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平和な歌詞とメロディーから伝わってくるものは。
2011/01/02(Sun)
ルイ・アームストロングの歌うWhat a wonderful world(この素晴らしき世界)が流れてくると、平和な歌詞からかえって生きる苦しみや悲しみが伝わってくるような気がする。太くてかすれた声を、絞り出すようにして曲が歌われる間は確かに世界は平和だろうと思う。しかしこの曲を聞くたびに感動する本当の理由は、世界が平和ではないところだからなのかもしれない。
キリスト教に言わせれば人間は罪人だ。仏教においては人間は果てしなく間違いを繰返し、生きる苦しみのシステムから抜け出せない。宗教は私たちのこの世界ありのままを素晴らしいとは言わない。

キリスト教では人間第一号のアダムとイブが禁断の実を食べたのが罪の発端とされる。labor(レイバー)という単語には「苦役、労働」と「陣痛」という二つの意味があるが、まちがった行動の罰として、人間は額に汗して働かなければ食っていけなくなったし、お産のときに大きい苦痛を伴うようになったといわれる。
人間に向けられる目の厳しさという点において、仏教はキリスト教のさらに上をゆくかもしれない。
仏教では時間の考え方からして違う。キリスト教には始めがあり終わりがある。仏教では無始の昔、無終の未来つまり始めもなく終わりもない。永遠の時の中で私たちは気の遠くなるほど生き直しを繰り返し、生きる苦しみを受け続け、何度も死に直しをしている。今の自分が不幸で、身に覚えのないほど不当な境遇があるとしたら、それは無始の昔から今日まで繰り返してきた生き直しの人生の中でおかした行いのツケを払わされているということだ。誰のせいにもできないし、何のせいにもできない。
この世に今自分が生きているということは、まちがった行いを繰り返してきたからである。ブッダはまちがった行いをやめて、生きる苦しみの続く輪廻システムから抜け出す方法があると言った。キリスト教にはものごとを仕切ったり取り決めをする親分のような存在がいるが、仏教の輪廻システムは誰が操っているのでもない。ただそういうシステムがあるというだけだ。そこにとどまるも、そこから抜けるも、自分次第。

宗教は自虐的。そういう意見もある。人間の弱点をついてくるから、意地の悪い目で見られているようで腹が立つ。指摘に耳を傾ければ心当たりもないわけではない。だから腹も立つし不愉快にもなるのではないか。
「いかに自分たち人間は素晴らしく、この世は素晴らしいか」に焦点がしぼられている映画やテレビ番組には自分はどうも落ち着かなくなる。「人間最高」「人類バンザイ」を否定する気もないけれど、キリスト教的な人間観や仏教的な人間観・生命観も、否定できない。人間をどう見てどう考えるかについては、いろんな考えの枠組みを知っておくのもわるくない。人間を観察し、考察する視点を与えてくれるからだ。耳に痛い話もよく聞いて、よく知っておこう。そう思う。
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