するか。しないか。それを決めるのは自分自身の大切なしごと
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2010/10/29(Fri)
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「毒性物質なら食品への使用が禁止になるはず。認可されているなら安全なはず。おかしいですよ」という意見に、「おかしくないんですよ、それが」。食が話題になるとこんなやりとりになる。
毒性があるか・ないかを指摘するのは毒物の専門家の立場で、毒物を避けたいというのは消費者の立場だろう。しかし食品を生産・製造・流通・販売するそれぞれの立場からすれば、別の判断と決定もありうる。もともと相反する立場の、これら多数の意見を総合し、全体的に、つまり現実的かつ大まかな判断をするのが国の行政の立場である。毒性を回避して生きていく方針と反する決定が下されていても、べつにおかしくはない。むしろ当然といえるのかもしれず、そこに腹を立ててみてもキリがない。しかしたいていの場合、人は忙しいので面倒を避け、これら全ての立場をごちゃまぜにする。自分もみんなもいっしょのつもりだから「おかしいですよ」などと平気で、言う。裏返せば「国がいいと言ってるんだから、いいことなんじゃないの」「ちゃんと認可もされているんでしょう? じゃあそれでいいと思うわ」ということにもなる。 インフルエンザの予防接種は「根拠がなく危険だ」と訴えている人々と、「最も安全に生きる方法だ」と訴えている人々とが、いる。二つの内容は相反している。「つまり私たちはどっちにすれば、いいんですか?」と言いたくもなる。 現状は、「インフルエンザの予防接種はよいことなのでみんな受けなさい」というメッセージだけが全国にだらだらと流されている。テレビや新聞もそのまま従って「予防接種は受けたほうがぜったいに、いい」と言いきっている。しかし、した方がいいか、しない方がいいのか、その判断と決定をするのは国でもメディアでもない。 仮に、インフルエンザの予防接種が生命の維持には大いに有効だとしよう。だからといって「それじゃあ全員に予防接種すればいいことじゃないか」と行政が個人になりかわって決定を下せるものだろうか。逆に、インフルエンザの予防接種が愚行に他ならないのが事実だとしよう。誰も受けたいとは思わなくなるような事実があるとしても、それでも「予防接種をしたい」という気持ちを持つ人はいるかもしれない。事実を知らせるのは大切なことだが、判断と決定に他人が踏み込むことは本来、誰にもできないのではないか。 予防接種のPRやガン検診のおすすめキャンペーンが盛大に行われている。どのような立場から出されているメッセージなのか、立ち止まって考える人は少ないし、おせっかいだ耳ざわりだという話もとんと聞かない。自分たちのことを思いやる、親切なサービスだ、大いにけっこうなことだと思われているのかもしれないし、自分とは関係ないことだと知らんふりされているのかもしれないが、した方がいいか、しない方がいいのか、その判断と決定については人それぞれの生き方だ。答えは決して一つではない。 「ああしろ」「こうしろ」と言われるのが何よりも嫌いな私だが、自分が「よい」と思ったことはみんなにもよいことなんだとつい思うこともある。しかし他人になりかわって失敗の責を負うことができない以上、判断と決定の領域には誰も踏み込めない。たとえ専門家だろうと国家だろうと口をはさんでよいものではない。 周囲の目を気にして遠慮して、人の意に沿うようにと考えて行動しても、ほうびをもらえるでなし、ほめられるでなし、出てきた結果は自分がかぶることにかわりはない。人の親切なアドバイスはうれしくとも、それを受け入れるかどうかの判断は、相手への感謝や遠慮とは少し距離を置いた方がいい。とくに健康や病気の問題については、出てきた結果を誰か他人に肩代わりしてもらうわけにはいかないのだから、ここはぐっと自己責任で踏ん張りたいものだ。 スポンサーサイト
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生きものとしての「ふつう」とわたしの「ふつう」
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2010/10/21(Thu)
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「生活の中味がおかしい。それがすべてだ」そう言われ、「生活って言われても…わたしの生活って、ふつうだよ?」きょとんとするしかなかった。操体法を初めた頃のことだ。
「ふつう」って何だろう。自分の身の周りにいる人たちの、大多数の人の生活が、大多数の考え方が、自分にとっての「ふつう」で「標準」で、だから「安全」だといつの間にか思い込んでしまう。「あたしはふつうよ。だってこれってテレビでも本でも言ってるし。だれだってわかるふつうのことじゃないの」。 日本で起きていることを考えてみる。一番身近な例で、食べもの。身土不二、全体食という考え方がある。身近な土地でとれた、季節にあったものを、全体丸ごと食べるというのは、すべての生きものにとって自然のことであり「ふつう」のことである。ところで日本は最も大量に食べ物を輸入して暮らしている国の一つ。加工食品も多く利用されている。これが「ふつう」になっているということが、どれほど不自然なことか。もう私たちにはわからなくなっている。 化学薬剤を世界一大量に消費する国としても日本は目立っている。医療費は国防費の3倍ともいわれる。この国で「わたしはめったに病院には行きません」とか「めったに薬は飲まない」とか言ってみても、すでに私たちは他の土地の「ふつう」とは比べものにならないくらい病院に足を運び、薬を口にしているのかもしれない。しかしそれももう自分たちではわからなくなっている。体を動かす場を失ってしまった私たちの日常の生活。今の私たちの「ふつう」の中味はどうなっているだろう。 現代社会のかかえる問題は、私たち全員が、目に見えるもしくは目に見えないかたちで引き受けている。それが自分たちの日常生活だと私は考える。誰かだけが他の人よりもこれらの危険をうまく免れるというような、そんなことはまず、ないことだろう。「ふつう」であるということが安心材料にされやすいお国柄だから、「ふつう」ということが自分の生命にとって、自分らしく、生き生きとした生き方にとって、最も危険なことになることもあろうとは想像がつきにくい。高度経済成長が始まるか始まらないかの日本に私は生まれ育ち、当時の暮らしの手触りや肌触りを感じられたことは私には救いだ。辺境というものにあこがれを抱いた時期もあったが、どんな辺境の地にだって合成洗剤とコカ・コーラと化学調味料はまんべんなく浸透していると、その筋の人々から聞いたとき、この世に逃げ場はないと観念した。逃げ場はないと観念した上で、それでもラクを追求する。こんなせちがらい時代に、こんなせちがらい社会で、息をつまらせることもなく、生きものとしての自分がどのくらいゆうゆうと生きていられるものだろうか。実験のつもりで過ごしたい。 |
生活の中味がおかしい。たったそれだけのことだった。
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2010/10/20(Wed)
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食べる前には胃薬を、酒の前には酔止めを飲む。小さなゴマカシは人の常。ちまたの健康法も胃薬や酔止めに似て、罪ほろぼしのようでもある。しかしほろぼせない。ゴマカシがきかない。それも自然法則というものだろう。
「食べ過ぎているつもりもない。生活もとくにそう悪いところもないはず。体には気をつけているつもりだし。なのにこんな病気になるとは・こんな痛い目にあうとは・こんな不自由を耐えなければならなくなるとは、まったくもって、この世は不当。けしからん!」。 不都合が生じれば感情にとらわれる。「こんな目にあうだけの罪をおかした覚えはない!わたしは無実だ!」。それが本当ならば、これほどくやしいことはなかろう。無実の罪で罰されるのは誰にもガマンならないことだ。「年が年だから」「生まれつき弱いから」「不運だから」とため息をついてみても、なかなかあきらめきれない。 目の前をいろんな人が通り過ぎてゆく。通り過ぎてゆくのは人のさだめだ。他人のことは見える。それを自分にあてはめてみて、どこがちがうか。程度に多少のちがいはあれども同じ失敗をおかしている。 「ごまかしてるつもりでも、やっぱりダメなんだなあ。たいしたもんだ自然法則は。ごまかせないもんよなあ」。自然法則の前には誰もが降参するしかない。よくよく見てみれば誰ひとりとして不当な目にはあっていない。だから、どん、と受け止める。そうすればビクビクする必要も腹を立てる必要もなく、スネる必要もない。不安になることもない。 苦しいということは不自然ということ。具体的には生活の中味がどこかおかしいということ。たったそれだけのことだ。少なくとも自分の場合はそれがほとんどすべてといっていい。健康状態も精神状態も、自分の日常生活の通信簿。改善するかしないか、それは自由。自分である程度わけがわかっていればそうまで苦しむこともない。そしてつねに改善の余地は残されている。それはむしろありがたいことだ。 「生まれついたときから死ぬ瞬間まで、わたしは健康で楽しく生きられるようにつくられている」。 橋本敬三先生の著書で、そういう考えがあると初めて知った。知ったは知ったが、その時はとまどっていた。「人生そうそうおめでたくできてるものではないヨ」という気持ちを持ったのをおぼえている。 それが心のどこかで「どうもそうらしいな」と思えるようになってきたのは、いつごろのことだったか。自分でも気がつかないうちに、そんなことを思うようになっている。それが自分の楽天的な部分を支えてくれている。年をとっていこうとも、体が生まれつき弱かろうと不運だろうと、そういう条件のようなものとは一切関係のないところで、健康で楽しく生きるということが保証されていると、無条件でそう思えるというのは、とても心強いことだ。操体法が、そういう考えから生まれてきたものであるということが、自分にとってほんとうに幸いであったと、今ごろになってあらためて思う。 |
ただの健康法で終わらせるか。それ以上に高めていくか。
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2010/10/14(Thu)
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子どもの頃ヨーヨーが流行った。売場に立っているおじさんが次々と技を繰り出すのに引き込まれた。自分もこの世界、ほしい! 買わずにはいられなかった。
大切に持ち帰り、やってみると、果たしてうまくいかない。そんなはずはなかった。ついさっきまでヨーヨーは私のすぐ目の前で軽々と踊ってみせてくれていたのだから。 「このヨーヨー、おかしい」。売場に引き返しておじさんにうったえる。「どれ、かしてごらん」。具合のおかしかった私のヨーヨーが、おじさんの手の中でたちまち息を吹きこまれ、威勢よくぴんぴん飛び跳ねる。タネも仕掛けもない、単純なつくりのヨーヨー。講習で師匠の手本を見るたびに、私はふっと思い出す。 子どもの私はヨーヨーをすぐに放り出した。私の手にとられたヨーヨーは、息を吹き込まれることもなく捨てられ、忘れ去られていった。しかしヨーヨーのおじさんを見かけるたびに私の中に未練のようなものがむくむくとわいてくる。おじさんの周りにはヨーヨーに熱心な男の子たちが小さな集団をなしていた。その姿がまた私を引きつけた。自分でもどうしてよいのかわからないまま、その周囲をいつまでもうろついて離れられなかった。ヨーヨーという「物」がほしいのではなかった。ヨーヨーの技がほしいというのでもない。おじさんの手とヨーヨーとがとびきり親しい関係にあるということに、うらやむ気持ちと嫉妬のようなものを、私は感じていたように思う。男の子たちはヨーヨーを手放したりはしなかった。売場の周辺で過ごすうち、自分たちとヨーヨーとの関係が次第に高まっていくことを承知していて、そのためだったら何を犠牲にしてもかまわないというほどの熱中ぶりだった。彼らの中には売場を離れ、いつでもどこでもヨーヨーと自分だけの対話を続けてゆくことができるようになる者が出てくる。やがて売場では飽き足らなくなり、広い世界へと足を伸ばすようにもなる。 操体法の一つ一つの技を、ほんとうに自分のものにするのには時間もかかる。工夫も必要だ。「うまくいきません」と泣きをいれ、師匠にもう一度やってみせてもらうと、やすやすと技がかかる。うーんと首をひねる。その繰り返しである。 操体法は誰でもやっただけの効果はある。子どもでも大人でも老人でも病人でも、初めての人もそうでない人も、誰でも受け入れてくれるのが操体法のありがたいところだ。しかしこれをただの健康法の一つという扱いをするか、それ以上のものとして高めていくのかは、その人しだい。間口は広いが奥が深いのである。 |
頭をカラッポにするのが力強く健康に生きるカギだという
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2010/10/12(Tue)
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里イモ好きの坊主がいた。里芋は里芋でも親イモの「いもがしら」で、どのくらい好きかというと師匠が遺した金と建物が全てイモ代に消えた。そのくらいのイモ好きである。仏典の講義をするときはイモを盛った大きな鉢をそばに置き、病気をすれば部屋で好きにイモを食べて過ごして万病を治す。しかしただのイモ食い坊主ではなく、顔立ちは立派、体力も抜群。書道や学問、弁説なども他の僧侶よりはるかに抜きん出ている。そして世間の目を一切気にせず、万事が気まま。食事時間も回数もいつとは決めず睡眠も好きにする。どんなに大事な用があっても人の言うことは聞き入れない。いく晩も寝ずに詩歌を吟じて外を歩き回るなど、行動が普通とは思われず、食事の席では全員に行き渡る前でも平気で食べ始め、帰りたくなったら勝手に帰る。それでいて周囲には嫌われず、尊敬されていたというから大したものだ。徒然草第六十段に登場する真乗院の盛親僧都の話である。
つくり話だろうが、スケールの大きさは違っても似たような人物はいる。このような魅力のある人物像は想像もつくし、操体法を継続して似たようなことになっても不思議ではない。文部科学省や厚生労働省の描く筋書きではこのようなタイプの人間像はとうていありえない。 こんな僧侶が近所にいてくれたら、それだけで気を大きく持てるような、安心を得られるような感じがする。何も気にしないということが、この僧侶の一番の魅力だろう。「気にするから病気になる」という考えには私は賛成だ。「気にする」のはストレスで、ストレスが心にも体にも最もわるいとなれば、「健康のために気を使う」というのは最大の矛盾である。「健康のために」と頭で考えて行動することの裏をかえしてみれば、「こうしなければ健康がそこなわれる」というおびえがある。「自分の体はダメになる」という悲観的でマイナスの思い込みが、そこには感じられるのである。 しかし「気にするから病気になる」と言うその舌の根も乾かぬうちに、「食べるものには気をつけています」「一日三食、朝飯しっかり」などと平気で言う。くしゃみ一つで「インフルか」。手洗いしないと疫病が心配で、少々の腹痛は「盲腸か胃潰瘍か」となる。大いなる矛盾だが、これがふつうの人間だろう。「一切合財からだのことは気にしない」というのは自分のような凡人にはまずむずかしい。とくに中高年にもなれば気になるところの一つや二つはあろうというもの。だからこそ、いかに気にせず生きられるかについては大いに気にする。なぜなら私は気休めをしたいわけではないからだ。納豆やバナナをオマジナイに食べ、テレビや人の言うことに振り回されたくはない。気休めていどの健康法・養生法なら掃いて捨てるほどあるが、そんなものが通用しないところに行き着くのは時間の問題。考えるまでもない。 それほど健康のことにこだわる必要はないのだが、これは健康というよりも生きる充実の問題だろう。いずれ消えてしまう命にしがみつきたくはないが、「今、ここ」で生きているという実感のことを私は思う。一切合財なにも気にしない・なにも苦にしないという境地が自分の本当の理想ではないかと考える。 私はものごころついた時からアレルギー対策があり、食事の改善がスタートかつベースだった。そこにヨガや真向法や、体を動かすことを足すうちに、操体法がメインという流れができた。食事をメインにしていたころは食べることに意識が集中し、その副作用で過食と拒食を行ったり来たりする不自然な食だった。「頭で理解しても体はうまくいかない」というが、頭で理解したことが本当に体に通用するのかどうか、まったくもってあやしい。不自然な強制はいつか実行不能に陥る。陥らないとしても無理を重ねてストレスになる。自分の中の我慢大会で、自分の欲を克服することに喜びを感じ、誇りを感じるという具合。今の自分の理想は、意識の中にわざとらしいものが一切なくなるということ。操体法をメインにして以来、食べることにはさほど気にしないというのが自分の意識である。さほど気にしないでも体がきちんとやってくれるようになった。頭のほうはいらないというのが答えらしい。そうは言うものの、健康に対する無頓着と元気はつらつの両立は、今後も自分の課題であり続けるだろう。 |
頼りきる。信じきる。一切をまかせきる。
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2010/10/06(Wed)
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海のように広い心の持ち主で、山のようにふところの深い人。そんな人が実在するという話も聞く。自分は会ったことがなくて残念だが、海のように広い心は海にあり、山のように奥深いふところは山にあり、そのようなものを人間に求めるのは所詮無理があるのではないかとも思う。
本当のことをいうと私は自立は嫌いだ。最低限の自立の努力はするがそれは仕方ないからで、自立を誇りにする考え方もあるが、自分は全くそんなことはない。ものごころついた時にはすでに自分の心の底から頼れるもの、信じられるもの、自分の全てをゆだねてしまえるものを求める気持ちがあった。疑ぐり深い性格であるが、最近だんだんと、心の底から頼るべき、心の底から信じて自分の全てをゆだねてしまえる相手が見えてきたように思う。あとはそこに自分を投げ出すばかり。自分というものそのものが、もう私にはあまりいらないもののようにも思われてくる。 映画の世界では人間が心の底から頼れるのは人間という結論だ。人間でもとくに異性。男は素敵な女性を信じ、女はすぐれた男性に自分をゆだねる。異性への愛は人間崇拝である。人間、それが全ての答えだというのが映画の世界の約束事である。 しかし現実には人間というのはあてにならない。世の中には素敵な女性もすぐれた男性もあまたいるだろうが、人間は、弱い。弱いものであるがゆえに心の底から頼ってはならないし、心の底から信じてはならない。「人にたよっちゃダメ」とは子どもに言われるセリフの一つだが、「人にたよってはいけない」と口に出してとなえてみると、思い当たるふしがわいてくる。誰しも人にたよったおぼえがあり、助かった経験も苦い経験も両方あるにちがいないのである。 人間相手に全てをゆだねてしまっては自分もいつかは困るだろうし相手もはなはだ迷惑する。異性への愛、人間への賛美もいいけれど、人間とつきあっていくには相手への思いやり、手加減をつねに忘れてはならない。 人間弱いがゆえに誰しも何かの支えは必要である。自分でどうすることもできない危機にでも直面するとなれば、何かに頼り、支えてもらい、時にはすがるしかない。すべてのあらゆる人間が、多少は、弱い。弱いとわかっているのに頼るものを持たないとなれば、それは自立ではなくて単に危機管理ができていないということになりはしないか。 海のように広い心の持ち主で、山のようにふところの深い人。そんな人が実在するという話も聞くが、自分は会ったことがないから残念だ。しかし海のように広い心は海にあり、山のように奥深いふところは山にあり、そのようなものを人間に求めるのは所詮無理があるのではないかとも思うのである。 自分は妙なことにものごころついたときから大安心を求めていた。あれこれに振り回され、心がかき乱されるのが、自分は何より苦しいのである。お金や物質的なものは、何らかの条件のもとでなくなってしまう。そのような性質のものは自分の心の究極のよりどころにはならないというようなことを、どことなく感じていた。仕方なく人に頼る。とくに子どもにとって親は一番身近で頼りやすい。しかし全面的な依存は無理であるがゆえに、できるだけ人には頼りたくない。それでは何に頼ろうかということになる。 操体法を続けていて一番よかったことの一つは、自然に対して心を開くということが理屈ぬきでわかってきたということだ。広い心を求めて海にゆき、ふところの深さを求めて山に入るとしても、私にはそのやり方がわからなかった。単に山や海に足を運んだとしても、うれしくも何とも感じない。それほどまでに自分は自然と切り離されたところに位置しているのだった。自然の力に頼る・すがるというのは、原始人の時代のことであり、シャーマニズムに限定されると私は思っていたのだった。海や山はレジャーにはなるが、自分の私的で個人的な部分で、全面的に頼りにするというのは思いもよらなかった。嫌いな言葉の一つに「大自然に身をゆだねましょう」というのがある。「なんじゃそりゃ?」という違和感を今も感じはするが、自分の最近の実感をヘタに表現するならば、それに近い言葉になってしまう。 死ぬときは自然に身をゆだねたいというような話はよく耳にするが、人間も自然の一部だからといって、すぐにそんなことができるはずもない。自然に身をゆだねると言いながら延命措置から逃げ切れず、不本意な苦しみに耐えねばならない末期は数知れない。医者も弱みを持つ人間である以上、自分の身も心も投げ出すべき相手ではない。それでは自分も困ることになるし、医者もはなはだ迷惑することだろう。 |
足の指のエクササイズと内臓のはたらき
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2010/10/03(Sun)
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足の指を動かすのがもともと得意でない。それがどうしたと言われそうだが事は簡単ではない。思いどおりに動かない人もいれば最初から動きのよい人もいる。その差はどこかでつくられているはずである。
動かそうと思ったとおりに足指が動くには、その動きに関わる筋肉たちがきちんと連携して動いてくれればよい。動きが思うようにいかない場合、どこか筋肉の状態に問題があるか、筋肉どうしの協力や連携のほうに問題があるか、その二つが考えられるだろう。 腕でもいい、脚でもいい。筋肉をさぐっていくといろんな手ごたえと感覚とがある。柔らかなところや筋張ったところ、硬いかたまりのようなところもあり、硬いところを押すと痛かったりもする。硬く固まったところは「コリがある」ともいう。柔らかなところは伸び縮みしやすく、硬いところは伸び縮みしにくい。動きにくい状態である。そのようなコリが、さまざまな関連により動きを制限している可能性はある。 また、血管や神経は体中に張りめぐらされている。筋肉線維の中にも髪の毛より細い神経線維がうじゃうじゃと網目になって入り組んでいる。柔らかな筋肉に通っている神経の働きと、硬く縮んだ筋肉に通っている神経の働きとに、ちがいはあるだろうか。 赤ちゃんや幼児の体は弾力があって柔らかい。子どもの動きはちゃかちゃかして機敏でもある。新体操では十代がピークであり、二十代ともなるとパフォーマンスにキレがなくなってしまう。年をとるにつれ体は硬さを増してゆき、動きは鈍り、腕の上げ下ろしさえ多少の不自由を感じて驚いたりもする。 筋肉の弾力性と動き(筋肉の状態と神経の働き)には大いに関係があるといえるだろう。筋肉の弾力性と神経の働きに関係があるならば、神経が内臓の働きに関わることを考えて、筋肉の弾力性は内臓の働きにも影響するとも言える。つまり、[体の動きが思わしくない→その動きに関係する筋肉の状態が思わしくない→その筋肉に関係する神経の働きが思わしくない→その神経に関係する内臓の働きが思わしくない]という関係が成り立つ。 また、この関係により、動きを改善すれば筋肉の状態が改善され、その筋肉に関係する神経の働きが改善されることにより、関連する内臓の働きも改善するということも成り立つ。 これは仮説である。理屈は難しくはないが、科学的な研究がとぼしい分野だから、あとは自分か他人の体験によって検討するしかないだろう。橋本敬三医師は筋肉の状態(コリ)が万病のもとという考えで97歳まで操体法を実践し、まちがいないと確信をした。操体法を実践し続けている人の中にもそのことに確信を持つ人は少なくないだろう。 さいごになるが、足指の動きを確認するやり方の例を挙げておく。筋肉と神経と内臓の働きをワンセットで考え、動きの改善でそれらがどう変化していくか、関心がある方は試していただきたい。少しずつやってみて気長に取り組むことをお勧めする。[床に座る+足指を5本そろえて反らせる]から確認していくとよいと思う。左右の足で違いが出るなど、自分の体のクセやその変化もわかってくるとさらに面白い。 姿勢は①床に座る、②仰向けに寝る、③うつ伏せで寝るの3つが考えられる。 足指の動かし方は①5本ともそろえて反らせる(背屈の動き)、②親指のみ背屈で残りは背屈と逆に折り曲げる動き(底屈の動き)とする、③親指のみ底屈で残りは背屈の3通りが考えられる。 (1)床に座る場合、片方の膝を曲げて立てておき、足の指を動かしてみる。左右の足で確かめる。足の指の付け根あたりを床に押しつけながら足指を上げていく感覚でやるとやりやすい。目で見て確かめながらできるので、一番やりやすい。 (2)仰向けに寝る場合、脚をまっすぐ投げ出しておいて足の指を動かす。足指の動きにつられて足首まで反らないように気をつける。(1)で足指の付け根を床に押し付けた感覚を思い出しながら行うとやりやすい。足首のほうに、反るのとは逆の動きが伴うことがあるが、これは許容される。 (3)最も難易度の高いのは一般にいうと、うつ伏せの姿勢のときである。うつ伏せで寝て、片足だけ膝を曲げて行う。足指の動きにつられて足首が反ってゆきやすく、自分でもよくわからないことが多い。 |
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