新しい魔法のメガネ-筋肉を読み取る指先の感覚-
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2012/01/30(Mon)
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顔を見た時。言葉を交わした時。それぞれでの印象がある。筋肉からもいろんなことが伝わってくる。本人が取り繕うことのできない分野だけに、表情や言葉から分からなかった多くのことが伝わってくるように思われる。
固いとかやわいとか、肩こり腰痛の時に触るだけのことに限らない。本人さえ気づかない「自分」とその歩みが、あますところなく筋肉には刻まれているのではないだろうか。 自分のことが自分ではよく分からないので、いつか人に聞こうと思っていた。 私の筋肉からどういうことが伝わってきますか。平均的にみて固い感じがするとか、何かとくに気になるようなことはないでしょうか、と。 しかし気がついてみると、尋ねる必要はなかった。 指先の感覚から初めて自分のことが分かった瞬間、少しがっかりした。自分は、自分が思っていたような人間とは違っていた。うぬぼれが強すぎたことが指先から実によく伝わってきたのだった。 それからしばらくは、自分の筋肉の事実がどんどんと伝わってきて少々つらい思いをした。 なぜ、こんなにも明らかなことが、自分にずっと不明なままだったのか。そのほうが不思議でならない。 自分はとんでもないことになってるなあ…と他人を見るように自分を見ていた。 それからまたしばらく経つうちに、改善の度合いにも気を配ることができるようになっていた。 あんまり期待が大きいと、少々の改善などには目もくれないが、期待の大きさがしだいに現実の範囲におさまるうちに、そうがっかりするほどひどいものではないということも分かってきた。 悲観するほどひどくもない。かといって楽観するほどの素晴らしいこともない。いろんな変化があるのみ、だ。 指先が変化をかぎわけるようになってくると、変化に対する関心もだんだんと強くなってくる。 「指先で、変化が分かる」。 それはすごい発見だった。まさに「手に取る」ように伝わってくるのだと分かると、どんな場面でもあわてる必要がないのである。自分のやろうとしていることが有効か無効かは、その場の指先から判断すれば済むことなのだ。 有効・無効の判断がその場で分かれば試行錯誤も可能ということ。やってみればリクツ抜きに正確に分かる。何とありがたいことだろう。 分かればこれほどカンタンなことが、なぜそれまでずっと分からなかったかが、それから先の自分には分からなくなった。 家族一人一人のことを、筋肉を通じて見てみる。何とも不思議な感じである。いっしょに育ってきたきょうだいや、いっしょに過ごしてきた身内のことには思い違いや思い過ごし、思い込みがあまりに多いようだ。筋肉の手触りを通じて新しい姿が見えてくると、今までのと新しいのと、どっちがほんとうか、という気にもなる。 いずれにせよ、私の身勝手な独りよがりは免れない。しかし会話で確認をとってみると、筋肉からの情報は案外はずれていない。はずれるどころか的を得ていることのほうが多い。 見た目や言葉のほうが誤解は多い。筋肉からじかに伝わってくることは非常に具体的である。 桜沢如一は、陰陽の原理を魔法のメガネだと言ったが、筋肉を読み取る指先の感覚もまた、新しい「魔法のメガネ」ではないかと考える。 スポンサーサイト
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元気の推進力。夢と希望。夢を語り合う仲間。
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2012/01/28(Sat)
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念ずれば通ず、という。念がじゅうぶんに強くなり、現象にまでしてみせると「念が通じた」ということになる。夢は夢見る人の心の強さをあらわしているともいえるだろう。
現象になるまでは「念なんか、どこにもないじゃないか」と言われてもしょうがない。 弱い念はろうそくの炎よりも頼りなく、いつ消えるか分かったものではない。けれども訓練しだいでそれは鉄のように強くもなる。強い念は、現象として必ずあらわれてくる。 酒づくりをする杜氏たちは「みそぎ」をする。 二回続けて失敗すると蔵はつぶれる。一回一回が勝負と生活を引きしめ、決意と覚悟をかためる。直観が磨かれながら行動にうつされる。 杜氏たちは酒をつくるのではない。自分たちの本気や覚悟を、酒というものであらわしている。そう私は思う。 夢は、しんきろう。 夢や希望というのは目に見えない。ふっとあらわれてはたちまち風に流され消えてゆく。 しかし、そうでない夢もある。 操体法と、体にいい食べものと、いなか暮らしと。自分の人生の集大成として、何か現象を起こせそうな感じもある。もう少し本気で生きてみてはどうか。夢と希望に向かって、さらに一歩進めてみようかと思う。 条件は、そろっている。足りないのは「心」だけ。それ以上でもない。それ以下でもない。 いま、朝と夜に自分なりの「みそぎ」のようなことをやっている。自分でそう決めたから必ず実行し、数息観でしめくくる。そんなことをやるうちにアイデアが浮かぶ。 心の中ではとんとん拍子に進む。やり方はたくさんある。 人は、自分が何を求めているのか、知らないものだ。 「どうなりたいの?」とたずねられて具体的に説明するのは思ったほどカンタンじゃない。何が自分にとって幸せで、何が自分にとって不幸なのか、それもあいまいなものだろう。 日常で自分の決めた小さな選択さえ実行できないのなら、大きな選択にはムリがある。ムリをすると不幸な結末を見るのは当然だ。 ムリと忍耐とは違う。忍耐は人の心身をきたえるが、ムリは人を衰弱させる。 何がムリで、何が忍耐か。こんなカンタンなことも、案外わかっていないのではないか。 毎日、心が夢に向かっているというのは、それだけでとても幸せで、元気が出る。さらに、夢を語り合える人がいてくれたら、鬼に金棒だ。 夢は、夢というかたちにもならない思いつきと比べれば現実的で、実現可能である。 実現するのが分かっていれば、騒いだりあわてたりする必要もない。 幸せで元気が出てくると、現象になって実現する。想念が実現するということと、幸せであるのとは、二人三脚で進んでいく。楽観的にすぎるだろうか。 |
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自分の身体のかじ取りを、身につける
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2012/01/27(Fri)
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嵐の可能性は至るところにあるのだが、絶妙なタイミングで嵐を避け、都合のよいところにばかりに流れてゆく。小舟に乗っている私は何もごちゃごちゃ考えない。あぶないタイミングでよけた嵐のことに気づきさえしない。
こんな理想の実現は、かなりむずかしいだろう。 小舟に乗った私が舟をあやつることを知らなかったら。天候を読み取るということを知らなかったら。嵐が起こる場所へとこれから突っ込んでゆくのも知らないで、平気な顔でいるだろう。ただここにじっと座っていれば、自分の都合のよいところへ流れ着く。都合のよいように連れて行ってもらえる。嵐のほうから避けてくれる。そう信じて疑わないだろう。 日常という大海原に漂う小舟に乗って、私はどこへゆこうというのか。 風を読むことはできても、風の流れは変えられない。風の流れをつくる原理、自然の法則を書き換えることは恐らく誰にもできまい。 何が起きてもじっと小舟にしがみついて漂っているだけというのもわるくない。 漂っているうちに、風を読みとることも身につけていって、選択の自由をどこまで行使できるようになるか、チャレンジするのもわるくない。無意識にとっていた行動が、少しずつ意識的な行動へと組み込んでゆけるようになる。 どんな行動にも選択の自由がないわけではない。自分で決めて自分で選ぶことができるかどうか。その方法を身につけられるかどうか。 ヘタに選ぶくらいなら、波が大きくなって舟が揺れても傾いても、じっとしがみついていればそこそこのところでとどまってくれる。いずれどの航海も、いつかは終わる。舟は朽ち、バラバラになって海のもくずとなる。それが自然というものだろう。 「いずれこの舟は海のもくずとなる定めだ」。そう見きわめて、開き直る。 バカになりきるっていうのはそういうことだろう。 半ぱなバカ。半バカが一番よくない、と師匠は言う。 波の乱れに舟がかたむくたびに、いちいち不安になる。「どうにかできるはずだ」「どうにかしなければ」などとその時だけは思うが、不安感情にあおられるだけのこと。風の読み取りかた一つ身につけていない者には選択の余地はほとんどないだろう。 揺れる舟にしがみついていることに耐えられず、自分から海中へ飛び込む者も少なくない。 自分は操縦はムリと決めつけて、だれかにかじ取りをまかせてみるが、いずれにせよ舟は揺れるし、朽ちるのである。自分でかじを握る勇気が足りなくて、不安な日々を送ることを選択する者は大勢。 他人に舟があやつれるのだったら、あやつる方法はあるのだから、上手下手はあっても誰でも自分の舟のかじ取りは多少なりともできるのである。 舟は、あやつることができるものであるということが分かればいい。舟をあやつることは自分にもできるんだということを信じることができていさえすれば、いずれは分かる。 自分以外に助けを求めるか。自分自身に向かって助けを求めるか。そこが運命の分かれ道だ。 ※操体法は自力療法です。自分で動きながら、自律神経本来の働きを取り戻します。自分にとって気持ちのよい動きを見つけ、ちょうどよい加減で動くことを身につけます。 九州・福岡市内にて、誰でも参加できる定例の講習会(参加費二千円)、少人数で申し込めるプライベート講習や個別などを開いています。 お問い合わせ メール freeyourself.sotai★docomo.ne.jp (★を@に)もしくは080-1720-1097(山下)まで。 |
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危機に強くなるということ。
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2012/01/25(Wed)
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自分の腕を自力で切断する。4~5センチのナイフ一本で。医学の知識もなく設備もない。荒野のまっただ中に自分一人。
ご本人の体験記を開き、切断の場面を真っ先に読む。切断に至るまでの5日間のことを、「腕を切る」という記述にしぼって追う。 そうするまでに至った状況を考えながら、最初からじっくりと、読む。 テレビで紹介された話だ。単独で砂漠地帯を冒険中に、大きな岩に腕をはさまれて身動きがとれなくなった。水も食料もほとんどない。そこから逃げ出すためにどうすればいいか、彼は6日間考え続け、思考錯誤する。 テレビで聞いたことから想像したのとはぜんぜんちがう話だった。「本人がここに書いたとおりでもないだろうな」と思われる部分もあり、「これが自分だったら、また違う物語が展開するだろう」とも感じる。 以来、ときどき読み返す。周囲にも話す。 この体験は映画になり、見た人も少なくない。全米では英雄視されているが、日本で同じことが起きたら愚か者あつかいされるのがいいところ。「社会をお騒がせした迷惑男」と非難されるのは間違いない。 現場で本人もその二つの考えの間をさんざん往復した。「自分はなんと愚かなことをしたんだ」と嘆き、「勇気をふるえ。これは挑戦なんだ」と自分を励ましもした。 私の周囲では、「そんなこと自分には関係ない」「知ったところで役に立たない」という受けとめられ方がほとんどだ。 「人里離れたキャニオンに一人で出かけてゆくことはあまりに無謀。自分はぜったいやらないから」。 「自分で自分の身を危険にさらさなければそんな目にあわずに済んだでしょうに」。 「そんな事故は誰にも起こりようのない、まれなケース」。 「自分はだいじょうぶ」。 この体験から得られることはないのか。それが私の関心事である。 偉大なことをするのはとくべつな人ではない。ふつうの人だと、体験記を読んでいて思う。 すごいことをやったあとになれば、「あれはふつうの人じゃなく、最初からとくべつの人だったんだ」と思われるようになるのだが、果たしてそうだろうか。 人は最終的には命を落とす定めだから、少なくとも一度や二度は命が危険にさらされる危機に直面することになる。災害や事故、病気かもしれない。それ以外かもしれない。身のまわりの人、家族や身内にも、ふつうの人間の誰にでも起こる、ふつうのことの一つだ。 本人の気づかないうちに、命と引き換えの選択が今まさに進行中である場合だって、あるかもしれない。本人が気づくか、気づいてないか、それだけの違いだ。 「ふつうの人」では済まされない現実が目の前に立ち現れたとき、肉体が、精神が、いのちが反応し、「ふつう」だった人が「ふつう」でなくなり、思いもかけないことが起こる。それを奇跡と呼ぶのかもしれないが、生きものにはふつうにそういう力が備わっている。無条件に発揮されるとは言わないが、自分たちも生命体である限り、自分の知らない、未知の力が備わっていることだけは間違いない。 奇跡をおこすのは、いつだってふつうの人。あなたであり、わたしであると言ってもいい。 自分にどういう力が備わっているかを考えるとき、人の体験というのは貴重である。 一人が体験したことは、誰にでも起こりうる。 フィギュアスケートでジャンプして四回転してきちんと着地することなんて、私の子供のころは誰も考えもしないことだった。 しかしある日あるとき、一人の人間がそれを目の前でやってみせると、「なるほど。できないことでもないんだな」と思う人間も出てくる。「できないことでもない」と分かった瞬間から、できる人が次々と出てくる。 わたしはべつに、自分の腕を切り落とせるようになりたいわけではないし、自分の腕を切り落とす必要のある場面に遭遇するとも思ってはいない。 「そういえば、わたしの知っている人で、こんなことがありました」と、べつの体験を話す人もいた。 似たようなことをしなければならない日は、いつか誰にでも訪れる。 その体験が貴重だ。大いに役に立つとわたしは思う。 「残酷だ、気持ちわるい」「おそろしい」と目をそむけて済むのなら、そむけていればいいが、想像された恐怖のほうが、現実よりよほどおそろしいこともある。 心の準備のないところに危機が発生したら、もっとおそろしい思いをするだろう。 そりゃあ誰だって、そんな目にはあいたくない。あいたくないけれども現実には起こる。 いつくるか分からない現実から目をそむけることほど、おそろしいことはないのではないか。 日本人の登山者は用心深いが、遭難したときは寒さや飢えで体が参る前に、カンタンに死んでしまう。山の世界ではそう言われているのだそうだ。 勇気ある行動に対して無関心な態度を持つことと、命への粘りの姿勢がふだんから培われていないこと。その二つの間には何か関係があるのかもしれない。心の中で私はひそかにそう思っている。 |
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自分自身を信じるところから始めたい
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2012/01/24(Tue)
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なにごとも信じないとうまくいかない。信じかたがはんぱだと途中で苦しくなる。
成功に向っているのか、失敗で終わりそうか、見きわめがカンタンではないからだ。 盲信はつつしむべきであるが、信じ続けていれば、どんな小さなこともプラスに考えるから、積極的に動ける。 どんなこともマイナスに見えてきて身動きとれなくなったら、勉強のチャンス。迷いの出たときがチャンスだと思って、身をいれて取り組めばよい。しかし信念が足りないと、進むか逃げるかの二つしか見えない。腰が引けているのである。 「信じないと成功するものも成功しない」と言われたって、経験もないし、分からないことのほうが多い段階では、どう信じたとしても、はんぱなはずである。 はんぱな信じかたでは、小さなこと一つでも、つい不安になる。うまくいっているのだか、その逆に進んでいるのだか、分からなくて混乱するのである。 迷いが出たときは、体験を積んだ人の存在が非常にありがたく、貴重なものである。 仲間と意見交換したり、助け合いがあると、一人では切り抜けられないことが、するりと抜けられもする。孤立せず、人とのつながりを大切にすることは、成功のカギである。 学校のテストみたいに一つの正解とは限らない。いくつも答えが見つかってよいのだし、問題の立てかたそのものを変えてみてもよい。 そのような問題に私たちは慣れていない。 正解を一つに限定された問題ばかり義務教育で繰り返し解いてきている。正解は教師が握っている。教師に握られた答えを追うことに、慣らされたのであるが、人生におけるあらゆる問題の正解は、自分の中に求めるしかない。答えは死ぬまで自分で訂正し続けるしかない。 信じないと、成功するものも成功しない。どこかの偉い「先生」や「学者」を信じるよりまず、自分自身を信じることから始めたい。 |
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毒素はどこに溜めこまれているか
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2012/01/23(Mon)
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「断食で大量の宿便」という話がある。長年溜めこまれた毒素だというが、ファイバースコープで見ても腹はカラッポ。毒素はどこにどういう形で溜めこまれているものなんだろう。
御茶ノ水クリニックの森下敬一博士は、食事療法に取り組んでいる患者の血液に溶け出した毒素を撮影する。排気ガスに含まれる有害化学物質。何年も前に飲んだ薬の成分。顕微鏡の特殊な操作でミクロの毒素が目に見える形であらわれる。 年末の大掃除には大量のゴミが出る。大量のゴミを捨てるとスッキリする。 ふだんからこまめに捨てていればゴミも溜まらず、いつも気持ちよく過ごせる。しかし、処理能力を超えてよゆうがなくなると、あちこちに溜まってくる。 体も同じ。処理に追われて間に合わなくなると、有害物質がそのまま体をめぐるのも困るから、あちこちに分散し、細胞組織に溜めこまれている。 毒素は有毒物質だから、あらゆる体調不良のもとである。 自分の処理能力以上のものを欲張って持ちこむから、散らかる。自分の処理を超えるような量の物質を家の中に持ちこまない。もしくは最初からゴミになるようなものを家に持ちこまないようにすればいい。 「毒素」のほうも同じ。 食事を半分に減らすとか、噛む回数を30回にするだとか。毒素の発生源である動物性たんぱく質を減らすようにすると、体の仕事量が減り、負担を減らせる。水分の摂取を食事の前後に控えるのも、胃液を薄めることがないので有効である。 森下敬一氏の解説によると、血液に溶け出した毒素は細胞組織に何年も何十年も溜めこまれていたもの。それが食事の量を減らしたり、毒素の源である動物性のものを減らすことによって内臓の負担が減り、「大掃除するかな」ということで、毒素が組織から遊離されて血液に溶け出してくる。溶け出た毒素は肝臓に運ばれて分解・無害化される。処理があるていど進むまでは、毒素を含む血液が体をめぐるわけだから、頭痛やしっしんなど、何らかの不都合な症状が一定の期間は出る。これが好転反応といわれる。 このときに検査をすると、検査数値は基準値をはみだしている。これを病気だと騒ぐか、組織に溜めこまれた毒素が吐き出されるのにともなう一時的なものと受け取るか。判断が分かれることになる。 「食の見直しで改善する」という考えのベースには、「溜めこまれた毒素が万病のもとだ」という考え方がある。それでうまくいった例が少なくないからその説を活用しましょうということ。 ブッダは「むさぼり」の心をいましめているが、欲を張れば自分の首をしめる。自滅だ。 自分の首をしめている犯人は、ウイルスだとか、わけの分からない原因不明の病だというのもいいけれど、「もともとは自分の欲張りのせい」と気づくのは「智恵」のはたらきだろう。 まずは開き直ってそれを受けとめるだけの気持ちのゆとり・心のゆとりがほしい。生活改善するのかどうかは、またそのあとの話である。 |
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「自分でつくらない」貨幣経済のライフスタイル
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2012/01/19(Thu)
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発酵は毎日ちがう。一刻一刻が同じじゃないから面白い。寒くて漬物が樽の中で静かなので、味噌作りに気が移っている。味噌蔵を訪ね、「発酵は奥が深い」という点で意見が一致したところ、「何なら蔵の中を見ていくかい」。
子供のころ、ぬか床の世話をまかされたことがある。中学にあがると天然酵母を使って毎日パンを焼いていた。 「発酵は毎日ちがいますよね。いつも同じじゃないから発酵って面白い。飽きませんよね!」。味噌作りの方と話すうち、私の中に眠っていた感覚が目を覚ましてゆく。 「そうそう。でもお客さんに渡すものはできるだけ同じ味にと気をつかうんだよ」。 大人の背丈ほどもある使い古した味噌樽を、つま先立ってのぞいたら、空っぽの樽の底がぽかんと丸い口を開いていた。今はあまりたくさんは作っていないのだという。 いつ、どこでも同じものが出てくる。ハンバーガーもお野菜も、工業製品のように、世界中どこでも同じ味が提供されるのが商品価値である。一回一回買うたびに味がちがうというのでは、商品として失格なのだろう。 しかし発酵の魅力は一度きりのもの。移り変わってゆくことを楽しめるっていうことにあるのではないか。 「同じ結果」を目指すのが、そんなによいことなのだろうか。 酵母パンも漬物も、私はプロではないから同じ味になるようにという配慮はしなかった。二度と同じものはできず、むしろそのことを楽しんだ。同じ出来上がりのものでも、口に入るまでの時間の経過で味わいは移り変わってゆく。同じものなど二度と食べられない。 どの変化形も私にはいとおしく、最初から育ててきた発酵の完成品を「まずい」と感じることなど、ほとんどない。 「自分でつくらない」。貨幣経済はそれがベースのライフスタイルである。貨幣経済が発達してゆけば、分業は効率の点で当たり前。金と引き換えに、ショーウィンドウから自分のエコバッグへ、物を移すことを繰り返す。そんな生活が、どこか味気なく感じられはしないだろうか。 漬物や味噌、発酵食を自分でつくりたいという私の欲求は、そこに発しているように思う。 |
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おろかな行動を、愚かな行動だと考えることがむずかしくなってはいないか
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2012/01/15(Sun)
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レジで菓子を握りしめたままだった。大人たちが「ちゃんと返す」と話しても聞き入れない。母と取り合いするうち、手の中のものがつぶれ、こわれていく。それでも手にこめた力がゆるむことはなかった。
三歳か四歳のころの自分の姿を、最近よく思い出す。 同じ行動を大人の私がやってみせたらどうだろう。 「ボケているのか?」と思われるかもしれない。「聞き分けのない、おろかな行為だな」とも思われるだろう。「ああはなりたくない」とも思われるかもしれない。「自分もこれを見習おう」と思う人はいないだろう。 「三つ子のたましい百まで」という。さすがの私も今となっては公衆の面前でこんなことはやらないが、誰も見ていないところではどうなのか。 ごうつく張りの貪らんさが私の本質に備わっているのは確かなことだ。大人になっていくうちに、周囲にウソをつき、隠すのが少々上手になっただけのこと。 今の日本では「ほしい」という気持ちに従ってものを買うことにちゅうちょのない日常が広がっている。財布にお金があるんだからそれを使う、どこがわるいか。「食べたい」という気持ちに従って食べることの、どこがわるいというのか、となる。 経済の発達した日本では消費が奨励される。「ほしい」と思ったら手に入れ、口に入れる。「えっ? そのどこがわるいのですか?」と目を白黒させる人もある。消費が罪の意識をともなっていた時代があったなどと言っても、信じがたいことかもしれない。 昭和三十年代から四十年代にかけて日本で育てられた私は、周囲の大人たちからまた別の、違うメッセージを受け取った。 当時の大人たちは、「ほしい」という気持ちに対してもっと慎重だった。警戒心さえあった。私はそれが何故だか、よく分からなかったが、子供たちの「ほしい」という気持ちに対しては、とくにたいへんに厳しかった。 姉が「ぬいぐるみほしい」と言い出す。それは店の前で語られるのではない。家の中で、覚悟したような静けさの中で、真剣に語られるのである。買い物に連れて行かれるたび、八百屋の向かいの手芸店で見かけていた。何度も何度も心の中で念じたあげく、ここではじめて言う。そんな願いである。 しかしそんな願いでさえ、一年に一度かなえられるかどうか。逆にいうと、一年も持続しないような願いは、自動的に却下である。 小学校入学を機に、祝いの品としてぬいぐるみを買い与えられたときの姉の姿。姉の手に渡った瞬間、ぬいぐるみはたとえ大人であっても触れることも許されない、神聖なものとなった。そのときの姉の姿は、四十年以上たった今考えてみても、後にも先にもないほど感動的なものであった。 一本の幹にびっしりと無数の芽がついて、ぐんぐん伸びて枝となる。そのさらに枝一本一本から数限りない枝が分かれ、さらに枝葉が伸びてゆく。 子供たちの欲望もそれと同じで、大人たちはそれを伸びるにまかせるのではなく、植木の剪定でもするかのように、大人の目で注意深く見極めることが必要だと認識されていたと思う。 経済がゆたかでなかった日本。ものもお金もない時代。生活のベースには節約の影がつきまとっていた。 「お金がないから」「ものがないから」という単純なところから始まった話だったかもしれない。しかしそれで終わりではなかった。つつましさを身につけてゆく日常生活の中で、物質的なことではない、何か次元の高いようなことにまで人々は触れることができていたのではなかったか。 親だけではない。近所のおじちゃんおばちゃんたち。商店街のお店の経営者までもが、あの時代でもまだ全体的にいうと、日本人のつつましさというものを失ってはいなかったと思う。 つつましさは、たんに外から見て見栄えがよいということではない。それは自分自身の身を守る、静かな武器のようなもの。内面的なものだ。 「ほしい」という気持ちを通し続けることは、結局のところわがままであり、不可能になる時がいつかは来る。それを通し続けようとするのは自分自身を窮地に追い込み、自滅の道を歩むことにもつながる。「ほしい」という気持ちに振り回されるのは愚かで危険。それは誰もが知っている。 問題は、欲望に身をまかせるのは危険ということを知ってはいるが、それをどう実行するかである。これは訓練で身につけるほかは、ない。 当時の大人たちは、子供には恐ろしい存在だった。大人たちが「ぜったいに、いけない」ということは、ぜったいに通らなかった。子供たちは欲望に身を焦がしながら「我を折る」ということを身につけるしかなかった。 テレビも食べものも、生活に関するすべてのことについて、大人たちは愚かな行動を子供たちにできるだけ実行させないよう、配慮を徹底させた。そうやって愚かな行動が身につかないようにする。大人の目をちょろまかすのは非常にむずかしく、ちょろまかせても、それがわかったときの罰はほとんど体罰で、これも身にしみて体でおぼえるものだった。罰とは本当に恐ろしいものと覚悟がいった。 当時の大人たちの説教も正論だった。今思い出しても立派な話が多い。心が鎮まり、背筋がおのずと伸びてゆくような、立派な態度でもあった。恐怖や脅しではない。大人自身が、自分の感情に負けてはいなかった。そのような態度もまた、生活の中でつつましさを保持していた大人たちだからこそ、身についたものではなかったか。 治療の現場で先生から「苦しいのなら、しばらくアルコールやめてごらん」とアドバイスを受ける、いい年をした方が「先生、そりゃ~できませんよ」といきなり突っぱねる。 「少しの間でいいから食べる量を半分に減らして様子をみてごらん」とアドバイスを受けたとたん、だまってしまう、いい大人。 「一口ごとに箸を置いてごらん」と言われ、「わたしにできるわけない」と笑ってとりあわない。これもまた社会的にはちょっとした方。 「治ったら、また飲める。好きに食べられるようにもなるんだよ」と言われても、それだけはがんとして聞こうとしない。そういう人ばかりになっていく。これでは三、四歳のころの自分の姿を思い出さずにいられないようなものではないか。 野生の肉食動物たちがガツガツするなら、分かる。急がないと横取りされてしまうから一口でも多くのみこむのに必死。獲物がとれるのも数日に一度だから、彼らがガツガツするのは大いにけっこう。 しかし私たちの身のまわりには、いくらでも菓子はある、酒もある。誰も横取りしようというわけでもない。そういつまでもガツガツしなければならない理由など、どこにもないのである。その逆のことをする理由なら、たくさんある。ガツガツすることで、自分の首を自分でしめているのだ。 それでもガツガツせねばならない理由があるとすれば、それは自分の中にある。 生活の改善とは、行動にうつすより先に、まず自分の愚かさを自分の行動の中に見つけるのが先なのかもしれない。愚かな自分の行動を、あらためたいと思うかどうかは、また各自それぞれ考えもあろう。 自分自身のすべてをひっくるめての、改善。そこから何を発見し、何を身につけるか。それもまた、それぞれだろう。 思えばあの「大人たち」も生きていれば九十代、百にも手が届こうという人々。もうこの世にいないという方々がほとんどだ。時の流れを思わずにはいられないが、彼らから受け取ったメッセージの重みを自分の中でかみしめずにはいられない思いがする。 |
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我を張る自分。感情と理性のはざまで
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2012/01/10(Tue)
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計算を度外視してまでも我を張らずにいられない自分。それをなだめる理性的な自分が「そんなこと続けていたら治るものも治らない。それでもいいの?」と問いかける。
治るのと、治らずに痛い目にあうのとでは、どっちが得で、どっちが損か、誰が考えても分かろうものだが、我を張る自分にはそれが分からない。 元気が出ないという程度から、激痛で大騒ぎするところまで、いついかなる万病も、元をたどればコリに行き着く。コリをつくる要因には広い意味での生活行動さまざまあるが、具体的には未消化物や老廃物などの、毒素を重点的に見ていくのが有効であるということ。 操体法を受け入れるということは、橋本敬三の立てた仮説を受け入れるということにもなるはずだが、それがすんなりとはゆかないのである。 具合よくないときに、「どうにも具合よくない」と相談すると、「コリだよ」という返事がかえってくる。 「えっ、こんなんもコリですか?」思わずあわててしまう。コリではない、べつの原因といつの間にか思いこんでいるのである。 「そっちに動かすより、こっちのほうがいつも気持ちがいいんです」と訴えると、「その動きでコリがとれればいいよ」と返されて、思わず「えっ、コリですか?」「コリがとれなきゃ、いつまでも治らんよ」「……」 「コリなんですね」と、するりと受け入れればそれで終わっていたはずの話が、わたしには十数年がかりの苦労である。 ふと気がつくと、「先生よりもわたしのほうが正しいこともあるのではないか」などと、たかをくくっていたりする。とんでもないこと。慢心だと自らをいましめる。 教えられたことを、教えられたとおりに実行するつもりでいて、すぐに勝手なことを付け加えたり、差し引いたりする自分がいて、「忠実に実行しましたが、何ごとにも時間というものが必要なのでしょうね。それともわたしの場合は他にスペシャルな理由があって治らないんでしょうか」などと、おすましのポーズをとったりする。 そうまでして我を張りたい自分がいる。我を張りたいという感情がどこを押しても飛び出してくる。痛い目にあい、損をしてまでも、「何がなんでもまずは自分が正しい、なぜなら自分だからだ。世の中で一番正しいのは自分」。そういう前提で今日にいたるまで実にほんとうに、私は損をしてしまっているのである。 どっちが得で、どっちが損か、損得の勘定のできない愚かな自分。自分はすなおで聞き分けのよい人間のつもりであったが、まるで逆。妙に我を張りたがる、聞き分けのよくない人間なのだった。 それでも最近は少々しおらしくなり、しおらしくなった分だけ治りが早くて助かっている。 「ああこりゃひどい。ほんとうにコリだらけだ」と確認し、「ここらのコリを、ちょちょいとこうして。ホラすぐにゆるむ。ラクになったね」。 コリを確認できさえすれば不快症状は解消できたも同然。 どうしてこんなカンタンに分かることに意地を張る必要あったのだろう。「自分は自分だから正しいのだ」などとがんばってないで、人の経験に敬意をはらい、さっさと受け入れていたら、何年も何年も「治らない治らない」と苦しまずに済んだ。苦しまないでいいことを苦しんだぶん、損をした。 「だから橋本先生の本にもこうしてちゃんと書いてあるじゃない」と、あきれられている。頭をかいて舌を出し、笑ってごまかすしかない。 |
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やっぱりほんものにはかなわない
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2012/01/09(Mon)
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自分の生きた時間の流れにあってメッキがはげず、化けの皮もはがれない。「私たちは宝くじに当たったようなものだった」。顔をあわせるたびそんな話になる。
自分たちにはもったいないようなものだったが、その価値が分からず軽率・乱暴にあつかっていた。二十年前、講習に参加していた頃のことを思い出すと、自分の前世でも見ているような気分になる。 本なんか見向きもせず、話を聞こうともしない。先生の講習で話される言葉すべてが退屈。出席したりしなかったりするうちに足が遠のいた。軽佻浮薄な自分に分かることだけで自分の世界をつくりあげていた。 言い訳めいたことをいえば、「今の自分」に理解できることが真実で、そのほかのこと全ては疑惑の闇に包まれる、それが人情というものかもしれない。操体法は、当時の自分の理解をはるかに超えたものだった。そしていまだに自分の理解を超えたスケールの大きさであることに変わりはない。 きちんと理解できたうえで、きちんと納得したうえで、一歩一歩安心して進められればよさそうなものだが、なかなかそうもいかない。自分の理解を超えることには手を出さないというのも一つだが、各自の好奇心や冒険心のスケールに応じて、私たちは調べたり体験したりしてみる。それが不信感や不安感をとりのぞくこともあり、好奇心や冒険心を満たすことにもなる。 「やってみないと分からない」というのは事実であるが、どこまでやったら真実が顔を出すかという問題は最後の最後まで残る。はじめに見えてきた顔が気に入らないからといってカンタンに捨ててしまうのは早計。逆に、最初に見えてきた顔が気に入ったからといって、すっかり信用するわけにもいくまい。 つきあってゆくにつれ、また別の顔が見えてくる。いつまでも同じ顔ということは、ありえない。 新しい顔がのぞくたびに、不安と安心とのあいだを行ったり来たりするのも馬鹿げている。 不安にかられて走りまわるのではなく、安心の上にあぐらをかくでもない。その二つのあいだの中庸というか、安定した姿勢と態度をつくっていくことは、一つの目標としたい。 ※操体法は自分で動きながら運動神経と感覚神経とを同時にはたらかせ、自律神経本来の働きを取り戻す運動療法です。自分にとって気持ちのよい動きを見つけ、ちょうどよい加減で動きます。 九州・福岡市内にて講習を行っております。自分の体の調整をおぼえながら、自分なりの活動を始めている方もいます。誰でも参加できる定例の講習会(参加費二千円)、少人数で申し込めるプライベート講習や個別もあります。 あなたもいっしょにやってみませんか。 お問い合わせ メール freeyourself.sotai★docomo.ne.jp (★を@に)もしくは080-1720-1097(山下) |
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どうせだまされるんだったら、でっかくだまされたい
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2012/01/08(Sun)
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最初から分かるわけがないことを、納得してから始めるというのなら、新しいこと、未知のことは何も始められない。やっていくうちに「そうだったのか!」と納得もあるが、すぐには納得できないこともあり、あらたな疑問が出てきたりもする。
自分の体験や自分の理解を伝える努力はするが、そのまま伝わることはない。各自が取り組む中で、その人なりの納得を見つけていくより他はない。しかし「やってみれば分かるよ」と言われてそのまま実行する物好きもないだろう。私の伝えようとしていることが、どの程度ほんとうのことなのかは、確かめようもないことなのだ。 あやふやな表情が浮かび、相手のおぼつかない様子を見ていると、「自分はこの人をだましているようなものなのかも」と思われてくる。「まあ、ここはひとつ、だまされたつもりで試してごらんなさい。失うものはない。うまくいけばもうけものです」などという言葉が口をつく。 自分自身、十年ほど前は「操体法などというものに、自分はだまされたのかも」と思うことがたびたびあった。 とくに年があらたまる時期などに、「操体法やって何年目か」とふと思う。それまで投じた費用を総計し、十年だと単純計算で百万超えていると思うと、高い買い物か、安い買い物なのかと下世話なことも考える自分がいる。「ふん。百万あったからって他に何に使うというんだい」と開き直るもう一人の自分がいて、「百万といえば車一台分。車一台よけいに買って何になるか。食べ物を月一万ぜいたくしてお腹をふとらせるか? なんにもしないで貯金だけふやすのか? 結局、何になるというのか」と問い詰めてゆき、「操体法にこれだけのお金と時間をかけたのは、おまえにしては上出来だ。高級な遊びと思って勉強を続けなさい」という結論に達するのである。 本年二十年目を迎えるが、自分はよほど疑い深いたちなのだろう。「だまされたかも」という気持ちが全くないとも言い切れない。しかしながら、もう二十年もだまされ続けたというのなら、それもまたすごいようなものだ。こうなったら、「よし。だまされてやる」と過激に勉強したらいい。正しく勉強を積んでゆけば、きちんとした結論がいずれ出てくる。きちんとした結論も出てこないような勉強のやり方なら、もう何をやってもやらないでも同じだから、だまされたと腹を立てる必要もないようなものである。 |
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誰も、何も、幸福の実現をさまたげるものはない。
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2012/01/03(Tue)
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もっとお金あったら、どうしますか。生活は今のままですかと問う。問われた人のテンションは多少なりとも上昇する。
「もっとお金あったら」と思うとテンションが上がるのは、日常的には「お金がない」ことが理由で行動や実現がさまたげられているからだろう。「お金」を「時間」「体力」「能力」に置き換えてみる。条件がととのわないせいでどれだけの幸福が制限されているだろうか。 しかし身のまわりを見渡してみれば、お金も時間も体力もあまりかわらないような人で、生き生きと活動している人もいれば、不活発な人もいる。 幸福実現の最大の条件は、生きているということ。そしてさらに人は「こうなればいいのにな」「こうなればもっとよかろう」というアイデアを心のどこかに必ず持っている。これでほとんどの条件は整っているともいえるのではないか。 「条件がととのっていないから、わたしはやれない・やらない」と考えて、実現に向けた行動にうつらないということは消極であり残念でもある。 チャンスがあるのにチャンスが与えられていないとカン違いしたまま過ごす人と、チャンスを見出しながら過ごす人とを見比べると、大きな違いがある。本人の自己申告はともあれ、どちらが幸せそうかは誰の目にも明らかだ。 条件がととのっていないから行動にうつらないでいるというところにも何らかの安心は、ある。体力にゆとりが出てくると、だいたい黙っていても人は動き始める。 目標の実現を優先し、「行動あるのみ」と気持ちを先走らせると苦しい。実現に向けて歩み続ける、その過程で得られる発見を一つ一つ見落とさずに喜び、幸せの源泉とする、その姿勢を大切にしたいと思う。 明けましておめでとうございます。皆さまの健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。 |
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