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意図せずに、理想の行動が実現されることが、理想
2012/02/21(Tue)
努力するというのは意図的に行動するということだが、その努力の先にはツッパリも強引さもなく、必要なことが必要なぶんだけおのずと実行されてゆくような、体の動きや行動がある。それがほんとの「ラク」ということではないか。その状態が、操体法の目指すものではなかろうかと思う。

人間の意図したことにはピュアな部分と濁りの部分とが混ざっている。
たとえば「世のため人のために役にたちたい」という思いの中にも、「人からよく思われたい」「自分自身を喜ばせたい」というような下心が隠れていることがある。この下心がツッパリや強引といった無理を生む。
下心があろうとなかろうと、意図的にでも、よい行いを繰り返し続けるのはだいじと思うが、その一方で、自分の心や体から、少しずつ少しずつ、意図的な部分を減らしてゆけたらと思う。
心身の健全を追求すれば、結局はそこに行き着くだろうと思われる。

清らかなものを想像してみる。清らかなものを次から次へとイメージする。川のせせらぎ。緑に吹き渡る風。何でもかまわない。かまわないけれど、自然もまた、清濁あわせ持つ部分がある。自然界には生きものがいて、生存の競争や弱肉強食がある。この世に清濁の両面を持たないものなど、見つからない。この世を超えたところにあるのは何だろうか。神や仏の清らかさは私などには想像もつかないようなものだが、清らかな心と体を神仏が象徴しているのは確かなことである。

透明な清らかさ。決して汚れようのないピュアな心と体を、イメージする。毎日少しずつイメージするだけで、日常の気持ちや行動の中で、清らかということや濁りについての感覚が敏感になるように思われる。
自分の思いの中に、清と濁とが混在しているのが分かってくる。混在してしまうこと自体は人間である限りしかたないが、清と濁とをかぎわける感覚を磨き続けてゆくことは、できそうである。
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