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頭をカラッポにするのが力強く健康に生きるカギだという
2010/10/12(Tue)
里イモ好きの坊主がいた。里芋は里芋でも親イモの「いもがしら」で、どのくらい好きかというと師匠が遺した金と建物が全てイモ代に消えた。そのくらいのイモ好きである。仏典の講義をするときはイモを盛った大きな鉢をそばに置き、病気をすれば部屋で好きにイモを食べて過ごして万病を治す。しかしただのイモ食い坊主ではなく、顔立ちは立派、体力も抜群。書道や学問、弁説なども他の僧侶よりはるかに抜きん出ている。そして世間の目を一切気にせず、万事が気まま。食事時間も回数もいつとは決めず睡眠も好きにする。どんなに大事な用があっても人の言うことは聞き入れない。いく晩も寝ずに詩歌を吟じて外を歩き回るなど、行動が普通とは思われず、食事の席では全員に行き渡る前でも平気で食べ始め、帰りたくなったら勝手に帰る。それでいて周囲には嫌われず、尊敬されていたというから大したものだ。徒然草第六十段に登場する真乗院の盛親僧都の話である。
つくり話だろうが、スケールの大きさは違っても似たような人物はいる。このような魅力のある人物像は想像もつくし、操体法を継続して似たようなことになっても不思議ではない。文部科学省や厚生労働省の描く筋書きではこのようなタイプの人間像はとうていありえない。

こんな僧侶が近所にいてくれたら、それだけで気を大きく持てるような、安心を得られるような感じがする。何も気にしないということが、この僧侶の一番の魅力だろう。「気にするから病気になる」という考えには私は賛成だ。「気にする」のはストレスで、ストレスが心にも体にも最もわるいとなれば、「健康のために気を使う」というのは最大の矛盾である。「健康のために」と頭で考えて行動することの裏をかえしてみれば、「こうしなければ健康がそこなわれる」というおびえがある。「自分の体はダメになる」という悲観的でマイナスの思い込みが、そこには感じられるのである。
しかし「気にするから病気になる」と言うその舌の根も乾かぬうちに、「食べるものには気をつけています」「一日三食、朝飯しっかり」などと平気で言う。くしゃみ一つで「インフルか」。手洗いしないと疫病が心配で、少々の腹痛は「盲腸か胃潰瘍か」となる。大いなる矛盾だが、これがふつうの人間だろう。「一切合財からだのことは気にしない」というのは自分のような凡人にはまずむずかしい。とくに中高年にもなれば気になるところの一つや二つはあろうというもの。だからこそ、いかに気にせず生きられるかについては大いに気にする。なぜなら私は気休めをしたいわけではないからだ。納豆やバナナをオマジナイに食べ、テレビや人の言うことに振り回されたくはない。気休めていどの健康法・養生法なら掃いて捨てるほどあるが、そんなものが通用しないところに行き着くのは時間の問題。考えるまでもない。

それほど健康のことにこだわる必要はないのだが、これは健康というよりも生きる充実の問題だろう。いずれ消えてしまう命にしがみつきたくはないが、「今、ここ」で生きているという実感のことを私は思う。一切合財なにも気にしない・なにも苦にしないという境地が自分の本当の理想ではないかと考える。
私はものごころついた時からアレルギー対策があり、食事の改善がスタートかつベースだった。そこにヨガや真向法や、体を動かすことを足すうちに、操体法がメインという流れができた。食事をメインにしていたころは食べることに意識が集中し、その副作用で過食と拒食を行ったり来たりする不自然な食だった。「頭で理解しても体はうまくいかない」というが、頭で理解したことが本当に体に通用するのかどうか、まったくもってあやしい。不自然な強制はいつか実行不能に陥る。陥らないとしても無理を重ねてストレスになる。自分の中の我慢大会で、自分の欲を克服することに喜びを感じ、誇りを感じるという具合。今の自分の理想は、意識の中にわざとらしいものが一切なくなるということ。操体法をメインにして以来、食べることにはさほど気にしないというのが自分の意識である。さほど気にしないでも体がきちんとやってくれるようになった。頭のほうはいらないというのが答えらしい。そうは言うものの、健康に対する無頓着と元気はつらつの両立は、今後も自分の課題であり続けるだろう。
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