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我を張る自分。感情と理性のはざまで
2012/01/10(Tue)
計算を度外視してまでも我を張らずにいられない自分。それをなだめる理性的な自分が「そんなこと続けていたら治るものも治らない。それでもいいの?」と問いかける。
治るのと、治らずに痛い目にあうのとでは、どっちが得で、どっちが損か、誰が考えても分かろうものだが、我を張る自分にはそれが分からない。

元気が出ないという程度から、激痛で大騒ぎするところまで、いついかなる万病も、元をたどればコリに行き着く。コリをつくる要因には広い意味での生活行動さまざまあるが、具体的には未消化物や老廃物などの、毒素を重点的に見ていくのが有効であるということ。
操体法を受け入れるということは、橋本敬三の立てた仮説を受け入れるということにもなるはずだが、それがすんなりとはゆかないのである。
具合よくないときに、「どうにも具合よくない」と相談すると、「コリだよ」という返事がかえってくる。
「えっ、こんなんもコリですか?」思わずあわててしまう。コリではない、べつの原因といつの間にか思いこんでいるのである。
「そっちに動かすより、こっちのほうがいつも気持ちがいいんです」と訴えると、「その動きでコリがとれればいいよ」と返されて、思わず「えっ、コリですか?」「コリがとれなきゃ、いつまでも治らんよ」「……」

「コリなんですね」と、するりと受け入れればそれで終わっていたはずの話が、わたしには十数年がかりの苦労である。
ふと気がつくと、「先生よりもわたしのほうが正しいこともあるのではないか」などと、たかをくくっていたりする。とんでもないこと。慢心だと自らをいましめる。
教えられたことを、教えられたとおりに実行するつもりでいて、すぐに勝手なことを付け加えたり、差し引いたりする自分がいて、「忠実に実行しましたが、何ごとにも時間というものが必要なのでしょうね。それともわたしの場合は他にスペシャルな理由があって治らないんでしょうか」などと、おすましのポーズをとったりする。

そうまでして我を張りたい自分がいる。我を張りたいという感情がどこを押しても飛び出してくる。痛い目にあい、損をしてまでも、「何がなんでもまずは自分が正しい、なぜなら自分だからだ。世の中で一番正しいのは自分」。そういう前提で今日にいたるまで実にほんとうに、私は損をしてしまっているのである。
どっちが得で、どっちが損か、損得の勘定のできない愚かな自分。自分はすなおで聞き分けのよい人間のつもりであったが、まるで逆。妙に我を張りたがる、聞き分けのよくない人間なのだった。

それでも最近は少々しおらしくなり、しおらしくなった分だけ治りが早くて助かっている。
「ああこりゃひどい。ほんとうにコリだらけだ」と確認し、「ここらのコリを、ちょちょいとこうして。ホラすぐにゆるむ。ラクになったね」。
コリを確認できさえすれば不快症状は解消できたも同然。
どうしてこんなカンタンに分かることに意地を張る必要あったのだろう。「自分は自分だから正しいのだ」などとがんばってないで、人の経験に敬意をはらい、さっさと受け入れていたら、何年も何年も「治らない治らない」と苦しまずに済んだ。苦しまないでいいことを苦しんだぶん、損をした。
「だから橋本先生の本にもこうしてちゃんと書いてあるじゃない」と、あきれられている。頭をかいて舌を出し、笑ってごまかすしかない。
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