聞き取って訴えを聞き、必要なことを検査で調べてから、何をするか決めるだろう。相手が話をする前から、心の中では何をするか決めているだなんて、誰が信じるだろう。
「ひえ~、そんなんで、キクんですか?」冗談半分の質問が、笑いの中からとんでくる。
「それが不思議と一発なんだ」。
笑いがしずまり、息をのむ。「ヘ~え。たいしたもんだ」。

施術室に入ってきた人に、ふつうにあいさつをして、事情を聞き取る。何をするかは師匠の指示で決まっているが、表面上は聞き取りをして、「分かりました」と承り、あらかじめ指定されたパターンの施術をする。すると結果が出る。
「もうスッカリ分からなくなってね。自分のやってることはデタラメなんじゃないかと思えてきた」という。
そこである日、ひそかに実験を開始した。
師匠の指示には従わない。事情を聞き取り、体をみせてもらい、「これはこのパターンだな」と現場で判断して施術をやる。「これが不思議なほどダメだった」。あきらめて、指示通りにやってみる。するとウソのように解決する。
「きのうの湯豆腐と、きょうの湯豆腐。同じ湯豆腐の、どこがどうちがうんだろう」と、頭をひねる日々が続いたという。同じ一つのパターンが、ある人には劇的にきくが、ある人にはまったくきかない。こんな話があるか。
(ヘ~え。療術って、そんな世界なんだ。おもしろいなあ。あたしには関係ないけど)と話をさかなに酒を飲んでいた、当時の私である。

目の前で、やって見せてもらう。まねをする。その繰り返しの中から、わたしは何を学ぼうというのだろう。
操体法のやり方は単純だから、習いに来たその日から、かたちをまねることはそう難しくはない。
同じ見かけの湯豆腐が、つくれるはつくれる。見る人が見ればもちろん同じ見かけではないが、初心者は、もう立派につくれる気分になってしまう。ほんとうの問題は、そこから先である。
「ほんとうに、同じ湯豆腐なのだろうか」ということが、一つ。
もう一つは、「どの湯豆腐を、どの人に食べてもらうのか」ということだ。

最初のうちは、湯豆腐のつくりかたしか目に入らない。材料を、そろえる。次に下ごしらえをして、だしをとって、一緒に同じ手順で調理させていただく。もうそれで精一杯である。
だんだんとやっていくうちに、段階に応じてコツも伝授していただく。長い年月にたくわえられた経験をまじえた、貴重なことを教わる。切れば血の出る話である。よくもこんなことまで教え続けてくれるものだ。そう私は感じている。
結局は、そのようなことを積み重ねる中で、からだができてくる。感覚もできてくる。動きもできてくる。誰がプロだとかプロでないとか、ほんとうは、関係ない。正しく実行していったら、結果的にはしろうとでも立派なものが身についていく。正しく実行しなければ、違う湯豆腐で満足するしかない。
「結果が出ないのは、やり方が正しくないから」。耳にタコができるほど聞かされた言葉だ。
まあ何をやるにしても、きわめるっていうのはそういうことだ。ふと後ろを振り向けば、食えるような食えないような湯豆腐が累々と横たわっている。私はいつまでつくり続けるのか。

操体法はねえ、間口は広いから誰にでも入ってこれる。しかし奥は、深い。じつに底なしだ。
こういうことにかけては口数の少ない師匠が、ぽつりと口にした言葉のことを、つくづく思うことが、ある。
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警告のアラームが鳴ったとき、あなたはどうするか-体のアラームに耳をすませよう-
2012/03/19(Mon)
異常を知らせるアラーム。「うるさい、面倒な」と切ってそのままにしているとどうなるか。
対症療法はアラームのスイッチをバッサリ切る行為である。
痛みや異常感覚は、自然からの警告。雑音ではない。危険を知らせる大切な合図の役割をになう。
鎮痛剤は痛みをオフにする以外、何もしない。「とりあえずアラーム切っておきましょう。日常生活にさしつかえますものね」。
足りないものがあれば足す。飛び出してきたものは切り取る。これらもまた、別バージョンの警告無視。
次のアラーム、そのまた次のアラームも突破した先に、どんな危険が待っているだろうか。

操体法のコンセプトは、「体のアラームに耳をすませよう」である。
アラームに関心をよせ、耳をかたむける。すると耳がこえてくる。アラームにもいろいろあるということが聞き分けられていく。
自力的な運動をすることにより、もっとも自然な経過をたどってアラームが静かになってゆく。安全な状態になりさえすれば、痛みや異常感といったアラームは、おのずと鳴りやむ。それがほんとうの安心だ。自分の体が自分で分かるというコンセプトである。

「アラームが聞こえてくるまでぼーっと待っている必要もない」。
それも操体法の重要なコンセプトである。どこのアラームが鳴りそうか、自分から探しにいける。基本的な自力の動きを、朝と晩に5分する。それが見回り点検になる。
アラームの鳴りそうな場所をいくつか見つけ、気持ちよい動きを数回実行。それでアラームの緊張はほどける。
だんだん身についていくと、体がオートマチックに見回りをし、解除してまわるようになる。「見回りしなきゃ」と思う必要もがんばる必要もなくなる。究極の予防医学といえるだろう。

操体法とは、橋本敬三という医師から出された提案である。橋本敬三は医学的立場から対症療法に疑問を投げかけ、『操体法の医学』の提唱に一生をささげた医師だった。
おかげで私は対症療法の連鎖から抜け出し、病気にビクビクして生きることから解放された。ささやかながら周囲にも「体の見回り」と「アラームへの関心」を知らせている。
私たちの耳は、さいしょは鈍い。ふだん使わないままにして、アラームが鳴っているか鳴っていないかさえ分からなくなっていることもある。しかしもとの感覚を取り戻すのは時間の問題。もともと備わっていたものが、ふたたび働きだすと、喜びに満ちてくる。安心に満たされてくる。
わたしのからだはどうなっていますか、いつ死ぬのでしょうか死なないでしょうか、といちいち調べてもらわなくても済むというのが、ほんとうの安心であるとわたしは思う。

警告無視で走り続けるための手段が、おびただしい対症療法として発達している。
警告無視で走り続けるというのは社会の中心的な考えであるが、一つのアラームで済んでいたのが時間の経過とともに、あちこち別なところで鳴り始める。こっちのスイッチを切って、あっちのスイッチを切って、と忙しくなり、気がつけば日常を走り続けられなくなっている。
病的な日常に、自分はもう迷い込みたくはない。健全な日常へと戻る道は、いつでも私たちの目の前にひらけているのである。
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一本を通すということ-お手本は自分の外に求めるものではなく、自分の中から取り出すものなのだ-
2012/03/18(Sun)
矛盾だらけの現実を切り取って、注意深く矛盾を取り除き、つじつまをあわせるのが本づくり。本屋さんにはきれいなマニュアルが八百屋や魚屋のように陳列されている。本の世界に踏みとどまる限り、この世は矛盾なくうまくいく。しかし一歩踏み出した途端につまずきそうになる。それが現実である。

野口体操に長いことひかれるものがあった。操体法は医師がつくったもの。野口体操にはもっと広い遊びの要素を感じていた。
結局はどちらも自然法則のことをやっていて、どちらも体の動きを追求している。どっちが面白いとか面白くないとかいうことは、決してない。しかし自分の限られた理解の範囲で勝手な思い込みがあった。誰だって、自分の限られた理解の範囲でしか身動きとれないだろう。だからそれはそれでよかったと今は思う。
とにもかくにも身動きしてみることだ。自分が動けるフィールドをつくらない限り、理解が非常に限られているということさえ知ることはない。当時の私はそんな状況にあった。

野口体操の創設者はお亡くなりになっており、継承者のところへ意を決して出かけていった。話をして、いっしょに体を動かして、福岡に戻ってよくよく考えてみた。
それまでも接触がなかったわけでもなかったが、心にえがいていたのとはぜんぜん違っていた。当然である。自分の心にえがいたことを他人がやってくれているはずはない。
野口体操をとるか操体法をとるか、ドッキングさせるか、というようなことではなかった。自分自身の信じるところでしか人間は一歩も動けないということ。それをつくづく思った。

お手本は、自分の外に求めるものではなく、自分の中から取り出すものだ。自分の中で「これだ!」と思ったことがあったならば、自分の目の前に「ほれ」と取り出さなければならない。
自分の目の前に、すがたかたちをとって現れるようになるところまで、自分自身の手で徹底的に積み上げてゆく。
それは他の誰にどうしてもらうこともできない。自分自身で取り組む。それが生きる意味というものだろう。
本に書いてある、きれいなマニュアルどおりで満足だったなら、わざわざ自分が生きる必要もないではないか。
「さあ生きてみよ」と、どこかから言われたような気が、しないでもなかった。

そんなこんなですったもんだするうちに、操体法への自分の理解のほうが少しだけ広がりを持ち、少しだけ深まったように思う。自分で疑っては自分で確かめる。納得しては、また疑う。その繰り返し。疑うのも自分なら、確認するのも自分。当たり前のことだった。
「操体法というカードは強い」。今の自分はそういう印象を持つ。操体法もさることながら、自分の操体法の世界が以前よりしっかりしてきたともいえるのかもしれない。
他のことも勉強したらしたで、「あれは、ああいう部分がよい」とか、「これはこういう部分がすぐれている」とか、いろいろ役に立つことも学べると思うが、山を歩いたり川遊びもしたいし、やらなきゃいけないことが積みあがってゆくばかりで、よゆうはない。出入りされる方々からうかがうことで今はよしとさせていただくとしよう。
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臓器のはたらきが改善した先に、臓器そのものの改善がある
2012/03/16(Fri)
( まずは、目に見えない「はたらき」の改善のほうに取り組む  のつづき。 )

肝臓は肝臓の細胞でがんばって、胃袋は胃袋でがんばっているのだろうか。
臓器は単独プレーはしない。胃液が出てくるのだって、たくさんの連係プレーあってのことである。
もともと臓器はつながっている。それをあえてバラバラに区切り、名前をつけたのは人間のほうだ。そういうことをすると、見えるもののほうが強調され、目に見えないつながりや働きのほうは、さっぱり見えなくなってしまう。
人間にもたらされる利益と損害のことを考えてみると、バラバラの名前を用いるのには気をつける必要があるだろう。

刺激に対する反応が、いくつもいくつも連鎖し、いくつもの連携をしあっている。一つの刺激が、いろんなところでいろんな意味を持ち、いろんな反応が同時に、もしくはタイミングをはかりながら展開してゆく。それが生き物の体でのできごとだ。
一つずつのことがらの背後に、いくつものことがらが関わっている。このことが、実は人間の把握できる領域ではない。「まだ分かっていないことも多い」という負け惜しみのようなセリフで片付けられているが、目に見えない未知の世界は体の自然におまかせする以外にない領域といえるだろう。
刺激に対する反応を推し進めたり、押しとどめたりするコントロールも驚くほどきちんと働いている。反応どうし連絡をとりあって、「せーの」とベストなタイミングで取り行う。万事そうでないと困る。
そういう営みなのだ。生きている体というものは。

全体を把握し、あちこちに声をかけながら、日夜コントロールの指揮をとる。それが脳や自律神経のはたらきである。臓器のはたらきの回復と、自律神経の働きの改善とは、切っても切れない仲ということが分かるだろう。
24時間パトロールし続ける感覚神経。そして24時間コントロールの指揮をとる自律神経。
肝臓は肝臓で、胃袋は胃袋でがんばっているのかもしれないが、臓器のはたらきを調整し、あやつっているのは神経系統である。神経系統の健全なはたらきが、何をおいても重要だと指摘したのが、橋本敬三医師だった。

自力で体を動かす。他人にさすってもらったり、もんだりしてもらっていては、できないことがある。
自力でしかできないこと。それは自分の感覚をはたらかせ、それと同時に運動神経をはたらかせるということだ。随意の感覚神経と運動神経を協調してはたらかせる。そうすることで筋肉がゆるむ。ほぐれる。すると血流が改善する。そこに自律神経の働きが改善され、臓器のはたらきの回復もなされる。
それが橋本敬三の操体法のベースにあるといっていいのではないだろうか。
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まずは、目に見えない「はたらき」の改善のほうに取り組む
2012/03/15(Thu)
「わるくなった胃袋なんか、いらない。さっさと切ってくれ」と言って手術してもらったという話だった。胃袋なしの生活を始めてから悔やんだという。
臓器は機械とちがって自己回復力を持つ。一時的な器質の異常をいちいち切除していたら身は持たない。
臓器を失った体では、もとの日常へ戻る退路は断たれる。腹の中は見えないが、手足を切るのと同じだ。いや手足を切るより深刻な点もある。臓器を切除するというのも命がけであること、忘れたくはない。

ダメになったリンゴは色も味もわるくなる。肝臓がわるい、胃腸がわるいというのも似たようなイメージなのだろう。わるくなったリンゴのように、もうわるくなってしまっている臓器なら、切り捨てるしかない。そういう発想。
いともカンタンに「○○がわるい」と言うが、じつはきちんとした二つの意味がある。
一つは「はたらき」の問題。もう一つが器質の問題。
「はたらき」は、目に見えないもの。「器質」は目に見えるもの。
肝臓がわるいといっても、いきなり時計がこわれたり、リンゴが腐ったりするような異常が起きるはずはない。働きがおかしくなっても持ち直すことが多いので、まず体への負担を減らす。養生して様子をみるわけである。

働きが回復しない場合には、器質的な問題へと発展する。器質的というのは、組織をつくる細胞そのものが弱って損傷したり死滅したりすることで、リンゴがスカスカになったり変色したりするようなことにかなり似てくる。器質的段階のダメージで、回復不能なことも発生する。

まず「はたらき」に問題が発生する。それが発展して行き着く先に、器質的な問題がある。
よって、器質的な問題の解決には何をおいても「はたらき」の改善が、ぜったいに欠かせないというのがりくつである。
切って捨てて終わりにはならない。切って捨てようと捨てまいと、いずれにせよ、機能の問題を解決しなければならないのだ。
何よりもまっさきに、臓器の機能・臓器のはたらきを改善する。器質的なダメージがどのくらい回復するかは、臓器のはたらきの改善を積み重ねて見守るしかなかろう。

( 臓器のはたらきを改善した先に、臓器そのものの改善がある へつづく。 )

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たいへんご利益のある生活改善。-「よしよし」と自分に声をかける-
2012/03/14(Wed)
「よっしゃ」とか「うっしゃ」とか、「さぁ、やるぞ、やるぞ」などと自分に声をかける。だからといって「何をどうするの?」とは一切考えない。いくらでも好きなだけ「よっしゃ!」「うっしゃ~」「うりゃ~」「さあ、やるぞ!」と言えばよろしい。気が進まなくても「よっしゃ」「うっしゃ」としばらく一人でやっていれば疑いや迷いやモヤモヤが瞬く間に消えてしまう。単純。愉快である。

気の済むまでやったあとは、「よし、よし」と声をかける。「よしよし。よしよし」。これも好きなだけやってよろしい。「よしよし、わかったわかった」と受け入れるようでもあり、自分で納得するようでもあり、何もかもすべてを受け止める手ごたえの、がしっとした犬の頭をなでているようでもある。
「よしよし」はいろんな気持ちがこめられる言葉なのだ。

「あ~あ、またやっちまった」「こういうところがワタシってダメよねえ」と一日に何度か反省のため息をつくかわりに、「あ~あ」というタイミングですかさず、「よしよし(大丈夫だいじょうぶ、なんていうことないよ)」「よしよし(たいへんだったねえ、わかる、わかるよ)」。そして「さあ、やるぞ、やるぞ」と態勢を立て直す。ごちゃごちゃ考えない、思いわずらわない心の状態になるまで、「よっしゃあ」「うりゃ~」とやってれば、いい。
慣れたら瞬時に心が切り替わる。態勢の切替えが身につくのである。身につくとはオートマチックで努力のいらない状態のことである。

いろいろ高級なリクツこねたって、スッキリとはいかないものだ。窓を開け、新しい光と風を呼び込んで、腹の底からやるのもいい。お相撲さんの、シコをふんだり、てっぽうをかますような気分でやると心も体もあったまる。シコには邪気払いの力があるとも言われている。
何かが現れてからでは「よっしゃ、やるぞ」とはいかないこともある。なんにもないときにこそ、「さあ、やるぞ。やるぞ」と自分に声をかけておく。
すぐにその場でできる、たいへんご利益のある生活改善である。
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自然の法則、宇宙法則の前では人類みな等しく尻尾である
2012/03/13(Tue)
「鯛の尾よりイワシの頭」は鯛の尻尾とイワシの頭の比較。「鶏頭牛尾」はニワトリの頭と牛の尻尾の比較。
思いのままにならないと腹が立ち、思い通りの境遇に喜びを感じるのが人間。シッポ生活では頭に振り回されてさぞかしつらかろう。

個人的に牛は苦手なので、ニワトリの頭と竜の尻尾で比較させてもらうことにするが、竜のシッポであると同時にニワトリの頭であるというのは、生きていく上ではむしろしぜんなこと。イワシの頭となれ、ニワトリの頭となれと勧められても、どのシッポを選ぶがよいかで頭を悩ませることが少なくない日常である。

シッポの安楽さというのも確かにある。
どうせ同じシッポなら、ニワトリのより竜のほうがよい。竜の尻尾というと、そんな考えが暗示される。それではニワトリの尻尾ではどうか。ダメなのか。
竜の日常につきあわされるよりはむしろニワトリのお気楽な日常につきあうほうが都合がよい。そういう考えもある。
わたしはきょうだいの二番目に生まれ、何もわからないときから家の長子が頭上に君臨していたようなものだった。大人になると上のきょうだいは社長業をし、自分はしばらく手伝わされた。
頭の立場にいると尻尾のほうは見えにくくなるようだが、尻尾のほうでは頭の生活を眺め、頭としっぽのことをじっくり考えることも少なくない。
頭の立場にいる人は、頭はえらいが尻尾はダメという考えを持つことも多いようだが、そう単純にはいかない。
シッポはシッポでも、尻尾道とでもいうか、すぐれたシッポもあれば、ダメなシッポもある。
頭に向かって振ることしか知らないシッポもあれば、頭をコントロールする実力のあるシッポもある。でしゃばることなくシッポの立場をわきまえたうえで、言いなりにもならず、シッポであることに甘んじない。むしろ誇りを持つシッポもある。

尻尾道もなかなかに奥深い。尻尾道をたどり歩いているつもりが、ひょいと気づけば頭になる。そんなことも少なくない。社会生活のじっさいは入れ子構造で、あるところではシッポの威力を発揮し、あるところでは頭の威力を発揮しなければならない。頭といえども、おびただしい頭たちがゾロゾロと群れている。誰が誰の頭で、誰が誰の尻尾のほうか、接続もなにも分からない。
一番はっきりしているのは、自分の体が自分の頭に接続しているということくらいだ。人は否が応でも自分自身の頭として生まれ、自分の頭として生きるほかはないのだということ。しっぽ生活に甘んじていると、ついそのことを忘れ、自分の首が、別のどこかに接続しているくらいに思ってしまう。自分に頭があることを忘れ、尻尾生活に特化して、自分でえらぶ、自分で決める、自分で判断してその結果の責任を結局は自分がかぶっているという、あたりまえのことも分からなくなっている。

頭の生活に甘んじていると、すべての頭も結局は何かの尻尾であるという入れ子構造を忘れてしまう。
人類の頭をたどっていくと、どこに行きつくか。
自然の法則、宇宙法則の前では人類みな等しく尻尾である。
頭であると同時に尻尾。尻尾であると同時に頭。
その両方のバランスをとって生きている。それだけだ。
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一生かけても叶えられるかどうか分からない目標-バカになる-
2012/03/12(Mon)
自分の小さなバカを嘆くより、さかしらぶることのできる半端なかしこさのほうを嘆くべきなのかもしれない。おのれのバカのしょぼさ加減をなげき、もっとスケールの大きいバカを目指すというほうが、いっそせいせいする。

テレビや新聞で話題にされる人々の活躍ぶりを見ていると、むしろふつうのまま生きているのはすごいことなんじゃないかと思えてくる。
かしこい人々が目標を持ってあれこれ努力を積んで生きている。それは確かにすごいことで、見習わなければならない。しかし、どこから見ても文句のつけようもない人間像を出されれば出されるほど、こんなふうな生き方しか人間には許されないのだろうかと思えてくる。
「バカじゃこの世は生きられない」とか、「そんなことじゃ、やっていけないよ」という脅迫が本当なら、ふつうのままで生きられているというほうが不思議。ふつうよりもバカのほうが、もっとすごい。
どっこいそれでも死なずに生きている。やっていけないようなのが生きているこの世の中のほうが捨てたもんじゃない、と妙に感動する。

ひょっとして、バカであればあるほど、すごいことなんじゃないのか。
中途半端にバカだったり中途半端にかしこいというのではない。究極のバカとはなにかということは考察に値する。
受験勉強も人一倍やってしまった。大学で教育も受けたうえ、大学へ少なからぬ人数を送り込んでしまった。そんな自分が、これからバカを目指すという大事業に取り組もうかと考える。
ただのバカじゃなれない究極のバカとは。ただのかしこさでも到達できない、大バカモノとは。
それを自分の目標の一つに入れてある。果たして叶うのか。どうすれば叶えられるのか。道なき道。平坦な道ではなさそうだから、おもしろい。
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自分の本性を、他人のことのようにして眺める二人三脚
2012/03/09(Fri)
修羅場とは、争いの絶えない現場のこと。そこに住する者は修羅とよばれる。過去の自分は修羅で過ごすことが多かったが、周囲はそれを「がんばっている」と評価し、自分もそれを当たり前と信じて疑わなかった。
自ら修羅場をつくり、鼻息を荒くして過ごす。そういう自分を静かに振り返ることが、ある。

損得勘定でものごとを見るだけでなく、損得勘定で人を見て、損得勘定で自分自身をも装う。それを「メリットがある・メリットがない」などといって、さかしらぶる。一人勝ちするための智恵をはたらかせ、食べる間も寝る間も惜しんで努力する。その真剣さ真面目さは驚きに値する。今になってみれば不思議に思うばかりだが、修羅の本性は自分の中で一時的な眠りについただけ。すっかり消えたわけではなかろうと思われる。

自分の本性を、他人のことのように眺めるこの自分。これはいったい誰なのだろう。
このもう一人の自分が、修羅の自分をだんだんと圧倒するようになってきて、これから先はこっちのほうの自分に賭けてみようと思っているが、じゃあこの「賭けてみようと思うわたし」は一体だれなのだろう。

今は比較的おだやかな感謝の日々を送っているが、感謝もまた思いあがりの裏返しかもしれないと思うことがある。飲まず食わずでもなく操体法の研究ができて、いろんな人が訪ねてきてもくれる。それで幸せでなかったら罰があたるというものだ。「しかし、それだって、いつまで続くか分からない。はかない身の上。それが人間だ」。そう考える自分がひょいと顔を出す。
「いや、そうじゃない。飲まず食わずになってでも操体法の修行にはげみ、研究会に足を運ぶ。これだけはゆずれないっていう気迫こそだいじなんだ」と豪語する、やたら勇ましい自分がしゃしゃり出てくる。
「どうだ。飲まず食わずになってでも、おまえ、やれるか。笑って元気よく、やれるのか。おまえがほんものかどうか、いずれ試されるときがくるぞ」と、わたしに向かって言い放つ。

そういう自分ひとりの二人三脚、三人四脚もまた、わるくないものである。
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日常という想像の産物。そのまっただ中に住している。
2012/03/08(Thu)
想像は現実の重さを欠き、デタラメに近いと思われている。しかしながら人間の感覚・認識は不完全であり、現実もまた仮想以外の何ものでもない。
般若心経を持ち出すまでもなく、わたしの日常は想像の産物以上のものでも以下のものでもない。それを逆にいえば、想像をバカにするなということになろうか。

以前の記事に瞑想のことを書いた。瞑想は明らかに想像といえよう。
部屋で静かに座っている自分を見つめるもう一人の自分。それがしだいに部屋から離れて市内を見渡し、さらに九州全体を視野におさめてゆく。それからさらに日本全体、地球全体を視野におさめ、太陽系を、天の川銀河を想像し、視野におさめるのである。天の川銀河を視野におさめながら、それと同時に、二つの鼻の穴を出入りする息の流れを感じている。
自分はここにいる。と同時に、あそこにもいる。天の川銀河は横から見るとつばのだだっ広い麦わら帽子のかたちをしていて、そのつばのはしのところ、目に見えない砂粒のようになった太陽系とおぼしき一点を、わたしはじっと見つめている。
見つめながら、さらに遠くへ離れてゆく。どんどんと離れてゆくうちに、たくさんの銀河がいっぺんに目に飛び込んでくる。広大な宇宙空間の中では銀河もまた砂粒のようなもの。もう太陽も見えなければ地球も見えない。わたしの姿など、どこにあるかも分からない。いるか、いないか、分からないようなものだけれども、そんなことおかまいなしに、わたしはのんきに座って息をしている。
これは想像上の空間なのか。それとも現実の空間なのか。
めまいのしそうな空間の、同時並行的な状況。

時間の同時並行的な状況を想像することもある。
分かりやすいのは「ご先祖さま」。
ご先祖さまは自分の過去の住人であるが、それと同時に、自分がこれから向かう先の、未来の住人でもある。ご先祖という不思議な時間のことで瞑想することもある。
時間と空間。それらそのものがもともと人間のコンセプトであり、想像の産物である。時間と空間を日常とするわたしにとって、想像の産物がリアルであり現実である。
そのことがたまらなく不思議に思われることが、わたしにはある。その不思議を当たり前に生きている自分の日常が、たまらなく不思議に思われることが、ある。
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どうやら絵に描いたような平和な母子らしくなってきた。
2012/03/07(Wed)
母親を心配させるのは赤子の手をひねるよりカンタンである。母親は子を心配するのに余念がない。時にはこの上ない悪夢を容赦なく叩きつけてくる存在、悲観的なものの見方を植えつける作用を持つ存在となって、子供の健康に大なり小なり影響することもあるだろう。
私の母は幼い頃に父親を亡くし、実家に預けられて育ったという。母親とは生き別れのような境遇であるが、それだけで不幸かどうかは一概にはいえない。「おばあさんと楽しく毎日を過ごしていた」とあっけらかんと言う母の口ぶりにウソはあるまいと思われる。

そんな母が、厄介きわまる母親だった。寒ければ風邪をひくと騒ぎ、暑ければ熱中症になると騒ぐ。何かと子供をふびんがって病院へ連れて行く。子を虚弱児よばわりし、過度な病院通いを続け、いっそ、こんなことなら子供も生まれてきたのがかわいそうで悔やまれる、というくらいに母は心配性であった。
あんまり煩わしいのでこちらもつい邪険にふるまった。「おかあさんには母親などという厄介なものがいなくて、よかったわね」というような、心ないことを口走った記憶がある。そのとき母は急に大人しくなり、「いや実のところ、そう思うことは多いんだよね」。母と子がこんなにわずらわしいもんだとは知らなかったよ、みたいなことで、その場は笑っておさまったのではなかったか。

母親を心配させない工夫を講じることは子のつとめであり才覚でもあるというが、母親の悲観度に応じ、要求される工夫のレベルも異なる。振り返ってみれば私も不器用であったが、母のほうもとくべつとは言わないまでも、並み以上のレベルに属していたのではなかったか。
いまだに母は人一倍苦労症であり心配性な人間であるが、そのこと自体は私にはいかんともしがたい。目の前に子供がいないほうがどうやら安楽なようでもある。年に何度か顔を見せ合えば、もうそれでお互い十分なのではないか。

今では絵に描いたような平和な母子らしくなってきた。
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いつ治まるか分からないような花粉症に振り回されたくはない
2012/03/06(Tue)
生まれてすぐにアトピーで、アレルギー発作の苦行に放り込まれた。春とはいわず夏には夏の、秋には秋、冬には冬の「花粉症」があった。体をかきむしって血だらけになり、かゆい目をこすり鼻水たらしてくしゃみする。その体験から考えさせられることは少なくない。

鼻水たらした子供は十年病院にたよった末に、菓子のたぐいを断つことを知った。すると大きく改善したのが分かった。さらに情報を得るごとに肉も断ち、よく噛んでもみた。すべては一人で決めて、一人で勝手に実行した。水やジュースなどの水分を食中食後に飲まないようにもし、自信がつくと山を歩くようにした。一つ一つの実行は不完全でも、それなりの改善と手応えがあった。食べる量も減らしてみた。体もゆるめてみた。精神修養にもつとめてみた。
結果の見込みがどうであれ、やって別にわるいことではないことはやってみた。むしろ人生の充実にはよいことだった。成果はどんどん明らかになっていった。

いま思えばそんなに頑張らなくてもよかった。じたばたせずに、やまない雨空を見上げてじっと待つというやり方もあった。焦っても身が持たない。我が身を悔いてもしょうがない。われわれはご先祖から恩恵を受けて生きる一方、ツケを支払わされることにもなっている。体のことは一代でつくられたものではないから一代でケリのつく問題ばかりではない。
しかし私は忍耐のない人間だから、じっとしていられず、雨の中を夢中で飛び出してしまった。それを偉いですねとか言ってくれる人もあったけど、実行した人が偉くて、実行しない人がダメとか、そういう優劣の問題ではない。「まあ~偉いですね。えら~い」は実のところどうなんだろう。「あなたは偉い。わたしはそこまで偉くないから生活改善しません」と聞こえることもある。「うらやましい」という気持ちや「生活を改善するだなんて、とーんでもない!絶対お断り!」という拒絶を表現するようにも聞こえる場合がある。しかしこればかりは「やったもの勝ち」の世界。

アレルギーの発作で赤い目をして鼻水たらしていても、平気で笑っていれば不幸にならずに済む。病院医学ではアレルギーのことは実効性のある決め手を欠いている。発作が連続するか、パタッと急に止まるのか、それは自分の体にきくしかない。
発作が起これば悲観し、発作が止まれば楽観するなら幼稚園の子供にもできる。悲観は病状を悪化させる。楽観と悲観のあいだをおろおろ行き来するのは愚かだというくらい大人なら分かる。
体がかゆい、目がかゆい、鼻がつまり、鼻水がたれ、数秒ごとにくしゃみがくる。頭は重く、ぼーっとして酔っ払っている。
決して楽しいことじゃないが、予測のつくことしか起こらない。そういう意味では恐いものではない。治るものなのか、治らないものなのか、誰にもわからない。そんな茫洋としたものを相手にいちいち心配していたら、かえってストレスだ。実効のないことをやって苦にするくらいなら、できる限り無視したほうがよほどましというものだ。
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楽観でもなく悲観でもなく-楽観と悲観との行き来を繰り返さないために-
2012/03/05(Mon)
改善は一つの希望の光を灯す。一つの改善の成果を見落とせば、一つの希望と可能性を見失い、判断もくるう。悲観的では心も休まらず、じたばたして自滅しかねない。

操体法で正しく確認する姿勢をつくる。
骨組みに、どんな歪みがあるか。動きにはどんなクセがあるか。筋肉のどこにコリがあるか。
それらのことがらを確認する方法として、操法といわれるものがある。
操法といっても、動いてもらうだけのこと、こっちはそれを見るだけのことである。軽い圧をして、コリや痛みを確認したりもする。
動いて、感じて、確認する。かたちを見て、動きを見て、確認する。それだけのことであるが、ふつうに実行できる人と、なかなか実行したがらない人とがいる。

ふだんの日常生活の中で、ものごとをよく観察して、きちんと確認する人にとって、操体法はただふつうのことをしているだけである。しかし、ものごとをよく観察し、きちんと確認するという姿勢を身につけてきてこなかった人にとっては、操体法でやっていることは、とくべつだと感じるだろう。
ものごとをよく観察してきちんと確認すれば、改善の成果を見落とすこともなく、日常は希望と可能性に満ちたものであることに気づくようになる。

自分を振り返ってみると、操体法の一番の効用はそういうことだった。
いつどんなときだって、取り組めば取り組んだぶん、たった一つの動きからでも改善の成果が得られることを知ったというのは大きかったと思う。
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人生を練り直すごとに自由に歌えるようになる
2012/03/03(Sat)
揺りかごから墓場までの間には様々な課題が横たわる。時間の経過とともに解決するものとそうでないものとがある。「自分はもう子供じゃないからクリアーした」という気分でいるところに、子育てなどをきっかけに人生が巻き戻されて、積み残しの大きさに圧倒されたりもする。

大家族では、いろんなライフステージの人間が互いに時間と空間を共有しているから、揺りかごから墓場までの課題には日ごろから慣れ親しむ。家庭イコール人生の学校といえる。核家族や一人暮らしは便利な点もあるが、課題のバリエーションが限られる。家族どうしで共有する時間も少なくなるばかりだ。学校でも似たり寄ったりのライフステージの人間といっしょに過ごし、会社でも働く元気のある人間に限定されているともいえる。

大家族で暮らし、ほんの小さい子供から墓場に近い者までがいっしょになって農的作業もしくは漁業的作業にいそしむ時代のことを考えてみると、なんと豊かな経験の場であったろうと思うことがある。人生の学校という意味では、ぜいたくな環境ではなかったか。そう思う。
核家族の中、母親だけで子育てすることになりがちな今の日本は厳しいと感じる。長く仕事場で関わってきたサポート校の現場でも、限定された世代の、限定された課題と解決とが繰り返され、指導する大人たちは「自分たちは全部クリアーした」という気分で形式的になりがちのように思われる。
揺りかごから墓場までの長いスパンで見れば、人生の課題には完全にクリアーということはなく、練り直しをするごとに新しい発見がある。練り直しの人生から見えてくるものがある。

どこかから聞こえてくるピアノの練習曲。
途中で引っかかると最初に戻る。同じところでつっかえて、また最初に戻る。
何度も繰り返すうちに、「もうめんどうだ」と、つっかえてもつっかえても最後まで流したり。つっかえるところだけをゆっくり何度もやって、つっかかりなく弾けるようになったり。練り直すごとに確実になるが、またどこかでつっかえ始め、また同じところがあやふやになったりもする。
なかなか仕上がらない。これでオワリということがない。練り直すごとにいい音、いいリズムで自由に歌えるようになっていくのだと思う。
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理論に矛盾があってはならないが、人間はむしろ矛盾のカタマリ
2012/03/02(Fri)
「やり方よりむしろ現場の人間しだい。信念ある現場は成功し、信念のないところは何をどうやっても…」。結局どんなメソッドでもかまわない。メソッドを追い求めた末たどりついた皮肉な結論だよ。立場上ここだけの話だけどさ、と話は結ばれた。
ある教育メソッドの普及に一生を捧げた教授のつぶやきだ。

大学で理学療法を学んだ若い人が訪ねてきた。
大学で理論を学んでいるうちは、よかった。しかし現場に出ると通用しない。実績の保証された理論だと思って疑いも持たずに打ち込んでいたが、そうではなかった。「研究に有利なデータなんか研究室でいくらでもつくれるということも分かりました」。先輩や同僚のところに足を運んで相談すると、「今さらそんなこと言ったってしょうがない」「仕事だと割り切れ」。しかし割っても割っても余りは出てくる。そういう話をするのだった。
信念はだいじだけれども、まちがっていると分かれば信念はくずれる。信念を保つだけの価値もないものに、人生の貴重な時間と労力を費やすのは確かに苦痛だろう。

操体法にももちろん理論があり、実績もある。しかし確固たる信念はそれぞれ自分の現場で身につけるしかない。最初から信念の持ち合わせなど誰もありはしない。自分で試し、他人にも試し、結果を見落とさず、正しく判定する。正しい判定に行き着くまでのあいだは答えを保留せざるをえないだろう。一人の判断では解決できないことも多い。すぐに自分で解決することなどは課題とはよべない。
子供のころから受けてきた学校教育では、教室内で割り切れる問題が集められていた。一時間程度の区切りの中で「そうか、わかったぞ!」を忙しく繰り返されるような課題が、24時間ごとにテストされる。丸とバツをつけられて一喜一憂する生活が十数年もしくは二十数年も続くのだ。

教育問題も健康問題も、理論に矛盾がないとなれば、人間のほうに矛盾があり、矛盾のある人間のほうがわるいということになる。コレステロールや血圧の高いところに元気な人間がいて、人の定めた基準範囲のほうに元気のない人間がいるとしても、検査がおかしいと思うよりむしろ、そういう人間は例外で、理論の外に人間がいるというのはけしからん、とまあそういう風潮なのだろう。
理論は人間がつくる。しかし人間は人の手でつくられたものではない。人間は自然の創造物だから、もともとが想定外の存在だ。人間の理解の範囲内のことが起こるというほうがむしろおかしいのかもしれない。そういう前提で見ていく必要もあるのではないかと思う。
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疲れ知らずの実現。持続力の強化。-操体法の医学-
2012/03/01(Thu)
汗水たらしてガンガン体を動かせば人間が強くなるという考えも聞くが、力のムダづかい無理づかいをやめれば、ゆとりも出る。無理は体を傷め、ムダは疲れをつくる。一歩まちがうと体を衰えさせ、短命につながる。

体の内部には力の通路が数限りなくある。
右手を強く握れば歯を食いしばり、ひじも肩も首も、腹も腰も足も緊張し、顔も歪む。あらゆるところから力を集めて右手を握らせる。
全身の筋肉がみんなで協力し、応援しあいながら動くことを、操体法では連動という。
連動がじょうずな体はまんべんなく筋肉を使うから疲れ知らずで持続性がある。
連動のヘタな体は互いに協調しあうことが少なく、それぞれが孤立して頑張るので体を傷めやすい。
互いに協調がうまくいかなくなった動きを「クセのある動き」とか、「動きにかたよりがある」とか言う。

力の崇拝者は「力をこめればこめるほど人間が強くなる」という思いを断ち難く、省エネで体を動かすという発想を嫌う。山歩きを好む私にはその気持ちも分かる。疲れ知らずになるために、まず体を酷使し、苛酷な労働に耐え、体を強くするのが先決だという発想だ。
しかし無理・ムダの多い体には痛みが絶えない。骨格にゆがみが広がり、力学的なクセとかたよりが増え、疲労の借金がかさむサイクルができあがれば、つらく生きるほかない。
筋肉がつくのは勲章のようにも思われるが、肉体の酷使への適応ともいえる。
力への憧れが強いと大怪我をして、その後は無茶の尻拭いをして過ごすことになる。

力の表街道がアウターマッスルという筋肉。裏街道がインナーマッスル。力の通路は筋肉繊維細胞である。筋肉が硬いということは、力の通り道に障害物が発生するということである。
腕を上げようとして力を出しても、力が通りにくく、必要なところに力が集められない。結果、腕が上げられなくなる。
動かないとまではいかずとも、よけい力をこめなければ力が届かない。うんうんと景気よくはずみもつけて、見ているぶんには威勢もよいが、よけいにこめた力の分がロスであり、無理が生じる。無理したぶん体を傷め、汗水たらしたぶん疲れやすく、よいことは何一つ期待できない。
筋肉を硬くしていると筋肉繊維の通路があちこちふさがれて通りにくくなっている。強行突破を繰り返しながら力を集めるほかない。本人はそれでふつうと思っているが、不自然な動きである。

骨格は、滑車やてこの原理がはたらいている。
ある関節を支点とし、別の関節が作用点となり、効率よくなめらかな回転運動の連携が動きを生む。
「力を入れないと体が動くわけないじゃないか」と思われがちであるが、体は力で動かすのではない。体格のよい大人を一方の端にのせ、もう一方の端に小さな子供をのせてもシーソーはつりあう。てこを使えば百キロの岩を少しの力で動かすこともできるのである。

地上にはもとから見えない力が働いている。
重力を味方につければこれまでの三分の一、五分の一、いやそれ以上の小さな力で動く工夫もできよう。
力のムダづかいや無理づかいをやめれば現在の三倍、五倍の活躍も可能だし、今と同じ生活でよいのならラクチンもいいところだろう。
血液の流れも力の流れと同じと考えられる。血圧が高いのは筋肉の固まったところを通る管が流れにくいために、より強い力で流そうという体の努力だ。筋肉をゆるめれば高い血圧は必要ない。必要のないことはやらないのが自然というものだろう。
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