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一本のスプーンでも固い壁を掘っていける
2011/12/30(Fri)
「科学で証明済み」「学者のお墨付き」のラベルを貼られた情報が、職人さんたちの手で握られてはベルトコンベヤーにのせられ、ぐるぐると回っている。情報のつまみ食いでお客は腹がいっぱい。自分も何を食べたか分からないくらいに詰め込んでいる。苦しい腹をさすりながら、ああ~この情報化社会はいかんな~危険やな~と思う。

科学も立派な迷信になる。「科学っていうのは正しいもののことで、迷信は間違いということ。だから科学は科学。迷信は迷信よ」という説明では、およそ全ての自分の考えが迷信に基づくことを白状しているようなものだろう。
知識も情報も、科学ではない。科学は人の科学的な態度の中にこそ、ある。
目の前に次々とあらわれてくる情報。「これは科学です」「これはほんとです」とラベルが貼られていても、それを「まあだいたいのところは大丈夫だろう。毒が仕込まれているということもなかろう」と、気分しだいでつまむというのでは、科学的な姿勢からはほど遠い。

貼られたラベルを相手にしないところから始めたい。自分の舌の感覚を磨くのだ。
適当にばらばらにつまむのではなく、こっちの流れはこういう系統、あっちの流れはそういう系統、と分類するのもすぐに実行できる。
ベルトコンベヤーは何本にも分かれている。テレビ、新聞はそのうちの一本にすぎない。そこに科学があるのではない。テレビのプロデューサーも新聞記者も、時間をかけて一つのことを考える暇などないのだから、自分たちで「科学的です」「ほんとうです」とラベルを貼ってベルトコンベヤーにのせたもののことなど、ほとんど覚えていないのかもしれない。

私自身、迷信の迷路のまっただ中にいる。ヘタに知るよりは、ほんとはなんにも知らないほうが、と思うのだが、気づく前にすでにいろいろと注入されているのだからしょうがない。迷路にそびえたつ固い壁に、握りしめたスプーンを押し当てる。非力な手に握られた一本のスプーンでも、ゴリゴリと穴を掘っていける。穴を開けてつなげていって、自分の迷路全体がどうなっているのかを、まずは見てみたいと思っている。


※操体法は自分で動きながら運動神経と感覚神経とを同時にはたらかせ、自律神経本来の働きを取り戻す運動療法です。自分にとって気持ちのよい動きを見つけ、ちょうどよい加減で動きます。
九州・福岡市内にて講習を行っております。自分の体の調整をおぼえながら、自分なりの活動を始めている方もいます。誰でも参加できる定例の講習会(参加費二千円)、少人数で申し込めるプライベート講習や個別もあります。
あなたもいっしょにやってみませんか。
お問い合わせ メール freeyourself.sotai★docomo.ne.jp (★を@に)もしくは080-1720-1097(山下)まで。
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今日という日は昨日死んだ人があれほど願った明日
2011/12/29(Thu)
「あなたがむなしく過ごした今日は、きのう死んだ人があれほど願った明日だ」。
「わたしがこれから過ごす今日一日という日は、わたしが死ぬ前日に生きたいと願うであろう一日でもある」。
今日これから死ぬというときに、あと一日生きたいと願う気持ちなら、わたしにもあるかもしれない。
その気持ちを想像しながら、目の前に広がる「今日一日」を眺めてみる。
幸いなことに、今の自分の目の前には永遠の大地が広がっている。いつ終わりがくるかなんて、そうそう分かりはしないのだ。私たちは、自分の生命の尽きるときがくるまでは、永遠を手にしていられるともいえるのである。この永遠の大地に向かって、さあどうする。今日この一日を。

「あなたがむなしく過ごした今日…」は小説からの引用という。この文を読んで後悔することもあろうが、反発を感じることもあろう。「むなしく過ごした今日」といきなり上から目線で言われても、困る。
「あなたがむなしく過ごした今日は…」という言葉を初めて耳にしたのは十数年前。「ねえこんな言葉、聞いたことある?」と誰かが話していたのを小耳にはさんだ。それは一日の終わり。夜のことだった。

二度目に聞いたのは昨日で、朝、登山口に向かう車の中。
「きのう死んだ人があれほど願った明日」。その明日という一日を、別のものに置きかえてみる。たとえばお金が手に入らない人の欲しがっている札束。病におかされた人の望む、体力というもの。とにかく手に入りっこないものだ。
それを自分の目の前で、いともカンタンにティッシュのように使ってゆくという行為をやる人間がいたとしたら、これ以上いやらしい行為はない。それが「むなしく」過ごす行為に相当する。なんて嫌味な、となる。

小説からの引用だから、書いた人の意図はこの一文だけでは分からない。しかしこの一文を取り出し、引用した人の意図は、何だろう。
「生きていることは素晴らしいチャンスだ」と言いたいのは分かるが、「むなしく過ごした」と思うこと自体をいましめているようにも思えてくる文だ。「今日はとくになにもせずムダに過ごしちゃったな~」と感じることがあったとしても、「いやいや、これもまた貴重な一日の一つだ」と考え直す。そういうこともありうる。

交差点を通過していくうちに、私の頭の中で文が書きかわっていた。
「わたしが過ごす今日一日は、わたしが死ぬ前日に生きたいと願うであろう一日でもある」。
少しスッキリした感じ。
今日これから死ぬというときに、あと一日生きたいと願う気持ちなら、わたしにもあるかもしれない。
その気持ちを想像しながら、目の前に広がる今日一日を眺めてみる。
幸いなことに、今の自分の目の前には永遠の大地が広がっていた。いつ命の終わりがくるかなんて、そうそう分かりはしない。終わりがくるまでのあいだ、私は永遠を手にしていると言っていい。この永遠の大地に向かって、さあどうする。今日一日を。
そういうふうに感じた。これから山を歩く自分には、そのほうが都合がいい。

そもそもの話、今日これから死ぬというときに「あと一日だけでも」と願うことは、よい状態だとは思えない。今日これから死ぬというときでは遅い。そして一日にできることも限られている。限られている一日のようなことを何度繰り返してみても、どうにもらちがあかない。そのようにも思われる。

だからわたしは余命宣告なんか受けないまま死んでやろうとつねづね考えている。
どっちみち死ぬのだ。
当たるかはずれるかも分からないような余命宣告につきまとわれて振り回されていたらそれこそ悲劇。
自分の中からしみじみと「ああ終わりなんだな」と分かってくるような死に方。もしくは、自分の目の前に永遠が広がっているとさいごまで信じて、前に向かって倒れてそのまま息絶えているか。
今のところはそのどちらかしか、自分には想像つかないのである。
年末というときに、こんなことを考える。終わりということを考えてしまうのだろう。
終わりは何かの始まりだという。この世で過ごす終わりには、何が始まるのか。なにも始まらないとは限らない。むしろそっちのほうがだいじなものかもしれない。


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自分の都合をかき集め、自分で迷路を作ってゆく
2011/12/27(Tue)
サギという犯罪が残酷なのは、自分で自分の墓穴を掘らされる点である。電話でいきなり「オレだよオレ」と言われたら誰だって困る。興味深いことに「オレはオレだよ」という言葉にウソ偽りはない。自分は自分だと主張されて困るのは電話をとった側だけだ。「オレだよオレ」と詰め寄られるうちに、奇妙な孤立にさらされるのである。

「さあ誰でしょう。あなたが特定してごらんなさい」というのが「オレだよオレ」のセリフの中味だろう。「あなたが誰なのか分からないままでは話ができませんよ」と相手をひっくり返せばよいのだが、ふと相手の名を特定してみせると「そうだよ」とあいづちが返ってくる。あいづちは共感である。共感を得てホッとした瞬間に、人は偽りの安心に迷い込む。
サギというのは誤った情報が最小限に抑えられたとき、相手がちょっとした迷路の中に孤立させられるときに生じやすいのだろう。道に迷って孤立した人は、少しでも安心を得られそうな流れに身をまかせ、奥へと奥へと自分から迷い込んでゆく。

科学と宗教。宗教は人それぞれで、キリスト教を信じる人がいる一方で仏教を信じる人がいても、誰も不思議には思わない。しかし科学のほうはいつでもどこでもあらゆることにあてはまる、普遍的な真実だと思われており、一般にはそうでなくては困るとさえ思われている。科学的な話だと聞けば、そのまま普遍的な真実と思われやすく、万人にあてはまることだと思われやすい。
「科学信仰」「科学崇拝」という言葉が表現するのは、こういう状況だろう。

宗教はあぶないが科学は安全、だろうか。宗教のことは分からないが、科学のことなら誰にでも分かる、そういうものだろうか。そして、科学が進んだら医学も進むのも当たりまえ、なのだろうか。
「医学っていうのは安全。だって人を救うのが医学なんだろう? それに今の医学は昔とちがって、科学的な根拠に支えられているはずじゃないか。科学が進んだから医学も進んだんだって、テレビでもそう言ってるぞ」。
科学を信じることにあまりに無防備になってはいないのか。ある日ある時、フタを開けてみて「そんなことは誰も言ってません。あなたが自分で勝手にそう思い込んでいただけじゃないんですか」と言われたときに、逃げ場が残っていればよいのだが。

迷信ではない宗教を見つけるのはむずかしい。迷信でない宗教はあっても、信じる側が迷信にしてしまう。同様に、迷信ではない科学を見つけるのも苦労ではないのか。
必ずしも宗教があぶないのではなく、科学があぶないのでもない。受け取る側の姿勢によっては全てが危険になりうる。自分の都合をひとまず脇に置いて、あいまいな点を一つ一つ崩していく。迷路の建て増しや複雑化を避けたければ、時間と手間は惜しむべきではない。時には自分のありったけを投じてでも調べることを怠ってはならない場合もある。情報の内容と、その発信元の立場とを関連づけながら、あやふやな自分を少しずつでも確かにしていく以外、方法はないように思う。

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「これくらいでいいだろう」と落着く自分を時には突きくずす
2011/12/24(Sat)
分からないこと・あいまいな点は質問・確認するよう努めている。あいまいにしておくと自分の都合に合わせた流れをこしらえて、「こうだというのなら、この場合はこうでよいだろう」と自分一人の解釈をするようになるからだ。「少しくらいちがうところがあっても、このくらい許容範囲だろうから」というところで落ち着くのだが、それが「少しくらい」なのか「許容範囲」なのか、そこのところからして自分の都合中心の、あいまいな解釈である。

ラクなほうをえらぶ。それが操体法の根本で基本で、それが誤解のもとにもなるようだ。自分で正しいと思う以上の根拠もないようなことを、いつの間にか信じ込んでしまうのである。
橋本敬三の著書には省いてよい言葉は載っていない。
しかし読むうちについ、「この点はパス。この点は受け入れる」などと選別し、まったく別の世界に入り込む。
橋本先生は「何がほんとうのラクなのか。そこのところは単純ではない」と言っている。
ラクを選んでいったつもりで動きのクセや思考のクセに流されて、その場その場の自分の都合に合わせていくのなら、それまでと大差ないことになる。しかし橋本先生は「ラク」によって「クセ」とり、「万病を治せる」のだと言っている。その点はよくよく考える必要のあるところだ。

20年近く操体法をやってきて、何年もあいまいにしておいたところのフタを開けてみて、初めてアラ~と驚くようなことが少なくなかった。あらあらと驚くたびに修正して、少しずつ少しずつ操体法の世界に自分を近づけてゆくのだが、ふと気がつけば「まあこんなもんだ」で胡坐をかいている。「まあこんなもんでしょう」で間違ったまま平気で済ませていく自分自身には、実のところ驚かされっぱなしである。
「このくらいでいい、と自分で思っちゃうと、そこで終わり。もう伸びないですね」というコメントを、なにかのインタビューで耳にしたことがある。少々きつい言い方に聞こえ、そこまで追い詰めないでも、とその時は思った。しかしそれでもやっぱり突きくずさなければならない時もある。いつ、どこをどう突きくずすかは、自分自身でやっていくと分かってくる。

講習を毎週開き、自分も指導を受けに出かけてゆき、つねに見直しをせまられる。「これくらいでいいだろう」という自分がつくられては突きくずされ、突きくずされてはつくられる。おかげで老け込んでばかりもいられない。今年さいごの講習を終え、これからもまた、あらたな気持ちで取り組もうと思った次第である。

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ならぬ堪忍するが堪忍…感謝に生きられるか
2011/12/17(Sat)
感謝すべきことに感謝するのは当り前だが、とうてい感謝できないことにも感謝するのが感謝に生きることだと言われる。生きてれば腹の立つこともある。そんなときいちいち「ありがとうございます」と言うとすると、実行は難しいだけでなく、一見バカバカしくさえ思われる。心に反してなら言えても、心からそう言えるだろうか。

棒で打たれ、棒に腹を立てるサルの姿を見たことがある。「それほどにサルはバカだ」と一笑に付すのも結構だが、人にも同じことがある。
自分で壁にぶつかったのに、その瞬間「やられた!」もしくは「ハメられた」などと思ったりする。周囲に人もいない、敵なんかいないのに、「誰かにしてやられた」という気持ちがどこかにあって、「壁がこんなところにあるからいけない」と腹を立てたりなどすれば、自分で自分を間抜けな被害者に仕立て上げるようなことにもなろう。子供のころから自分にはそういうところがあって、自分自身でも不思議だった。とくに顔面を打つと、そういう気持ちが起こりやすく、一人勝手に敗北感を味わい、悔し涙を流さんばかりということさえあった。

数日前に顔面をしたたか打った。前のをおぼえてないほど久しぶりのことで、打った瞬間、自分の心に疑念やわるい感情がもたげていないか、のぞいてみた。幸いにも「今の衝撃でどこにコリが入ったか」という関心が心を大きく占めていた。すぐに癒動操体を始める。体の動きに身をまかせれば気持ちは元のところに戻ってくる。
痛みよりもジーンとしたしびれが顔面を覆っている。自然麻酔とでもいおうか、負傷のときに苦痛を感じない数々の体験例があるのを思い出す。骨折直後に走って逃げた人の話。自分の手足を野生のクマにかじられるのを無痛で眺めていた話。身体はある一定以上の苦痛を受け付けないしくみを持つ。そんなことを思う。

苦痛は絶対ではなく相対的なものだが、それでも一定の苦痛はある。それが体のコリを取ることにより、減ったり消えたりすると言われる。ビクビクすることはない。苦痛を受ける機会あるごとに試すチャンスがめぐってきたと思えばいい。
衝撃を受けたらできるだけ早く調整を始めると、後がちがうという。

顔面のしびれが消えてゆく。雲散霧消という言葉がぴったりだ。体の各所では、ぐぐっと伸びが入ったり、すっと力が抜けたりが繰り返され、腰が妙な方向にねじれたりする。この動きすべてが、自分で「こうしよう」とか、「こうすればいい」といった考えなしにおこるのであるが、いずれも非常に気持ちのよいものである。腕のいいマッサージかあんまでツボを刺激してもらうような快感。姿勢によって、もしくは力の入り具合・抜け具合によって、痛みは強くなったり弱くなったりし、そのうち消えていく。
なるほど。不自然な痛みは不自然な体の条件をととのえれば、消せるというのは確かだと思った。生老病死の苦はあるだろうが、不必要な苦しみが用意されているのではない。恐れる必要はなかろう。体の設計にミスはない。その設計に身をまかせるのが最上ということだ。

癒動が止まる。手で顔を触れてみると、もうただのふつうの打ち身。思わず「ありがとうございます」と言葉が出る。顔を打ったことも含めての感謝。これがまた回復を速やかにする。結局はすべてが自分のためということになる。
私の周囲にも癒動できる人が増えてきた。癒動できる人のあいだでは、かなりの困難をこれで切り抜けられたという体験例が数多く共有されている。
癒動できるようになった方は、癒動を自分の役に立てられると同時に、周囲の方々にも癒動を広めてみてはいかがだろう。


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ご先祖の力強い息吹が感じられるメッセージ
2011/12/16(Fri)
大正末期の文章の中に「科学技術の恩恵を受けているはずが、かえって病弱者が増えているのは辛らつな皮肉だ」との指摘。
「今の現代人のストレスはレベルが違う。昔の人はよかった。現代人は大変」とよく聞くが、どの時代にも、その時代に特有のストレスなり困難なりは、あるように思う。しかし大正末期に書かれた文章にすでに、自然から離れてゆく生活の中で、人は健康を享受できなくなっているということが指摘されている。軌道修正がなされないまま突っ走った結果が、今日の生活といえるだろうか。現代に続く未来はどういうことになるのかを考えずにはいられない。

「…身體を作ることは、是れ各人の自己保全のために要する最良の方策にして、最大の責務と云ふべし」
「…他物又は他力に依頼すべきものにあらず。自力を以てする方法こそ吾人が生存の本義に徹底するものにして亦最も自然と云ふべきなり」
旧漢字の並ぶ文語体の文章は、まさに温故知新。86年前に活躍していた一日本人の、力強い息吹が感じられる。過去からの貴重なメッセージと受けとめたい。
谷口書店から復刻版が出ている。高橋迪雄著『正體術矯正法』。操体法のご先祖である。


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自らの痛みや苦しみを小包にして、自分の宛名で発送する
2011/12/14(Wed)
健康法は人の数だけある。
一人の役には立っても、他人にも役立つ健康法ともなると実に数は少ない。
できるだけ大勢の人に役立つ健康法のほうが、より多くの共通項を包括し、より客観性があると思われる。
最大公約数を求めるということは、健康法選びに重要なポイントである。

ではこの逆はどうだろう。
一つのやり方を、最初から万人にあてはめるという発想。
何人かの役に立ったことは、万人にもあてはまるはずという見込みで事にあたったら、どうなるか。
誰かの役には立つだろうが、誰かの役には立たない。マイナスの結果をもたらすことも出てくる。それでもなお、誰かの役に立つ限り、一つのやり方で統一をはかる。そういう考えもあるだろう。

マスコミの影響もあり、今や健康法といえば、万人に効果をもたらすという受け止め方が当たり前になって、吟味なしに飛びつくという格好である。
そのうえ日本には、世界に類をみない医療の格安制度がある。なぜ日本だけそうなのかはここでは問わないが、何事にもよい面とそうでない面がある。格安な医療といっても、メニューは行政のほうで画一化してある。画一的な医療に慣れっこになった日本人にとって、治療のやり方が一本化しているほうが当然で、人の数だけやり方があるというのはバカバカしいと思われるかもしれない。

それでもなお、健康法も治療のやり方も、人の数だけあるといえるだろう。健康法も治療も、苦痛を取り除くという目的がある限り、人の数だけあると言わざるを得ないのである。人の痛み苦しみは、その人独自の、固有のものだからだ。自分の苦痛を他人にぜんぶ分かってもらうわけにはいかないし、分かってもらえるところだけ分かってもらって済ませられる問題ばかりでもない。
自分の苦痛の一切合財を小包みにして、名医や名人の宛名を書き込んでも、向こうのほうでは受け取れない相談だ。開けられることもなく、玄関にそのまま山積みにされているのかもしれない。

小包の宛名は、自分自身。
苦あれば楽あり。楽だけをして、苦を排除したくなるのも人情だが、苦しみをどう受けとめ、どう乗り越えるかがまた、楽しみの味わいを左右するのではないかと思う。


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新しい風景が目の前に広がってくる
2011/12/06(Tue)
広い砂漠を歩き通しに歩いて、ふと気がつくと人の足跡。自分たちが何時間も前につけた靴跡である。
新しいことをいろいろやっているつもりが、実は何一つ新しくないと気づく。
砂漠の砂の上につけた自分の足あとを、いつの間にかなぞっているのではないか。いかんいかんと思って、今度こそはずれようとして、わざと反対側に曲がってみたり、そのまま突っ切ったりする。しかしそのうちどこかしら見知った風景に囲まれていて、ああまたか、と思う。

広い砂漠を歩くと本人はまっすぐ歩いているつもりでも、重心のよけいかかる足と、重心のかかりにくいほうの足とがあって歩幅がちがい、また上体のねじれやすいほうは思い切りよく腕を振り、ねじれにくいほうは腕が振りきれず、そんなことの積み重ねで回り回ってどこにもいけないということである。

すぐ分かることにしか目が向かない。前にやったことあったり、以前から知っていることには共感しやすい。ラクなほうへラクなほうへと流れてゆくとマンネリズムに陥る。いつの間にか見慣れた風景の中。見飽きた風景ばかりが目に飛び込んでくる。これが世界の姿、宇宙の姿であると思い込む。
分かりそうにもないことに、あえて首を突っ込み、やったことないこと、知らなかったことを求め続ける。そうしているつもりが、ふと気がつくと、また似たような道へと入り込んでいる。そういうのは誰しもが持っている心のクセゆえではないのか。
新しいことでも、新しい取り組みでなければ、いずれは新しくないところに戻ってくる。すでに自分の身についた思考回路で済ませようとするのはラクということであり、クセといえる。

ヨガをやっても自彊術をやっても真向法をやってもウォーキングをやっても、すでに小さい頃から体操やストレッチをやって身につけた積み重ねがあって、それと同じやり方で動いてしまう、体の感覚。
自分の体の重心がどこにあって、動くときどこを支えとし、力がどう流れてどういうバランスをとりながら、動きをつくっているか。心の流れも動作の流れも、放っておけばいつの間にか固定してしまう。
子供のころに身につけた神経回路をやりくりしながら一生体を動かしていく。そんな話をどこかで小耳にはさんだおぼえがある。真偽のほどは分からないけれども、なるほどと思う部分もある。いったん身についた、ものの考え方ものの感じ方で全てを割り切ろうとするというのも、似たようなことだろう。

操体法で自分なりに取り組んでいる課題は、自分の中からほんとうの意味で新しいといえる動きを見つけるということである。身体バランスの新しい流れをどれだけ見つけられるかということ。
体の動きのクセ。意識の運びかたのクセ。それが自分でほんとうに分かって確認できれば、少しずつだけど確実に変わってゆける。小さな変化の起こる前後の違いに気づく感覚はここで重要となる。
似通った風景ばかり目の前にあると思っていたのが、ふと気づくとがらり変わっている。ほんの少しの変化の積み重ねというのは面白い。


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心身の生命活動を長い目で大目に見てやるということ-心身をアナログに見る-
2011/12/03(Sat)
どんな広い所にいても、杭を打たれてロープを張られ、ここから先の地面に入るなと申し渡されたらどうだろう。さらに囲いがじわじわと狭められたら、どうか。閉塞感にさいなまれつつ、小さな囲いの中で生きることを上手に身につけてゆくか。それとも杭を抜き、ロープをまたいで「これが自分の生き方なんだ」と開き直るか。

ある日あるとき検査の基準値という杭を打たれ、「ここから先に一歩足が出れば治療対象にしますよ」というロープが張られるが、その根拠となるデータはあいまいである。そのうち誰も知らないままに基準値がじわじわ狭められ、制限がきびしく設定されてゆく。基準値を守りながら暮らそう暮らそうとすると、だんだん自由がきかなくなる。この閉塞的な日常に耐える工夫を一生懸命に考えながら過ごすことになる。

医療の発達によって、生命活動をデジタルに見てゆくことがふつうになってしまった。
血糖値や血圧、コレステロールなどの基準値が、日常生活の行動と単純に直結させられている。毎日食べる塩分、野菜の量、毎日の歩数に運動の時間数、睡眠の量…。
数値を気にして基準値のロープの囲いの中から一歩も足を出さないことを互いにほめあいながら、基準を守って生きることを生活の指針や目標にする。そんな人が、そんな生き方が、どんどん増えてはいないだろうか。
そんな日常の中でいつの間にか、アナログ的な生命の見方・生き方が、失われていってはいないだろうか。

もともと生命活動とは自然のはたらき。デジタルではない。完全にアナログである。
自然のふるまいは精密であると同時に、おおらか。おおらかであると同時に、精巧。検査でとらえきれるものではないという前提がある。たとえば天気はコロコロ変わる。毎年やってくる夏にせよ冬にせよ、同じものはない。気温に集中して平年と比べたり前年度比較をするというのは、あくまで便宜上のことだが、日常を割り切って過ごすうちに、いつの間にか天気の本質を見失い、そんな割り切りようで全て分かる気になってしまう。それが人情。

体のほうは、ただ暑いからどう寒いからどうというのではない。三十数億年の経験にもとづいた予測もふまえて環境の変化に対応している。生命は多様な環境条件を想定し、いろんなことを見越して心身をコントロールしてくれている。
むかしの人は、いろんな自然現象を感じ取り、予測ができた。しかし私たちは、気温はこうで湿度はこうですと、いちいち数字で示されないと、暑さも寒さも具体的に感じとれなくなっているような状況。
天気一つをとってもこういうふうだから、自分の心身のことなど、わけが分からなくなっている。
検査で確認しないと不安、足がロープからはみ出せばパニックになり、はみだしていようとはみだしてなかろうと一生薬を飲まずにいられないというのは、自分の身体感覚を鈍くしていることを意味してはいないだろうか。

大目にみるというのは、どうでもいいというのとは違う。肝心のところを押さえてあれば、いちいちパニックにならずに済むということだ。
検査の数値は生命のはたらきの肝心のところを押さえているか押さえていないのか。
一考を要する。


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この記事のURL | 健康に振り回されないために | CM(2) | TB(0) | ▲ top
あらゆる生命現象に健全かつ正常な点を認めることはできるか-福岡操体法スタジオの講習会 freeyourself.sotai☆docomo.ne.jp(☆→@)-
2011/12/02(Fri)
落葉の季節。植物が葉を落とすとき、病的なのと生理的なのとに分けることができる。秋の紅葉を、植物の病気だと騒ぐ人はいないが、春の紅葉なら異常が心配されるだろう。
人間の場合には秋だろうと春だろうと「落葉を見たら病的と思え」と騒ぐことが少なくないように思われる。
なぜか。
病的かそうでないかの見分けに、確たる証拠が示せないのが主たる理由と思う。

こういう意見も、ある。
落葉のすべてが生理現象。それ以上でもそれ以下でもない、と。
異常事態をあらわすこともあるが、それもまた、異常事態に対応した生命の判断であり正常な反応ともいえるということだ。
生命にとって必然な生理現象として見れば、落葉そのものを騒ぐのは賢明ではない。
その生理を引き起こす要因をみて、要因をいかに取り除くべきか、検討・判断すればよい。

しかし落葉という現象を見れば落葉防止剤をまきたくなるのが人情。落葉防止剤とは単純明快である。
葉っぱに落ちてほしくないという、人間の側の意図がよく見えるという意味で、単純かつ明快なのである。
しかし植物だってバカじゃない。葉を落とすことで生き延びるチャンスをつなごうとすることもある。
葉が残ると不利だから、葉を落とす。病気も落葉も、生き延びるためにとられた生命の必然の手段ともいえるのではないか。

異常とか病的とかいうのも、人間の都合で虫を害虫と益虫に機械的に分けるのと同じで、実際にはあらゆることが「しぜんなこと」。自然法則に反したことは、なんにも認められない。
目先の都合をちょっとだけ脇に置き、この都合のわるいことにもまた、自然の当然の判断がある。そう思ったところに、べつの風景が見えてくるかもしれない。


※操体法は自分で動きながら運動神経と感覚神経とを同時にはたらかせ、自律神経本来の働きを取り戻す運動療法です。自分にとって気持ちのよい動きを見つけ、ちょうどよい加減で動きます。
九州・福岡市内にて講習を行っております。自分の体の調整をおぼえながら、自分なりの活動を始めている方もいます。誰でも参加できる定例の講習会(参加費二千円)、少人数で申し込めるプライベート講習や個別もあります。
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