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生活の中味がおかしい。たったそれだけのことだった。
2010/10/20(Wed)
食べる前には胃薬を、酒の前には酔止めを飲む。小さなゴマカシは人の常。ちまたの健康法も胃薬や酔止めに似て、罪ほろぼしのようでもある。しかしほろぼせない。ゴマカシがきかない。それも自然法則というものだろう。

「食べ過ぎているつもりもない。生活もとくにそう悪いところもないはず。体には気をつけているつもりだし。なのにこんな病気になるとは・こんな痛い目にあうとは・こんな不自由を耐えなければならなくなるとは、まったくもって、この世は不当。けしからん!」。
不都合が生じれば感情にとらわれる。「こんな目にあうだけの罪をおかした覚えはない!わたしは無実だ!」。それが本当ならば、これほどくやしいことはなかろう。無実の罪で罰されるのは誰にもガマンならないことだ。「年が年だから」「生まれつき弱いから」「不運だから」とため息をついてみても、なかなかあきらめきれない。

目の前をいろんな人が通り過ぎてゆく。通り過ぎてゆくのは人のさだめだ。他人のことは見える。それを自分にあてはめてみて、どこがちがうか。程度に多少のちがいはあれども同じ失敗をおかしている。
「ごまかしてるつもりでも、やっぱりダメなんだなあ。たいしたもんだ自然法則は。ごまかせないもんよなあ」。自然法則の前には誰もが降参するしかない。よくよく見てみれば誰ひとりとして不当な目にはあっていない。だから、どん、と受け止める。そうすればビクビクする必要も腹を立てる必要もなく、スネる必要もない。不安になることもない。
苦しいということは不自然ということ。具体的には生活の中味がどこかおかしいということ。たったそれだけのことだ。少なくとも自分の場合はそれがほとんどすべてといっていい。健康状態も精神状態も、自分の日常生活の通信簿。改善するかしないか、それは自由。自分である程度わけがわかっていればそうまで苦しむこともない。そしてつねに改善の余地は残されている。それはむしろありがたいことだ。

「生まれついたときから死ぬ瞬間まで、わたしは健康で楽しく生きられるようにつくられている」。
橋本敬三先生の著書で、そういう考えがあると初めて知った。知ったは知ったが、その時はとまどっていた。「人生そうそうおめでたくできてるものではないヨ」という気持ちを持ったのをおぼえている。
それが心のどこかで「どうもそうらしいな」と思えるようになってきたのは、いつごろのことだったか。自分でも気がつかないうちに、そんなことを思うようになっている。それが自分の楽天的な部分を支えてくれている。年をとっていこうとも、体が生まれつき弱かろうと不運だろうと、そういう条件のようなものとは一切関係のないところで、健康で楽しく生きるということが保証されていると、無条件でそう思えるというのは、とても心強いことだ。操体法が、そういう考えから生まれてきたものであるということが、自分にとってほんとうに幸いであったと、今ごろになってあらためて思う。
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