FC2ブログ
今の日常を続けていった先に、私のエベレストは見えるか
2011/03/31(Thu)
誰にも遠慮することなく自分の体に備わったものありったけを発揮させたらと思う。まだ発揮せぬまま自分の中に眠っているものがたくさんあるような、つぼみが開きかけのまま、しおれかけていくような、そういうのは一番イヤなのだ。
子ども時代がアレルギーやらアトピーやら手術や打撲やらでぐずぐずだった。二十代前後は胆のう炎や肝炎で一騒動した。三十代前後は息切れがしたり神経痛がひどくなったりで、体調の安定はついぞ得られなかったのだった。
何としてもパワフルかつ安定をしたいという気持ちが、私の中のどこかでつねにくすぶっていたのだと思う。

操体法に通い出してから、腰をすえて仕事をやった。受験指導の仕事にかまけて体のほうのことはまるきり怠っていたが、安定感がついてきた。操体法を五年ほどやるうちに、仕事だけでは物足りなくなって毎週山歩きに出かけるようになった。こんなに歩けないかというくらいに息が切れ、足腰がつらく、小さな子どもや老人たちにもついていけなかった。山の頂上は一生かかっても行けないような、遠い場所だった。
それでも操体法と山歩きをセットでねばった。すると三年ほどしていきなり歩けるようになった。荷もかつげるようになって夢のようだった。自分がそれまで知っていた自分でないような、力が内側から湧いて出てくるような感覚があった。眠っていた自分の力がとうとう発揮されるときが来たのだ。もうこうなったら全てを投げ捨てて山歩きに専念しよう。そんなことを考えていた。その手始めに、八ヶ岳全山縦走を成功させる心積もりをしていた。その夏をどう過ごすか、頭の隅で考えていた矢先の交通事故だった。

全てを交通事故のせいになどする気はない。
しかし自分を試すことがすぐにはできなくなった。少なくとも次のチャンスをつかむ時期を待たなければならない。失ったものは大きかったが、得たものも小さくはなかったのだから、世の中うまくできている。
あれは錯覚だったのだろうかと思うことがある。自分の中に眠っていたものが目を覚まし、自分の内側から力がどんどん湧き出てくるような、あの感覚。あれは自分のカン違いだったのか。あのとき事故にあわなかったとして、八ヶ岳に出かけていたら、どの程度通用していたものだったろう。そういうことを考えることも、ある。
成功していたかもしれない。失敗していたかもしれない。もし失敗をしていたとしたら、その要因のいくつかを、今の自分ならば指摘することができる。成功していたとしたら、それはただのがむしゃら。運まかせのようなものだった。

事故から四年。事故で得たものを身につけた今の自分は、この先の自分がふたたび山を目指せるかどうかを日々考えている。考えない日はない。だから操体法も真剣に取り組まざるをえない。
山に行こうが行くまいが、大したちがいはないさと自分にうそぶいてみせる。しかし行けるようなら行ってもかまわないじゃないか。
今の日常を積み重ねていった先に、自分の山は、見えるのか。
見えるのなら、それが五年先でも十年先でも、わたしはかまわない。
今度こそ。チャンスが見えたら、絶対につかんでやる。
ここから先の、巻き返し、挽回を、操体法に賭けて、まだねばっている。ネバーギブアップだ。

いつでも始められる初心者のための操体法基本講座
(毎週木曜日に開講。好きな時に参加できます。13時30分から2時間ていど。参加費二千円)

仕事として操体法を考えたい方のための操体法講座(少人数制。参加費二千円)

お一人で個別に受講を希望される方、もしくは施術
(都合のよい日時をご指定ください。初回三千円、二回目以降二千五百円)

そのほかのご要望はお申し出ください。080-1720-1097(山下)まで

スポンサーサイト



この記事のURL | 未分類 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
『万病を治せる妙療法』というタイトルはほんとうなのか
2011/03/31(Thu)
万病を、治せる。逆に言うと、何をどうやったって治ってゆく方向を向かないような、そんな病気はそうそうないのかもしれない。
回復の方向に進む限りは勇気と希望が持てる。治らない方向に進むのは、困る。
「ありとあらゆる病気を、治ってゆく方向に向けてゆくことができる。そういう方法があるんだ」。そのようにこのタイトルを解釈することもできる。

そんな方法も、ないと断言はできない。なぜならば、生きものの体には、ありとあらゆる病気やケガに対して、治ってゆこう、回復してゆこうという自己回復力が備わっているからです。そして毎日、四六時中、私は体に備わった力に身をゆだね、お世話になりっぱなし。自分の体に備わった抵抗力や回復力が、まっとうに機能さえしてくれるならば、ありがたいことに、あらゆる病気は回復のほうへ向かうでしょう。

しかし、生きものの体にどれだけの自己修復力や自己回復力が備わっているか。そこのところがまだよくわからない。「奇跡の回復」という言葉で片付けられてしまうことが多いのも、生きものの体の本当の実力がわかっていないからかもしれない。じゅうぶん沢山の実例があるのだから、誰にでももともと備わっている力が当たり前に発揮された結果だと考えるのがまっとうでしょう。
「奇跡の回復」の一方で、「不治の病」「一生つきあっていかなければならない病気」で片付けられることが、あまりに多すぎるように思われる。
自分だったら、「奇跡の回復」とか「不治の病」とかいう言葉で自分が片付けられてしまっては困る。げんに私は自分の「不治の病」を自分のやり方でたくさん克服してきた。自律神経失調症、アレルギー性鼻炎、アトピー性皮膚炎、背骨の打撲、坐骨神経痛、肋間神経痛、偏頭痛、肝炎、ムチウチなどなど。どの場合も医者から立派な太鼓判をいただいた。一人の医者からではなく、何人もの医者に、「不治の病だ」と、ずっと太鼓判を押され続けた。
だから誰の意見もうのみにする気はない。自分でやってみて確認して、初めてわかることばかり。奇跡とは思わない。私一人に起こったことでもない。誰にでも当たり前に起こること。

高度医療とか予防接種といったものの背景には、生きものの体に備わった抵抗力や自己修復力への不信感が見え隠れしているように思う。何かをしてやらないと生きものは病気に対して無力だという考え方があるように思われるのです。
「自分は無力だ」と決めつけて何も工夫をしないうちから、他人の専門技術である手術や薬や予防接種に頼るその前に、自分の体に本来備わっている抵抗力や回復力がどの程度のものなのか、自分で確認することもできます。確認方法は実にカンタンで単純。筋肉を基準にするとよいのです。触ってみるのもよいし、動きから筋肉の状態を判断することもできます。そのやり方の有用なヒントを操体法からたくさん引き出すことができます。

ありとあらゆる病気、万病が、どこまで治るのか。
どういう状態を治ったというのかさえ、病院も医者も患者のほうも、まったくあやふや。
患者が治ったと言えば治ったのでしょうか。医者が治りました、もう来なくてよろしいと言ったら治ったということになるのでしょうか。あやふやなままに、治るとか治らないとか言われているのではないでしょうか。

治る方向性が自分自身ではっきり感じとれる、実感できるということはだいじにしたい。方向性さえまちがっていなければ、改善を積み重ねた先に完全治癒が待っている。
しだいにラクになってゆき、自分自身も納得できる。希望や勇気を持って過ごすことができるわけです。
治ったというのなら慢性化も再発もしないはずです。数年後、数十年後にでも元の症状が出たとか、病気が再発したというのなら、歩んできた方向が治る方向だったのか、再検討する必要がある。そういうものではないでしょうか。

ありとあらゆる病気を、治らない方向ではなく、治ってゆく方向へと向けてゆく。これなら実現も可能です。
自分の体に備わった抵抗力や回復力が、まっとうに機能さえしてくれるならば、ありがたいことに、あらゆる病気は回復のほうへ向かうでしょう。
もしも体にそのような抵抗力や回復力が備わっていないとするならば、これはもう何をやっても回復の見込みはないと考えるべきです。どんな高度な治療を受けようと、どうしようかと頭をひねっても、何の役にも立ちません。
病院の医者もよく言いますね。「あとは本人しだいです」と。「本人しだい」とは何でしょうか。本人の気の持ちようでしょうか。気持ちでそんなにカンタンに治ったり治らなかったりするものなら苦労はないわけです。人を生かしている自然の力というものは、人間の意志を超越した働きがあるからこそ、人は自然に振り回されるのではありませんか。

「本人しだい」というのは、何のつもりで言われているのでしょうか。気持ちよりも、もう少し具体的なもの。本人の体に備わった体力、回復力、修復力といったようなもの、生命力とでもいうようなものではないでしょうか。体に備わった力の働きがしっかりしていなければ、どんな病院もどんな医者もどんな高度医療も、何の結果をもたらすこともできない相談です。
最終的に頼りにするのは本人の体の持つ力だということです。体だのみ、なのです。手術だのみでも、薬だのみでも、ない。体以上のことを期待してもしょうがなく、それ以下のことと決めつけて投げる必要もないと思います。
自分が自分の体の実力のことをわかっていれば、不安や恐怖に振り回されるという、最悪の事態を避けることができます。治っているか治っていないかが、自分でもよくわからないような、目隠しの状態も望ましいこととは思われません。
『万病を治せる妙療法』のタイトルを、ウソにするも、まことにするも、すべては自分自身にかかっているのではないか。それが今の私なりの結論です。


いつでも始められる初心者のための操体法基本講座

(毎週木曜日に開講。好きなときに参加でできます。13時30分から2時間ていど。参加費二千円)

仕事として操体法を考えたい方のための操体法講座(少人数制。参加費二千円)


お一人で個別に受講を希望される方、もしくは施術

(都合のよい日時をご指定ください。初回三千円、二回目以降二千五百円)

そのほかのご要望はお申し出ください。080-1720-1097(山下)まで
この記事のURL | 万病を治せる妙療法 操体法 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
降りてゆく生き方・のぼってゆく生き方
2011/03/29(Tue)
のぼってゆく生き方でもなかったつもりが交通事故でそれまで積上げてきたものが一旦くずれ果てた。自分から降りていったのではなく、まずは引きずり降ろされた。「降りてゆく」ことの痛快な感じを味わえるようになってきたのはつい最近のように思う。その矢先に福岡初、奇跡のリンゴの木村秋則さんの講演と「降りてゆく生き方」の上映があったともいえる。

武田鉄矢主演「降りてゆく生き方」の上映会は奇跡のリンゴで知られる木村秋則さんの講演があったので参加した。
NHKで大いに話題になった。肥料も農薬もまるで使わずにリンゴの収穫を得た。木村さんのことはそのくらいしか存じあげなかった。九州に来られる機会はこの先ないかもしれないと思い、リンゴの話を聞きに行くというくらいの気分で出かけた。それがかえってよかったかもしれない。

自然農法。自然栽培。『わら一本の革命』の福岡正信さんや『妙なる畑に立ちて』の川口由一さんのことを考えれば予想もつくはずだったが、雑事に忙殺されたままの、ぼんやりした頭のままで会場へと足を運んだ。
壇上の木村秋則さんの第一声で私の背筋はしゃんとのび、両目は大きく見開かれた。
喝!を入れてもらったのだ。

思い出すままのことばを書き並べてみる。
常識といわれるものには必ずまちがいがある。自分で試しにやってみて、失敗をしながら自分で出した答えはみんなの答えにもなる。常識では「できない」と言われていることを、「なぜできないのか」「どうやったらできるのか」と考えなければならない。
どんなに大きな文化や文明も、たった一人の歩みから始まる。
日本は人の体も土も薬まみれ。
次の世代のことを考えることのできる人間になろう。

誰にでもわかる話。「あ、そういうことだよな」と思い当たることばかり。だのに木村さんの口から出てくると、ぴしりぴしりと胸に打ち込まれる力強いことばとなる。
日本人が薬まみれというのはわかる。薬がなくては人間はまっとうに生きられない。それが今の日本の常識ではなかろうか。食べものの生産もまた、肥料農薬除草剤がなくては野菜もまっとうに育たないという常識のもとで行われている。
しかしこの常識にまちがいがあるのではないかというのである。
じっさい操体法に来られる方の中にも、体によゆうと自信ができてきて、「少しずつ薬をやめてみようかな」と試しにやっていく方もおられる。いったん飲み始めたものを突然減らすと危険なものも確かにある。しかしそれでは一生飲み続けることにはならないのか。薬なしでは生きられない体なのか。
ぱっといきなり決めるのではなく、「なぜ薬をやめられないか」「どうやったらやめられるか」をよく考えながら、生活の改善につとめる一方で、そっと少しずつ、長い期間かかってでも、試しながら減らすということも、ていねいにやればできるのではないか。

人間もお野菜も米も、なんにもなければないで生きていけるというほうが、いいに決まってる。「なぜやめられないか」「どうしたらやめられるか」を考え続け、試し続けて、「こうすれば、やめられる」という実体験を積んでいくことは決してムダではない。むしろ勇気づけられる体験ではなかろうか。
「日本の年間医療費37兆円」という文字。そして、「どんなに頑張っても、入ってくるもののほとんどが医療費に消える。これで日本の成長はあるのでしょうか?」ということばで結ばれていた。

講演会の後に上映された「降りてゆく生き方」。
敗戦から高度経済成長、そして経済大国へと日本はのぼりつめた。
私の通った大学では、人生の成功とは偏差値の高い大学へ行き、高い給料の企業に就職することだと見事に信じ込む学生が多かった。彼らなりの「のぼってゆく生き方」だ。しかし就職の数年後、私の知合いやゼミの仲間の多くは会社を去っている。
理由はそれぞれだろうが、就職が人生の「あがり」だと勇んでいたのが、二年三年と会社で過ごすうち、「これは人生の成功でもなんでもない」と気がついた。今からでも自分の好きなことを見つけようと思った。そのような話を聞かせてくれた人もある。
これも「降りてゆく生き方」の一つといえるだろう。

私自身はそれほど「のぼってゆく生き方」をしている気はなかったが、4年前の交通事故は大きな転機となった。当時は趣味の山登りが順調で、重い荷物も背負えるようになり、体が頑丈で力持ちであるのが偉いというような高ぶった気分に支配されていたと思う。「さあこの夏は登りたいと思ったところに遠慮なく登ってやるぞ」と意気込んでいた矢先での事故だった。
それまでに積み上げてきた身体能力も職場での実績もくずれ果てた。それまでの自分の常識が通用せず、いろんな執着を捨てざるを得なかった。自分から降りていったのではない。まずは引きずり降ろされた。そこからさらに足かけ二年。やっと「降りてゆく」ことの痛快な感じが少しずつ味わえるようになってきたように思う。
そこに今回の福岡初、木村さんの講演と「降りてゆく生き方」の上映があったともいえる。

震災からずっと意気消沈気味に過ごしていた。私の周りでも、浮かない顔をしている人が多い。しかし東北から来られた木村秋則さんに喝!を入れられて、「今の自分にできること」「自分が元気に取り組めること」を精一杯やるだけだという気持ちを得た。
「これなら自分にもできる。よし、やるぞ!」という、見えてくるものがあったら、そのときに動けばいい。
ぜったいに「そのとき」は、来る。そういう予感がしている。

いつでも始められる初心者のための操体法基本講座
(毎週木曜日に開講。好きなときに参加できます。13時30分から2時間ていど。参加費二千円)

仕事として操体法を考えたい方のための操体法講座(少人数制。参加費二千円)


お一人で個別に受講を希望される方、もしくは施術

(都合のよい日時をご指定ください。初回三千円、二回目以降二千五百円)

そのほかのご要望はお申し出ください。080-1720-1097(山下)まで
この記事のURL | 未分類 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
私たちの身体はもともと感動に満ちている
2011/03/25(Fri)
無条件に楽しい。誰がやっても驚きと感動がある。「さあ次はあなたの番」。一人一人自分の体で体感してもらうと「うわ~ホントすごーい」。そこにはどんな疑いをさしはさむ余地もない。
「これで、イイのだ」。
ネットで見ました~という方が集まって広い空間が参加者の熱気に満たされた。操体法にめぐりあうまでの長い道のりを振り返り、「もっと早くに出会えていたら」と口から出てくることもあろう。少なくとも自分はその一人だ。
何でもやってみればそれなりによかったと思う。物質的な意味とは限らない。自然食も漢方薬も高価だし、よいもの、ほんものを見つけるのには時間や手間もかかる。それを追求する心で乗り越えてきたところに一番大きな意味があった。私はそう思う。

サイフからお金を出そうとするたびにちゅうちょする。「お金を出してまでやるくらいの価値はあるだろうか」。そんな問いかけをついやってしまう自分はケチくさいのだろうか。少しでも高い金額を目にすると、「その価値があるのか」といちいち考える。「結局のところ、これは高いものにつくのか。安い買い物となるのか」。自分なりに真剣な取引きなのだ。考えるのがめんどうになると、ため息をつく。「もういっそのこと、やめちゃおうかなあ」。
ふつうの大根一本にも菓子一袋にも、自然食品ということで上積み料金が加算されている。「そのことに、いかなる意味があるか」。真剣に調べて検討しなければならない。「どうせ無農薬とか言ってたってどこでどう化学物質がふりかけられているか、わかったものではないし、とくに長生きしたいというわけでもないし」。それでも結局、投げ出すことはなかった。学生の頃は東京の下宿生活でよぶんなお金はない。どこを、どうけずって食費を出す金をつくろうかとばかり考えていた。

今の自分はお金のことより時間。だんだん年をくってくると時間の大切さが身にしみてくる。バカなことをやって時間つぶしをするのはこれまでの自分の人生の歩みをドブに捨ててしまうようなものだ。私はほんとうのことを知りたいだけ。ほんものに出会いたいだけ。
今でも折にふれ、操体法にかけたお金と時間と手間を考えてしまう自分は疑り深いのだろうか。
「ほんとにその価値があるのか?」「それだけの価値があったのか?」
その問いかけにきちんとした答えを出すには自分のほうでもそれなりの勉強をせざるをえなくなる。他人に出してもらった答えをうのみにしているわけにはいかない。

操体法のことを伝える活動を始めてからは、人さまに時間や手間やお金をかけさせてまで来ていただく価値があることなのかを考える。
操体法を伝える活動は、時間もさることながらエネルギーを必要とする。楽しいひとときを過ごしてもらいたい。好奇心がつきない世界を体感してもらいたい。そのための勉強がさらに加わる。ケチで疑り深い私は「こうまでして続ける価値のある活動なのか」と自分自身に問いかける。
そしてワークショップや個人指導をするたびに、「これでいいのだ」という気持ちをあらたにしている。
もう無条件に楽しい。誰がやっても驚きと感動がある。「さあ次はあなたの番」。一人一人の体で体感してもらい、「うわ~ほんと~すごーい」と喜んでもらう。そこにどんな疑いをさしはさむ余地もない。
「これで、イイのだ」。

自分自身にとって、ワークショップや個人指導に時間をさき、その準備に手間ひまかけることは、他のどんなことよりも価値がある。そう胸を張って言える。だから、人さまにも安心してお勧めする。
操体法をやって失うものは何もありません。自分にも人にもやってよいことです。やればやるほど、その恩恵ははかりしれないものがあります。その逆に、やってわるいことは何一つ見つかりません。操体法のどこにもウソもごまかしもありません。

ここに至るまでの苦労が長かった人ほど感動は大きい。
私たちの身体は驚くべきもの、素晴らしいもの、感動に満ちたものだ。それが普段はなかなか体感できないでいる。しかし体感できなくてもやはり身体は素晴らしいものにちがいない。操体法を通じて参加者にそれを体感してもらい、感動を共有してもらうことが、自分の生きるエネルギー。
時間は私たちにとって一番貴重なもの。その一番貴重なものを互いに持ち合って出し合って、学びの場ができあがる。これはすごいことだと思う。ここに来てくれる人が一緒に面白がってくれるから、自分もじゅうぶん以上の力を発揮することができる。

操体法を通じて人とつながることが私は一番楽しい。ここで見たこと、知ったことをたくさん持ち帰っていただいて、帰った先でまたさらに生活の中で活用していただいたり、周りとのつながりを持って楽しいひとときを過ごされたらと想像するだけでもわくわくします。ありがたいことです。


操体法を自分の活動として考えたい方のためのコースがあります。

初心者もだいじょうぶです。見学・体験ぜひご参加ください。

080-1720-1097 操体法研究会 山下まで
この記事のURL | 未分類 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
生き残るための判断力がおのずと身についてくる
2011/03/20(Sun)
「人生は小さな選択の連続だろう。右へ行くか左へ行くか。このまま進むか引き返すかを自分で決めなきゃいけない。決めるにはいろんな要素がからむが、どう調べてもわからない部分が残る。最終判断は本人のカン。感覚にまかせられている。脳や神経の働きがよくなければ迷う。まちがう。見込んだ結果は出てこない」
19年前、操体法と出会った頃に言われたことだが反論できなかった。「ふむ。これは面白いことを言う」と思った。大学を卒業して東京から戻ったばかりのころだった。「こんなこと言う大学の先生はいなかったなあ。これは面白くなりそうだ」と思った。

「仰向けに寝て。両足立てひざをしてそろって右に倒して。左に倒して。やりやすいのは右と左のどっち?」
自分の体なのに答えられなかった。どっちも変わらない。どっちだってかまわんと開き直る。
ところが、はたで見ている人にははっきりわかるくらいの差がある。倒れゆくスピードも、倒れた角度も、子どもが見たってハッキリわかる。わからないのは本人だけ。はたから見るぶんにはこっけいな場面。本人にすればおもしろくもない。


健康法 ブログランキングへ

自分の体の、そんなこともわからない。だのに、もっと複雑な人生の問題についてどんな判断を下そうというのか? そういう主旨だった。
当時はそれを聞く誰もが面食らっていた。「そんなこと言われたって、ねえ…」と困った顔をするのがせいぜいで、「また先生のハッタリが始まった」とニヤニヤするのもいる。
私はといえば、「人生の選択と、体の動きの左右を選ぶのとでは、話がちがいすぎる」と抗議したかもしれない。「じゃあ、どうちがう?」と逆襲されて、へどもどした覚えがある。

操体法でつねに「右か? 左か?」「ああか? こうか?」と選択をせまられるうちに、カンとか感覚とかいったものがおのずと身についてくる。日常でいろんなことに迷わなくなる。そう聞いたときには「ふうん」というくらいでよくわからなかったが、「あながちウソでもなかろう」くらいに受け取っていた。そのうちそんな話はあまり聞かれなくなったが、自分のほうがそんな話をするようになっていた。操体法を長く続けている人との間では、「ほんとにそういう感じあります。思いあたることもいろいろあります」っていう話になる。「どうしてあの頃はわからなかったんでしょうか。そのほうがよっぽど不思議」っていうオチになる。「でも、長く続けた人でなければわからないこともあるのかもしれないですよね」というところで話は落ち着く。

「操体法をマスターするのにはどのくらいかかりますか?」という質問を受けることがある。操体法の基礎から集中的に教えてくれるところがあり、二泊三日でよろしいのだそうだ。講習費用を支払うと「あなたは基礎をマスターしました。おめでとうございます」みたいなことになると思うが、私にはそういう割り切り方はできそうもない。19年目にして未だ操体法をマスターしたという気持ちもなく、基礎をマスターしたとも思えず、「まあぼちぼちやっていけば」くらいのことしか言えない。操体法の中から本人の求めるものがどのくらい掘り出されてくるかということではなかろうか。やってみればおのずと決まってくることだとも思う。


i

※操体法講座ますます充実してきました。いっしょに始めましょう。
※操体法の実習を見学・参加する⇒①②③から選べます。
①みんなで講習会(参加費2000円)
②家族や友人とゆったりプライベート実習(2500円。三名~2000円)
③一人でじっくり個別実習(一回3000円)

 ②と③は日程・時間帯を希望にあわせます。西鉄高宮駅徒歩3分。
 
 お問い合わせ電話080(1720)1097(山下)
    またはメールfukuokasoutaihou☆yahoo.co.jp(☆⇒@に)

この記事のURL | 福岡操体法スタジオの講座案内 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
『まだ、まにあうのなら』を間に合わせるために
2011/03/16(Wed)
読まないままの、十日前の新聞を最初から一枚一枚繰っていく。国内史上最大の地震も、国内の原子力発電所が爆音をあげることもまだ知らない、そんな新聞の記事の見出しは少し間が抜けて見える。

『まだ、まにあうのなら』はチェルノブイリの翌年(1986)に書かれた。教育実習先の高校に寄贈したら生徒の間でひどい反発をかった。誰も手に取ろうとせず、すぐに捨てられたのではなかったか。
私は大検出身だから実習先は担当教官から紹介された。それがよりによって有名私立の女子高で、ティファニー製の金のネックレスやブレスレットをひそかに身に付けることが流行っているようなところだった。壁新聞には「将来の目標! 東大出身の男性と結婚するには?!」という記事が掲載され、東大合格率の高い男子高校生との団体バスツアーの参加者を募っていた。見るもの聞くもの、私にはすべてがめずらしく、ショックの連続だった。そして何よりもショックだったのが、「エコロジー運動への反発」であった。

彼女たちは私にくってかかった。「エコロジーなんて、どうでもいいんです! 私たちは今の生活が気に行っています。今のままがぜったい、いいんです!」自分たちの生活の楽しみを私が奪いに来たかのような、過激な反応だった。予想外のできごとに、私はへどもどする他なかった。
そこは募金活動がさかんで、「貧しい国の人たちのため、募金にご協力お願いします」と声をあげる生徒たちの姿が毎朝のように見られた。それはまた、自分たちが得ている「今の生活」を防衛する心理が働いていたのかもしれない。
しかし、当時の私にも、日本の原子力発電所の爆発をこの目で見ることになろうとは、思いもよらなかったのではないか。『まだ、まにあうのなら』を読んで感動した当時の私は、「まだ間に合う」という安心感に埋もれたかったのではなかったか。
福島原発が次々と爆発していく映像を目にするたびに、あの女子高生たちの声が耳の中でよみがえる。
「今のまま」は、「今のまま」では続かない。「今のまま」を続けるには、「今」を変えなければならなかったのだ。それを当時の私は言えなかった。
復興という言葉はまだ早いが、復興が、単に元に戻るということを目指すのではなく、元よりもよくしていかなければならない。『まだ、まにあうのなら』を間に合わせるために、私たちはどうすればよいのだろうか。

今は生き残った人々が、生きのびるだけでも大変だ。一日分の飲料水が500mlで、一日分の食料がお握り1~2個なんていう被災地もある。燃料が不足して暖をとれず、毛布にくるまって震えている人々がいる。


  
腰痛体操・肩こり体操を含めた

操体法教室のご案内


  福岡市南区のほうで曜日・時間帯が選べます。
  お気軽に足を運んで体験してください。









この記事のURL | 未分類 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
自分たち全員が被災者だという気持ちで節電を
2011/03/15(Tue)
電気のない生活を送っている知人がいたが、周囲には完全に変人扱いされていたっけ。
今日は節電のチェーンメールが回ってきた。西日本の電力を東日本へ送ろうという気持ちで節電を呼びかける内容だ。
今、日本中が「自分に何ができるのか」を考えている。

被災地では一日一個のお握りでしのいでいるところもあるという記事を読めば、リュックに食料をありったけ詰め込んで持って行ってあげたい気持ちになる。被災地ボランティアツアーでもあれば申込みたいという人も少なくないかもしれない。しかしボランティアも滞在すれば食べたり寝たりする。ボランティアの生活を支えられるだけの最低限の用意も必要だ。勝手に動けばかえって迷惑になるかもしれない。

自分の家にいて、今までの生活を送りながらできることといえば、節電だ。節電への行動が、「西から東へのプレゼント」という気持ちにつながり、また逆に、「西から東へのプレゼント」という気持ちが節電行動に結びつけばと思う。
ふだんの生活の中の気配りから、何か思いつくこともあるかもしれない。
募金もいいが、人間の世の常で、被災地支援の募金にまつわる詐欺行為が現れているとのこと。信用のおける団体に寄付しなければ意味がない。

二十数年前、大学で原発労働者のことを研究・発表するサークルがあった。
原子力発電所というと最先端技術・高度技術のように思われていたのだが、配管に入ったヒビの修理には、バケツ一杯のボンド(接着剤)をかけるという手法がとられ、冷却水漏れのときには人間が雑巾で拭いてまわるといった、きわめて原始的な手法がとられていると聞いた。また、発電所で作業するときの作業服やマスクは、現場では蒸し暑くて耐えられず、勝手に脱いでしまうこともあるということだった。
そういったことを知って、「ああ電気に支配されるこの便利な生活にはいつかしっぺ返しが来るかもしれない」という気持ちになったのをおぼえている。
福島原子力発電所から爆発の煙が太く立ち昇ってゆく映像を目にした時。そして町の電車が止まり、信号機が消えた映像を目にしたとき、思い浮かべたのはこのようなことだった。

被災地への支援というのは、他人への支援ではなく、自分への支援だとはいえないだろうか。東日本へのダメージという受け止めかたではなく、日本全体のダメージ。広い意味で、自分たち全員が、被災者であるという気持ちで、復興・復旧のことを考えなければならない。今までよりもいろんな面で不自由を感じることがあるかもしれない。それがみんなで負担をするということだろう。
地震はまだまだ終わっていない。発電所の被害がどの程度まで進むのかも、まだわからない。
電気のない生活を送っていたあの知人は今、どういう気持ちで過ごしているだろうか。
この記事のURL | 未分類 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
毎日食べても健康をそこなわないもの
2011/03/11(Fri)
昔は旬のものしか食べられなかった。食物の種類こそ限定されるが最高のものをいただくことになる。一年を通して旬のものを食べると、日本は四季がはっきりしているから、結果的にはさまざまな種類の食べ物を食べることになる。

ワークショップのシメは相変わらずご飯。塩か醤油をかけるだけだが「やっぱりご飯はおいしい~」。飽きない。いつ食べてもうまい。「お米の味っていいですねえ。オカズなんかいらない」。
食事療法には「ばっかり食」がある。大根とかりんごとかを食べる。食べたくなくなるまで食べ続ける。見るのもイヤになるくらい食べ続ける。一定期間に食べものの種類を減らしていくつかにしぼるといろいろ改善が見られることが経験的に知られている。

私が子どもの頃に取り組んだ自然食も「ばっかり食」の仲間といえる。肉類はまだ摂っていたものの、砂糖や冷凍食品、菓子類は家の中から姿を消した。外食も控えるようになった。そのくらいのことでも家族全員、お通じに改善がみられ、病院通いがぴたりと止まった。
ある筋によると、今の日本の病気は「食いあらため」れば治るものばかり。
「食べ過ぎ社会」なのである。
しかし「食べてやせる」というのは宣伝文句になっても、「食べずに治す」とか「食べずに健康」とかいうのは逆宣伝になりかねないと聞く。
甲田光雄医学博士の食べ方指導は長期にわたり大きな実績を持つ。書籍で読んだだけでも「食べる」ということはあだやおろそかにできないと痛感する。病気の元の元をたどると、「食べる」ということをおろそかにしたことに行きつくと言ってもいいくらいだ。

「食べる」ということは命のやりとりに他ならない。たとえ菜食であっても、米は種子。種子は動物でいうとタマゴにあたる。何千万、何億もの新しい命の可能性を、煮たり焼いたりして食べるのだ。
ということは、食べものを粗末にするのは、命を粗末にすることにつながるのではないか。
食べ過ぎは、自分の命をつなぐために食べることを大きく通り越す。そういう意味では遊び食いともいえる。食べることを遊びにするということは、命をもてあそぶということにも通じるのではないか。
命をもてあそんだ結果の病気とすれば、命の取り扱いを考え直すほか、ないだろう。

食べることをまちがった人の行く末を見ていると、命の働きには恐いものがあると思わざるをえない。
こうなってくると、「命を大切に」の理由が違って見えてくる。命ははかなくて弱々しいものだから、いたわってあげないといけない。守ってやらないといけないというような意味ではなく、その反対で、命とは恐ろしいものなのではないか。
命を粗末にあつかえば、しっぺ返しがくる。命のあつかいをまちがうと、命の働きが自然の働きに忠実であることによって、自分自身が苦しい目にあう。だから命を大切にする方向でものごとを考えることが、結局は自分が楽しく過ごせることにつながるのではないか。

食べることにはずっと泣かされてきた。
11歳から15歳までは「安全な自然食」に切り替えて、それなりの効果を実感した。
三年のブランクの後、18歳から29歳までは「玄米菜食」に。
しかしそれでもうまくいかない点が多々残るのだった。
30になってからは玄米をやめ、菜食のみにした。しかし制限するということそのものが面倒だ。もう食の面倒からは解放されたい。ということで、最近は食べること全体を縮小しつつある。食べものの種類も量についても削減し、内臓の負担を軽くしたいと思っている。
内臓の負担を軽くするだけでなく、動物的な欲、むさぼりといった内面のことも、軽くしていきたいと思っている。もう、食べることをあれこれ考えたり食に煩わされることなく生きていたいのだ。

教室に来られている方に、「甘いものを食べるというのはそんなにいけないことか」とあらためて尋ねられた。説明するうちに、「なるほど。食べてないと思っていても、けっこうな量を食べているんですね。わかりました」とおっしゃって菓子類を断たれた。すると数カ月にわたって苦しめられていた、ある症状がスッカリよくなってしまった。「甘いものを食べたくてしょうがない。やっぱりお砂糖の中毒っぽいです」と言われるので、干しイモや干し柿など、自然の甘味をお勧めし、あまり無理しないよう、お話した。しかし一カ月ごとにお会いするたび改善点がはっきりと見られるので、ここまで変わるのだな、とさすがに驚いた。
遊びのつもりで食べているのが、だいじなものを奪われ、命までとられかけている。
そんなこともあるのかもしれない。。

  
腰痛体操・肩こり体操を含めた

操体法教室のご案内


  福岡市南区のほうで曜日・時間帯が選べます。
  お気軽に足を運んで体験してください。





この記事のURL | 未分類 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
イザというときの心と体の備えにいつ取り組むか
2011/03/09(Wed)
これほど真剣になる必要はそれまでなかった。三人の医者からハッキリ宣告されたのが、かえってよかった。
人生に困難はつきもの。交通事故の体験で痛感した。「体は動く建物」とは橋本敬三医師の言。私の家(=身体)は次の嵐で吹き飛びそうなものだった。嵐そのものをなくすのは不可能だから家屋の修繕と補強にせっせと努めるしかなかった。

操体歴は二十年目だが、事故にあってはじめて本気になった。三人の医者からハッキリ宣告されたのも今思えばよかった。うやむやなまま時間を失うのよりはよほどよかった。
N病院の整形外科の主任らしき医者から、「患者さま~これまでの診察(口腔外科、耳鼻科、脳神経外科、精神科、整形外科)を総合しますと、患者さまの症状の原因は筋肉のコワバリによるものと思われますが~わたくしども医者は筋肉の勉強をしておりませんので、こちらでは治療できかねます~」と言われた。
「それでは私はどうすればよいのでしょう?」
「ヨガですとか~鍼やお灸など、ご自分でいいと思われるものをお探し下さ~い」
病院以外で回復をはかれということだろうと受け取った。

近所に地域の外科のまとめ役のような病院の医者に相談した。
「医者探しはやめろ。あなたのようなムチウチ患者で治った人、みたことない。元の体に戻ろうとするからよけい不幸になる」
脳神経外科医はカンタンなチェックをすると、こうまくしたてた。
「おい、一生病院通いしたいか。したくなければ体を動かせ。ダンベル体操でも水泳でも自分で勝手にえらんでやれっ」
体をそんなに動かせるくらいなら相談などしない。そう思いながら、「操体法はどう思われますか」と言ってみると、「わたしはなんにも知らん。自分でえらべ」。病院以外のところで回復を目指せということだけは確かだと思った。

人生は嵐の連続。いったんやってきたら大騒ぎするというのでは能がない。実際は嵐がやってきたときにはもう遅い。過ぎてしまえばすっかり忘れて遊ぶのも一つだろうが、次がくるまでの間に受け入れ体勢を整えておくに越したことはない。
人生の最後には、きわめつけの嵐が老若男女すべての人に用意されている。人生は死というエンディングの決まった物語。そこをいかにして自分自身の手で描いていくか。そこが試されていると思う。
  
腰痛体操・肩こり体操を含めた

操体法教室のご案内


  福岡市南区のほうで曜日・時間帯が選べます。
  お気軽に足を運んで体験してください。

  




この記事のURL | 未分類 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
体から心地よい動きがどんどん湧き出してくる
2011/03/08(Tue)
犬やネコが一日に何度も「う~ん」とノビをするのと同じ。晴ればれした気持ちよさを伴い、心も体もせいせいする。そんな動きがどんどん湧き出てくる。そうやって必要に応じて動きを出しながら全身を調整する力が私たちの体には備わっている。

操体法に取り組むのなら、癒動操体を知らないままでは残念だ。操体法の半分しか知らないことになってしまうともいえるのではないか。
野口整体では活元運動というのが知られている。その活元運動からヒントを得て生まれたのが癒動操体。活元運動も癒動操体も、一言でいうと「勝手に体が動く」。
ただ動くのではない。その時々で自分の体が一番必要とする動きがおのずと体から湧き出してくる。そういうスイッチを入れる。

勝手に体が動くというと不審感を抱かれることもある。しかし日常では体など勝手に動く。じっさい勝手に動いている。
「ドアを開けよう」。そう思うだけで腕が伸び、ノブをつかみ、引っ張るなり押すなり無意識にやっている。
電車に乗っているときにはどうか。「脚を組もう」とか「体を揺らそう」とかいちいち思わないのに体はじっとしていない。勝手に動いている。
実は日常のほとんどは無意識の動きでできている。意識的な運動は随意運動、意識しない運動は不随意運動というが、その区別は明確ではない。

ぐっすりと寝ているときさえ体はさかんに動く。特に子どもは寝ているときも活発で、年をとっていくうちにだんだんと行儀よく寝るようになる。
寝ているときの無意識の運動に、何か意味はあるのだろうか。
カンオケのような狭い箱の中で身動きとれずに寝ていたら、どうなるか。つらい夜を過ごすことになるだろう。朝には体のあちこちが痛むのである。
犬やネコがノビを禁じられたら、どうなるか。電車に乗っているときに足を組みなおしたり、ぶらぶらさせたりできなかったら、どうか。

こう考えてゆくと、無意識の運動は私たちが気持ちよく生きていくために必要不可欠なものである。体のあちこちが痛むのを防ぐ。そのような効果があるともいえる。逆にいうと、体はあちこちの筋肉が固まってしまわないように、その時々に応じて必要な動きを出す。それが本来なのだ。
元気な子どもの筋肉は柔らかい。弾力がある。しかし年をとっていくと筋肉は固くなり、具合がわるいときも固くなる。固いところを押すと、痛みがある。圧痛という。痛みがあるところには筋肉のコリがある。
動物が動くことは、筋肉の弾力をもたらす戦略でもある。動物は、動くものだ。動きで筋肉が整い、体が整う。そのような癒しの動きを体は知っている。活元や癒動操体にはそのような解釈が成り立つと思う。

ラジオ体操をやらされると翌日は体のあちこちが痛んだものだ。「からだが固いせいだ」と言われていたが、その逆だったのかもしれない。体操のせいで体が固くなることもあるのだ。
「これをやったら体にいい」などと勝手に頭の中でこしらえたリクツで体を動かすのには、カン違いやまちがいが含まれる。欲や見栄など心理面にも大きく左右される。人間は不完全で、不完全な人間のやることは完全というわけにはいかない。
体が必要に応じて出してくる動き、無意識の動きにまちがいはない。まちがいようがない。
犬ネコがう~んとノビをすることのどこに、まちがいがあると言えようか。寝相がわるいのがどうしていけないか。
すべてもともと備わっているものに不要なものはなく、害になるものもない。
疑うのはやったあとでも遅くはない。やるときの心地よさと、やった後の爽快感を体験すれば、なあんだこんなにカンタンなことだったかと、誰にだって合点のゆくことだ。

  
腰痛体操・肩こり体操を含めた

操体法教室のご案内


  福岡市南区のほうで曜日・時間帯が選べます。
  お気軽に足を運んで体験してください。

  


この記事のURL | 未分類 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
| メイン |