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音も凍てつく沈黙の大滝
2011/01/19(Wed)
冬になると姿を現わす滝をあなたはもう見たろうか。切り立った岸壁からしたたり落ちる細々とした流れがツララとなってたくわえられ、幾重にも連なり、重なって、見事な大瀑布を壁一面につくりあげるのだ。

静まりかえった山の中。決して音を立てることもなく、決して流れることもない大滝のすぐそばにまで歩み寄り、見上げてみると、白くむき出しになった何百、何千という長い牙がこちらに切っ先を向けてくる。隙あらばいつでも突き立ててやる。沈黙の滝からそんな緊迫感が伝わってくる。

春も間近な晴れた日に、凍った滝が崩れ落ちる音を遠くから聞いたことがある。滝を見に来た人らが聞きつけて、「早く行かないと全部くずれてなくなってしまう」とあわてて足を早める姿が妙におかしくてならなかった。透き通った鐘の音のような、きゃしゃなような音もあり、みっともなくひしゃげる音もあり、滝がバラバラになってこぼれ落ちていくさまを、私は心の中に思い描いていた。

今年は足の調子をこれ以上くずしたくないので見に行かないと決めたが、毎日通う山の駐車場の近くに思わぬ造形が出現したのを目撃した。そこは勢いよく噴水の上がる、日本庭園風の池の周辺で、遠くから見れば白く巨大な正体不明の、ひと塊りになったものが見える。近づいてゆくと、池のまわりの植栽に吹きかかるしぶきが氷となってたくわえられ、鍾乳石のさまざまな造形が出現しているのである。小高い木の幹の連なりに氷のカーテンが広がり、あるいはテーブル状に丸く広がって、大小のつららがすそ飾りのように垂れ下がっている。そこにまた、あらたなつららが厚く幾重にも壁をつくり、ちらちらと複雑に輝く光を宿している。大粒の玉砂利が透明な半円のカプセルとなって地面を覆い尽くし、ひょろ長い葉が地面にのたうちまわっているのが白い蛇の複雑な絡まりあいのように見える。噴水の水は空を目がけて伸びてゆく。そこを絶えず寒風がびゅうと横殴りに吹き飛ばす。氷の庭園を養うスプリンクラーさながらの光景である。
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「あとで何が出るかわからない」のはコリのなせるもの?
2011/01/16(Sun)
打撲はカミナリに似て、打った所から衝撃が入り、体を突き抜けていく。さてその衝撃がどこをどう伝わったかで予想もつかないことが起きる。

朝、目がさめると立つことも歩くこともできなくなっていた。そうその男子は話してくれた。当時はケンカばかりしていた。蹴ったり蹴られたり。殴ったり殴られたり。そんなようなことを繰り返していた時期があった。ところがある日いきなり立てなくなった。歩くこともできない。病院では原因不明でわからないと言われた。それでも何らかの手術を勧められたという。手術は恐い、イヤだと思い、「逃げた」。通院をやめ、家で過ごすうち、少しずつ立てるようになり、歩けるようになった。わけもわからず足腰立たなくなったのと同じように、わけもわからないまま元通り動けるようになった。動けるようになるまで車椅子生活を続けたが、あれはなんだったんだろうと思い返すことがある。心当たりがないわけではない。多分あのとき。集団でめちゃめちゃに傷めつけられたとき。でもその後はべつにどうもなかったけどなあ…。

交通事故にあうと、「あとで何が出てくるかわからない」と言われる。それは体験的に知られていることで、医学的には証明できないことも多い。形式的にでも通院しておかないと、「あとで何かが出てきた」ときに、事故との関連を証明できないと医者に言われて泣き寝入りになることもある。たとえご本人に事故との関連が実感できても、医者の証明が是非を分ける。そういう制度である。

二週間前に、足の小指をコツンとぶつけた。翌日には内出血で全体が赤紫色だったが、一週間放っておいたら色は消えていった。そのくらいのものと思っていたのがそうではなかった。見かけはほとんどふつうなのに、強い痛みが出てきた。日毎にひどくなり、床に足をつけるのさえイヤになった。仕方がないので経過を相談した。ちょっとつまんでもゾッとする、尾を引く痛みである。「腫れてもいない。見かけはそれほどでもない」と小首をかしげられてから、「肩こりだな」と一言。言われてみると、数日前から右肩が張り、手のつけようのないほど凝っている。しかし。肩こりがあるとどんな打撲でも痛むとでもいうのか? 「いや、そういうことではない」という。打撲の衝撃はイナヅマのごとく一瞬で体を貫き、コリがつくられる。衝撃に対してコリをつくる。そういう反応を生体はやるらしい。そのコリと、ぶつけたところの痛みとは関連している。衝撃でどこにコリがつくられたのか。それを見つけるのがカギだという。

では、この肩こりをほぐすのか。そう期待していると、そうではない。全身の動きを調整したのち、何か所かテープを貼ってもらう。「三日くらい貼ったままにしておいて」。しばらくして、「どう?」と小指をつままれた。痛いは痛いが、ゾッとする嫌味なものがない。さっぱりした単純な痛みとでも言おうか。時間が経てば経つほど痛みは消えていくと言われた。
帰宅してふと気づくと肩がゆるんでいた。いつの間にやら、というのがおもしろい。肩が肩がと一生懸命に対応した時の感じとは違い、「あれ? ゆるんじゃってる」。放っておいた風船がしぼんでいるのを見つけたときのような、気の抜けたような脱力感である。翌日には楽しく山をウォーキングした。いつもの谷間の自分の場所で声を出しながら体をほぐす。びっくりするほど、ほぐれていく。うわ~全身こんなにゴリゴリだったんだ~と思う。息を吹き返した体とともに、山を、おりる。
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他人を助けることで不思議に見えてくる自分の救いへの道
2011/01/14(Fri)
自分のために努力するのもだいじだけれど、逆の発想で、自分が助かりたいなら他人を救えというのもまた真である。「他人を救う前に、まず自分」。操体を始めたころはそう信じて疑わなかった。「他の人のもやらないと、自分のだけでは限界ありますよ」と声をかけられても、「ふうん、そんなもんかなあ」くらいで終わっていた。

人間はエゴのカタマリだというけれど、不思議なことに、自分よりも他人のほうを大切に扱う傾向がある。自分の食事なら適当に済ませるところが他人につくってあげるとなると、たとえ食べる相手が誰であれ、自分の食事よりもきちんとつくろうとするではないか。
他人のことをやってあげるほうがやりやすいということもある。他人のことはよく見える。それがまた勉強やヒントになり、他人に尽くしたことから得たものを、自分に活用してみるということもできる。自分の体で調整してうまくいったら他人にも活用して確かめる。他人の体でうまくいったことは自分にも活用して試してみる。そんな相互のやりとりの中で見えてくるものが大いにあるわけだ。
その上、感謝の言葉を一言でもかけてもらうことがあったら、これ以上の喜びはないだろう。
人間はエゴのカタマリというが、自分に尽くすより他人に尽くすほうがうれしいという面も持っている。

他人を手助けしようとはたらきかけるのはコミュニケーションの一つである。自分でいくら自分を救おうったって限界があるから停滞し、悩むのである。自分の持つ力とはべつの何かが足りないということもあるだろう。他人を助けようとするうちに、相手もこちらの助けになる力を持っていることがある。そうしたやりとりが発生するものなのだ。たくさん人を助けようとすれば、それだけいろんな方面から助けが舞い込んでくる。それが助け合いということだろう。そう都合よくはいかないかもしれないが、続けていけば可能性は高くなる。

「他人よりもまず自分」と信じていた頃にイメージしていた自分の救いのあり方というのがある。しかしそれも時間の経過や努力を通じてしだいに変化していく。「これがああなれば自分は救われるのだ」と思い込んでいた解決の場面が実際には現実離れしているということがだんだんとわかってくることもある。現実離れした目標に向かって突き進むことこそ、悲劇の正体でもある。自分がどうなれば救われたことになるのか。その判定は思ったほど単純ではなく固定的でもない。
今、善意のプレゼントが全国の人々に伝染しているが、人間には「善いことをしたい」「誰かの力になりたい」という気持ちが本能として備わっているのではないだろうか。他人のためにやってあげることが、自分のためになる。他人が救われることが自分の救いとなる。そういうのは理想に聞こえるかもしれないけれど、何度も繰り返しイメージすることで理想も現実になるということを信じたい。
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人間だけに備わった「信じる力」の実力
2011/01/09(Sun)
湧き水をもらいに神社へ行く。順番を待つ間に絵馬を眺めていると、沢山の頼みごとの中に「合格ありがとうございました」というお礼の内容を見つけ、すがすがしい気持ちになる。
自身で努力もしたろうに、結果がよかったのを神仏のおかげとする。そこに心のゆとりが感じられる。力を発揮して努力できるのも、神仏のおかげ。何かに守られているんだなあという安心がそこにはある。

神仏を心の支えとするのは弱い人間のやることだという意見があるらしい。自分の力だけでやり遂げるのが本当に強い人間だという。しかし神仏の力をかりることで常識では考えられない偉業を成し遂げるということも人間にはある。信仰というのは動物にはない、人間だけに備わった高度な能力の一つだともいえる。病気や緊急の負傷でいよいよのときには信心のある人々のほうが忍耐をもって無事に切り抜ける強さがあるとも聞く。ふだん信心がない人でさえ、最終段階では神仏を心に思い浮かべない人はほとんどいない。信仰の力、信念の力というものをあなどるわけにはいかない。

日本ではキリストの生誕、クリスマスを祝い、正月には神社仏閣をお参りし、夏には灯篭流しをし、受験にはお札やお守りを持つことに抵抗はみられない。ごちそうを食べたり酒を飲んだりするチャンスだったり、賽銭箱には小銭を投げ入れ、受験ではお守りを持つのが形式的な行動としてしぜんに受け入れられている。しかし宗教についてのとらえ方、宗教観となると、宗教のことは苦手ということをきく。「宗教にはだまされないように」という警告は、じっさいに宗教集団をかたって人をだます事件が起こるからだが、宗教のことがよくわからずに本物とニセものとの区別をつける判断があやふやなことが、ねらわれる原因の一つなのだろう。

「イワシの頭もなんとやら」といわれるが、いつまでもイワシの頭ばかり拝んでいるわけにもいかない。自分の強み、支えとなるだけの信心はお金では買えない。きっかけはイワシの頭だとしても、少しずつでもほんものへと近づけていく努力が必要となる。自分の感覚を研ぎすませ、自分の信仰をより本物へ本物へと近づけていくしか方法はないものと思われる。
病気が治る人と治らない人とを見ていくと、人間だけに許された、この「信心」の差もあるように思えてくる。自分の体の持つ力を「信じる」か「疑うか」。自然の力、生命力というものをどこまで「信じきれるか」。自分の感覚やカンを「信じられるのか」。そして、信念を養うために、どれだけ情報を集め、勉強し、判断するか。「信じる力」が育っていない未熟な状態では疑いばかり、迷いばかりで、いつも不安でいっぱい。うまくいくところさえ、うまくいかなくなる。健康には信心も大きなポイントだ。そう思う。
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人間にはよく効くんだけどネズミには効かないんだ…。
2011/01/08(Sat)
「国が決めた手続きをふんでいるから安全だ」という意見と「人間と動物とでは作用がぜんぜん違う」という意見。どちらも専門家の意見だ。
新聞にはネズミで効果があったという記事がよく載るが、自分が薬剤研究の開発者であったら…人間の薬をつくるためには、まず動物に効果のある物質を見つけたりつくったりしなければならない。それが制度というものなのだ。

物質には4つの場合が考えられる。①動物にも人間にも益がない物質。②動物には益があり人間には益がない。③動物には益がないが人間には益がある。④動物にも人間にも益がある。
今の薬剤の開発では動物実験が第一ハードルだから、④のみが認められるというわけだ。しかもおかしなことに、動物実験をクリアーした合成物質のほとんどは認可が下りるという。動物に効く物質は人間にも効くというのが自然界の常識ということなのだろうか…。
ところでこんな説明もある。動物実験をクリアーした段階ですでに開発費用は莫大なものとなっているというのだ。動物実験を合格した後になって、じつは②動物には益があるが、人間には益がない。それどころか人間にとって将来的に何らかのマイナス作用もありうるなどということになっては、企業の経済が成り立つはずもないのだ、と。

「人間と動物とでは、体のはたらきも、薬剤の作用も、ぜんぜん違う」と主張している専門家たちは、動物実験の代用として、人間の細胞を使用することを提案している。これはもうずいぶん昔からある主張で、別に新しいものでもなんでもないが、動物のほうを信じるか、人間の体の一部のほうの反応を信じるか、これは意見が分かれるところだろう。
沖縄出身の方で、赤ちゃんのころに人間の目薬をさすべきところを、まちがって動物用の目薬を使われて失明なさったという実体験もある。日常生活のあらゆる面で化学物質がどんどん送り込まれてくるが、安全性については動物実験合格をアリバイにしているにすぎない。そこ一つがこわれれば、安全性には何の根拠もないのである。ここは一人ひとりが自分の体や命のことを考えてじっくり判断し、自分で対策をとれるいくつかの選択肢も含めて行動方針を決めたいものだと思う。
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平和な歌詞とメロディーから伝わってくるものは。
2011/01/02(Sun)
ルイ・アームストロングの歌うWhat a wonderful world(この素晴らしき世界)が流れてくると、平和な歌詞からかえって生きる苦しみや悲しみが伝わってくるような気がする。太くてかすれた声を、絞り出すようにして曲が歌われる間は確かに世界は平和だろうと思う。しかしこの曲を聞くたびに感動する本当の理由は、世界が平和ではないところだからなのかもしれない。
キリスト教に言わせれば人間は罪人だ。仏教においては人間は果てしなく間違いを繰返し、生きる苦しみのシステムから抜け出せない。宗教は私たちのこの世界ありのままを素晴らしいとは言わない。

キリスト教では人間第一号のアダムとイブが禁断の実を食べたのが罪の発端とされる。labor(レイバー)という単語には「苦役、労働」と「陣痛」という二つの意味があるが、まちがった行動の罰として、人間は額に汗して働かなければ食っていけなくなったし、お産のときに大きい苦痛を伴うようになったといわれる。
人間に向けられる目の厳しさという点において、仏教はキリスト教のさらに上をゆくかもしれない。
仏教では時間の考え方からして違う。キリスト教には始めがあり終わりがある。仏教では無始の昔、無終の未来つまり始めもなく終わりもない。永遠の時の中で私たちは気の遠くなるほど生き直しを繰り返し、生きる苦しみを受け続け、何度も死に直しをしている。今の自分が不幸で、身に覚えのないほど不当な境遇があるとしたら、それは無始の昔から今日まで繰り返してきた生き直しの人生の中でおかした行いのツケを払わされているということだ。誰のせいにもできないし、何のせいにもできない。
この世に今自分が生きているということは、まちがった行いを繰り返してきたからである。ブッダはまちがった行いをやめて、生きる苦しみの続く輪廻システムから抜け出す方法があると言った。キリスト教にはものごとを仕切ったり取り決めをする親分のような存在がいるが、仏教の輪廻システムは誰が操っているのでもない。ただそういうシステムがあるというだけだ。そこにとどまるも、そこから抜けるも、自分次第。

宗教は自虐的。そういう意見もある。人間の弱点をついてくるから、意地の悪い目で見られているようで腹が立つ。指摘に耳を傾ければ心当たりもないわけではない。だから腹も立つし不愉快にもなるのではないか。
「いかに自分たち人間は素晴らしく、この世は素晴らしいか」に焦点がしぼられている映画やテレビ番組には自分はどうも落ち着かなくなる。「人間最高」「人類バンザイ」を否定する気もないけれど、キリスト教的な人間観や仏教的な人間観・生命観も、否定できない。人間をどう見てどう考えるかについては、いろんな考えの枠組みを知っておくのもわるくない。人間を観察し、考察する視点を与えてくれるからだ。耳に痛い話もよく聞いて、よく知っておこう。そう思う。
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この世に自力で生まれてきたのではないように
2011/01/01(Sat)
「自分の力で生きていく」と肩ひじ張っていた頃は孤独感にさいなまれたが「何ものかのお力で生かされている」と感じるようになると孤独やさびしさが感じられない。
過去の自分が今の私の姿を見たら「情けない。ヤキが回ったね」と軽蔑まじりに嘆くだろうか。現在自分がこんな気持ちで過ごしていられるのは自分でも意外なような感じがしている。

生まれるときに自分の力で生まれてきたのではないように、自分がこれまで生きてきたのだって自分で生きてきたようにも思われるけれども、振り返ってみれば自分の努力などというものは、やったうちにも入らないような微々たるものでしかなく、自分にもともと備わっていた力の働きであったり、自分の気づかないところでの自然の働きとでもいうようなもののほうが大きかったように思う。いちいち「自分で生きる」と目くじら立てて騒がなくてもよかったようなものだった。
一日の始まりは「お早うございます。今日も何事もなく過ごせますようお願いします」。
一日の終わりには「おかげさまで本日も何事もなく過ごせましたよ。ありがとうございます」。
そんな気持ちで頭を下げる。すなおに頭を下げることができるとスッキリする。一体何に頭を下げるのかというと、それはちょっと具体的には説明しようのないものだ。しかし「自分で生きてゆくのがあたりまえ」という切羽詰まった感覚に比べ、「いつも生かされている」というのは安穏であり、気持ちにゆとりが生じる。誰に助けてもらえるというわけでもないのだが、それでも何か目に見えないものの働きがいつも自分の味方となって、ついていてくれる感じがし、腹を据えて頑張る気にもなろうというものである。
そういう働きをするもののことを、自然といってもよいだろうし、生命力といってもよいだろうし、宇宙エネルギーや神仏といってもよいだろう。とにかく自分が生まれて生きているということの中には、目に見えない力の働きが大きい。それは確かなことだ。そしてこちらで頼みもしないのに、力をかしてくれているのである。

私の感じているこうしたものの働きを、単なる気のせいと言うこともできる。それで一向にかまわない。それどころか気のせい、気分的なもの、心理的なものの働きはあなどれない。大したものなのだ。単なる気のせいや気分的・心理的なものの力の働きを、どうやったら最大限に増幅することができるのか。それは生きる上で最も重要なテーマの一つだと思われる。

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
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