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理科をやって知識を増やしたところで科学的な思考や感覚は育たないようにできている
2011/07/31(Sun)
「お医者さんは科学者とは違います」と言うとキョトンとされる。日本の高校の授業数のべらぼうなこと。拘束時間の長さは、一斉授業で受け身姿勢を身につける徹底ぶりを物語っている。

「一足す一は二です」と教えてもらい、「ハイ次は一足す二です」と朝から晩まで延々と教えてもらうことが勉強だと、私たちは教わってきた。教わったことを教わったとおりに書き連ねるのが試験。あらかじめ答えを用意された問題を、どれだけ短い時間でどれだけたくさん解けるか。それを競う。
思考や感覚といったものをかなぐり捨てて、ただガツガツと、教わったことを教わったとおりに書こうとして、私たちは懸命だったではないか。世間が要求することを暗黙のうちに読み取り、その通りに答えるしか能のない者のことを、頭がいいというのだとも教わった。訓練を通じてそういうことを繰り返し叩き込まれながら成長して大人になったのである。

成長期にそういう生活をあたりまえに送ってきた私たちには、操体法を身につけるのは未知の世界といえよう。やる気のある人は早く早くと欲張って、いちどきに沢山やろうとするので、かえって一つもおぼえない。おぼえたことは大方まちがっているか、役に立たない。そういうことだって、ある。講習生の様子を見ていて私は不思議だったのだ。「どうしてあんなふうにガツガツしてしまうんだろう…」。そして「ああ学校か」と思い当ったのだった。
学校の数学の授業を百年受けたところで数学的感覚は身につくまい。ああいうのはただのマニュアルだ。理科をやっても科学的思考は育たないようになっている。マニュアルの中身を百、二百と増やしていったところで、しょせんはマニュアル。生きた創造的な感覚は育たない。私はそう思う。

不思議なもので、たった一つか二つの動きが、体のクセをとるのに決定的な意味を持ったりする。それこそが操体法、いや、自然法則である。
聞くところによると、鍼灸でも、いちどきにたくさん打つのは腕がよくない場合があるそうである。名人は少ない穴で打つことが多い。名人というのは無駄がない。無駄をなくしていくということは、決定的ないくつかしか残らないということである。
さらに言うと、たくさん鍼を打つというのは、一つ一つの鍼の効果が互いに影響しあって全体としては意味を失う。かえって害悪になる場合もあるかもしれない。

操体法の橋本敬三先生は、「こうしてごらん」と一つか二つの動きで見事な結果を導いていた。直弟子のT先生は通ってくる人に、いくつかの操法しか処方しなかった。あまりに数が少ない。飛行機でやってきた人にも二つ三つの動きをやらせて「今日はこれまで」などということもあったと聞く。それで腹を立てる人もいただろうが、辛抱して通うときちんと結果が出たのである。
お金を払う側としては納得がいかないこともあろう。
「これだけ払ったのに」「これだけの手間と時間をかけたのに」。
鍼灸でもたくさん鍼を打ってもらうほうがサービスがよく、鍼が少ないとサービスがわるい。そんなマンガのような考えで評価されることもあると聞く。
療術の世界も経済の考えに侵されてしまっている。残念なことだ。

「これまで身につけてきたものを全部捨てたいのです」と世界旅行に出かけた理学療法士のAさん。進学校出身でずいぶん真面目な方だった。「日本に戻ってきたら再開したい」と葉書をよこしてくれた。旅の安全を祈ります。そしてまた元気な顔を見せてください。


※九州・福岡市内にて操体法を学べます。自分の体の調整をおぼえながら、種々の活動も始められます。
誰でも参加できる定例の講習会、少人数で申し込めるプライベート講習や個別もあります。
お問い合わせはメール freeyourself.sotai★docomo.ne.jp (★を@に)もしくは080-1720-1097まで。
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だって自分の体と命のことだもの。自分たちで守らないでどうする
2011/07/29(Fri)
医者も自身の体や命のことは、ふつうにあわてる。家族や身内のこともふつうに迷う。医者が決め手になる答えを握っていると期待する人には残念かもしれないけれど、がん専門医の自分ががんになったらどうするか。それは迷う。専門医だけに、かえって困ることも少なくない。そう近藤誠さんの著書にあった。

医者の仕事のたいへんさを想像してみる。医者は科学者のトレーニングも受けていない。宗教の訓練もまったくない。それなのに、心や体や命のことを全面的に引き受けさせられるような場面に立たされ続けている。多くの人々から科学者や宗教者の役割まで期待されるのが現状。一方的に役目を押しつけられているともいえる。
私は物心もつかないころから、学校の先生の顔を見るよりお医者さんに会うことのほうが多いくらいの生活をしていたので、そういう点は案外ものわかりがよいのだ。医者の仕事は、ケガは消毒しますと医学部で習ったら消毒をする。血圧の基準値が160だとガイドラインで決められていたら、160で降圧剤を処方するし、基準値が140になりましたと通達がきたら、通達の来たその日から140で降圧剤を処方する。

「ほんとうは消毒しないほうが結果がよいのではないか」「積極的に治療したグループのほうが短命というデータがここにありますよ」と言われたときは、保険医の立場というものを意識しながら対処せざるをえない。国の保険制度で消毒するとあれば消毒するし、消毒しないとあれば消毒しない。現場の医者の勝手にはならない。だから治療内容に文句がある場合はきちんと伝えればよい。治療は強制ではない。各自が、本人自身が、選ぶものだ。イヤイヤ嫌な治療を受けさせられているつもりでも、結局は「あなたが選んだんですよ」ということになってしまう。請求書も結果も、あなた自身が引き受ける。あなたの体と命で引き受けるほかは、ないだろう。

操体法の講習にはお悩み相談が舞いこむ。舞いこむたびに、みんなで関心を持って調べる。医者でなくとも、自分の身に起きた病気やけが、家族や身辺の人の身に起きたことについて調べ、考えることはできる。
西洋医学と言わず、東洋医学の面でも、調べる。これはシロウトの強みだ。ふつうの人間である私たちには制度の枠など関係ないのである。
一体、何が起きているんだろう。これは一体どういうことなんだろう。
病院で受けた検査とその結果。処方された薬とその添付文書。具体的なことをみんなで検討するうちに、本人がそのつどそのつど自分の答えを見つける。本人がはっきりすれば、それでいい。それ以上の答えはないのである。家族や身内ではない外野がごちゃごちゃいるところのほうが、かえってものごとのありようがハッキリ見える場合もある。

こんな意見を言う医者もいるよ、などと著書を持って来られる方もある。医者の意見といってもいろいろなのだ。セカンドオピニオンを聞きに行くとしたら、この中でどの人に会ってみたい?まじめだかふまじめだか分からない様子で、ざっくばらんに話し合う。どういう活動をしてきた医者か。どういう感じの人物か。思いつきが飛び交う。
どこかの遠くの知らない人に起きたことではない。家族やお身内、知り合いの方が連れてこられることもある。そうやって、みんなでわいわい対処するうちに、ご本人も少しは元気になって、やる気にもなる。全体の不安が減ってゆく。

火種も小さいうちなら、みんなの力で消し止めることができるのではないかと思う。大きな火事になるまで手をこまねいて、目の前で燃える火を眺めている必要はない。
だって自分の体だ。命のことだもの。そして家族の、身内の、友人の、知り合いの、体と命のことだ。どこか遠くで起きていることとはわけが違う。自分たちで大切にしないで、どうする。
だって、そうではないか。だから、どこの誰に義理立てすることも、気兼ねもいらない。第一、義理で受けることではないだろう。お医者さんが専門家だといっても、自分の体や命のこととなったら、ふつうにあわてるのだ。お身内のことにも、ふつうに迷う。そこはシロウトと同じ。これで大丈夫という答えなんか、残念ながら、ないわけである。

私たちは医者ではない。シロウトであるということがかえって有利な面もある。
立場による制約からは完全にフリー。治療方法も保険制度に固定されずに考えられる。ふつうの人間どうし、いろんな人とざっくばらんに話ができる。
専門家・専門医と思うから頭から尻尾までうのみにする。医者ではない人間どうしで話すのだったら、うのみにする人もない。それがいい。そういうのが、かえってよいのだと思う。
みんなでシロウトらしく堂々と、自分たちの命と体を守ることも、あっていい。そうは思いませんか。


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不安がなぜか消えてゆく-体の声はきちんと聞こえているか-
2011/07/28(Thu)
切るも不安。切らぬも不安。病気やけががなくたって心配のタネは尽きない。不安そうな様子や心配を貼りつかせているような顔を見ると、「何とかならんもんかなあ」と思う。
体や命に関わることに不安を感じるのは本能の働きもあり、しぜんなことではあるのだが。

「バカに徹する。中途半端な半バカではダメだ。ほんもののバカになるのは、なかなかに、むずかしい」。以前そう言われたことを思い出す。
そんな立派なバカではないが、私もこんなふうでよく半世紀も生きてこれたものだ。
魚が一どきに何万何十万も産む卵も、無事に成魚まで生きられるのはそのうち何匹か。一匹も残らないことだって珍しくないかもしれない。人間も死亡率こそ低くはあるが、似たようなものとも思われる。
生死の境を決めるのは、何なのだろう。成人できるまで生きた人のほうが、肉体や精神面でどこか優れたところがあったとも言えまい。優れた人間ほど早死にすると聞くこともある。自分にはそういう難しいことは分からないけれども、生きるにせよ生きられないにせよ、ただの偶然の働きでは済まないものがあるだろう。多くの人の多様な営みあってのことだ。自分が生きてこられたのは目に見える恩ばかりではなく、目に見えないところの恩を受けた結果の、半世紀だったのではないかということが思われてならない。
だからもう、自分のためにガツガツしたり、自分のために悩み苦しむのもそろそろ卒業したいと切に思う。人様の役に立つことをするのが「一人前の人間」ということだ。「人様の役に立つ」などと言葉では簡単に言えるが、何が人のためになり、何がそうならないのかは、簡単に済まない部分もある。ここは腹をすえて考えたい。

操体法の活動を通じて思うのは、「せめて自分の体についての気づきを体験していただこう」ということ。さらに願わくば「自分の体や命のことを、自分で把握できていくような、生きる力を身につけていただこう」ということだ。
幸せが条件に左右されないのと同様に、不安や心配はいかなる好条件にあっても尽きないものだ。しかし、「自分の体のことが自分自身で把握できるようになると、なぜか不安や心配の相当部分が解消されてゆく」というのも事実。検査とか他人では把握できっこないところを、本人自身が「あ~今の自分はこうなんだな~」と分かるというのが一番肝心なのだ。
およそ自分の生活の身の回りのことを人にまかせる方針で生きてこられた方には、「右? それとも左がいいですか?」の操体法は、最初のうち面倒に感じられるかもしれない。しかし、その面倒にしばらく目をつぶっていただけば、程度の差こそあれ、誰だって「ああ、こっちだ」「あっちを向くと少々ここが突っぱる」と具体的に分かってくる。なぜかそれを繰り返すうちに、ばく然とした不安感がひょいと軽くなっている。どこかが少々バカになってくるのか、「もういいや。心配したっておんなじだ」と楽天的にもなる。楽天的といえば、「検査結果にまかせればいい」「医者にまかせておけばいい」「社会の基準に合わせておけば何とかまあ大丈夫なんだろう」というのも、ずいぶんお気楽なことではある。もちろん実際には疑心暗鬼にもなり、迷いも出てくるのが人間。

幸い、私は理解ある方々にめぐまれている。人のためと言いながら、罰が当たりそうなほどだ。ほんとうに罰当たりにならないためにも、もっともっと研鑚を積まねばならない。私に文章の手ほどきをして下さった村田喜代子女史が、小説家になりたかった理由の一つに「勉強する生活を続けられると思ったから」ということを挙げておられたが、伺った当時は何も思うところなかった。今は、自分が懸命に勉強したことを喜びをもって受けとめ、分かち合える相手がいてくれるというのは、この上なく幸いなことだと、分かる。全くもって、ありがたいことだ。


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一人相撲から解放された瞬間から「精進」がおのずと実現するという皮肉
2011/07/27(Wed)
健康を目指したとたん、「精進・苦行」に取組もうとする思考・行動パターンが見受けられるが、生きるのは一生のことだから、ガマンして節制するのも短期に限られる。緊急にはそれで間に合わせるしかないが、「健康」であるとか「未病を治す」という長距離走では結果は見えている。少しやってみれば分かる。「これはマズい方法だ」と。

「少しやってみれば」の「少し」に二十年以上もかかったバカが、この私だ。11歳のときから体質改善をきっかけに「精進」を目指すようになり、30歳あたりで人との出会いがあり、その後「精進・苦行」路線はもっとも苦痛が大きく、もっとも成功率が低いということを痛感するに至った。
不思議なことに、いや当然なことに、「精進・苦行」路線をすっかり離れてラクになった。体と格闘しなくてよいし、体を自分の意志に安易に従わせようとしたり、欲望とがっぷり四つになって抵抗したり、自分の行動に監視の目を光らせたりというような一人相撲からスッカリ解放された。自分の思い描いていた「精進」が苦労なくできるようになっていったのはその後のこと。皮肉なものである。

操体法とは何か。操体法は体に備わった自然の働き、命の働きに信頼を置く運動療法である。自然の働きや命の働きに全幅の信頼がなければ、「精進・苦行」路線へと転落するほか道はない。
脳の指令が、脳の延長である脊髄を通って、全身へくまなくスムーズに流れて伝達されてゆくならば、自分で自分の首を絞めるような倒錯した行動はしなくなる。だから体の筋肉をゆるめましょうと言っている。
自分の生活が乱れて苦しくなるのは、厳密にいえば自分のせいではなく、体の歪みのせいと見切りをつけた。自分の浅はかでひ弱な意志や努力より、自然の働き・命の働きになけなしの残り銭をぜんぶ賭けるつもりで、せっせと体をゆるめ始めた。私はがんばれないから体にがんばっていただこう。体をゆるめることが自分にできること。そのほかは、無駄。必要ない。そう思って「ゆるめろゆるめろ」とやっていった。

私の体に備わっている自然の働き・命の働きは私を生かそうとするもので、ここに疑念をはさんでいては得るものはない。不毛だ。しかも私の体に備わっている自然の働き・命の働きは、何もつけ足す必要もなく、差し引く必要もない。ちゃんと必要十分なものが備わっている。それが『からだの設計にミスはない』ということだろう。

「精進・苦行」が好きな方にケチをつける気持ちはない。自分もどちらかというと「精進・苦行」で苦しむほうが好きなほうと思う。でないと二十年以上も続かなかったろう。チマチマしたやりくりで小さな成功にガッツポーズを繰り返しながら、砂の城をいくつも築いていったわけだ。しかしいつかは押し寄せる波にのみこまれ、跡形もなく崩れ去る。自然の働きとはそんなものと思う。小さな成功と大きな失敗を二十年以上も繰り返しやって、さすがに疲れた。あるとき、「もういい加減にしろ」と声をかけてもらえた。「何度同じ失敗を繰り返せばわかるんだ」。その一言で目が覚めた。あの一言で抜けられたと思う。あの一言に匹敵する働きを自分ができるかどうか。

ラクに楽しく生活したうえで、さらに病気で恐い思いもせずに過ごしたいというような、ムシのいいことを本気で考える方には、大いに成功のチャンスがある。私はそう思う。

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自由に動ける以上のぜいたくはなく、自由に動けないこと以上の苦しみもない。
2011/07/26(Tue)
十五歳から十八歳までは旅ガラスの生活だった。移動販売という仕事で、身の回りに必要な最小限のものを持ち歩きながら一週間から二週間単位で違う土地へ移動を繰り返した。
そういう生活をしていると、「身の回りに必要な最小限のもの」が、邪魔くさくなる。最初のうちは、「これも必要」「あれも必要」と、荷物が多ければ多いほど安心する。しかし荷物が重くて旅先で泣かされるうち、「これもいらない」「あれもいらない」となってくる。ポケットに手を突っ込んだまま出かけられたら、どんなにいいだろうと思うにいたった。

三十代で山歩きを始めたときも似た結果となった。水と食糧が、重い。これさえなければ、と何度思ったか。水と食糧が切れたために非常な不安をかかえて歩くことになったり、先に行くことができずにくやしい思いをしたこともある。
こんな体験を繰り返していると、「飲まず食わずで動けるということが、いかに大きな自由を保証してくれるか」ということに気づかずにはいられなくなる。
山歩きをする人は、多かれ少なかれ、生活に執着しないようになる傾向があるようだ。動けるという以外になんにも求めないということが、どれだけ楽しくすがすがしい思いであるかを体験するからだろう。

以前、動物園の飼育係の方がテレビでこんなことを言っていたのを思い出す。
「食事はオリに閉じ込められた動物たちの一番の楽しみです。だから、食事はとくに気をつけないと」と、エサの魚のチェックを厳しくし、時には上のほうにクレームをつけていた。
不自由な身の上であると、衣食住いろんなものに執着が出てくる。そういうことなのかもしれない。一食抜く、ということが死ぬほどつらく感じられる。そういう境遇の場合もあるのだろうと思う。
そういえば山を歩けなくなって、自由の羽をもがれた気分に陥り、まあだらしなく食べるようになってしまった。
しかし元気になるにつれ、山にまた行けそうな見通しも立ってきて、以前のようにでなくてもいい、山にまた行きたいと切実に思うようになったら、執着が抜けていった。自由の身になれるというのなら、そのためになら、一切合財捨ててしまっていいというような心の準備があり、そこにスイッチが入った。
体重はあっという間に軽くなり、生活も規則正しくなっていった。禁欲が、つらくない。自由の身になれるんだという確信が強くなってくると、禁欲が禁欲ではなくなってしまう。

自由に動けるということ以上のぜいたくが、あるだろうか。
自由に動けないということ以上の苦しみがあるだろうか。
そんなこと誰だって分かるはずだが、実はそのことが本当によくは、分かっていない。
病気にやられる前に、もうすでに自由が少しずつ奪われ、動けなくなっているということが、よく分かっていないのではないかと思われる。

どうしても食べ過ぎてしまうんですよ~どうすればいいですかね~と言う方は多い。健康のためを考えると、いけないいけないこのままではいけないと思われるようだ。コレステロールや血圧の数値を基準値まで下げたいという目標で、節制をしたいと思う方も少なくないようだ。
残念ながら、私の食生活・食行動は何の参考にもならないと思う。私は自分の身を守るために禁欲をするわけではないし、自分の健康のために禁欲をすることさえ、ないからだ。
ワクチン、健診、生活習慣病対策といったような政策方針が毎日テレビや新聞をにぎわし、気がかりになっている方も増えてきているようだが、一人一人の健康にまで柵を立て、囲いをつくるようなものではないのか。かえって不自由の苦しみに頭から突っ込んでいくようなものではないかと私は感じている。
そういうのは私はどうだっていい。医者の示す基準値のことなど、私には何の関係もない。社会がつくった柵をかいくぐり、檻の中からどうやって脱出をはかるかということのほうを、私はだいじにしている。
もちろん、柵に囲われる生活が、わるいとは言わない。囲われる安心というのもあるからだ。しかし囲われる不安というのも、ある。世の中、何もかもいいことづくめというわけにはいかない。日本は自由の国。各自が自分のその時々の判断で、どちらでも自由に選んでよいと思う。

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強引な感じがしたら、ちがうと思ったほうがいい-デメリットはあらゆることにつきまとう-
2011/07/25(Mon)
肩をもむ・たたくのは日本の習慣だから、とかくモミモミしたくなる。痛いほど強いのが体にいいと思われる傾向さえあるが、毛細血管が切れ、組織が傷つくこともある。その場合、時間が経過すると固くなる。それでまた強くもみたくなる。もんでほしくなる。そうするとまた固くなる。それを繰り返してこじらせている人もないわけではなかろうという話を、あちこちで耳にしてきた。
現場のほうでは暗黙の了解というか、そんなの当たり前じゃないかということなのかもしれない。やられるほうはしかし、「とんとんお肩をたたきましょう~」などと子供の歌にもあるほどで、もんだりたたいたりは親孝行の一つになるほど素晴らしい行為だと教えられてきている。「へえ、そんな考えもあるのか。どれ試してみよう」くらいの好奇心もわかないようだ。
鍼灸師の方からは、筋肉に注射されたあとしばらく固くなるのと同じで、鍼を打つとそのあとは固くなりますよと言われる。ずいぶん昔に鍼を何度か受けてひどい目にあった。その体験を話すとそう説明されるのである。

こんなことを言うと、悪口を言っているとしか思われないだろう。
しかし西洋医学にせよ東洋医学にせよ、治療・施術は一種のかけひき・取引きである。
メリットがあれば必ずデメリットもついてくる。メリットばっかり、いいことだらけというような都合のいい話は残念ながら、ないのである。
「これをやったら、どういうデメリットがあるか」ということは、先に頭に入れておくのが基本と思う。「デメリットがあるのなら何もできない」というのは極端な話。「デメリットの話をすれば患者やお客が逃げる」というのなら本末転倒。
やる側と、受ける側とが、治療や施術を行う前にきちんと了解を取るべきで、それをインフォームドコンセントというのだろう。しかし実際には、治療や施術を受ける側にもインフォームドコンセントを要求する気持ちがほとんど見受けられない。デメリットの存在に気がつかないまま、「なんか効いているみたい」「自分はこれがいいと思う」くらいの感覚で済ませているのがほとんどのようだ。

操体法もきちんと正確にやる必要があるわけで、強引な動きで行えば、それは操体法ではない。「操体法って、受けるところによって全然ちがいますね」と言われることがある。強引な感じがしたら、それは操体法のようであっても操体法ではないと、説明することにしている。
あくまでゆっくりと、スムーズな動きだ。本人が気持ちいいと感じることも必至だ。本人が強引と感じるようなら操体法の想定からは、はずれた行為だろう。

私の操体法はどの程度、操体法になっているだろうか。
皮肉なことに、自分の姿は自分自身で見ることができないのである。思い込みやクセといったものから百パーセント免れるということはあり得ない。自分の姿を見る方法の一つに、鏡に映すというやり方がある。鏡に映した姿は左右逆なのであるが、それでも大いに参考にはなる。私の鏡は、講習の参加者の方々であり、施術を受けられる方々である。私が指導したのだから、参加者のまちがいは私自身のまちがいでもあるだろう。施術を受けられる方には感想を聞いたり、施術を受けたあとの経過などを聞かせていただく。長期にわたる経過観察も当然だ。

幸いなことに、操体法は自力療法である。施術を受ける側である本人も感覚を働かせているから、「こっちがいい」「こうがいいです」と、さかんに口をきくようになる。術者と本人の歩み寄りによって、より理想的な操法が実現されてゆくのである。
術者側の心得としては自分自身の感覚を研ぎ澄ませていくということ。体のクセ、心のクセを除いてゆき、雑念で感覚を狂わせないようにする。「快」と「不快」とを嗅ぎ分ける習慣を身につけ、自分自身の筋肉の状態や体調の経過を長期にわたって観察してゆく。

言うは易し、だ。
しかし日本の民間の伝統的な療術は、自身の体験が積み上げられていったもの。一見科学的な体裁の理論やリクツで割り切っていくようなことでは生きた体の働きは見えてこない。
「これでできあがり」ということもないだろうから、日々自分なりに研鑽を積み重ねてゆくしかないと私は考える。


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全身の血管をぴかぴかに、肝臓をつやつやにする-腸内細菌の研究-
2011/07/23(Sat)
腐ったものを食べる人はいないが、食べたものをお腹でしょっちゅう腐らせる人は少なくない。腸内環境がわるいというのは、そういうことである。
腐敗はいかなる有益な物質もたちまち毒にする。どんなに高級で安全な食品を口に入れたつもりでも、自分の腹の中で毒にしてしまうのだから、なんとももったいないことである。
醗酵は、毒物を無毒化し、浄化し、さらには有益なものにさえ変換する。微生物は、そういう手品のようなことを、魔法のようなことを、いとも簡単にやってのけるのである(『腸内細菌の話』(岩波書店))。

腐ったものは有毒。体に有害ということは誰にでもわかるだろう。腐りようによっては、何種類もの発がん性物質がじゃんじゃんつくられる。しかし腐ったものをわざわざ毎日食べる人もないのだから、腐敗したものがどの程度体に有害なのか、考える機会もないだろう。
腸内環境とは何か。台所をあつかう方ならリアルにイメージできると思うが、台所に立つ経験にとぼしい方にはむずかしそうだ。たとえば生ゴミと、糠漬けをつくる糠床。腐敗と醗酵のちがい。それらのことを、まず自分自身の鼻で、自分の目で、口で、実際に体験することも、私はだいじだと思う。
あの刺激臭。あのおぞましい、どろどろとした様子。吐き気をもよおす、なんともいえない危険な味。腐敗とはそういうものだ。そういうことが、日常に自分の腹の中で起きているということだ。
「腐ったものを食べなければそれでいいじゃないか」。そう思われるだろう。腸内環境がわるいと言われても、ぴんとこない人が多い。「ちょうないかんきょう? それがどうしたっていうの?」っていう顔をしている。

私はどぶろくづくりに何度か失敗したことがある。糠漬けにも挑戦し、何度も腐らせた。どういうときに腐るかは、体験すればすぐにわかる。糠床には微生物がたくさん住んでいる。きゅうりや大根などをその中に寝かせておくと、おいしく醗酵してくれるのである。ところが、大量の野菜を糠床に突っ込んだらどういうことになるか。微生物の処理がうまくいかず、あっという間に腐敗する。有毒なガスが発生し、もう食べるどころではない。
また、糠床に水分が多いと腐敗するので、水があがってきたらキッチンペーパーなどで吸い取ってやるのである。
ドカ食いや暴飲暴食が、腸内環境をどのようにするかは、こういうことから類推することができる。
微生物たちの働きがなければ、私たちは何を食べたって、どうしようもない。
私たちは微生物にエサを与えるために食事をしているというふうに考えることもできるのである。

天然酵母パンづくりも、ずいぶんとやった。失敗も何度もやった。醗酵と腐敗のちがいは、天国と地獄であるということ。こういうことが自分の腹の中で繰り返されていると思うと、大変なことだと思う。
もう一度、言う。腸の中で毎日食べものを腐らせている人は少なくないし、自分の食行動によって腸内では醗酵と腐敗が繰り返され、体調を決定している。腐敗した有害物質は血管の壁から血液へと入り込み、全身をめぐってゆく。そして頭痛や腹痛のもととなったり、精神不安をもたらしたり、ガンをはじめとする万病の直接的な原因となったりする。もちろん老化の大きな原因にもなっている。逆にいうと、腸内環境を整えるということが、体調を大きく作用することにもなる。
腸内環境がわるいというのは、決定的な問題をかかえているということなのである。

逆にいうと、微生物を味方につければ、恐いものはない。
昔の日本人が食べていた発酵食品は、微生物を味方につける戦略でもあった。現在の市販されている発酵食品は、その威力を半減させている。流通のために加熱殺菌されていること、添加物を加えて発酵期間を短くするなど、何らかの人工的な操作をしていること、発酵菌が人工栽培種であることなどである。
昔の日本では、しょうゆや味噌は各家庭でつくられるものだった。食事のたびに、漬物が出された。漬物はおやつやお茶うけにさえなった。漬物の中でも古漬けは最高である。私の祖母は戦時中に煮た大豆をワラでくるんで納豆をつくっていた。その天然の菌でつくられた納豆の味は想像を超える美味であったと、たびたび話してくれた。
よって、腸内環境を改善する最強の味方は、昔ながらの発酵食品であるという結論である。

腸内細菌と操体法とが、どういう関係にあるのか。大いに関係はあるが、今回はここまで。(この項つづく)


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生活改善は急流の笹舟ではなく、大海の船がゆったり針路を変えるがごとく-自分で自分のことがおのずと分かるようになる-
2011/07/22(Fri)
食べるというのは命の基本。誰もがほぼ毎日やることだから生活改善ビギナーは悩む。何が体によいか。圧倒的に多い質問である。
「何かを食べると健康になる」。そういう思考はテレビの影響が大きい。
テレビや新聞から聞こえてくる雑音を少しずつ減らすのは、生活改善にはバツグンに有効だろう。
「何が体によいか」の解答は、テレビやラジオといった、電波をキャッチする箱から24時間垂れ流しだ。印刷された文字の羅列、新聞記事からも解答が垂れ流されている。もはや考える必要はない。
「さあさあどうぞ。教えてさしあげますよ」と言っている。呼びかけている。
テレビやラジオや新聞たちは、同じことを言い続けている。いろんな情報があるのではない。内容は一つだけ。
「いろんなものを食べろ」。でないと体をこわすと言っている。「毎日何回か食べろ」。でないと栄養失調になると言っている。「水をこまめにとれ」。でないと倒れると言っている。「塩とコレステロールは減らせば減らすほどよい」と言っている。「健康診断を受けないと死に関わる病にやられる」と言っている。「ワクチンを受けるといいことづくめだ」と言っている。「具合がわるいときには病院にかからないといけない」と言っている。

要するに、結論を出している。一つの結論、一つの答えを教えてくれている。これしかないと言っている。ああしろこうしろと呼びかけ続けている。テレビのボリュームを上げると、聴いているほうは自分の行動を規定して欲しくなる。ああしろこうしろという呼びかけに、応じていないつもりがいつの間にか、「あ、そうなんだ」「へえ、そうだったのか」と応じてしまっている。「そうそう、そうだったな。たしかこの前にもそういうことを聴いたんだっけ」。復習、おさらいまでさせられて、たいていは誰でも「いろんなものを毎日食べて、水はこまめにとって」と言えるようにまでなっている。口を開けば「塩とコレステロールは体に毒だ」とささやきあっている。

私は自分の日常を過ごす場所に、外からの電波が流れ込まないようにしている。週に一、二度くらいは出歩いた先で、電波からの呼びかけを見聞きする機会がある。
ものの1分もたたないうちに、私の目は画面を追い始める。心は電波にからめとられて、「ふうん、そうか、そうだったのか」をいつの間にかやらされている。ずいぶんとテレビっ子だった私は、テレビの受け身が染みついている。一時間も経過すると、矢継ぎ早に「ああしろ」「こうするんだ」と引っぱり回されて、頭クラクラ目がチカチカしてくる。これぞまさしくサーフィン。急流の笹舟にでも乗った気分だ。電波の箱から離れて安静にしていると、頭の中は泥水をかき回したみたいなことになっている。残像と残響とがからまりあい、ごみのように浮いたり沈んだり、点滅を繰り返している。数秒ごとに切り替わる画面、数秒ごとに出される結論は、私の生きるペースではないと思い知らされる。
あの画面を目で追い、音声を聞き逃すまい、あの情報についていこうとしていたこともあった。それが「自分のためになる」と感じていたことも、あったのだ。そう思うと何だか気味がわるくもなる。

何が体によいか。知識を集めるよりは、大きな船がゆったりとへさきの向きを変えていくように、おのずと心身の向かう方向が変わってゆけば、よいのではないか。生活の改善とは変化にほかならない。変わるということ。それを互いに話し合ったり論じ合ったりするのは、バツグンに有効。そうするうちに、たくさんのことが、おのずと自分でわかってくるようになる。自分でわかるということほど愉快でおもしろいことはない。他人から教わることじゃない。自分に備わった判断の力が、おもしろいように働いてくる。

すぐに正解を教わろうとするのは教育で身につけた行動なのか。赤ペンを手にして答え合わせをしようとする。解答冊子を握っている「先生」と呼ぶ相手に、「答えを教えてー」とせっつきたくなる。しかしせっかちは失敗のもと。考えることを楽しめばいいと思う。


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誰でも参加できる定例の講習会、少人数で申し込めるプライベート講習や個別もあります。
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この夏は金黒のゴマ塩で乗り切ってみようかと思う
2011/07/20(Wed)
「塩の吸収のよいのはゴマ塩。男は黒ゴマだけでよいが、女は金と黒を半々で」。へえ、おもしろい話だと聞いていた。「食養では塩1に対しゴマ4だが、ゴマ5を目安に、自分の舌でおいしいと感じるくらいまでゴマを増やしていい。おいしいと感じるのが一番だ」。

水や茶を飲む量も増え、野菜を生で食べる機会も増えて、血液がうすくなるのが実感される。汗は知らぬ間にかくのだし、さっそく金黒のゴマ塩を作ってみる。
減塩が叫ばれる中、塩をふやすのは無謀と言われるご時世だ。しかし栄養学の教科書にさえ、気温や運動量に応じて塩をしっかり取れと注意書きがある。塩が余分なら余分な分だけ1mgの狂いもなくきちんと排泄する機能を私の体は備えている。逆に、塩の不足は体に力が出ない。「敵に塩を送る、の言葉もあるくらい、塩は命のもと。血液の材料だ」と金黒ゴマ塩の話は締めくくられていた。

金黒のゴマ塩は、塩1にゴマ5でも自分の舌には相当きつかった。金ゴマを適当に足してゆくと、ずいぶんおいしいゴマ塩が完成した。これはいいものを教わったと、ご飯にかけてみる。じっくり噛んで味わいながら、減塩のことも増塩のことも、ほんとうは考えたくない、などと思う。自分が一番おいしく感じるという、生きものとして当たり前のやり方が、もう誰からも尊重されなくなっているということが、妙に不気味に思われてならない。かくいう自分からしてゴマ塩の話に飛びついたではないか。

まあ、いい。自分の舌でおいしいと感じるゴマ塩が完成したのは確かなのだから。これまで食べたゴマ塩の中で一番おいしい。このセルフメイドのぜいたくなゴマ塩で、この夏を乗り切ってみるか、と思う。


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治りたいのですがそのためにはどうすればいいですかとはっきり尋ねる
2011/07/19(Tue)
交通戦争といわれて久しいが、学校でムチウチのことも教えてくれないとは何と不親切な社会か。予防接種だ生活習慣病だと、妙に親切に騒ぐほうと、ムチウチのように妙に黙って放っておかれるほうと、この違いは何なのか。一体どこで、どういう判断で、区別されているのか。

気になるところはないか訊ねると「肩こり」。ゴルフボールをうめこんだような不自然なコリ。「事故か何か、あわれたですか?」「先月、車に接触してバイクでこけましたが」
私自身のムチウチ体験を聞いていただく。「あれ~わたしもいっしょです、全くおんなじ」と驚きの声が返ってくる。事故のあと元気だったのに、二、三週間経つうちに体中おかしくなってきて、しかしそれと事故とは結びつかない。「じゃあ、わたし、ムチウチっていうことですか?」と、きょとんとしている。こういう人が、あまりに多い。多すぎる。

ムチウチの厄介さは体験した人には分かる。新聞ネタにもならない、ちっぽけで取るに足らない事故で、取り乱すのも気恥ずかしい。血がだらだらと流れるでもなく骨が折れたわけでもないのに、なぜこんなに苦しいか。苦しみ続けなければならないのか。周囲にも本人自身にさえも、全くわけがわからないことだろう。
医者もあきらめているから、やれ一ヶ月だ三ヶ月だと、治療期間を事務的に区切って済ませている。
全てのケースにおいて本人の納得のいくまで面倒を見ていたら、車社会の経済が成り立たなくなるのは自明である。口うるさい人の面倒は見ないわけにもいかないが、本人が何も言わないのだったらそのままだ。
「このムチウチどのくらいの期間で治せますか」ときちんと質問したほうがいい。「わたしは治りたいのですが、そのためにはどうすればいいと思われますか」とはっきり訊ねたほうが、いいのではないかと思う。

「あら、この足首…」「十年以上まえにネンザしました」。「あれ?この首は…」「ずいぶん昔ですが交通事故やりました」。講習中に、こうしたやりとりが耳に入ってくる。自分に備わった特殊技能かとカンちがいしていた時期もあったが、筋肉に訊けば誰にだって多少は分かる。聞こうとしなくても、案外といろんなことが分かるようになるものなのである。


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生きものたちが生まれ、生きて、死んでゆく夏がやってきた
2011/07/18(Mon)
あたたかい季節は虫を踏み殺すので托鉢をやめ、室内にこもって修行する。そういう僧侶たちがいる。
極端と思われるだろうか。以前の私みたいに。
山歩きには殺生がつきまとう。登山口に向かうまでにすでに、たくさんの命をタイヤや車体でつぶし回っている。それがイヤでたまらなくなり、ずっと手前で車を降りて歩くようにしていた。
足元の虫たちをつぶさないよう、一歩一歩ていねいに足を運ぶ。気をつけていれば小さなアリ一匹だってきちんと目に入ってくる。
そんなふうに目をこらすものだから、文字通り虫の息の生きものたちにも遭遇せざるをえない。足が何本もなくなったものや、いろいろ事情をかかえながら生活している様子なども目に飛び込んでくる。
胸が、痛む。どんな小さな虫にだって、生きものには胸が痛まずにはいられない。
そんな、気の弱いことで、どうする。
我ながらそう思うが、平気を装ってもしょうがない。悲しいものは悲しい。

虫は、たくさん卵を生むのだから、たくさん死ぬのは想定内のこと。虫は虫けららしく、軽々しく死ぬのも当然なのだと自分に言い聞かせてみることもある。
しかし逆をいうと、一匹の虫の命を救うことは、何万何百万の子孫の命を救うことになる。一匹の命を軽々しくなど扱えるものではない。

でっぷりとした体格のイモムシが、地面に横たわっている。目の覚めるようなエメラルドグリーン。鳥たちがみたら大喜びしそうなご馳走だ。生きてはいるが元気がない。背中の一部にはさまれたような痕がある。致命傷か。何とか起き上がらせ、目ぼしい木につかまらせる。せっかくここまで育ちはしたが、成虫にはなれまい。持って数日の命か。その前に食われるか。
どんな処置をしてやったら成虫となり、子孫を持つまでに至るだろう。そう、ふと思った。
たぶん成虫にはなれても子孫は持てない。生きものの世界、そう甘くはない。
生きものが子孫を残すために、どれだけ厳しく互いを選別するか、私だって少しは分かっている。
ちょっとでもダメな異性になど、虫たちは、動物たちは、目もくれないのである。
人間だけだよな、と私はおかしくなる。ほんとに人間て、おかしいよな。ここまでおかしいのは、人間だけだよな。

スズメたちに、こっそり差し入れをしている。これは非常にわるいことだ。人間たちがみな迷惑をする。
川辺のウォーキングコースには、私のように自然の生きものの掟をやぶる身勝手な人間たちがけっこういて、こそこそと差し入れをしている。昔は近所が田んぼばっかりで、スズメたちの口に入れるために栽培するでもなかろうが、人間たちがスズメたちの生活を支えていてくれた。見ようによってはスズメたちは田んぼで餌付けされていたようなものだった。
今は餌も住む場所もなくなって、数十年前の様子と比べ、格段にみすぼらしく見えてしまうものだから、わるいと知りつつ、やってしまう。やったところでどうしようもないのだが、小雀たちの夢中ではしゃぎまわる様子がつい見たくなって、自分のわがままでやってしまう。
どの鳥の暮らし向きにも切羽詰ったものが感じられる。昔の様子とはずいぶん違って、スズメたちはやせて汚れていて情けない。一生に一度でいいから腹いっぱい虫を食べさせてやりたいな、などと思う。

虫たちや鳥たちの生活態度はつつましく、災難や死を受け入れるときの彼らの態度から教えられることも非常に多い。彼らを見ていると、人間は、虫や鳥たちよりもほんとうに高級で立派なのか、疑問に思えてくる。
虫けらのように死にたくはない、などと言って、虫けら以下の死にざまになってはいないか。
生きざまは、どうか。彼らと比べて引けをとらない、と言えるのか。

夏。多くの生きものたちが生まれ、生きて、死んでゆく夏が、またやってきた。


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足のウラに自分の全てをあずけて気持ちよく歩きたい
2011/07/17(Sun)
外反母趾とかタコとか、靴底の減りがかたよるとか、気になるときは靴も靴下も脱いで裸足になって、足のウラが自分をきちんと受けとめてくれているか、チェックしてみてください。

①ゆっくりと、ていねいに、まっすぐに歩いてみる。足の運びはスムーズでしょうか? 足のウラの感覚つかめるでしょうか? ぐらついたりしませんか? どたどた足を運ぶと、いろんな弱点がカバーされ、ごまかされるものですが、あらためてこうして歩いてみると、いびつな感じに気づくかもしれません。
重心安定の法則からいえば、立つ・歩くというのは、足のウラの、親指付近が支えるのが理想ですが、けっこうぐらぐらしませんか?

②適当に円を描いて歩いてみます。右回りと左回りとで、歩きやすさがちがうというのが分かるかもしれません。やりやすいほうだけやっていると、右も左もどちらとも同じ感じで歩けるようになる、かどうかは、何回かやって確認してみてください。

③腰の幅に足を開いて立つ。膝をゆるめ、ぴんと胸を張ったり背筋を伸ばそうとせず、ゆるい姿勢で立つ。
腰が苦しいときは、腰を落として前かがみになり、手のひらを膝にのせたり膝をつかんだりしてラクな姿勢で行います。

足先が開いて逆さの「ハ」の字になりがちですが、やや閉じぎみにして並行に。立ちにくく感じられますが、これで足のウラに体重をのせてゆきます。

足のウラを床につけたまま、重さをつま先から順に、右回りに移動させてゆきます。つま先から右側へ、かかと側へ、左側へと順に移してつま先へと戻る。体の動きはしぜんにまかせてください。足首の硬さ、腰の硬さ、肩や首の硬さが、動きのいびつさ・不器用さ、やりにくさとなって感じられ、ひどいときには倒れそうになるかもしれませんので気をつけて。少しずつ、小さな動きで、試してゆくとよいです。

途中から足先が開いてくずれてきますので、やや閉じぎみに並行に戻しながら正確にやってください。

左回りも試し、どちらかやりやすいほうを実行すると、右回りも左回りもやりやすくなる、かどうかは、途中で何度か確認してみてください。


いかがでしょう。
ひっかかりが感じられたり、だるい感じ、痛みの出るところ、自分の全身のいろいろな情報を把握することがだいじです。
さいごに、ふだんどおり歩いてみましょう。ふだんと比べてどうか。
正しいやり方で実行できた場合には、「あれれ??たったこれだけで?」と驚かれることまちがいなし。
やり方も、少し慣れれば要領はつかめます。
これでも立派なウォーキングです。適当な歩き方のウォーキングよりも立派かもしれない。それはこまめに実行していれば、分かります。部屋の中でも台所でも、どこででも場所をとらずにできます。操体法的ウォーキングです。


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痛いところ・動かないところが悪いのではない
2011/07/16(Sat)
小さなパーツに狂いがあれば大きな全体にも狂いが出る。大きな全体に狂いが生じれば、細かなパーツの機能にも狂いが生じるのは当然だろう。
四方八方からのシワが寄せ集まったところがヒザや肩や腰であったり、頭痛や内臓の不調であったりする。レントゲンに写ろうと写るまいと、そこにわるいものはいない。四方八方からシワが寄せてくるという現象は目に見えないのである。

たとえば胴体が、ねじれている。
胴体の上下、つまり肋骨付近と骨盤付近との、向いている方向が異なる。骨盤付近はやや左のほうを、肋骨付近はやや右のほうを向いている。タオルを絞るときのように、胴体がややねじれている。そんなことは少なくない。

両手を首の後ろで組んで右を向いてみると、肋骨付近が右へ強くねじられる。左を向くと、肋骨付近が強く左へねじられる。左右どちらがねじれやすいかは、個人差もあり、時と場合にもよる。
しかしほとんどの場合、どちらかがよけいにねじれやすく、どちらかがねじれにくくなっている。
こういうのが、全身に大きなしわを寄せる。

肋骨の背中側には、肩甲骨が結合されている。
腕の上げ下ろしに制限がある場合、腕そのものに注目するのではなく、胴体のねじれの及ぼす影響の大きいことに注目し、大きなねじれを先に解消することを考えるのも一つかもしれない。
小さなパーツの不具合のことは、大きな全体の不具合からみてゆくと見通しのつく場合も少なくない。
ごっちゃり寄せ集まった結果そのものを嘆いても突ついても、シワが次から次へと押し寄せてくるのを止めなければラチがあかない。シワの出どころを探るほうが、より確実で、より早い。

動診とは、そうしたシワの出どころを探るためにあると、私は思う。


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筋肉は自ら備わった機能と賢明な判断で、自ずとゆるむ
2011/07/15(Fri)
思い通りにならないと「いまいましい体め」とつい思われるが、講習では「わあゆるんだ!」「すごい回復力!」「大したものよね体って~」とまあ、生命の賛美にあふれた空間が実現するのである。

操体法は自力療法である。自力か他力かで分けると、西洋医学も東洋医学も似たようなものになってしまう。他力療法は患者本人の力よりも、治す側の腕しだいの世界である。治す側は努力するが、治される側はただ寝床でじっとしているだけの非力な存在。治す側こそが主人公でありヒーローである。
私はこういうのが生理的に嫌いなのだ。

「ほぐす」という言葉はなんと他力的な言葉かと思う。私の知る限り操体法の現場ではほとんど聞かれない。「筋肉をほぐす」という言葉はしかし、ずいぶん喜ばれ、平気で使われている。
生きた筋肉を、絡まりあって固くなった毛糸のかたまりに指を突っ込むようにして、手櫛の要領でほぐせるだろうか。揉む。叩く。そういう物理的な働きかけで、トンカツの肉を包丁の背で叩くように、やわらかなお肉にできるのだろうか。
「ほぐせた」ように見えるのは、物理的な刺激に対する生体反応の結果にすぎない。それを「ほぐした」「ゆるめた」と言ってしまうと、生きたからだの反応が目に入らなくなる。「ほぐす」とは人間側の意図が中心の表現であり、少々事実に反すると思われる。

操体法は六割主義という。百パーセント人間側が手出しするのではなく、六割程度で手を引いておけというのだ。では残りの四割には無関心でよいのか。そうではないだろう。残りの四割にこそ、目を向けろというのが六割主義だと私は解釈している。本人の体の生体反応は、あとで出てくる。こちらの想定や期待からはずれた部分もある。そうした体の能動的な働きをしっかり見届けろというのが、操体法の六割主義ではないのか。

名実ともに自力療法として操体法を全うさせるために、自力療法の意味を日々考える。そうでもしないと、他力療法の支配的な現状では、操体法までが他力的・対症療法的に受け止められがちで、ややもすると人間の都合が前面に押し出されたものとなってしまう。

①本人が、自らの感覚や神経をじゅうぶんに働かせながら、自らの判断で動かす運動療法。
②自分の体のことを、本人自身がよく把握し、コントロールできることを目指す。
③本人の意志や都合で「治す」というよりむしろ、人間側の意図的な働きかけに対する自然の十全な働きにゆだね、体が自らの自己修復力で「回復する・治る」のが、心身ともにベストな結果を生じる。
これらはすべて自力療法の持つ特徴と私は理解している。
こうした点が押さえられてはじめて「操体法は自力療法だ」と胸を張っていえる。そう私は思う。


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人間の想定した枠を、体は平気ではずれてゆく
2011/07/13(Wed)
結果発表はいつも待たされる。試験直後にハイ合格ハイ不合格とはいかない。操体も同じ。やってすぐは「気持ちよかった軽くなった」で済むけれど、その後の結果発表が見落されるのはもったいない限りだ。

周囲でこのことは話題になる。術者によって翌日の結果が違う。翌々日の結果も違っている。ここで実力の差がつく。
体を動かしたその時にはその時だけの結果がある。翌日もしくは翌々日の結果というのは、働きかけを受けた体そのものが、どう対応し、どう反応したかを物語っている。体の都合。体の実力。そんなようなものだ。
講習を受けている方なら思い当たるだろう。講習で習ったことを自分の体で存分に確認した翌日の体には、想定外のことが起こっている場合が少なくない。自分にとって都合のよい想定外ばかりならありがたいが、都合いいとは到底思えないだるさやこわばり、痛みなどが出ていることもある。

しかしだからといって「技術が未熟だから失敗した」と結論づけるのは早計というもの。これは技術の問題というより体験・経験のことだろう。体みずからが行う修復活動は、人間の想定の枠を平気で踏みはずす。その踏みはずすところに関心を持って見守り続けるのが、経験を積むということだろう。逆に、何年やっていても、体みずからが勝手にやっている体の修復活動に関心がなければ、技術は身についても経験を積むことはないのかもしれない。
体からの返事は翌日もしくは数日のあいだ保留されることも少なくない。むしろ即日返事というほうがめずらしい。私たちが体を修理するのではない。操体法が体を修理するのでもない。体自身の持つ命のはたらきが、体を回復させる。自分たちにできることは、体に働きかけ・語りかけをすること。その後は体からの返事を待つことだけ。返事を正確に読み取ろうとする努力も必要だ。体が、私たちの意図や期待通りのことをしてくれればよいが、体が「自然法則」のほうを向いている一方で、私たちは「自然法則」よりも自分たち自身の都合や勝手を優先する。そのため、体が出した結果についてはほとんど常に不満を持ち落胆もする。時には体の裏切りとさえ感じることがある。

状態のよい筋肉に働きかけるのと、疲れや衰えの進んだ筋肉に働きかけるのとでは、同じにやって、同じ結果になるはずもないが、しかし同じ結果にならないとも限らない。確かなことは、実際の結果をみてゆくことだし、それ以上に確実な方法は、ない。
操法をやったらやったで、「あぁ気が済んだヤレヤレ」ではもったいない。そこで満足しがちな私たちではあるが、その先こそが、本番といえるのではないだろうか。


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東洋医学が、近代西洋医学的な対症療法に堕してしまうとき
2011/07/12(Tue)
「西洋医学を補うものとして東洋医学を取入れ、洋の東西の融和を目指すというのよい傾向だ」という意見があった。しかし話は丸きりちがう。東洋医学の根底とはまるでちがう話ではないのかと思うのだった。

操体法は日本の伝統的な民間療法の粋が集められたもの。橋本敬三医師の著書『からだの設計にミスはない』の冒頭で、「古来から東洋に伝わり民間に残されているもの…の中から二十一世紀の人類へ遺す宝ものを頂戴した」と語られるものが操体法なのである。

講習を進めるうちに、頭に浮かんで離れないのが「和魂洋才」という言葉である。明治期に日本が欧米近代国家の仲間入りをするために、精神は日本の伝統を守りながら、技術は欧米のものを積極的に導入しようというスローガンに掲げられた、和魂洋才である。
今日の私の日常生活は、その流れの延長上にある。医学も含め、日本のあらゆる分野で見られる進歩は、和魂洋才の延長上に位置する。高度技術の進歩は「洋才」をベースに実現されてきたとして、「和魂」のほうはどうなったのだろう。日本の精神はどうなっているだろうか。

ごく乱暴な言い方をすれば、「洋才」で成り立ってゆく日常の中で「和魂」は置き去りにされがちであり、ものの見方・考え方までがいつの間にか欧米化していったのではないか。
野々村馨著『食う寝る坐る―永平寺修行記―』の中に、こういう記述がある。
「我見を捨て去る―自分が自分であることを捨て去り、ひたすら自己の無に徹し、…日々の務めを遂行する。…こんなふうに頭の中で考えたところで、…この大切な自分を捨て去るなどということができるわけがない。ましてわれわれは、すべての存在を自己という立場から考えるという、近代西洋哲学の影響のもとに教育されてきた人間である」。
私たちは自分たちのことを生粋の東洋人、東洋の中の日本人と思ってはばからないだろうが、心・精神といった見えない中味のほうではとっくに日本は失われているのではないかと思う。

といったようなことを、操体法の講習をしていて切実に感じるのである。操体法は病院の「洋才」とは真逆の、「和才」とでもいうようなもので、実行は誰にでもカンタンにできるが、その技術の背景となるコンセプトもまた「和魂」であるだけに、私たちにはなじみ深い考えではなくなっている。
自分自身、「結果よければ全てよし」とばかりに、結果オーライで長年過ごして行き詰まっていたくらいである。「自分のこれまで受けてきた教育や周囲からの影響で、自分のものの見方・考え方には問題あり」と感じている講習参加者も少なくない。そういう方々とお会いして、操体法を通じて一緒に歩んでいけるというのは、自分にとってこの上ない幸いである。
操体法を継続しているのは自分の健康のためばかりではなく、他人のためばかりでもない。病気とか健康とかいった言葉を超えたところにあるものをつかみとる。そういうことが、操体法の現代的おもしろさではないかと考える。


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命は多様化へと向かい、制度は画一化・統制へと向かう
2011/07/10(Sun)
昔は何百とあったひらがな文字。私の知っているひらがなが50文字だけなのは政治の力、制度の枠である。人間の生き方も制度の枠でひとまとめにされたくはないと私は思う。
生活習慣病対策を中心とした「健康21」は、国民健康運動であり、法的にも組織面でも、整備は進行中である。これが人の生き方や生活、そして考え方までも、ひらがな同様の運命をたどることのないよう、お互い気をつけたいものだと思う。

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オーダーメイド…服にあって治療にないのはおかしいという感覚
2011/07/09(Sat)
服というのは体の外のこと。治療というのは体そのもの、命そのもののこと。どちらがより重要なことかは考えないでも分かる。
講習のあとのおしゃべりを聞くのがいつも楽しみだ。それぞれの視点が反映されて最高におもしろい。
ある人が、「右腕を挙げてこう伸ばすのが、いま最高に気持ちよい」と言う。しかし別の人にはそれがどうでもよいことであったり拷問に近いことだったりする。体そのものも、服の好み以上に多様。それを、「腕を挙げて脇を伸ばすのは体によいことですよ」とでも言われたらもう~~どんな苦しい思いででもやろう!とするのが悲しい人情だ。

操体法を継続して続けていると、それぞれが、それぞれの方向を平気で向くようになってゆき、顔つきからしてしっかりとしてくる。「服なんかでもオーダーメイドがあります。それが命や体のケアをみんな同じにするだなんて誰が決めたんですか、おかしいじゃないですか」。以前はこんなこと思いもよらなかったという人が、今では見ていてたのもしい限りだ。

自力療法だからなのか、操体法って、一人ひとりがいつの間にかそれぞれの歩みをするようになって、逞しくなっていくようだ。


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「分かりやすい」というのはよいことなのだろうか
2011/07/08(Fri)
消化によいものを食べやすく加工調理して食べ続けると、噛まずに飲み込むようになる。情報も、学校では年齢に応じた分かりやすい内容。メディアでは誰にでも分かる番組、分かりやすい記事。番組の作成側が「視聴者に難しすぎる」と判断したところはどんどんカットされるという。

子供達の教育は文部科学省の指導要領に忠実に進められる。教える内容は発達段階に応じ、消化に良い物を消化しやすく加工・調理することとされている。
教職資格を取得するとき以外に指導要領など目を通すことはまずないと思うが、私は大卒後も教職をいくつか足したのでこれを何度も暗記するうち、腹が立ってきた。
「分かりやすい」というのは、子供にとって、それほどよいことなのだろうか。

テレビに出演して腹を立てていた方の話を思い出す。
番組の作成側は、「これは視聴者には理解できない内容だ」と判断したところをどんどんカットする。「これなら誰にだって分かるだろう」と思う内容だけをつなぐのだという。

学校では「分かりやすい内容」を。メディアでは「誰にでも分かる内容」を。
ここから私たちは何を学ばされているのだろうか。
「世の中は分かりやすく、単純でカンタンな世界だ」。この世は「わかりきった世界」で、「一つの正しい答えが全ての問題に用意されている」。私はいつの間にかそう思ってしまっていたのだが。
未知の世界や謎の世界については「あやしげだ」という警戒心を抱き、知らないふりを通した。
「分かりやすい、単純につくられた世界観」の中に安住し、安楽に過ごしたいという態度になっていた。
そういう状態がずいぶん長いこと続いていたのだが。

子供は不完全で、理解力もなく、未熟だから、「これはまだ早い」とか「年齢的にちょうどだ」とか、決めるといっても、そんなことを誰が、どうやって決められるというのだろう。
そういうことをやっていけば結果的には、人間発達の画一化・発達の統制ということにならないだろうか。思想の統制につながりはしないだろうか。「あなたの年齢では、そういうことを考えるのはまちがっている!」

「分からない」から「すごい。おもしろい」。すぐに答えが出ないものほど、好奇心も一生ものだ。
そういうことも、あるではないか。
私はなぜだかいつの間にか、「この世はすべて専門家によって解明された世界なのだ」と思い込んでいた。「わかりきった世界」の中で私は何も知らないくせに、退屈してうんざりしていたのだ。
操体法は私に、「じつはなんにもわかってないんだよ」ということを知らせ、私を未知の世界へと、冒険の世界へと旅立たせてくれた。
いつでも誰でも旅立てる。ご一緒にいかがですか。


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誰でも参加できる定例の講習会、少人数で申し込めるプライベート講習や個別もあります。
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自然のはたらき・命のはたらきを尊重するツアー -操体法とともに-
2011/07/07(Thu)
答えを教えることは誰にもできない。試行錯誤の過程を見る、もしくは見てもらう。試行錯誤の末に出てくるものは答えのようでいて、答えと言ってしまえばウソになるようなもの。

肩こりや腰痛の訴えを、解消したい。そのために、訴えがどこからくるものなのかを、まず知る。それを動きから見つけましょうというのが動診である。
しかし、この動診という過程が、どうしてもおろそかに扱われてしまう。
訴えを持つ本人は、「解消したい」というだけでなく、「できるだけ早く」という気持ちを持っている。自分の問題の源が奈辺にあるのかなど、正直に言うと、どうでもよいことである。
口を開けていると白衣の人がやってきて、口の中をがちゃがちゃいじって痛む歯をさっさと抜いてくれる。そういうものが期待されている。
私も最初は「できるだけ早く」の列に並んでいた。そこに並び続けていたらだんだんと、自分の周囲に命のツアーの常連が多くなっていた。
お互いに経歴をたずね、語り合ってみると、たいていは、口を開け続けるのにアゴのほうをおかしくしてしまっただとか、残りの歯も少なくなってきたので、もう抜かれるのはご免だとか、そういう方ばかりである。確かに自分も危ない状態になっているなと気づく。

現在の私の好奇心は、訴えの源を探るほうにある。「解消したい」という気持ちが人一倍強く、おざなりな処置ではとうていガマンできない。「できるだけ早く」ではなく、「根本的に」。そして仕上がりを最高にしたい。そのためには、人間の不器用な手わざより、自然の働き、命の働きを重視する以外にないだろう。
操体法には、自然の働き、命の働きを尊重する礼儀というものが備わっていると私は思う。自分の要求が高度だということは承知である。私はそういう厄介な人間だから、問題の源が奈辺にあるのか、今後も命のツアーに参加して、気長に取り組むほかなさそうだ。

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自らの命と健康に予算を組む-どのくらいの時間と手間ならかけてもよいのか-
2011/07/06(Wed)
およそあらゆることについて、人には予算というものがある。お金だけの問題ではなく、お金も含め、本人の払う苦しみと犠牲のすべてが予算である。
健康にも命にも人それぞれに予算がある。
どのくらいの時間、どのくらいの手間、どのくらいの苦しみと犠牲なら、払ってもよいと考えるか。

私事で恐縮であるが、自分には健康に危機的な問題をかかえる身内がいる。本人も本人なりに、どうにかしたいとは思っているようだが、テレビの前で日々漫然と過ごす時間はあっても、自分で操体法に20分でも取り組むのは、本人にとって「法外に高額な犠牲」であり、予算外だったりする。状態は悪化していくが、もう周囲も何も言わなくなった。本人が頑張るといえば手を貸す用意はある。しかし本人の心積もりは「週に一回、操体法の施術に通う」というところ止まり。それで助からないのなら、それで構わないという判断である。本人の人生。誰もそのことに反対できようはずもない。

職場でたくさんの相談に関わってきた。受験の悩みにせよ健康の問題にせよ、自身の望みが、どのくらいの犠牲を払わないと叶えられないものなのか、まずはその判断からスタートし、心がまえを決めるしかない。
九九もやっとな受験生に「医学部合格したい」と相談されたら、あなたはどうする。「あきらめろ」と言うか。私ならあきらめる必要はないと思う。
私は義務教育で九九くらいしか身につけなかった人間だ。国立大に合格するなど誰が本気で考えただろう。小学生の分数計算を18歳でやり直し、大検を取得後、美大受験を経て東京外大英米語科に入学した。ほぼ独学だから、ずいぶん無理・無駄な勉強をしている。しかし自分には妙な確信があった。それはカン違いだったかもしれないが、もう一度やれと言われたら今度はもっとラクなやり方で合格できる。
やり方というのはいくらでもある。私はそこに興味を感じ、指導のやる気を持つ。「きみが本気なら、手伝うよ」。
やっていくうちに本人の中で答えは出てくる。「よし、やっていけそうだ」という確信を持つ場合もあれば、「もうこれ以上の予算は出せない」という判断が出てくることもあるだろう。私はいつだって本人の側の予算に沿うことしかできない。

受験指導を始めた頃はどの受験生にも、がむしゃらに頑張らせた。「医学部に行きたい」と言われれば、さあ大変と勢い込む。「来年医学部だって? じゃあきみ、こんなことしている場合じゃないよ。これと、これを、一日一時間ずつ。それから…」などと本気で医学部受験対策を考え始める。
指導の体験を積むに従い、「本人はどのくらい頑張っていいと思っているのだろう」と常に考えるようになった。「ふうん。医学部かあ。で、どのくらいなら努力しても構わないと思っているの?」
修羅場だった現場は次第に平和になってゆき、事実上挫折する者はいなくなっていった。
どこまで頑張れるかは、本人の持つ総合的な条件を考えなければならない。気力。体力。本人自身の条件に加え、家族の意見や周囲の協力。そうしたことも全てを含めて、最大限の予算を考える。
しかし最終的にはどのくらいの予算を組むかは本人たちにまかせるしかない。
本人の情熱や熱意は必要だが、無理を強いても結果は出ない。「医学部かあ、けっこう大変よ」と一言出すだけで、「へえ、そうですか。じゃあどこでもいいです」と平気で言う相手に、「お前さっき医学部と言ったろう。頑張るだけ頑張ってみろ」などと尻を叩けば本人は逃げ出すだけだ。

病気治しも同じ。最初からあきらめるなら、それはそれで何も考えなくていいからラクなようなものだ。しかしやるなら本気でやってみれば、予想よりはるかによい結果が出ることは保証する。
自分のかかえていたアトピーやアレルギー、肝炎、ムチウチなどの健康問題も、私はこうと決めたら他のことを全部捨てる。私はそれがまったく苦にならないたちのようだから、誰でもそれがあたりまえと思っていた。しかし世の中そう単純ではなかった。
「病院の薬を減らしたい」。不安にかられて誰でもそういうことを平気で言う。人によってはすぐに叶えられる場合もある。人によっては九九もあやふやで医学部合格を目指すというのと大差ないような場合もある。「時間も手間もある程度かかりますよ」という一言で、「ああそれならいいです」と引き下がる人に、誰が何をどう手伝えるだろう。

本人の納得する予算を最も尊重するということでは受験も病気治しも少しも変わらない。

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平気で違反を繰り返してしまう-自然法則と操体法-
2011/07/05(Tue)
免許制でもないので49年の間、心と体を無免で運転し続けてきた。違反キップは何度切られたか数知れず、罰則で痛い目にもあってきた。しかしいまだに法規がよくのみこめていない。性懲りもなく違反を繰り返す。

自然王国の法規は人間社会のそれよりも、各段に厳しい。死刑はある。罰金は一文たりともまけてくれない。悪意のなかった行為も許されず、情状酌量の余地もない。「知らなかった」では済まされない。
罰則がいつ、どのように発動するのか、あらかじめ知らされることもない。一日後か一年後、それとも十年、二十年、三十年後に出てくるのかさえ、わからない。免れたと思っていたら、知らぬ間に罰されていたりもする。

罰則のベースとなる法規があるにはあるようだが、学ぶのには基本的に、失敗して痛い目にあうことが必要な場合が少なくない。当然ながら教科書もチェックテストもない。分からなければ分かるまで、何度でも繰り返し同じ痛い目にあわなければならない。
時と場合に応じて法規は異なるようにも見え、徹底した個人主義のようにも思われる。かと思うと万人に共通したところもあるように思われる。
自然の法規、自然法則は老若男女、対象を問わず、24時間いつでも働くことをやめない。
自然法則とけんかをしても、始まらない。自然法則、恐るべし。

操体法の活動を通じて、生きた自然法則のことを学び続けてゆきたいと思う。


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どうにもならないこと・どうでもよいことを差し引いてみる
2011/07/03(Sun)
どんな悩みにも有効期限がある。悩む自分がいるからこの世は不幸、悩む自分がなければこの世はまことにハッピーだ。この世の悩みは死ねば無効になるということを、心強く感じることもある。気がついてみたらトンと悩むことがなくなった。悩む時間と手間が惜しい。それなら別のほうに回したいと思う。

最近はよく、「自分どうして生きているんだろう」と自問する。とくに人生がつまらなく感じるというわけではない。「この人どうして生きてるんだろう」などとも考える。余計なお世話と思われるだろうが、とくに余計な世話をしたいというわけでもない。
ただ、生き続ける理由というのを考えるほうがスッキリすることもある。生きる理由なんかないさ、意味なんかないさと過ごすばかりだったのが、規定して生きてみるとけっこうラクなのだ。
「生きてるうちにやっておかなきゃ」と思うことを優先すると、悩まなくなってくる。生きてるうちにやっておかなければならないこと以外は、どうにもならないことか、どうでもよいことなのだ。

「生きてるうちにやっておかなきゃ」と思うことがあるとするならば、さっさと手をつけないと時間切れになる。若かろうと年をとろうと、いつまで生きているのだか分らないような身の上だから、持ち時間に限りがあるのは当たり前。時間はあるようでいて、実はないようなものなのである。しかしまた、どうにもならないことと、どうでもよいことを差し引くと、時間はずいぶんたっぷりある。時間はないようでいて、あるようなものでもある。


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「なぜか?」の火種に薪をくべ、炎をたやさずにいたい
2011/07/02(Sat)
教師は「なぜならば」と分かりやすく丁寧に答え、生徒も「ああそういうものですか」と物わかりよく引っ込む。そういうやりとりで分かったことにしてしまう世界しか当時の自分は知らなかった。
ところが師匠は「なぜ、こうなるんですか」という問いに対して、「なぜならば」を大きく迂回する。はぐらかすような、謎が深まるようなリアクションに、分かったような気にもさせられ、さらに分からなくなったような気にもさせられ、時には周囲をいらだたせることもあったのだ。

講習の集まりでは、「なぜこうなるか」の謎解きに熱心な方々も少なくはなく、とくに男性にその傾向は強い。女性は自分も含めて割り切りがはやい。「とにかくはやくラクになればいいのヨ」と操法に熱心で、確かにそのほうが要領はよいが底が浅くならないように気をつけないといけない。
解明にこだわる男性はリクツが優先する。リクツで腕が上がるのならまだしも、とかく立派そうな研究や理論へと奔ってゆきそうな気配なきにしもあらず。
すぐに解明できるという強い確信があるのだろうか。解明したあかつきには、手に取るように体の調整が分かるようになるという期待もあるのだろうか。これもまた底が浅くならないよう気をつけないといけない。橋本敬三医師は、「なぜ操体法でこういうことになるのか」を解明しようとしていた。およそ半世紀にわたる解明の試みが『生体の歪みを正す-橋本敬三論想集-』や『誰にもわかる操体法の医学』に残されている。一筋縄ではゆかない問題である。

師匠は全てを承知のうえで、迂回戦法のリアクションを二十年以上も繰り返しながら、何度かに一度はずばっと正論で切り込んでくる。そうなるとこちらはたちまち立ち往生である。そんなこともとっくに承知のうえで、何を考えているのだか考えていないのだかわからないような、すました顔をしている。かなわないな、と思う。
足かけ二十年の問答のおかげで、自分も次第に、カンタンに割り切ろうとする限り見えてこない世界に足を突っ込んだのだということを少しは分かってきたのではと思う。最近は少しはましな問答にしようとして準備に苦心もする。「なぜか?」という火種に水をかけて安心したいのではない。逆に、「なぜか?」という火種に自分でも薪をくべ、炎をたやさずにいられるように、「なぜか?」を外に向かって発し続けていきたいと思うのだ。
今は講習で「どうしてこうなるんですか」と質問されもする。人から出される質問は挑戦状のようなもの。一対一対応の答えで相手を安心させるのはカンタンだが、「なぜか?」の炎を猛烈に巻き起こすような、そしてそれが一過性のもので消えてしまわずに、「なぜか?」の炎が自分のまわりで燃え続けているような、そういう環境を実現したいと思っている。


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