その日そのときに一番よいものを見つけるのが操体法
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2011/02/26(Sat)
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体操やストレッチといえば、みんな同じ動きをするのが常識だ。「無理しないで」と注意はあるが、同じことをしようという設定そのものに無理はないのだろうか。
集まった人の中に、腰を曲げるほうが望ましい状態の人と、腰を反らせるほうが望ましい状態の人とが混じっているということはないだろうか。 「ヒザ痛によい動き」と言われれば、いっせいに「ヒザ痛によい動き」と言われるものに取り組み、「尿もれにはこの動き」と言われれば、一人一人の持つ条件の違いはないものとして、みんな体の条件は同じということにしておいて、同じことをやる。 それで「効果があった」という人と、「効果がなかった」という人とが出てくる。「かえってひどくなった」という人も中にはいるかもしれない。結果は個人差があり、いろいろだというのなら、それはなぜだろうか。体の持つ条件が一人一人ちがうからではないのだろうか。 体の持つ条件を見もせずに、みんな同じことをやらせるというのなら、あてずっぽうみたいなことになる。やる側にしてみれば、あてずっぽうよりは確実なほうがいいに決まっている。 一人一人の体にちがいがある。日々、体の状態は変化する。その二つのことを認めるならば、ちがいがあるものを同じことで画一的に対処しようということに無理がある。一人一人の持つ条件の違いや変化を、どう把握するのか、それにどう対応するかということが、一番だいじだになってくるのではないか。 橋本敬三医師の操体法のコンセプトは、「気持ちよいことならば、何をやってもいい」。 気持ちよく感じることは、一人一人ちがうし、いつも同じとは限らない。同じものを食べても誰もがおいしいということにはならず、毎日同じものを食べていても、日によって味の感じ方もちがう。それが生きているものにとっての事実なのだと思う。 操体法で毎日なにをやっているのかと尋ねられたら、その日そのときの自分にとって一番よい体の動きをさがしていると私なら答える。ワークショップでは、その日そのときのその参加者にとって一番よい体の動きを、一緒になって見つけるということをやっている。 腰痛体操・肩こり体操を含めた 操体法教室のご案内 福岡市南区のほうで曜日・時間帯を選べるよう設定します。 お気軽に足を運んで体験してみてください。 080-1720-1097 へご連絡ください。 スポンサーサイト
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腰痛体操・肩こり体操を含めた操体法教室のご案内
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2011/02/20(Sun)
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厚生労働省の行う国民生活基礎調査によると、体の不都合を訴える人のうち上位を占めるのが腰痛と肩こりである。男性の場合は腰痛、肩こり、体がだるいといった訴えに対し、女性の場合は肩こり、腰痛、手足の関節の痛み、頭痛など、いろんな苦痛を耐え忍んでいる状況が見える。
そんなに体の不都合を訴える人が多いのなら、体を自分で動かして苦痛をコントロールすることをおぼえてもらうのはどうだろうと思う。福岡市南区のほうで広い会場を提供してくださるそうなので、4月にやってみようかと考えている。 曜日・時間帯は選べるように設定します。 お気軽に足を運んで体験してみてください。 希望される方は 080-1720-1097 へご連絡ください。 |
最高に喜ばれるおみやげ。最高のプレゼントとは
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2011/02/19(Sat)
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贈り物といえば自分の心をモノに託すのが一般的だが、望むのは相手の喜びという無形のものだからモノと限らなくてもよいのである。「ここで教わってきたことが一番のおみやげになりました」といううれしいお声をいただいたとき、私はそんなことを思った。
農家の遠い知人のもとを訪ねたというKさん。滞在先で操体法が掛け値なしに喜ばれたと話す。かさばりもせず、重さもなく、しかしいつも自分の身に携帯することのできる操体法。この目にも見えないものが自分の心を託すのに一番頼りになり、一番の喜びをもたらすということを体験なさったようだった。Kさんのうれしそうに目を輝かせる姿を見るのは私にも大きな喜びだった。 最近のKさんを見ていると、操体法を習いたてだったころの自分のことを思い出す。 道ですれ違う人にさえ喜びを伝えたくなるようなウキウキ感。旅先でいっしょになった見知らぬ宿泊の人たちといっしょになって操体法をやったこともある。いつ、どこの、誰にでも喜んでもらえるものを、少なくとも一つは確実に知っているということ。自分が生きているあいだ、それが失われることはないだろうということ。そして自分の一番大切な人に、一番差し出したいと思うものが、一つ見つかったらしいということ。 当時の自分の発見を単純に言うと、こんな感じになる。 今の自分にはここまでのウキウキ感はない。人はめずらしいものに感動するが、めずらしいものはだんだんと当たり前のものになってゆく。今の自分にとって当たり前となった操体法は、しかしウキウキ感とはまたべつの、静かで深い感動を与え続けてやまない。ありがたいことである。 |
からだのリフォームがはじまる
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2011/02/13(Sun)
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家も古くなれば修繕、修繕でダメならリフォームまたは建替えも考える。体でも同様に修繕・リフォームが絶えず行われ、ほぼ三年ごとに建替わっている。
生きるということは体のリフォームの連続である。消化管の壁は数時間おきにはがれ落ち新しいものに張り替えられる。血液は120日ていどで全て入れ替る。 生きものは日々リフォームにつぐリフォームに追われているが、時には手の届かないところもあるかもしれない。体力的に切羽詰まってくると、おざなりになったり間に合わせで済ませたり、素材が粗悪になったりして、だんだんと住み心地のレベルも下がってくる。そのようなこともあるかもしれない。 そこをまとめてどかんとリフォームするのが病気というものなのかもしれない。 具合がわるいというのは「工事中」「リフォーム期間は取り込み中」というようにも考えられる。 また、具合がわるいというのは体力温存の手段の一つ。「休ませてもらいます」と体のほうから抗議しているようなものともいえる。食べ物もおいしく感じられなければたくさんは食べられない。これは消化系統の休業である。節々が痛ければ動くのがイヤになる。意欲も低下し、活動量も落ちて睡眠をとる。こうして全身が休眠体勢に入る。 このような休眠体勢はどのくらい続くのか。これを一日でも一時間でも短くしたいというのは人情だが、本来、最も望ましい休眠の長さは体が一番よく知っている。体が必要とするものを、必要とするだけ与えてやるのがベストの仕上がりとなるのは想像にかたくない。妙な手段でごまかして、痛いものを痛くないようにしたり、熱があるのを下げてみたり、あれこれと勝手に操作されては体も困るだろう。体が困ることをすれば、いずれは自分も困ることになる。 具合のよくない人の様子は、子どもの頃に飼育していたイモムシたちの姿を思わせる。庭のみかんの木に発生したイモムシたちを箱の中で飼っていると、彼らは定期的に「具合がわるくなる」。まず、そわそわと落ち着かず、気もそぞろで食事ものどを通らない。そのうちじっと動かなくなる。体を縮こませている姿は体調の異変を思わせるものであると同時に、何かを待っているようでもある。そしてその時がくる。脱皮である。 脱皮の途中で死ぬものもいる。とくにイモムシからサナギになるとき。それからサナギがチョウへと羽化するとき。大きな変化を伴うときほど大きな体力が必要なのだ。 サナギからチョウへと向かう段階を体質改善や病気の治癒の経過にあてはめて考えることもできる。 サナギの中味はイモムシの解体されたドロドロの液状であり、正体不明である。その正体不明から秩序だった体がつくられてゆく。羽化が近くなるにつれ、薄い殻を通して目玉や羽の折りたたまれた様子が透けて見えるのはとても愉快なことだ。 新しい体の仕上がり具合は、その時の体の持つ力次第である。住み心地が改善されるのか、それとも前の体のほうが住み心地がよかったと思うようなものになってしまうのか。リフォームはリフォームでも仕上がりはだいじである。 食生活の改善にせよ、健康法にせよ、それがうまくいっているかどうかは、好転反応ともよばれるようなたぐいの体の大改築が起こるかどうかで知ることができる。好転反応のない健康法など、健康気分を楽しむ娯楽もしくはレクリエーションで終わってしまうという意見を耳にしたことがある。 好転反応をどうクリアーするか。それも重要だという人もある。 病気もケガも、できれば避けたいと思うのが人情だが、人生なかなかそうもいかない。しかし「禍福は糾える縄のごとし」。一本の縄が不幸と幸福とでできているというのなら、病気やケガは、乗りこえようによっては体の住み心地を改善するリフォームのチャンス。再生のチャンスともいえる。 具合がわるくなったときの危機をどう過ごすか。それはリフォームされた後の体の住み心地をよくするということを押さえていけば、自分なりの答えがおのずと出てくるものではないか。自分は今の自分が一番いいと思っていても、「今の自分」を保存する方法はない。残念に思われることもあろうが、このことが大きな救いになることもある。変身のチャンスがいつでも用意されているということだからだ。 |
人間が手を入れれば入れるほど弱ってゆく?
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2011/02/09(Wed)
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雨の季節は山がくずれる。行きつけの山も進入禁止のロープがあちこちに張られる。人間の手が入った所は特にもろいようだ。歯も同じと指摘する歯科医のグループがいる。
歯は医者のいじった部分からダメになると現役の歯科医自らが言うのである。本で調べたり保健関係の本を開いたり、自分の体験や身近な人の体験などを検討した結果、私は歯医者通いをやめてみることにした。以来、歯と歯茎のトラブルがなくなったので、やめるというより行く必要がなくなった。保健の教科書の中に「歯磨きはしつけの一部として指導する意味がある。しかし虫歯との因果関係は現場では必ずしも証明されていない。悩ましいところだ」というような内容の記述を見つけもした。磨いたことがないという口の中はさぞかし虫歯だらけだろうと思うと、さにあらず。歯垢にうもれるようにして真珠のような真っ白な歯が並んでいるのがみられたりするそうだ。逆に、毎日食後にきちんと磨かれているのに虫歯がどんどんできるのを目にすることもあるという。そういうことなら確かにそれは悩ましくも不都合な事実である。 以前自分の通っていた歯科医も「口の健康には食生活や全身の運動のほうが歯磨きより大切と思う」「だ液の状態しだいではないか」と本音を語ってくれてはいた。 病院で治療を受けても体そのものがよくなるわけではない。健康にも頑丈にもならない。もともとそのようなことは約束されていない。それどころか治療によってはその後の健康がそこなわれたり体力がうばわれることもある。そのことが問題となって久しい。 子どものころに、セミの羽化によく立ち会ったものだが、手間取って時間がかかりすぎるものを何例か手伝ったことがある。母がハサミなどでサナギの殻を注意深く切り崩して出したのを見た記憶があるのだ。しかしいずれも結果はよくなかった。それを見るにつけ、子供心に「羽化とは殻を出ればいいというものではないのだな」と感心したおぼえがある。 人間と虫とをそのまま引き比べるわけにもいかないが、生きものとして根底に流れる自然法則はほぼ同じであろうというくらいの察しはつく。できるだけ余計な介入がないほうが結果はいいに決まっている。だからって何も見殺しにしろなんていうのではない。そうではなくて、余計な手を入れずに済むような配慮がじゅうぶんになされているのだろうかということなのだ。医学が「進む」につれて自然の働きを尊重する配慮は次第になくなり、人間の手を入れられるところにはどんどん手を入れるような方向に進んでいる。健康や体力の向上につながる治療ということも、もっと考えられてよいはずなのだ。手が入れば入るほど、弱くなる。それが生きものたちから教わったメッセージだったように思う。 |
美しい風景があるのではない。それを見る目が美しいのだ。
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2011/02/07(Mon)
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すてきな朝がある。すうっと目が覚め、そのまま意識が澄みわたって誘われるように窓の外を見れば、早朝の光に心が洗われるような気持ちになる。そんな一日の始まりには生まれたての小鹿のような弾む心と軽い体を持った自分が、いる。こういう魔法はなかなか思うようにおりてこないものだけれども、まったくないこともない。
長く生きていれば仕方のないことだと、いつの間にかあきらめている重ったるい体。濁りに濁った疲れのようなものを溜めこんだ節々。白く分厚くもやのかかったような気分。そうしたものがすっかり晴れて消えてしまう。そんな日もあるのだ。 若い頃だって、こんな日は数えるほどしか来なかった。若い頃にだって、「あのころはよかったなあ」などと思い返すことは少なくなかった。不安定で心乱れた日々。どうしようもなくて自分を持て余した日々。自分の身の周りの風景にケチをつけ、どこか遠い世界にあるに違いない、まだ見ぬ風景ばかりを求めてまわる若い私には、こんな日が来ようとは思いもよらないのだった。澄みわたる意識で外を眺めれば、どんな風景にも心が洗われるような思いがするのだということを、この世界は無条件でうつくしいのだということを、新しい発見でもしたかのようにうれしく思える日。こんな日もあるから、やっぱりこれからもまじめに精進しようと思う。 |
「みんなちがって、みんないい」のにみんな同じでいいの?
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2011/02/05(Sat)
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みんな違ってみんないいという医学がないのを不思議に思う。みんな同じ治療で同じ結果を期待するのが医学的で科学的な発想なのだろうか。AさんがバナナでやせたらBさんもバナナでやせるはずだとか、実験用モルモットの癌が小さくなったら人間の癌も小さくなるはずだとか。
朝ご飯キャンペーンもタミフルキャンペーンもワクチンキャンペーンも私たちに統一した行動をおこさせようとするものだ。この背景には「みんなちがわない」「みんないつでも同じ」という意識が感じられる。これが医学的もしくは科学的な姿勢ということなのだろうか。 高齢社会という言葉も付和雷同的に受けとめられているふしがある。 平均寿命が世界一だとか、高齢社会だとか、人生80年時代だとか、毎日メディアで続けていられると、ついつい「自分もみんなもこれから長生きしちゃうんだ」くらいの気分になってしまうのではないか。現在80歳の世代の人たちと、これからの世代の人たちとが「ちがわない」し、いつの時代も「同じ」と考えているからこその発想だろうが、こんな発想を裏付ける保証もデータも存在しない。あくまで「このままでいくと」の仮説にすぎない。 実際にはどんな時代になろうとも、いつ迎えるかわからない。それが死だ。国の政策と個々人の生命の営みは足並みがそろうとは限らない。 この臓器移植の時代にあって、決して移植ができないものが皮膚である。この事実は人間の一人一人の体の違いを象徴するものと私は考える。「個性を大切に」などと別の方面ではさかんに言われているが、「みんなちがって、みんないい」がお飾りのキャッチフレーズでなくなるにはまだまだ遠い道のりがあるように思われる。 |
自力と他力との中間の、ほどよいバランスについて
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2011/02/02(Wed)
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本人の努力がだいじなのは言うまでもないが「自分でやります。自分でやれます」という人に限ってたちゆかなくなる。自力を通そうとするのに無理があり、苦労も多く実りも小さいのである。それはそれで本人の自由だが、そうまで意固地にならないでもよいようなところで我を張っているともいえる。他人にまかせきってうまい運びにしようというのは論外だが、その道の経験のある人を選んで教えを乞う姿勢はだいじだ。と同時に、教えを実行し身につけようとする自分自身の努力もだいじにしたい。自力と他力との二つがほどよいバランスを得たときに、事はうまく運ぶ。自力ばかりでもなく他力ばかりでもなく、双方がうまく噛み合っていくことが重要なのだと思う。
最初のうちは、ほぼ他力。助けてもらうことのほうが大きなウェイトを占める。そのうち自分で取り組むべきことが見えてくる。自分で助かろうとする努力がしだいに増えてゆき、人に助けてもらう部分の占める割合に近づいていく。他力が1に対し自力が1となり2となりしてゆく。 他力は何のためにあるか。それは自分が努力をするための刺激であり促進である。人に助けてもらったぶんの、少なくとも5倍から10倍ていどは努力せよと自分には言い聞かせているが、他力1に対して百でも二百でも自力をのばしていけばよい。「助けを乞う」自分と「助かる努力をする」自分との間のほどよいバランスをとっていくことによって、助ける側と助かる側の双方が心地よく過ごせるバランスが見いだせるはずである。心地よいバランス関係は互いにとって心地よい関係を長く保たせもするだろう。 自分が操体の指導を受け始めて今年で足かけ20年。トータルで見ると、助けてもらった部分のほうがはるかに大きい。これは助けられる側の宿命でもあり、自分で努力した分が、助けてもらった分をしのぐことなどないだろう。それほど自分の受けてきたものは大きく、直接お返しはできそうにもないが、これまで自分の受けてきたものを他の方々にお分けすることならできるかもしれない。そう考える。 |
強いひとの弱さ。弱いひとの強さ。
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2011/02/01(Tue)
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この人は強い人だな!と思って見ていれば案外にもろいところがあり、そういうものかと思い当たるふしがある。この人は弱いな!そう思って見ていると案外にしぶといところがあり、生きているものにはこういう強いところがあるのだな!と感心させられる。
力持ちでなければ、頑丈でなければ、じゅうぶんに幸せではないのだと、そういう脅迫的な健康観がどこかしら感じられることがある。しかし弱みを持たない人間はいないし、強さを持たない人間もまたいない。ときには弱くなり、ときには強くなったりしながら生きている。 どんなに力持ちで頑丈であっても、人である以上は具合のよくないときもあればケガを負うこともある。 からだが弱い弱いという人も、よくみていると強いところがどこかしら、ある。 からだが強い人は弱い人のことをわからないとか、からだの弱い人は強い人とはうまくいかないだとか、そういうこともちまたではよく言われているけれど、強いとか弱いとかは相対的なものだから、そういう見方そのものが不毛というか、ムダなことなのかもしれない。力を競えば上には上がいる。強い者はまたべつの強い者によっていつかは倒される。またどれだけ体を鍛えたところで刃物でもって刺されれば一巻の終わりである。 生身の体である以上、病気にもなれば老化もあり、強さを求めていけば人生が尻すぼみになるのは避けられない。生きているあいだずっと隅々まで気持ちよく生きていたいとなれば、パワーよりもコントロールのほうがむしろだいじになってくるのではないかと思う。誰かと力を競うようなことではやっていけないときには切り替えて、小さいパワーでじゅうぶんに心地よく過ごすことがだいじになる。 力持ちでなければ、頑丈でなければ、いけないのだという脅迫的な健康観でかえって不幸を招いている 場合も少なくない。今の自分の持つ条件をよく見て判断し、自分なりの弱みと強さとをコントロールすることで、いろんな条件の変化に対応したいものである。 |
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