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人に伝え、伝わってこその、実体験
2011/05/31(Tue)
本当の感動は、伝えたいと思うから、本当の感動は人から人へと伝わっていく。操体法の感覚は、理屈や言葉を超えている。伝えようとすれば、自分の人生すべてを洗いざらい出すようなところがある。

操体法を教えたいという場合は、まず自分自身に操体法の体験と感動が必要なのだろう。黒板に書かれたことをノートにとって、暗記するという感じでは、操体法の感覚は、わからない。
言葉で言えば数秒で終わる。しかし実習の一つ一つから感動の体験を積み重ねてもらうことでしか、通じないこともある。


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「自分だけの感覚」
 交通事故で負ったけがのリハビリを兼ね、ちょっと変わった運動療法に取り組んでいます。
 例えば、右か左かに首を動かす際、気持ちの良い側を選び、気持ち良い加減で動かすという具合です。最初は、左右どちらが良いのか分かりません。気持ち良さは、自分だけのもの。自分だけの答えを出す訓練と思って続けています。
 振り返ると、学校へ上がって以来ずっと、正しい答えを他人に握られている問題を解いてきたように思います。自分の頭を使って考えることが大切だと言われる一方、出てきた答えが先生と一致すればマル。一致しなければバツ。そうやってマルかバツかを気にしながら生きてきたと思うのです。
 職場では、生徒たちが読書感想文や自己紹介文を書く時でさえ、「これの答えは何?」と聞きにきます。彼らもまた、誰かに答えを握られた世界で過ごしてきたと思うと、私はとがめることができません。
 最近、生きていて楽しいと心から思えるようになりました。自分の感覚に発見のある毎日がうれしいのです。自分だけの発見の喜びを彼らにもいつか、体験してほしいと思っています。(朝日新聞 ひととき欄掲載 5/31)

講習の参加者に何が伝わるのかはわからない。人に伝え、伝わってこその、自分の体験。伝わるまでトライし続けたい。

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※九州・福岡市内で操体法の講習を受けることができます。

※操体法の実習を見学・参加する⇒①②③から選べます。
①みんなで講習会(参加費2000円)
②家族や友人とゆったりプライベート実習(2500円。三名~2000円)
③一人でじっくり個別実習(一回3000円)

 ②と③は日程・時間帯を希望にあわせます。西鉄高宮駅徒歩3分。
 
 お問い合わせ電話080(1720)1097(山下)
    またはメールfukuokasoutaihou☆yahoo.co.jp(☆⇒@に)
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誰もがいつでもカンタンにできるというのが大切と思う
2011/05/30(Mon)
食える、感動、カッコいい。それが操体法と思う。困っている人がいたら「5分お時間いただければ」と声をかける。90歳の人だろうと20歳の人だろうと、ご本人にできるカンタンな動きをガイドしてあげれば、案外と熱心に取り組まれるものなのだ。
「5分お時間いただければ」と口に出る相手と出ない相手とがあるが、別にこうと選ぶわけじゃなく、間合いでしぜんにそうなるようだ。
いくつか操法をやって終わりのこともあるが、「あれま? ほんと…。へえ…」と考えこまれることもある。あとになって、「あのう、これは、なんですか?」とたずねられることもある。そしたら農文協から出版されている『万病を治せる妙療法-操体法-』という本にあるものなんですよとお伝えするようにしている。

以前、別種のセミナーに参加したときに、こういうのをかくし芸として楽しむ学校の先生にお会いしたことがある。「特技」のおかげで職場がずいぶん居心地よくなったという。痛いとか、きついとか、「困ったときにはあの先生」と教師仲間でもたよられる。現場での少々の手落ちなどはみなさん大目に見てくださるようになるのだそうだ。学校の生徒さんがアゴをはずして大騒ぎになったのを、まぐれだか何だかわからないが、この先生の一瞬の判断で元の位置に「はまった」ことがあり、以来、全校での信頼が高まったという。

芸は身を守り、助ける。趣味でいくつかの操法を身につけておけばコミュニケーションの手段にもなる。
しかしまず何といっても感動だろう。「うわ、たいへんだ」とパニックになっているのを一瞬でおさめたら、相手も感謝、感動だろうが、自分自身も心ひそかに「やっぱりこの技はすごいな!」と感動するものだ。そして人助けはカッコいい。
不謹慎に思われるかもしれないが、自分はもうこういうノリでいいんじゃないかと思うことがある。
人を傷つける技が身につくよりも、腰痛とか肩こりとか、ひざが痛いと言っている人に、「やってみますか」と声をかけ、その場でさっと取り組めるような、カンタンな操法を身につけるほうが、ぜったいにいいに決まっている。
私はこうした心得が、とくに限られた人々のあいだで伝えられる特別なものではなく、誰もが各自のレベルにおいて共有できる、常識とか生活文化といったようなものになってもいいんじゃないかと思うのだ。

昨日の新聞記事には農業のイメージ「きつい、汚い、かっこわるい」の3Kを、「かっこいい3K」にという活動をしている人たちが紹介されていたが、身につけた操法をどうお使いになろうと、アイデアしだいと思う。病院の延長みたいなのもわるくはないだろうが、手品のようなパフォーマンスでも、かくし芸でもいっこうにかまわない。もちろん食えるようにもできるだろう。それはご自由だ。


※九州・福岡市内で操体法の講習を受けることができます。
電話:080-1720-1097(山下)もしくはメール:freeyourself.sotai★docomo.ne.jp(★を@に置換えてください)。
山にいるときに電話がつながらないことがあり、ご迷惑おかけしますが、着信履歴からご連絡差し上げています。ご了承ください。

いつでも始められる初心者のための操体法入門講座
(H23年5月22日現在、ご参加いただけます。1回2時間ていどです。参加費は二千円。)

操体法で活動をしたい方のための指導者養成講座
(H23年5月22日現在、ご参加いただけます。回数などできるだけ希望に添います。参加費二千円)

お一人で個別に受講を希望される方、もしくは施術
(都合のよい日時をご指定ください。初回三千円、二回目以降二千五百円)

入会金などは不要です。参加した分のみお支払いください。
そのほかのご要望はお申し出ください。詳細は080-1720-1097(山下)まで。
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ぜんぶ分かればつまらない・丸きりわからないのもつまらない
2011/05/27(Fri)
幼児みたいにわけも分からないまま、なぜあんなに見続けていたのだろう。いつまで見ていても「見るな」と言われなかったので、見ていたのだろうかとも思う。

じっさい人の体にふれ始めたのは数年前にすぎないが、現場に毎週足を運び、自分もしてもらって、人がしてもらうのも見聞きし、それを十九年も続けてきたというのは、なんだったんだろうと今さらながらに思う。そばで、じーっと見ていた。ぼーっと見ていた。なぜあんなに見ていたのだろう。なにを見ていたのだろう。自分でもわからない。
ここ数年は欲もあるから必死である。人がある動きをすると、「よし右だ」などと心で思う。「さあ右」と賭けごとでもするかのように思う。本人が「左のほうが動きやすいです」などと答える。師匠は黙っている。「もう一度ゆっくり」と何度か動きをみる。「左は軽いが」。師匠は決して早合点はしない。私も心の中で「うーむ」と考える。見ているだけでは分からない要素もある。本人とのあいだで交わされるやりとりを耳にしながら、師匠は何を考えているのか、何を感じ取っているのか、何を見ているのか、一体何をしているのか、どういう展開になっていくのか、私は夢中になって考えている。あとでメモを見直しながら、流れの全体を考えたりする。分かるように思われたり分からないように思われたりする。

ぜんぶ分かればつまらない。しかしまるきり分からないのもつまらない。そういうことで、飽きない。そういうのが、飽きない。こんなことで一生が終わってしまうかもしれないが、それはそれで自分は一向にかまわない。かまう時もくるかもしれないが、そのときは、またそのときのことだ。


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からだの調律・こころの調律
2011/05/25(Wed)
慣れればむずかしくない。しかし慣れるまでに「むずかしい」と思いこんでしまうのは上達をさまたげる。工夫が不可欠なところだ。
指先で軽く押さえると、痛みを強く感じるところがある。圧痛点。コリとの関連が深いといわれる場所だ。師匠の操体法の姿勢は、弦をおさえて楽器を奏でる様子にそっくりだ。片手で圧痛点を軽く押さえ、体の動きによって圧痛点の痛みがどう変わるか、張りがゆるむかどうかなど、多くの情報が指先から感じ取られる。

操体法は快・不快の感覚に従って運動を行う力学的な運動療法であるが、圧痛点の痛みが減る、もしくは痛みが完全になくなる動きを見つけて行うというやり方も重要である。
一方の手を圧痛点の上に置いておき、痛みや張りの変化を感じ取る。もう一方の手では、相手の動きを調整する誘導と抵抗とを行う。両手で二つのことを同時にやっていくのである。
それに加えて言葉で指示も出す。「もう少し外側へ。私の手をじわっと押してもらっていいですか」「そこでタメます」「ハイ脱力。一息やすみま~す」などと、口は休むことがない。

講習で教えるようになるまでは、このようなことを自分がやっているのだとは思ってもみなかった。
ただ、最初のうちは「操体法カンタン」と言っていた参加者が、「けっこう奥が深い」「むずかしい」と言い始めるのが、圧痛点のことをやりだすタイミングと一致する。こうした作業を同時並行でやっていくことには少々の慣れが必要である。

なぜか自分の知る治療師には楽器演奏の体験を大なり小なり積んでいる方が少なくない。自分は五歳から十年間ずっと週に一度ピアノの教師に教わっていたが、右手と左手とが互いに協調しあうという境地には至らなかった。あの頃の苦労を思うと、圧痛点に触れ、体の各部の動きが圧痛点にどういう影響を及ぼすかを読み取りながら、同時にもう一方の手で各部の動きを調整し、抵抗を加えさえするというのが難しく感じられる人もいるだろうと思う。
繰り返しやるうちに、すべて必要なことはおのずとわかってくる。「こうしよう」「こうしなければ」と力まなくても、だんだんとそうなってゆくものだ。
ここをクリアーすれば、操体法の世界がぐっと広がり、深まりもする。そのことは保証しよう。


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この手に握るは松葉づえかピッケルか
2011/05/24(Tue)
三十代の自分には操体法は仮の杖だった。しかし五十をひかえて振り返れば、操体法は険しい冬山に必携の、ピッケルに等しい活躍をしてくれる頼もしい味方であった。

三十代の自分には操体法はただの杖。杖なしよりも杖のあるほうがラクに歩けるというくらいのものだった。幼いころからの虚弱な体質も、乗り越えられるかもしれないという、欲というか希望もあった。もともとの体力にコンプレックスのある者は、こうしたことには非常にシツコイのである。
元気になれば打ち捨てよう。そうも思っていた。杖などに頼らずに歩けるのがいっとうえらいと思っていたからである。七年遅れで進学した大学を卒業したての頃で、学生気分の抜けない妙な三十代であったと思う。

人間生きていれば困難はつきもの。五十を来年にひかえて振り返れば、操体法は一時的な便宜を供する松葉杖などではなかった。険しい冬山に必携の、ピッケルに等しい活躍をしてくれる、頼もしい味方であった。もう二度と手放そうとは思わない。この命綱にしっかりとつかまって、厳しさを増してゆくであろう老年に向かって歩みを進めるのみだ。


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どのようにして創始者はこれをつくったか
2011/05/23(Mon)
なぜ、この単純な動きがこういう結果を生むのか。一つ一つの動きの意味を考えている。指先から伝わる筋肉の動きの情報と、キネシオロジーの少しの知識とで、どこまで追えるか、わからないけれど、多分、方向はまちがっていない。

教えられた通りにきちんとやれば、結果は大方得られる。初心者のうちは刃物を振り回せば大根やら何やらが切れるという具合で、やたらにうれしかった。
しかしだんだんと切れ味の違いも分かってくる。
刃物の素晴らしさも分かってくると、それを振り回す自分のほうはどうなんだという疑問がわいてくる。
刃物をほめられればほめられるほど、刃物と自分とに横たわるギャップが感じられてくる。
どうして、こうなる?
自分にわからない結果が出るのが、いまいましくさえ思われる。ぜいたくな悩みだ。

答えは出ているだけに、答えから逆算しながら橋本敬三医師の歩みをほんの少しでも探りたい。その過程で新しい操法も数多く試されることだろう。もちろん、創始者や先人たちの困難には比べるべくもない。


※九州・福岡市内で毎週、操体法の講習を開いています。参加回数など自由。

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からだは田んぼ。症状は台風。
2011/05/22(Sun)
痛みや症状を害虫やイモチ病などの悪者と受取れば、退治・成敗の方向に向かう。鍼や灸を使えば東洋的、神経ブロックを使えば西洋的かというと、思考回路は両者とも西洋的な二者対立思考・西洋的自然観に立っている。
田んぼのことでは潔いZさんは「植えたら植えっぱなし」と言い切る。「どう手を入れても所詮、自然ですから」。しかし自分のからだをそこまで楽観視できるかというと、むずかしいところのようである。

『わら一本の革命』の福岡正信や『奇跡のりんご』の木村秋則はもうひとつ踏み込んでいる。田んぼや畑に手を入れはするが、その前に自然の経過を見る目、自然の働きを見落とさないようにしようという目を持とうとしている。
自然の経過や自然の働きを読み取りながら、少しは手を入れる。すると、手を入れた分の自然の反応は必ずかえってくる。これもよく読み取って考える。
天と地と人と。これらはもともと対立するものではないが、人は天や地に勝てぬ喧嘩をふっかけやすいのである。
自然の反応が、自分にとっても自然にとっても、葛藤とならず、心地よい融合となるような、天と人とのコラボレーションの、奇跡的ともいうべき境地が、ほんとうに実現されるものなのかどうか、私にはまだ明確には言えない。しかし、そういうものがあるのではないかということが、操体法を通じてだんだんと見えてくるように思われる。こうなると「見守る」ということが面白くて面白くて仕方ない。

からだも、田んぼ。症状は、台風。症状には症状がおこるメカニズムがあり、症状を支え、つくりだしている要素は一つにはしぼれない。痛みや症状に目を奪われると、全身に現れるかすかな感覚は見落とされ、無視されがちである。橋本敬三はそのことを警告している。
痛みも症状も永遠には続かない。痛みがずっと同じに思えても、実際は同じではない。「そんなことはどうでもいいから痛みを消したい。症状を治したい」と我を通そうとする自分。こじらせたり長引かせたりしたくなければ、気持ちを自分で導いてコントロールする必要もあるだろう。
操体法は技術もさることながら、天と人とのあいだにある自分の立ち位置を見つけ、自然の経過と働きとを見落とさないようにしなければならない。確かな目を養うことのむずかしさを思う。


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止まった時計の針を、いじらないで
2011/05/20(Fri)
アナログの時計が故障して止まったら、どうするか。針の故障のせいで針の動きが止まったと思う人はいまい。文字盤の後ろの、外から見えないところに針を動かす精密な仕掛けがあって、その仕掛けに不具合があるから時計の針は止まったと考えるのが妥当だろう。
理学療法士さんや作業療法士さんに話を伺うと、腕が曲がって伸びない人にはひたすら腕を伸ばすように伸ばすように動かすという。それはお互いに大きな苦痛を伴うつらい作業となる。動かない針をむりやり動かそうとすると、機械そのものが傷んで壊れることは誰でも知っているのだが。

足首のねんざから足の関節や筋肉を硬くして、さらに膝や股関節や腰、首にまで影響が及ぶこともある。足首をいじった途端に、あれっ?「左足首の関節面きちんとあわさってない…」つぶやくと、「あっ、そこは昔ねんざを」。足の先を右に、はい左に、とやるうちに、「あ右足首も…」。言うと、「そっちもねんざやってます」。
ねんざって、そんなに治らないものなのだ。治らないとは言わないまでも、放っておけば治るというものでもない。かくいう自分も、右足首に37年前にしたたかにやったねんざを持つ。左足首は2年ものである。保険医療では「全治」の状態だが、「ねんざをやった足だ」と分かるということは、「ねんざをしていない足とはちがう」。元通り完全に治っているとはとうてい言えないではないか。

東洋医学系の療術でおもしろいのは、遠隔的に出てくる影響を見るということ。そしてまた、遠隔的な操作によって改善をねらうということである。
足をゆるめていると、腹のぐるぐる音がさかんに聞こえてくることが多い。「ちょっとトイレ」と途中で立つ人も少なくない。足と胃腸には切っても切り離せない関係があるのだとわかる。逆に、足の関節や筋肉の硬い人に、「食べてもこれじゃあもたれちゃうかな」と声をかけると、「どうしてわかりますか」。
胃の調子がわるいと胃がわるい、心臓の調子がわるいと心臓がわるいという発想をしていると、時計の針が動かなくなったからといって針を押したり引っ張ったり、新しい針に取り替えっこしようというのと同じことになる。これでは人体の修理は時計の修理にさえ及ばないということにはならないだろうか。


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一年間、山に通ってみた
2011/05/19(Thu)
一年間毎日山を歩いてみた。時間も距離も自由。しかし自分の体調を把握したうえで加減するのは思ったより難しく、体力よりも判断力がカギだった。

子供の頃は二日と続けて学校に行けたためしがない。スポーツにも縁がなく、交通事故の後遺症まである。心身を鍛えたいという気持ちはあるが、毎日山に通うのは冒険に他ならなかった。

鍛えるというと映画で見るシーンのように、自分の持つ力をすべてもしくはそれ以上を出し切るものだという思い込みがどこかにある。しかしやがて一年歩きとおすには体力よりも判断力だということがわかってきた。

一日の疲れをいい加減にして積み残せば、すぐに翌朝が来て山に出かけなければならない。疲れが積み重なってゆけば、いつかは動けなくなる。自分で自分のことを把握して、加減をすればよいことだが、今日は絶好調と思って歩き始めると、足がずいぶん重かったりする。具合がよくないと思って歩いてみると、気分よく歩けることもある。自分の体調を自分でわかるというのがこんなにも難しいものだとは思いも寄らないことだった。

自分の体や心の弱点を、この一年間でずいぶん教えてもらった。今は平地のウォーキングと山歩きを組み合わせ、怠けてかまわない日も設けている。一年歩きとおしたからといって、どこがどう強くなったかわからない。しかし少なくとも歩き続けるのに必要な何かが自分に備わったのだけは確かなことだろう。(西日本新聞掲載後、一部変更)


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感覚の体験を積んでゆけばゆくほどに底がない
2011/05/17(Tue)
短気は損気。今すぐに分からなくても、あとからそれを発見するということは貴重な体験である。本当の意味が分かりだすのには散々な目にあうのを待たなければならなかった。

いま私の手元に米国ユニオン大学の操体法学科の講座で使われたテキストがある。その中で「効果が出にくい場合がある」との記述を重要と感じる。
いかに『万病を治せる妙療法-操体法-』といえども、「痛くないほうに、息を吐きながら“ゆっくり”と動かして」を漫然とやっていては操体法の効果はないと、はっきり書いてある。
これは重大なことと思う。

橋本敬三にせよ、自分が直接指導を受けている師匠にせよ、操体法についての注意や細かなアドバイスに無駄が一つもないことに驚く。そのことを橋本敬三は次のように述べている。「各姿勢での…ちょっとした注意点はその項目に書いてありますが、“同じ動き”であっても、手のおき方、腰の落とし方ひとつで効果の表われ方も異なってきます」。

誰もが最初のうちは、「とにかくやればいいことがある」くらいの大雑把な調子でやっている。そのくらいの操体法でもしばらくは大丈夫。三十代のころの自分などはそれが操体法だとカン違いしていた。手のおき方や姿勢の一つ一つのことが何になるというのか、わけがわからない。意味が、わからない。自分にはムダで面倒な説明としか思えないのだった。
その意味が分かりだすのには、四十代も半ばに交通事故のムチウチでさんざんな目にあうのを待たなければならなかった。それまでの自分の操体法ではまるで歯が立たなかった。なんだなんだ、『万病を治せる妙療法-操体法-』って、この程度のものだったのか? 大いに迷い、大いに苦悩した。

橋本敬三とはすごい人物と思う。まだまだ自分にもわからないことだらけで、そんなことを言うのもおこがましいばかりだが、彼の説明には一つも無駄がなく、必要不可欠なことをきっちりと述べてあるのだろうと思う。短気は損気。今すぐに分からなくても、あとからそれを発見するということは貴重な体験である。操体法に出せる結果というのは、本人の感覚の体験の積み重ね、本人の気づきによって、大きく左右されるものといえるのではなかろうか。


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人の子は人の間にあってこそ人間らしく育つ
2011/05/16(Mon)
ゲームは子供たちに思慮深い行動よりむしろ、反射的・発作的行動を促す。ゲームに集中する子供の後ろ姿を見ていると、トレーニングマシーンで行動パターンを訓練されているようにも見えてくる。

 職場で20年近く生徒たちと接してきて、テレビゲームやパソコンゲームの影響を感じることがあります。子供たちは周囲に配慮した行動ができるよう、学校などで社会的訓練を積み、成長していくものですが、ゲームは子供たちに思慮深い行動よりも反射的・発作的行動を促すのではないかと思われるのです。
 ゲームは何時間にもわたり、子供たちにボタンを押すことを要求し続けます。ボタン一押しの中に、判断・決定・行動がワンセットになっているのです。
 私たちの日常生活に、これほど性急な判断・決定・行動はまずありません。周囲の状況を見て判断し、他人の意見も参考にし、時には複数の人数で決定が行われ、それからやっと行動に移される、または行動に至らない場合もあるわけです。それが現実です。ゲームに集中する子供の後ろ姿を見ていると、トレーニングマシーンで行動パターンを訓練されているようにも見えてきます。
 入学祝いにゲームが選ばれることもあるとは思いますが、人の子は人の間にあってこそ人間らしく育つのでは、と思われてなりません。(5月16日朝日新聞朝刊11面に投稿分より転載)


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科学や医学に遠慮しないで生きてゆきたい(その2)
2011/05/11(Wed)
学校でずっと教わってきたのは「正しい答えを握っているのは教師であって、自分ではない」ということだ。自分で答えを見つける努力は大切といわれる一方で、教師の持っている解答と、自分の見つける答えが一致していればマル。一致しない場合はバツ。実質上の罰である。自分はマルか。バツなのか。毎日がその繰り返しである。自分は先生と同じ答えか。同じ答えではないのか。いつもそれを気にして学校生活を過ごすのである。

大学では、登録した教科とほぼ同数の先生が、正しい答えをそれぞれ握っていた。いつも二十名近い先生に囲まれて、私はそれぞれの先生が隠し持っている正しい答えを探し出さねばならなかった。レポートなどで質問にいくと、担当の先生が、わかりきった様子で丁寧に教えてくれる。それが何だかバカバカしかった。そんなにわかっていることだったら、何も自分が書く必要はないじゃないかと思った。

大学を卒業した後も、すべてについて正しい答えを握っている、立派でかしこい人々が、社会のどこかにいるのだと、いつの間にか思っていた。誰かにマルやバツをつけてもらう人生を歩んでいるように私には思えた。
生きている自分の目の前で起こることを見聞きしても、ほとんど意味を見出せなかった。テレビや新聞では、自分よりも立派な人の意見が発表されている。生の情報よりも、加工された情報をありがたく思い、正しい答えを読み取ろうと努力する。自分なんか生きて毎日を過ごしていても、ほとんど意味がないようなものだった。周囲で起こることにはどうしても関心が持てなかった。

「科学的に説明できる・できない」が、「正しい・正しくない」を決める基準になれば、今の科学の鎖につながれて同じところを引っ張り回される犬になる危険性もある。
「医学的な証明」を集めるために体に針を刺されて血を抜かれたり、体の一部を切り取られるのも真っ平だ。

自分の体の真実は、科学や医学をはるかに超えている。操体法に出会って、自分の体の真実は、自分自身で見つけられることもわかった。日々発見の連続だからこそ、生きていておもしろい。論より証拠。自分の体で確かめたこと、生の体験を、これからも集めてゆきたいのである。この世は自分にしかわからないことで満ち溢れている。


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(少人数制。回数などできるだけ希望に添います。参加費二千円)

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   入会金などは不要です。参加した分のみお支払いください。
そのほかのご要望はお申し出ください。詳細は080-1720-1097(山下)まで。
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科学や医学に遠慮せずに生きてゆきたい(その1)
2011/05/11(Wed)
「科学」という言葉でいろんな考えが画一化に向かっているように思う。しかし「科学」が口をきくわけではなく、口をきくのは人間だ。科学が人間によってつくられている以上、万能でも万全でもない。

私たちは「科学的に説明すると、」というフレーズにはからきし弱い。しかし、テレビや新聞で使われている「科学的には」というフレーズは、実際には科学的ではないのではなかろうか。
学術論文に「これを科学的に説明すると、」というフレーズは使えない。使えばどういうことになるか。「へえ~、その『科学』とは、一体どこの、どなたさん?」

論文で他人の研究成果を使わせてもらうためには、どこの、誰が、いつ行った研究か、具体的な記述が必ず必要とされる。なぜか。中立的な「科学」など存在しないからだ。科学的説明は、学者の数だけ、研究の数だけあると言ってもいい。人間の考えが一人ひとり異なるのはあたりまえのことで、仮説がどのくらい事実と一致するものか、証拠集めをするのが研究でありデータだろう。

テレビや新聞で学者が出てきて説明する場面にも私たちはだまされやすい。なぜ、テレビや紙面に学者を登場させるか。
「自分らの番組・記事で言っていることは正解ですから、これ以上みなさんがそれぞれで考えてみてもムダですよ」と釘を刺す役割があるように、私には思える。
誰だって、「学者がああ言ってるんだから」「専門家がああ言うんだから」、まあ正しいということにしておいてやるか、となる。「じゃあもうわざわざ自分なんかが考えなくてもいい問題だな」「一件落着だ」という思考停止にも向くはずだ。


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誰の言うことを、どのようにきいて行動するか
2011/05/10(Tue)
見知らぬ土地に足を運び、道を尋ねる。みなそれぞれに「私にまかせなさい」と確信を持って教えてくれるが、内容はまちまちである。道案内を乞うときには一人ではなく何人かに声をかけ、いくつかのアドバイスを総合し、どうするか自分で決めるということをやり始めた。すると失敗も少なくなった。

中学を卒業後すぐに、いろんな土地を渡り歩く移動販売をやっていた。何をやるにも、どこに行くのも、初めてのことばかりで心細い限りだったが、行きずりの人々の配慮でいつも助けられていた。かえすがえすも感謝である。しかし何度も失敗したのが道案内。「さあさあこのバスに乗んなさい」と地元の方が親切に乗せてくれたバスが、とんでもないところへ着いたこともある。言われたとおりに歩いていっても、頭上のひばりがやけににぎやかな田んぼの風景が続く。店は見つからない。そんなこともあった。もう三十数年も昔のことで、今から振り返ると実にのどかな日本の風景を見せてもらったと思うが、当時は気持ちによゆうがなくて、何もかもがつらく思われた。

そのうち自分にも智恵がついてきた。道案内は何人かに声をかけ、いくつかのアドバイスを総合して、どうするか自分で決めるということをやり始めた。すると失敗も少なくなった。相手の人間の事情も見えてくる気がしてくる。「ははあ、あのおじちゃんは人にありがとうと言ってもらいたいばっかりに、出まかせを言った可能性もあるなあ」とか、「あのおばちゃんは知ったかぶりをしてあんな言い方をしたのだろうけど、確信のない様子だったなあ」とか、「ああいう態度でものを言う人は、自分の経験もふまえているから思い違いが少ない」などなど。
失敗をしても、失敗だったからといって道案内を求めないわけにもいかない。失敗から立て直すのには、さらなるアドバイスを必要とする。バスでまちがえたら、バスの運転手のアドバイスを得てバスを降り、乗りかえて目的地へたどり着くしかないのである。
正しい道案内が、どれだけありがたいことかは身にしみて知っている。子供のころにこういう体験をしたことは、自分にとっては大きい財産である。

操体法のT先生は的確なだけに言葉が実に厳しかった。
講習会で質問すると、「タダで教わろうと思っているのかね」という具合。安易に質問したと思われれば、「これ一つでも発見するのにどれだけの苦労があったと思うか。それをあんたはほいほい教えてもらおうとしている」。容赦がなかった。
それでもひるまず土下座してでもの勢いで、「厚かましいお願いで申しわけありません。それでも、どうしても、先生にぜひ、教えていただきたいと思うのです」と頭を下げれば、気のいい方であったから、「えい、もう、なにやってる。ほれ、こうすんだ。ほれ」と、手取り足取り教えてくださることもあったのだ。よくよく耳を傾けて聞いていると、先生の言い分はまったく正しく、まっとうだった。たいへんな努力を積んで身につけた、珠玉の技の数々に、先生は絶大な自信と誇りを持っていた。その自信と誇りには一点の曇りもなく、どこに出しても正々堂々としていた。これ以上正々堂々とできはしないと思えるほどに、先生にはいつも気合が入っていた。すさまじいほどだった。

橋本敬三先生の直弟子T先生から直接教えを受けたことを、私は決して忘れず、脱線しないよう進まなければならないと、毎日気持ちを引き締めている。
先人達の苦労には程遠いが、自分もそれなりに回り道や寄り道をして、やっと見つけた操体法である。
まちがったことを教えては、操体法の名を汚すことになる。
毎週開く講習会は2クラスに増えた。九州での操体法の広がりの輪を育てていくために、今後もなお一層の努力と精進をしてゆきたい。


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手に負えない問題を、たははと笑って流してゆく
2011/05/09(Mon)
数学の世界には「この問題は解が出ない」と証明すればノーベル賞もの、というのがある。
きっちり答えを決めるのが数学と一般に思われる世界でさえも、答えが出るか出ないのかという判断が、じつに重要とされるのである。答えの出ない問題は世代をこえて何百年も取り組まれ、たくさんの者たちがその問題に挑み、一生を費やして討ち死にした。「答えが出ない問題だ」という証明が、答えだったという、笑えない結論。そういうことは実生活でも珍しくはないのである。

不登校や中退の相談現場に長くいた。子供も不安定だから親子の関係が荒波にもまれる小舟の状態であることも多い。いや、むしろ子供のほうは学校という現場で過ごした当人として結論が出ているから、不安定というほどではない。当人の出した結論に対して親のほうが不安定になるために、親子関係もゆれてくる。
子が不安定になるのは、学校での問題よりはむしろ周囲の不安定によるものだった。

保健科の教職をとるときに、教科書の記述を読み流せなかった。「思春期の人間がいかに不安定で危ない存在であるか」「判断力も行動も、いかにあやふやで軽率な連中か」が強調されている。
思春期の人間に対しては、「不安定な連中だから扱いに気をつけろ」「犯罪などにも走りやすい」というような記述があり、驚くと同時につい笑いが出た。散々笑ったあと、深刻になった。

役人たちの人間観とはこういうもの。そして役人たちの傘下でこうした免許資格をとる教職の人々は、このような人間観を持つよう訓練されている。だとしたら、お役人や教師たちの影響を受けた親御さんたちもまた、子供はまさに危険物の扱い。犯罪者一歩手前のように見えるのかもしれない。じっさいに、親が子を警官の目で疑り深く監視していたり、教職者の目で見ていたり、そして子の評価もまた、そうした価値観のもとで行われるようになってきているのは、親にとっても子にとっても、うれしいことではないように思う。
健康の面でもまた、病気に目を光らせる医療従事者と同じ視線を子に送っているのだろうか。恐らく健康相談や治療法の判断においても、似たような問題が発生している。

親子関係がゆれていると、親子の根本の問題がどんどん吐き出されてくる。不登校や中退といった、瑣末なことが問題ではない。それまでの親子の関係の、賞味期限が切れかかっているのである。その証拠に、「これからの親子の関係」ということを中心に持ってゆけば、一時的に関係のもつれは多少あったとしても、互いの話がもつれることは、ない。妙ないがみあいも避けることができる。それが現場での私なりの結論だ。

子にとって親はいつまでたっても苦手な相手のようだが、親のない子はいないから、親へのコンプレックスは人類に共通した課題といえるだろう。親にとってもまた、子は苦手な相手になりやすいようだが、子のない親もない。
とかく親子とはやっかいなもの。それが自分の結論。
自分の親も、親子の関係には手を焼いてきた。そのまた親も、親子関係に手を焼いていた。となれば、自分が自分の親との関係に、もしくは自分の子との関係に、大なり小なり苦手意識を持つとしても、これはしょうがないのである。たとえ苦手意識がないとしても、いつどうなるかは保証のかぎりではないともいえよう。

こんな、とほほな結論に至るまでに、自分の人生の貴重な時間と労力をどれだけ消耗したか、わからない。それが自分を操体法へと向かわせる原動力にもなっている。
親子関係は、解決しない。きれいに解決しようとすれば、互いの貴重な時間と労力が空費されるばかりでなく、問題をこじらせる危険性も高い。
どうせなら、さっさと周囲が「親子関係は答えが出ない問題なのです」と教えてくれればよかったのにと思う。一番困るのは、「こうすればいい」「ああしてはどうか」というような、「答えを出そう」という努力が奨励されるような場面が、あまりに多いということだ。それで、ついその気になると、かえって問題をフクザツにして、修復をさらにむずかしくする。「親子の関係については、たははと笑って流してゆく」。これが自分の結論だ。


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自分の体を、自分の勝手な都合に従わせてきた
2011/05/07(Sat)
自分の体を、自分の勝手な都合に従わせていたつもりが、じっさいには自分の不都合を呼びこんでいる。
未病の「病」とは万病、あらゆる病である。「未病を治す」ということは「体調に気をつけろ」という小言のことではないし、高血圧や悪性腫瘍といった特定の疾病の検診でもない。

人の心と体は二頭の暴れ馬。手のつけようのない暴れ馬をコントロールする御者の立場が「自分」。
ヨガの本でそう読んだ。ヨガではすぐれた御者を養成するというので私はヨガを続けていた。十代の終わりごろ。肝臓を患い、不治の病宣言を医者から申し渡されたばかりの頃だから忘れようがない。
本には馬車の絵が載っていた。二頭の馬たちがてんでバラバラな方向へ行こうとするのを、馬車に乗った御者がたづなであやつろうとしている。なるほど、これでは生きるのもなかなかにしんどそうである。

心身不二。馬車のイメージはどうもちがうと今の自分は感じている。心と体は二頭の馬などではない。乱暴にいうと一頭だ。二頭であって一頭か。一頭であって二頭か。とにかくきちんと分かれているということではない。心と体は馬という動物で、自分は人間様であるというのもいただけない。単純化してわかりやすくする配慮がかえって誤解を招いている。そのように思う。

人にとって、このイメージはわかりやすいと考えたから、このような図が描かれたのだろう。若かった自分もぱっとこの図に飛びついた。だから一般に、心と体を動物か家畜かのように扱って、「自分」の意志は一段高いところでたづなを握り、時にはムチ打って、心と体をあやつっていると思われるのも無理はない。
この状況では馬から人へ向けてアドバイスができるとも思われないし、人が馬にアドバイスを求めるということもないだろう。御者は孤独である。馬たちをどこへ導こうというのか。何を頼りにそれを決めるというのか。そして一番の問題は、これで果たしてほんとうにうまくいくのかということだ。

自分はうまくいかなかった。馬たちとケンカして勝ち続けた試しはない。勝ったと思っても結局は負ける。こんなはずなかったがなあと首をかしげながら十年以上歯をくいしばって勝ち負けを繰返していた。そこに操体法がころがりこんできた。気持ちよい方向へゆっくりと動けばいい。そんなカンタンなことで肩透かしをくらった。あまりにカンタンすぎ、単純で、明快だから疑いに疑い、迷いに迷う。それで人にも取り組んでもらっている。操体法とは告げずに知らない人にやってもらうことも少なくない。それでもはずしたことはない。はずしたか、と思うことは何度もある。やっぱりインチキか? しかしまちがっているのは「自分」のほう。やり方がちがっている。それを馬たちが口をきいてこちらが教えてもらうというわけだ。

こんなことは学校でも家庭でも話にのぼったことがない。「おまえは自分のことがわかっていない」「もっと自分の体調に気をつけなさい」と叱られたことは何度もある。そんな小言などなんの役にも立たなかった。大人たちも「どうせこんなことを言ってもしょうがない」とわかっていながら腹立ちまぎれに口を動かしているだけだったろう。
病気をして痛い目にあって、病院では恐い思いをして、さんざんなことになってから、ようやく疲れた御者たちは馬のおしゃべりに耳をすませてみる気にもなる。それもまあわるくはないだろうが、橋本敬三は手遅れだと指摘している。自分の体を自分勝手な都合に従わせていたつもりが、自分の不都合になっている。最初からその点に思い至ることは不可能ではないはずだ。

「未病を治す」とはよく使われる言葉だが、その意味をもう一度、よく考えてみたいと思う。それは心臓疾患や悪性腫瘍などといった特定の疾病を対象とするものではなく、あらゆる病気、万病への対策でなければならないはずだ。遺伝子による対策が高度医療技術と華々しくいわれているが、特定の疾病をターゲットにして追い回すようでは、もうすでに根本からしておかしな話だ。
未病の「病」とは万病。あらゆる病である。そのことに気づかないとなれば、「未病を治す」などということは口が裂けても言わぬがましと思う。


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自分を信じることの難しさを知って、さいごまで自分を信じきる
2011/05/06(Fri)
長くつきあうと相手の弱点や欠点が見えてくる。自分自身とは生来のつきあいだから何をかいわんやだ。信じる力は偉大なことをも成し遂げる一方で、人間は不完全なものだから百%信じきれるものではないという事実もある。

私は百%信じきれるものもこの世にあると思う。信じきることで救われる。そのようなこともあると思う。自分にとって自然の力とはそのようなものだ。信心がまだじゅうぶんとはいえないけれども、自然の力を信じて頼って大丈夫という確信は、ある。少なくとも何も信じないよりはよっぽどよい結果を得ている。
人間の都合にあわせてはくれない自然であるが、不完全な人間の言うことよりも、自然の声のほうがよほど信じられるし上等なのではないか。ひいては自分の声よりも自分の体の声のほうが確実であるということになる。

言うは易し。体の声に耳をすませ、それをきちんと理解するのには修養も必要だ。本来そんなもの必要ではないはずだが、私の生まれ育った世界では、自分の声よりも自分の体のほうの声を聞けという教えは主流ではない。従って、この世で半世紀も過ごしてきて未だに体の声を聞くということを、やる前からすでに面倒なだけだと思いこんでいる自分が、自分の中のどこかにいる。またその簡便な方法も知らないで過ごしてきたから、結局は、自分では体の声を聞いていたつもりでも、勝手な自分の都合のほうを優先していたのではないか。それはもう確かめようもないことだ。

操体法は、足の先を上げたり、腕を曲げたり、体をねじったりという、単純明快な運動でもって、体のほんとうの声を聞き分けることをやっていく。一回やれば一回分、二回やれば二回分、自分の体の声は確実に自分に届くようになっている。だいたいが、自分の体である。他人に聞いてもらわないといけないような声ではない。他人には聞こえない性質のものなのだ。それに子供だって誰だって、すぐにコツをのみこんでしまえるようなものだ。
三回、四回と試すうちに、「自分を信じる」ということもいつの間にかできている。「自分を信じなきゃ」などと思う必要のあるうちは、自分を信じてなどいない。まあそんなところかもしれない。

 
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心の底から「先生」と呼べる、ほんものの師を持つ幸い
2011/05/02(Mon)
便宜的に使うことも多い、礼儀上の「先生」。相手もわかっているのだろう、上手に受けたり流したりしてくれる。海外では他に類をみない「先生」という呼びかけは、日本人の智恵だ。しかし礼儀上の先生ではなくて、ほんものの先生も、私にはいる。それはまったく得難く、幸いなことであると思う。

「先生」と呼ばれる生活を始めたばかりの頃は、先生呼ばわりされるのに抵抗があった。呼び名にふさわしい中味もなく先生と呼ばれて返事をするのはウソ偽りだと思われた。
しかし心配には及ばなかった。「先生」という呼びかけには大した意味もない。単に私の名前を忘れたか、いちいち確かめるのも面倒だから、「先生と呼んでおけば済む」くらいの感覚で呼ばれるだけだ。そうわかってからは、もうすっかり安心して先生と呼ばれることにした。

いつ頃からだろうか。私は再び先生と呼ばれるのが苦痛になってきた。「先生」が実に便利に使われるようになってきた。エアコンを消せだのつけろだの、ティッシュをくれだの、腹がいたい、いらつく、金をかせ、ワリバシくれ、その他、あらゆる不便を感じたときに使われる。「先生」の役を引き受けた者はとくにぞんざいに扱われる危険性もあるように思えてきた。一体、「先生」とは本来どういう意味を持っているのか、考えざるをえなかった。

そんな体験もあってか、「先生」という言葉を自分が使うときにはちょっと意識してしまう。便宜的に使う場面も少なくない。礼儀上の「先生」。呼ばれた相手もうすうすわかっているのだろうが、さすが日本人なだけに、上手に受けとめたり流したりしてくれる。日本語の「先生」にあたる言葉は海外では他に類をみないと聞くが、これは日本人の智恵だろう。しかし礼儀上の先生ではなくて、ほんものの先生も、私にはいる。それは今の自分にとって、ほんとうに得難く、幸いなことだと感謝する。
以前は「先生」と自分が呼びかける相手にはパーフェクトを望んでいたと思う。人間というより神のような万能もしくは便利を相手に求めていたのである。しかしだんだんと、相手に何かを求めるよりはむしろ、自分自身が、師との関係をどこまで大切にできるかが、大きな意味を持ってくるように思われてきた。関係をはぐくみ、自ら高めていく努力をすることが、自分の成長にとって一番大切なのだと考えるようになった。私が、その人を、師と仰ぎ、尊敬するのである。師が、私のことをどう思っているか、それは知らない。わからない。しかし私はそれを尋ねる必要を感じない。そういうこともまた、自分にとってほんとうに幸いだと感じる。

操体法の講習で指導者養成を実施している以上、「先生」とはなにかということをよくよく考えずにはいられない。講習の参加者もまた、一人ひとり自分の中で、指導者とは何か、先生とは何かを考え直さずにはいられなくなるときが来るだろう。


九州・福岡市内にて、操体法の講習会を実施しています。
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