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そのときテレビカメラはまわっているか-福岡操体法スタジオの講習会 freeyourself.sotai☆docomo.ne.jp(☆→@)-
2011/11/25(Fri)
アトピーで泣く顔に病院の薬を塗ると、わずか数日で笑顔になる。そんな映像を日常的に何度も見せられる。
その顔がふたたびくずれるとき、テレビカメラはもういない。笑顔と泣き顔を繰り返しながら悪化するのがアトピー。時には何年ものサイクルをかけて起こる悪化である。気をつけて見ていない人の目には、その特徴は見落とされる。

番組で紹介された薬はステロイドホルモン。どこにでもあるふつうの薬。もう何十年も前からある塗り薬。
半世紀前おぎゃあと生まれた私がすぐに洗礼を受けた薬。何度も裏切られ続けながらも20年近くしがみついた薬でもある。病院にもまじめに通い、医者の指示にも従った。病院と薬に20年つきあったから卒業、ということはなかった。
わずか数日で笑顔になる。その笑顔がどのくらいの大きさのスマイルで、どのくらいの期間保てるのか。
それは個人差がある、という内容のテロップが一瞬、映る。番組の構成が、個人差を無視させるつくりになっていることを番組製作者みずからが認めたようなものだ。
「病院行けば治るよ」という以外に、どう受け取りようがあるというのだろう。悩む多くの患者さんたちを励ます善意でつくられた番組だとでもいうのか。

アトピー体験者の大半は、テレビの画面上で何が起こっているか、よく分かるようだ。
私の母と同じように、病院まかせにした結果、家中をアトピーの子供だらけにしてしまったお母さんのそばで、別のお母さんが、「うちの子たちは最初に出たとき、治るんじゃないかと思ってどこにも連れてゆかずに放っておいたら、短期間できれいに消えたよ」と笑う。こういうシーンにテレビカメラが向けられることは、ない。

むろん結果は一様ではない。個人差だけではなく、時と場合によっても異なる。
「個人差」とはまぐれや偶然ではない。一人一人の体の事情をはじめ、生活の要素が交差しており、「ほら、これですよ」とズバリ一つに絞って指摘できるものでもない。「泣いた顔が笑った」というような、単純明快なストーリーは、まずありえない。あったら完全なフィクションである。
こうしたテレビ番組は明らかに偏っているし誤解を与えずにはいられない。医者の中にもステロイドホルモン剤を批判的に見る意見が少なくない。ステロイドホルモン剤から離脱して改善したケースも少なくない。
公正につくる番組であるのなら、病院に行ってよかったケースと、行かなくてよかったケースの両方を出すべきだろう。時間の制約とか、多数決の原理とか、テレビの限界だとかいうことでは済まない。偏りや誤解を避けること。それは報道の根本、根っこではないのか。

公共電波の「公共」の意味が、メディアと一般視聴者とではまったく違う。
メディアのいう「公共」とは「国」である。「国の意見と方針」。「建前」というのに近い。しかし視聴者一般のいう「公共」とは、「国民一人一人の、思想や信条のちがいを対等として認める」という意味ではなかろうか。むしろ誰の気にもとめられない、あの一行のテロップで片付けられた「個人差」のほうに、私たち視聴者一般の「公共性」があるのではなかろうか。

「ステロイドが何十年もの間、力を発揮できなかったのは、患者の塗り方がわるいから」というのが、新聞でもテレビでも申し合わせたように言われている。ケチケチせずにたっぷり塗る。治ったように見えてもさらに使い続ける。塗るときはこすってはいけない。「その三つを守ることくらいですね、アトピーの治療は」とカメラに向かって医者が言う。アトピーを知らない人間なら誰だって「なんだアトピーの連中はそんなカンタンなことをいつまでも騒いでいるのか」と思う。「こんど悩んでいるやつがいたらオレがきちんと教えてやろう」などとも思うだろう。

さいしょから見る気がしない番組だった。周囲が話題にするだろうと思って録画していただけだ。
「こんなの何度も見せられちゃ、こっちだってその気にさせられちゃうよね」。私たちは笑った。そしてそのうち泣けてきた。
「ここまでアトピー患者をコケにした番組もめずらしいよね。情けないよね。バカにしてるよね」。
病院でもらう薬は当然ながら大企業が製造し、国が認可したものだ。
その効能を、公共電波の代表格とみずから称す某テレビ局の番組で繰返し流す。
「その、どこがわるい」と言ってはばからないメディアの人々の姿に向けて、テレビカメラが回される日は、来るのだろうか。


※操体法は自分で動きながら運動神経と感覚神経とを同時にはたらかせ、自律神経本来の働きを取り戻す運動療法です。自分にとって気持ちのよい動きを見つけ、ちょうどよい加減で動きます。
九州・福岡市内にて講習を行っております。自分の体の調整をおぼえながら、自分なりの活動を始めている方もいます。誰でも参加できる定例の講習会(参加費二千円)、少人数で申し込めるプライベート講習や個別もあります。
あなたもいっしょにやってみませんか。
お問い合わせ メール freeyourself.sotai★docomo.ne.jp (★を@に)もしくは080-1720-1097(山下)まで。
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医者との相談は大切にしてきたが、体との相談がスッポリ抜けていた-福岡操体法スタジオの講習会 freeyourself.sotai☆docomo.ne.jp(☆→@)-
2011/11/23(Wed)
ホルモン出したり出さなかったりは、24時間態勢で体がウォッチして、気の遠くなるほどの微量を絶妙なタイミングで加減される。他のホルモンどうしで関係をつくりあい、それは人知を超えており、「まだわかっていないことが多い」というお決まりのセリフで表現される。その言葉には、人間の負け惜しみも含まれている。「今はわかってはいないが、今に全部わかります。人体なんて命なんて所詮わかるようにできているものですから。まあ我々にまかせていなさい」。

すでに分かっていることも、ある。一つのホルモンが単独ではたらくのではないということ。一つのホルモン足りないのには、いもづる式に、いろんな事情あっての、命の自主的な判断だということ。一つだけホルモンが足りない。そんな単純なことではないということ。
とりあえず足りないと分かっているホルモンを補ってゆくとどうなるか。いつ、どういうことをもたらすか、については科学的に分かってない、ということが分かっている。
「くわしいことは分からなくても、大まかなことが分かってるんだからいいじゃないか」ということだろうが、くわしいことが一つ分かるたびに、大まかなことが平気で塗り替えられる。だから小さな発見も大騒ぎされる。そうではないだろうか。

ホルモンは24時間態勢で体が見張って管理されている。人間の感覚からすると気の遠くなるくらい微量を、微妙な加減で出したり出さなかったりしなければならないような、取り扱い注意の危険性ある物質だ。そのくらいのことも私たちは知っている。
一日何錠かを何回かにわけて服用するというのは、実はまとめてホルモンを体に足すことになる。本人の脳の判断を素通りして、毎日毎日同じだけ服用を続け、三年も五年も十年も、人間が満足するまで外からおぎなう。これはこの数十億年の進化の過程では想定外である。
それこそどんなことが起きるか、「まだ誰にもわかっていないことのほうが多い」ということ。
進化の想定とちがうことをやれば体に備わった自然のメカニズムは乱されてゆく。そのくらいは人間のほうでも分かっている、はず。

最初カンタンに飲み始めたので、離脱も最初はカンタンにやる人が多い。すると、始めるのはカンタンだったのに、やめるのは難しいということが実感される。個人差は大きいが、飲み始めのときの症状より、かえってひどい目にあう場合もある。
「あ、自分の体、こんなことになっていたのか!」自分自身の実態がはじめて分かる。
薬の量を減らしたり服用をとびとびにしてみたり、また少し量を戻したり。体調にあわせてこまめに調整することは、本人以外誰にもできるものではない。医者に毎日会うわけにもいかないし、いちいち電話やメールで「こうしたらこうなりました」と相談するわけにもいかない。医者も処方箋書くのは知っているが、その逆については保険点数つかないという制度の中の住人である。
結局は、自分の体とよく相談するしかない。
医者に相談するのはだいじにしてきたけれど、何よりもまず自分の体と相談しあうということが、抜けていたのである。

命のはたらきは、命にしかできない。
お口にポンと入れるだけの薬。頭痛も腹痛も難病だって、まかせとけ。命のはたらきなんてそんなものっていう、心強い気持ちにさせてくれる。
しかし、生命っていうのは足りないものをつくっておぎなおうとする。よけいにあるものは捨てて、つくるはたらきを止める。足りないからといってホルモンおぎなうと、体はホルモンつくるのをやめる。なぜホルモン足りないか、わからないまま、足りないホルモンをそのまま足す。これではどんどんホルモンつくれない体になって、自立できなくなっていく。

命の自主的なはたらきを考えず、命の役割を薬に肩代わりさせようとする。しかし薬は命のはたらきをするわけではない。
薬で済ませてきたつもりのことを、いったんひも解いてみる。薬の量や回数を減らし、自立をはかりたいのなら、薬を減らした分を、考えや行動でおぎなって、体の自立をはかる方向に進む必要がある。
考えてみれば当たりまえのことだった。つい薬でカンタンに済ませていた、命のはたらきのことである。


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どこを押しても痛くない苦しくもない疲れもしない-福岡操体法スタジオの講習会 freeyourself.sotai☆docomo.ne.jp(☆→@)-
2011/11/20(Sun)
吸っては吐くのを繰り返す呼吸のごとく、つくっては崩し、崩しては新たにつくるのが生命の生きるはたらきである。少しもじっとしていないリズミカルな不安定を保つ、生命の一呼吸一呼吸に対して一喜一憂するのはムダというものだ。

「一体どうなりたいの?」訊かれて母は「体のどこをどう動かそうと痛くも苦しくもどうもないようになりたい」と即答し、周囲の失笑を買う。
健康というのは疲れもしないし、体のどこにも一切支障がないという。ヨガをやっている人などが「あたしはどっこも、どうもない」と豪語してみせると、そういう体があるものと思い込み、自分にはそれが与えられていないと嘆いて、ひがみ、ねたみ、悔しさ、羨望といった感情に心を乱されるらしかった。

新体操の選手やスポーツ選手から目が離せない。あんな強い体、あんな自由な体で、やりたいことをやりたいようにやっている。らくらくと都合よく生きている。そのように思われるのである。
しかし彼らも生身の人間である以上、どこかしら心身に弱点を持ち、それを自覚もしている。体にしょっちゅう支障をきたし、無理を通してもいるのかもしれない。引退後にはそのしわ寄せを引き受けて生きていくのである。
母はそんなことには理解を示さず、テレビ画面に映る彼らの晴れがましい一瞬の姿を見つめる目には、羨ましさを越え、憎しみに似たものさえ浮かんでいる。

確かに痛みは異常を知らせる警報だけれども、あえて誤解を恐れずに言うと、痛みをスッカリなくしてしまうのが健康のゴールとするならば、それはほとんどの人の手に届かない永遠の理想でしかない。
人として生きる限り、生身の体である限り、ある程度の不便や苦しみは伴う。それはブッダが言ったことだ。生きるというのは一切皆苦である、と。

貧しい人が、金持ちを目指して生きるということもあるかもしれない。
体の弱い人が、体の強い人を目指して生きるということもあるかもしれない。
確かに金持ちには貧しいゆえの苦しみはない。しかし金持ちゆえの苦しみはある。貧しいのと金持ちと、どちらが余計苦しいかなど、カンタンには分かりっこない。
自分の体が弱いと思う人が、強さを目指してトライアスロンに出場することができたとき、そこにもまた、生身の弱さがあり苦しさが待ち構えているということを知るだろう。

考えられる限り有利な条件がそろっているように見えても、人間はしょせん人間。生きる苦しみから一切合財解放されたいという気持ちは私にもある。しかし本気でその実現を考えると、人間のままでは救われないと思えてくる。
人間の持つもの、心身の条件も全て含めて、いつかは変化し、失われる定めである。健康になったと喜んだのもつかの間、その微妙なバランスが、季節や生活の変化など何らかのきっかけで崩れ始める。しかし生きていれば崩れたものが新たに再建されたりもする。吸っては吐くのを繰り返す呼吸のごとく、つくっては崩し、崩しては新たにつくるというのが生命の生きるはたらきである。少しもじっとしていないリズミカルな不安定を保つ。その生命の一呼吸一呼吸に対して一喜一憂するのはムダというものだ。
ずっとずっと昔にブッダの唱えた「万物流転」ということである。

心身の平穏と安定である健康を本気で追求してゆけば生身の人間の限界が見えてくる。
ほんとうの意味での平穏とは、どういうことなのか。
永遠に失われない健康とは、幸せとは、一体何なのか。
本気で突き詰めてゆくと、ブッダの姿が見えてくるように、私には思われる。
ブッダの言っていることと、健康の道と、どこに矛盾があるだろう。
ブッダは宗教だから健康とも医療ともちがうというのも、それは考えかたの一つだからもちろんご自由である。


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どこに逃げ込めばよいか。避難先をどこに求めればよいか。-福岡操体法スタジオの講習会 freeyourself.sotai☆docomo.ne.jp(☆→@)-
2011/11/19(Sat)
患者として生きていたころ、自分の願いを叶えられるユートピアを求めて渡り歩いていた。
新しいユートピアでは歓迎パーティーが開かれ、私は壇上でいかに苦しい旅をしてここまでたどり着いたかを訴える。パーティーの興奮がさめ、思わしくない結果が続くと、新しい旅立ちの用意を始める。

似たような旅ガラスを続けていた身内から、操体法のことはきいた。その人は未だに旅を続けているが、自分は結果的に見れば、ここに根をおろしたといえる。
いや。根をおろし、根を張っていくのはまだまだこれからである。
健康法を人に勧めたり話をすることはあっても、自分はどこか患者団体の一人として口をきいていたのではないかと思う。
困ったときどこに逃げ込めばよいか。どこに避難先を求めればよいか。そうしたことだけを意識の中心に据えて生きた期間が私は長すぎた。

「あなたこそあなたの主治医」だとか、「体には名医が住んでいる」とか、ときにはいいことを口ずさんではみても、患者のユートピアに託す夢は燃えさかる大火のごとし。
医原病とかお薬の害とか叫ばれて久しいけれども、いかに経済が低迷しようと、お薬の売れ行きは右肩あがり、医療費は増大する一方。高度医療という名のユートピアや救世主に寄せられる期待を逆から透かして見れば、寄りかかりの姿勢が見えてくるように思われるのは私だけだろうか。

知人が薬から離脱に成功するまでの体験を話してくれた。完全離脱するまで二年かかったという。結局は薬を自分で少しずつ減らしながら、生活の見直しに取り組んだということ。生活を見直すということは、あらゆることの出発点を自分自身の行動の中に求めるということ。我が身に引き受けるという意識のあらわれである。
生活を見直さないということは、主犯はどこか他にかくれているという可能性を信じたい意識のあらわれともいえる。
もともとの最初から生活の見直しをしていれば、副作用にあうこともなく、医療費と薬の売上げに協力することもなかったようなものだが、そこは人間、遠い回り道が近道であったりもする。どこにも行き場がなくなるまで、いろんな所へ巧みに逃げ込むこともある。巧みなあまり、逃げていることにさえ気づかないこともあるのかもしれない。


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地球は丸くもあり平らでもある-からだにまつわる異文化の理解-福岡操体法スタジオの講習会 freeyourself.sotai☆docomo.ne.jp(☆→@)
2011/11/18(Fri)
海の向うから船全体が近付く姿でなく、船体の一部が徐々に姿を現す。地球が丸いことを証明する。地球が丸いと騒がれる以前からの日常の光景が、「地球が丸い」ということには結びつかないままだった。たとえ結びついたにせよ、そこから先の意味が分からなければ、役にも立たない、ただの知識である。
今も大半の人にとっては、地球は丸くても平らでもかまわない。

からだのことも似ている。床に仰向けに寝てもらい、足を見せてもらう。何か、気づくことはないだろうか。
たとえば足のつま先の向きが、左右対称になってはいない。
手が右利きの場合、かなりの割合で、つま先が、やや右のほうへ流れているように見えることが多い。

試しにどちらか片方のつま先をそっと移動させ、「これで左右がそろって対称になる」と思われる場所に持っていってやる。すると、わずかながら本人は、どこかがつっぱったり歪みを感じるなどの不自然を感じるだろう。

足の長さも、違っている。右利きの方の場合、かなりの割合で、左足のつま先のほうが、やや短いように見えることが多い。これもできるだけそっと左右がそろう位置に持っていって支えておくと、不自然が感じられる。

こうした足の左右の差は、腰骨が傾いて左右の高さが違っていたり、ねじれているのを床に寝させて、強制的に平らな状態にするために見られることである。
腰痛がひどくなると、腰骨は位置や向きを変えることが困難となり、床にまっすぐ寝ることさえ不可能になる。

はじめてこういうことを耳にしたときの自分は、妙だとしか思わなかった。
理屈ではない、事実だと言われ、機会あるごとに何人もの足を見せてもらった。
それでも自分は納得しない。腑に落ちないのである。「ああそうですね、おっしゃるとおり」と言いながら、意識は素通りしていく。「事実なんでしょうけれども、それと自分とが、どんな関わりがあるというんですか」。
私の腰の骨がねじれていようと傾いていようと、自分にはそれがまっすぐ正常に思われるのだから、それでけっこう。おかまいなく。
事実と照らし合わせて確認したとしても、事実は事実として、それだけのことになっていた。

こういうことを何度も何度も、繰り返し確認をして年月が経つうちに、ようやくこのことの持つ重大な意味が見えてくるようになった。地球が丸いということが、どういう意味を持つのか、分かってきたのである。
文化人類学者のたまり場のような大学で過ごし、異文化にまつわることを考えてきたつもりだったが、こういうからだについての理解もまた、異文化理解の一つといえる。自分の生まれ育った文化になかったことを受け入れるというのは、たいへんなことだと思う。


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一つ身につけるたびに金の落ちてくる音が聞こえるか-福岡操体法スタジオの講習会 freeyourself.sotai☆docomo.ne.jp(☆→@)-
2011/11/16(Wed)
「単語一つおぼえるたびに一枚の小銭が貯金箱に落ちるチャリンという音を聞け」。
外語大ではそう教わった。
「文章修行にかけたお金は、文章で取り戻しなさい」。
文章教室ではそう教わった。
こういうときの「お金」という言葉の響きは、私はとても好きだ。

今の日本では「お金」という言葉が真剣な響きを失ってはいないだろうか。
かせぐだけなら、べつにそこまでやらなくってもねえ、などという。腕を磨くより愛想をよくして宣伝や営業でがんばらないと。
お金に困っている困っていると言いながら、それほど困っているようでもない。お金がほしい。そう言っている姿がまた、いかにもハングリーではない。
ほんとうにお金に困るということがわからないのかもしれない。

イザというとき思いのほか頼りにならないのもお金。
それを知っているかいないかのちがいは大きい。
お金はかせげばいいというものではない。
語学や文章に打ち込んで自分自身を鍛えてきたあの教授や作家たちは、そのあたりが徹底しているのではなかったか。
イザというとき頼りにするのは、自分。何もできない自分ではイザというときに困るのも、自分。腕を磨く、技能を磨くということが、頼りになる自分を育てることになる。

お金が頼りになるのも受け取る人間がいてこその話。
山に登ってみるといい。そこには植物や動物しかいない。自分のために動いてくれる人はいないから、足が痛かろうとだるかろうと自分の足で歩くしかない。時と場合によってはお金の化けの皮がはがれ、たちまち紙切れ鉄くずである。
お金は紛失もし、盗難にもあう。使えばもちろんなくなる。
社会の変動しだいで万円札も古新聞のあつかい。ドイツのインフレの光景を教科書で見たことがある。キャベツ一個に札束がどれだけあっても足りない。キャベツは食べられるが札束は食べられない。銀行の資産凍結にあえば、預金も通帳に刻された、ただの数字である。

お金は化けるのが身上、不安定が身上である。その姿は、水が蒸発して空に舞い上がり、雨粒となってふたたび地上に落ちてくるのに似ている。水のようにとどまらず、いつまでもぐるぐると回されてゆく道具であり手段なのだ。
このような性質であるお金に頼るような気持ちでは、社会状況に振り回され、不安定になるのも当然の結果とはいえないだろうか。

こういうことを考えるようになったのは操体法の影響が大きい。
私の出会った療術師たちが技に対して払う、崇拝にも近い態度。何も分からない人の目にはどう映るだろう。
生きるためにはお金より技術。技能であり、能力である。お金に頼らずに生きられるだけのものを身につけるのが一番の安心でもある。いったん身についた技術は失われることはない。いつでもどこででも生きられる。好きだとか、人にも喜ばれるというのは二の次、ぜいたくというものだ。

昨日もてはやされた技術が今日は見向きもされない。そんな変動めまぐるしい社会にあっても、生命は悠久の時の中をゆったりと流れている。人間の短気なサイクルとはスケールの大きさがちがう。
操体法の強みは、まさにそこにある。
私が手足を失ったとしよう。お灸や鍼はできなくなるが、操体法は言葉で誘導できる。
究極の、療術であると、思う。


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自由になりたい・自由でいたい。-見えない感覚の残し方-福岡操体法スタジオの講習会 freeyourself.sotai☆docomo.ne.jp(☆→@)
2011/11/14(Mon)
自由でありたいと思っていても、すでにいろんなものにしばられ、よけいなものばかり身につけてしまっている。「そんなことない。私は自由だし、勝手に好きなように楽しませてもらう」と割り切るのが「趣味の世界」。いつしか趣味の領域を飛び出して素晴らしいことになっていたというのも確かにあるが、飛び出すどころか行き詰まるのも大半。行き詰まる・行き詰まらない。面白くない・面白くなる。領域を飛び出す・飛び出さない。そうしたことの違いはどこにあるかと思う。

趣味の領域を飛び出す要素に「続いていく」がある。
行き詰まることが少なく、「面白くなる」「熱中する」という要素も「続いていく」には必要である。
行き詰まってばかりで面白くもない。がまんして続けても熱中しない。それでは不毛だから継続する理由も見つからなくなるのは時間の問題。

楽器。絵。文章。そして操体法。習ってみて思うのは「感覚がだいじ」ということである。
感覚が狂うと自分ではいいつもりでも、大きく外してこてんぱんな目にあう。
たいていは自分勝手なことをしている。自分のクセが強く出てくるのを自分の真骨頂・新発見とカンちがいして「少々上達した」などと思う。
そのうち行き詰まって身動きがとれない。迷いの道に入り込む。こうなれば引き返すか、進むのをあきらめるしかない。

絵なんぞ自由だ、どうでもいい世界だと思っていると大違い。楽器だろうと絵だろうと、ほんとうの自由の境地にたどり着くには長い長い道のりがある。人間とは厄介なもので、自由でありたいと思っていても、すでにいろんなものにしばられ、よけいなものばかり身につけてしまっている。ほんとうの自分の感覚を磨くというのは、そういう自分のこと一つ一つに気づき、自分をどれだけ捨てられるかにかかっているのではなかろうかと思う。
要は感覚の問題なのだと、今さらながら、思う。

師匠のもとに毎週、足を運ぶたびにハッと思うことが多々あって方向を修正する。修正しては、はずれ、はずれては修正する。繰り返すうち、十九年があっという間だった。チャンスある限り、私は師匠のもとへ通う。それは全くムダにはならない。ムダには、したくない。そう思う。
講習で「操体法を教える」という限りは、橋本敬三先生の操体法なのだから、自分勝手なことにしてしまっては申しわけない。自分の創作をやるのなら勝手でいいけれども、操体法講習という限りはほんものの操体法をやらなければならない。そんな気負いはある。
かたちで残すのなら本やDVDなどの手段や方法がある。しかしその感覚は、生きた人間が生きた感覚を身をもって残すのでなければ、残らない。
そういうことを考えるうちに、絵や文章や楽器よりも生命は寛大なところがあるのだけれども、結局は同じようなところがあるだろうなと思った次第である。


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からだが重い・軽いというのはどういうことか。-福岡操体法スタジオの講習会 freeyourself.sotai☆docomo.ne.jp(☆→@)-
2011/11/12(Sat)
からだがだるい、重いといったって、なにも体重が重くなるわけではない。
ペダルをこいでも進みにくい自転車をペダルが重いといい、力をのせたかのせないかでサッと反応する場合はペダルが軽いという。燃費でいえば前者は燃費がはなはだよくない。後者は少しの労力でたくさん動くのだから燃費がよいといえる。

身体も同じように考えられないだろうか。
からだの調整をすると、「軽くなった」と言われるが、これは「燃費がよくなった」と言われてもよいわけである。手も足も、全身どこもが軽い力でサッと動くようになる。
だから疲れない。疲れにくい。

日ごろから自分のからだを調整するという考えは、今の日本の生活文化にはない。からだを整えるのが、顔を洗ったり歯を磨いたり食事をするのと同じように、日常生活の一部になっているとはとうてい言い難いわけである。
「からだを鍛えよう」とは耳にするが、「からだの燃費をよくしよう」とはちっとも聞くことがない。
エンジンを目いっぱいふかしているのにのろのろとしか走らない車は、どこかおかしいのである。そのままぶんぶんうなって走り続けていれば、どこかでイカレてしまうのも時間の問題だろう。

身体も、同じように考えられないだろうか。
「鍛える」と言いながら実のところ、エンジンをふかしても走らない車を整備もしないまま、無理に走らせることになってしまう。そう考えると筋肉トレーニングやスポーツをする方のおおかたが腰痛持ちであるのは不思議でもなんでもない。
アメリカの大リーグ選手はスポーツトレーナーを個人専属で雇い入れ、いつでもどこでも連れて歩くのが常識だという。日本ではスポーツトレーナーへの認識は、驚くほど低い。そのような話を聞いたことがある。
日本人は精巧・精密な機械には目が高く、関心も大きいと思うのだが、それだけに、自分自身の身体の、精巧さ・精密さに対する無頓着さが私には不思議に思われてならないのである。


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自分の意識を消し、わざとらしさを消す。-福岡操体法スタジオの講習会 freeyourself.sotai☆docomo.ne.jp(☆→@)-
2011/11/11(Fri)
手の感触から思いや考えまでが伝わる。手当ては「手を当てる」の意であるが「治って」という思いの、祈りやあせりや心配が伝わるのがうとましく感じられることもある。
一緒に部屋で過ごす相手が「窓あけましょうか」「お茶いれましょうか」といちいち声をかけてきたらどうだろう。心地よく過ごしてほしいという気持ちも分かるけれど、かえってそれが居心地わるい。お互い力を抜いて、空気のような存在になりきるということが、場を心地よく共有するために必要なときもある。

術者の持つ、「治るだろうか」「治ってほしい」「さあ治してやるぞ!」などという気持ちは隠しようがない。「うまくいくかなあ」という不安。「あれっ、治らないなあ」といった心の動揺。そうしたものが相手には雑音に感じられるはずである。
癒動操体でも活元でも、相手の体に手を置くときは、「ぽかんとして、できるだけ何もかんがえないように」と注意を受ける。
操法を行うとき、術者は相手の体の動きを誘導したり支えてあげたりするが、腕や肩やひざなどに、何気なく置いた手や指先から、何らかの意思もしくは心の動きが伝わってしまうのである。どんなに「鈍い」とあなどっている相手でも、こういうことは正確・確実に伝わるのだから、恐ろしい。

操体法の脱力がうまくいかないという話を聞くが、ここに要因があると思う。
「この人の体が硬いから」「いうことをきこうとしない頑固な人だから」などと、相手のせいにするのもご自由だが、術者の心身がどれだけリラックスしているかということがテキメンに相手の脱力加減にあらわれる。
相手の動きは、術者の心を映し出す鏡である。

家族や友人相手だとうまくいくのに、知らない人とはじめてやるとうまくいかないというのもよく聞くが、これも相手が操体法の動きに慣れないからというよりむしろ、自分の側に緊張があるからだろう。「うまくいくだろうか」という自信のなさや、操体法への不信や疑念も加わっている。「こんな単純な動きでどうなるわけでもあるまい」というような、こころもとない気持ちが、互いのすなおな動きをそこなってゆく。
自信というのもまた、手から伝わって反感をかうこともある。
暗黙のうちに、術者の手と、動く本人の体とのあいだで、こんなやりとりが交わされていては、あとでお互いに疲れる。そういうことは、ないだろうか。

「ぽかんとするのがむずかしければ、きれいな夕陽や広い海、広い空を眺めていると思えばいいですよ」とどこかで聞いたことがある。
人間は不完全な生きものと言われる。人間の意思というのにはどこか未熟なものがあり、意識は多少なりとも誤差を含んでいる。それをわたしたちの無意識が本能的にきらうのではないかと思われる。


※操体法は自分で動きながら運動神経と感覚神経とを同時にはたらかせ、自律神経本来の働きを取り戻す運動療法です。自分にとって気持ちのよい動きを見つけ、ちょうどよい加減で動きます。
九州・福岡市内にて講習を行っております。自分の体の調整をおぼえながら、自分なりの活動を始めている方もいます。誰でも参加できる定例の講習会(参加費二千円)、少人数で申し込めるプライベート講習や個別もあります。
あなたもいっしょにやってみませんか。
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仕込んだら、見たくなる。-福岡操体法スタジオの講習会 freeyourself.sotai☆docomo.ne.jp(☆→@)-
2011/11/10(Thu)
邪魔したくはないが、ついふたを開けてみたくなる。
重いふたの抵抗が手から伝わってきて、いけないことをしている気持ちになる。覆いがはずれて向こうが見えるまでの、ちょっとした間合いののち、安心と驚きが広がる。
ふたを取るたびに「ああ思いもよらなかった」という気持ちにならないことは、ない。

水が浮いていたり泡をぷくぷく吹いていたり。背中を向けてうずくまったけものが、動かない背中からぷんぷんとにおいだけ発しているようなときもある。「またあんたか、うるさいな」とばかりにこっちをまっすぐにらみ返し、だんまりしているようなときも、ある。
わたしの手は厚かましくも、この無抵抗なぬか床の体をかきわけて、自分の仕込んでおいたお宝を、掘り出すのだ。
ちっさく縮こまった、おばあさんのような漬物。野菜だったとも判別しがたい様子の、べつの生きものになったようなのを引いて、新しい野菜を仕込む。

洗ったばかりの野菜はパリバリとして生きて光をはじいている。
それがぬかの体内に埋められて日が経つごとに、しなびてゆく。塩を集め、微生物たちがわらわらと群がって、古民家のような、こっとうのような、古びたたたずまいの家となる。
ああこれが生命なのだ、と思う。
生命の起こす変化、リアクションが、ささやかで純粋な喜びを、いつも与えてくれる。
ぬか床をあつかうのと、からだをあつかうのと、なんにもかわらない。

古漬けになった野菜たちを、講習の参加者と味わう光景を思い描いてから一か月半あまりが経過した。先週あたりからお出ししている。どこにもない、わたしのぬか床だけが醸す味わいを、ともにいただく。
もうかめからはみ出すほどにぬか床は育った。何年か前に買ったままの漬物用のたるに移し、さらなる拡充をと思っている。
九月にたまたま腸内細菌・乳酸菌が話題となり、「どこかにいい古漬けないものだろうか」と頭を悩ませていたのがウソのようだ。ほしいものは自分でつくる。それが正解だった。


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「単純」と「カンタン」は似ているがイコールではない。-福岡操体法スタジオの講習会 freeyourself.sotai☆docomo.ne.jp(☆→@)-
2011/11/09(Wed)
つま先をあげて足首を反らせていく。こんな単純な動き一つに100の可能性がある。やり方によって結果は天国と地獄ほど差がでることもある。
それが最初は分からない。というか、今の文化にそういう考えがない。
動きかたがだいじ。それが橋本敬三の発見であるが、その単純な発見が、時代や文化を超えている。

テキストの中に「単純な動きで」という記述がある。特別な動きでもなく、複雑でもない動きで、からだの不都合を解消する。
「つま先を上げて足首を反らせる」という、誰にでもできる単純な動きに100の可能性を見るのである。やり方しだいで100は60にも20にもなり、へたをするとマイナスにもなりうる。私たちの日常の何気ない動きにも同様のことがいえる。自然法則というのは、特別なものではない。日常の筋肉の動きにも、ふつうにはたらいているということである。

人体の動きについて、医学的にはもちろん、文化的にもそういう考えはないのだから、最初から分かるわけがないのも当たり前だ。現実に目の前で起こる現象を見て、じっさいはどうなのか、自分で考えてゆくほかは、ない。
操体法の現場を何度見ても、何度見てもらっても、「へえー。ほんとですね。なぜだろう。フシギですよね」と、つい言葉が出てしまう。私たちの日常の意識が、この筋肉の事実からいかに遠く離れたところにあるのかを物語っているのである。もちろん、だから、操体法は単純だが、驚きと感動にみちて楽しい。

操体法の技術を磨くということは、先入観にだまされない感覚を磨いていくということだ。
文化的に当たり前のこととして見過ごされている常識の一部を、自分の目と体とで、しっかり検証していく作業だということもできる。単純であるが、カンタンかどうかは、やってみて各々が決めればいいことだ。


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5分の威力を笑う者は5分に泣かされている-福岡操体法スタジオの講習会 freeyourself.sotai☆docomo.ne.jp(☆→@)-
2011/11/05(Sat)
朝晩5分の実行で腰痛が治り、10キロ減量にも成功という体験を伺った。この体験を逆に言うと「このくらいどうってことない」という、ささいな行動の中に自分の生活、ひいては自分の人生さえ左右する要素があっても何ら不思議はないということになる。

操体法の橋本敬三が指摘していたのは、まさにこのことではないか。
自然法則のおそろしさ。自分で気づかずに繰り返される行動をクセというが、このなんでもないはずの体のクセ、当たり前になっている心のクセが、生活や人生を望ましくない方向へと支える、要の石であったということも、ありうるのだ。
これはおそろしい話であると同時に、救いでもある。要の石は、はたらきは大きくとも、必ずしも大きい石とは限らない。小さな石ころかもしれない。「どれ抜いてみよう」と手を伸ばせば、するりと抜けるものもあるだろう。
するりと抜けて、それでどうということも起こらないように思われるかもしれない。「これも抜ける。あれも抜ける」とやっているうちに、ある日あるとき大爆音とともに、あとかたもなく崩れ落ちゆく悩み苦しみの数々。

操体法では、要の石のことを「コリ」という。「コリ」は日常の中でつくられていく。手当たりしだいにやっていても抜けるコリはあるが、けっこう複雑なものも中にはある。
はずれにくい要石もあるということだ。
どこに、どんな要の石が隠されているか。どうやったらはずれるか。
私のところでは、それらを講習で紹介し、実習で確認してもらったり、施術でお話ししたりしている。
5分の威力が分かる体験を、ぜひ積んでいただきたいと思うばかりだ。
自然法則に甘いも辛いもない。勝手に人間が解釈しているだけのこと。
人生、甘くはないというが、そうそう辛いばかりでもない。


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朝と晩の5分が変わる→残りの1430分までが変わるという不思議-福岡操体法スタジオの講習会 freeyourself.sotai☆docomo.ne.jp(☆→@)-
2011/11/04(Fri)
病気や体質を改善したいというのも夢の一つ。今の自分と、こうありたいという自分とのあいだにあるギャップをのりこえる。夢の実現である。
1日1440分のうち、朝と晩の5分だけの手間と時間。それで残りの1430分を快適に過ごすという夢は、はたして実現されるだろうか。
「わたしは実現したよ」という方が、先日、講習にお見えになった。

この方は五年前に操体法の本を購入し、常に寝床に置いて朝と晩に本を開いて、ご本人の言葉によれば「まさにみようみまねで」操体法を実行されていったそうである。
それでどうなったか。
長年の腰痛が解消され、体重は10キロも減った。それまで何度気をつけていてもリバウンドを繰り返し、2キロ減っては2キロ戻るというようなことだったのが、そういう苦労なしに減ってゆき、服を全部買い換えたという。そういう体験を語ってくださった。
一体これはなんだろうと思ってネットで調べているうちにここを見つけたということで、宮崎からはるばる福岡へ足を運ばれたというわけなのだった。

考えてみれば不思議な話ではないだろうか。一日は24時間だろう。現在の自分の体で過ごす24時間を、もっと快適な24時間にするために、朝と晩の5分を変えればよいという話である。
24時間を改善するのに、24時間ぜんぶ努力する必要はない。24時間かけるの60分すなわち1440分のうちの5分が二回。144分の1の手間と時間なのである。
さらにいうならば、たった1つの行動で残りの143の部分を変えてみせますよという話なのである。

私は11歳のときから食事療法で、ある程度の成功を体験していたが、その手間と努力はたいへんなものだった。朝と晩に数分行動したら、あとはスッカリ忘れてもいいなどというものではない。食べるという行動は1日のうちに案外しょっちゅう起こるものなのである。何をどうすればよいのか四六時中、考えているようなものだった。
生活の改善というのはそういうものだと思っていた。
調理を変え、食事を変え、せっけんを変え、生活のいろいろを変える。生活の改善とは、そういう目に見えるところを変えていくものだとばかり思っていた。

毎日朝晩の操体法というのは、5分の操体法という新しい行動のあと、次に続く700分ていどはこれまでどおり過ごす。およそ700分過ごすたびに5分だけ、日常から少し離れた意識で体を動かす。
そういう生活の改善の提案。そういう自己改造の提案なのである。
正直にいう。30歳で操体法に出会った自分としては、食事療法で苦労を重ねてきたそれまでの体験から考えると、少々フザケた話という印象はぬぐえない。

みなさんはどちらの効果が高いと思うか。私自身の体験では「朝晩の5分」のほうに軍配があがる。食事療法の苦労が苦労ほどには報われなかったというのは、少々くやしいのであるが。
生活のいろいろな外見上のことを変えるのも、もちろん大切ではある。
しかし、自分自身の中味のはたらきを変えるというのは、まったくレベルのちがう話だ。

操体法は、体を動かすという運動神経のはたらきと同時に、感覚神経をよくはたらかせる。右に二回、左も二回で、最初から決まった動きを実行するというのではない。体を動かすことにともなって発生する感覚を意識することによって、感覚神経をトレーニングする。大切なのは神経のはたらき。神経が狂うと行動はどこか異常な部分が出てきてしまう。神経のはたらきが健全になればなるほど行動もおのずと健全となり、心身も健全になる。

操体法は、朝と晩の5分の意識革命であるともいえる。1の時間と手間で、残りの143は変わるのである。


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夢をリスクと気づかぬままに夢と現実のかけ橋を渡る-福岡操体法スタジオの講習会 freeyourself.sotai☆docomo.ne.jp(☆→@)-
2011/11/03(Thu)
実現しないまま腐りもせずに長い年月そこにある夢。夢のまま終わるとは到底思えないリアルな夢。徹底的に夢の世界に入り込むことで、気づかぬうちに夢と現実との間にかかったかけ橋を渡っているという、まことに都合のよい話。

夢は馬鹿にできない。
夢を夢と思わず、夢と意識することさえなく、ただそのままこころゆくまで夢の世界で遊び、夢の世界が現実で、現実は自分の世界ではないというくらい真剣に夢の世界の住人になれば、夢がかなうのは時間の問題である。

バーチャル。瞑想というのはバーチャル。イメージトレーニングもバーチャルである。それらは批判されるべきバーチャルではなく、大いに活用すべきバーチャルなのだ。
かんたんな話である。夢を夢のまま、どんどん広げていったらいい。

夢はしょせん夢じゃないかと、自分のどこかに勝手なあきらめや遠慮はないか。現実世界よりも価値がない世界だとか、夢を軽くみるようなことでは、夢はその実力を発揮できない。

もちろん、夢と現実とのあいだには、ギャップがある。大きな橋がかかっている。橋を渡ることをリスクともいう。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」。夢を夢のままであきらめるというのには、リスクに対して本能的なブレーキがかかっているとも考えられる。そこを無理して目をつぶり、我慢して渡るというやり方は、ちまたによく聞かれるが、目をあいたままてくてくと平気で歩いていくことのできるかけ橋だって、あるのではないか。

夢は、スポーツの世界のような、強い者だけが叶えるのを許され、意志の弱い者はただ指をくわえて見てればいいんだ、というような考えを、私はいつの間にか持ってしまっている。
清水の舞台から死ぬ思いで飛び降りて、歯をくいしばって苦しいことつらいことに耐えに耐えて。
「今の安定」を捨てて夢を実現する。そういうイメージが、いつの間にか自分の中にはあった。

しかし夢は楽しいから夢なんじゃないの。夢ってもっともっと楽しいものなんじゃないのという気もする。
夢を強く望むかどうか。
だって自分の夢だ。望むのは自分自身。自分が自分にとって、どれだけ楽しい夢をえがけるか。

夢がかなえられないのは根性が足りないというよりむしろ、念じかたが足りない。夢がまだ夢としてさえ立派には完成していない。そういうこともあるのだろう。


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夢がたくましく育つと、心の外に飛び出してくる-福岡操体法スタジオの講習会 freeyourself.sotai☆docomo.ne.jp(☆→@)-
2011/11/02(Wed)
心にえがいた夢は心の中で育つと飛び出してくる。心の外に飛び出しても消えないくらい、たくましく育ったときに現実となる。
夢を見失わないでいると、夢を目標に生活の改善がおのずと進む。そのうち、夢と現実との区別がなくなる。それが夢を実現するということではなかろうか。
夢を実現するための作業は山積みで、一日にできることはチョッピリ。何日かぶんをまとめて消化する夏休みの宿題のようなものとは違う。とくに健康に関わることは、人間のことが分かれば体のことも分かり、技術も身についてゆくものだと思う。健康の問題は人間性と切り離すことはできない。人間性と切り離して技術だけ学ぼうとすると失敗する。
勉強も必要。勉強と生活とを分けて考えていては、生活にまぎれて勉強できないのは当然だろう。生活そのものが勉強。勉強は生活そのもの。そう考えられるようになれば夢はおのずと叶う。

見失ってしまうようなものは、ほんとうの夢じゃなかったのかもしれない。夢を妄想にしたくなければ自分で大切に磨いて育てていくほかない。
仏教では怠け心を厳しくいましめてある。食べることも寝ることも惜しんで最も大切なことに向かえという姿勢。怠けて無為に過ごすのと、大切な夢をかなえるのと。どっちがほんとうの意味で楽しいことなのか。
心に問いかけながら、自分の怠け心とたたかっている。


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からだのハンドルを握り、アクセルやブレーキを踏むのは自分自身だから-福岡操体法スタジオ freeyourself.sotai☆docomo.ne.jp(☆→@)-
2011/11/01(Tue)
自分で動くと「右に動きやすい」。しかし軽く押しあう抵抗を与えると「左のほうが押しやすい」。
人に手伝ってもらいながら動くと発見がある。発見がないのだったら自分だけでやっても同じということになる。
自分一人で動くのと、導きがあって動くのとでは、動くコースにちがいが出る。これはテキストにも載っている。動きに違いが出る場合、右と左のどちらを心地よい動きとして実行するか。
自分で動いて右のほうが快ならば右。術者とやって左が快ならば左。そうテキストにはある。明快である。

操体法は自力療法ということで、どれだけ手助けがあっても、力が加えられることはない。車の運転に慣れない人の車庫入れを手伝ってあげているのと同じこと。術者は「オーライ、オーライ。ハイ、ストップ」などとやっている。それ以上行ったら、カベをこすりますよ、崖から落ちて危険です、と知らせている。しかし実際に車がどうなるかは、ハンドルを握っている本人次第である。アクセルとブレーキを踏むことができるのは、操体法の世界では、本人にしかできないということである。

施術は他人に助けてもらうことになるので、自力療法の操体法では邪道と思われることも少なくない。しかし自分一人で動くのと、抵抗を与えてもらって動くのとで違いはあるのだから、施術を受けるのも受けてもらうのにも、気持ちに引っかかりを感じる必要はない。自由ではないかとわたしは考える。


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