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生きものとしての「ふつう」とわたしの「ふつう」
2010/10/21(Thu)
「生活の中味がおかしい。それがすべてだ」そう言われ、「生活って言われても…わたしの生活って、ふつうだよ?」きょとんとするしかなかった。操体法を初めた頃のことだ。

「ふつう」って何だろう。自分の身の周りにいる人たちの、大多数の人の生活が、大多数の考え方が、自分にとっての「ふつう」で「標準」で、だから「安全」だといつの間にか思い込んでしまう。「あたしはふつうよ。だってこれってテレビでも本でも言ってるし。だれだってわかるふつうのことじゃないの」。
日本で起きていることを考えてみる。一番身近な例で、食べもの。身土不二、全体食という考え方がある。身近な土地でとれた、季節にあったものを、全体丸ごと食べるというのは、すべての生きものにとって自然のことであり「ふつう」のことである。ところで日本は最も大量に食べ物を輸入して暮らしている国の一つ。加工食品も多く利用されている。これが「ふつう」になっているということが、どれほど不自然なことか。もう私たちにはわからなくなっている。

化学薬剤を世界一大量に消費する国としても日本は目立っている。医療費は国防費の3倍ともいわれる。この国で「わたしはめったに病院には行きません」とか「めったに薬は飲まない」とか言ってみても、すでに私たちは他の土地の「ふつう」とは比べものにならないくらい病院に足を運び、薬を口にしているのかもしれない。しかしそれももう自分たちではわからなくなっている。体を動かす場を失ってしまった私たちの日常の生活。今の私たちの「ふつう」の中味はどうなっているだろう。

現代社会のかかえる問題は、私たち全員が、目に見えるもしくは目に見えないかたちで引き受けている。それが自分たちの日常生活だと私は考える。誰かだけが他の人よりもこれらの危険をうまく免れるというような、そんなことはまず、ないことだろう。「ふつう」であるということが安心材料にされやすいお国柄だから、「ふつう」ということが自分の生命にとって、自分らしく、生き生きとした生き方にとって、最も危険なことになることもあろうとは想像がつきにくい。高度経済成長が始まるか始まらないかの日本に私は生まれ育ち、当時の暮らしの手触りや肌触りを感じられたことは私には救いだ。辺境というものにあこがれを抱いた時期もあったが、どんな辺境の地にだって合成洗剤とコカ・コーラと化学調味料はまんべんなく浸透していると、その筋の人々から聞いたとき、この世に逃げ場はないと観念した。逃げ場はないと観念した上で、それでもラクを追求する。こんなせちがらい時代に、こんなせちがらい社会で、息をつまらせることもなく、生きものとしての自分がどのくらいゆうゆうと生きていられるものだろうか。実験のつもりで過ごしたい。
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