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一番おいしいラーメン、一番おいしいビール、一番おいしい…?
2010/08/29(Sun)
ここ2年ほどうまいビールを探していた。素材がいいのは最低条件だが、追求してゆくとキリがない。最高においしいものがどこかで自分を待ってくれている。そんな気持ちにもなる。
キリがないということは、最高の座に就くものが固定しない、手を変え品を変えしていないと座が持たないということである。変化というだけでもおいしい。飲み始めの頃はそこそこうまい。続けて飲んでいくうちにさほどではなくなる。それでも続けていると飲めなくなる。見るのも苦痛になる。

銘柄Aを数ヶ月愛飲していたのが銘柄Bに出会って飲み比べると、こんなだったろうかとあきれてBに切り替える。Bが一番と思って愛飲するうちに感動もうすれ、一口も飲めないというところまで行きつく。そのとき元のAを試しに飲むと、そうまずくもない。味覚ほどあてにならないものはないと痛感する。
旅先で、地元の福岡で見かけることのない銘柄Cを見つけた。三日間控えていたが飲んでみることにした。近所の荒物屋でグラスを入手して、人気のない公園で飲む。ビールとはこんなにおいしい飲み物であったかと目をむく。翌日も同じ店でCを買い求め、グラスに注ぎ、飲んでみる。首をひねる。昨日と同じではない。こんなはず、ないがなあと思ううちに、一缶空いた。これを自宅で飲んだらどうなるか。福岡に戻ると早速ネットで入手。口にした途端、強いホップの香りが鼻をつく。飲み下すと、きつい香りである。味じたいは軽い。軽すぎる。こんなもの、どうしたらうまいと感じられるのか、皆目わからない。

最高においしいものが、どこかで自分の発見を待ってくれているというのは幻想で、おいしいものがあるのではなく、おいしく感じる体の条件がどれだけ備わっているか、それが問題なのではないか。
「どこで食べやめたらよいのかわからなくて、気がつくと苦しくなるくらいにいつも食べ過ぎてます」
そんな相談を受けたとき、ふと、おいしいうちは食べていいんじゃないかと思った。
「一口、二口は、何だって、おいしい。でしょう? でも食べ進んでいくうちに、もうおいしいとかおいしくないとかはどうでもよくなるんじゃないでしょうか。よく噛んで、よく味わっていけば、味が落ちてきて味がしなくなったことに気がつくでしょう。味がしなくなったら、もう食べ続ける意味はなくなっていると思いますよ。もっとグルメになればいい。おいしいと感じるものしか食べる価値はない、と澄ましていればどうですか。おいしいと感じなくなったら、食卓をさっと離れる。食事も後半ともなれば、残ったものをぜんぶ腹の中におさめなきゃ、くらいの感覚で放り込んでいる。食べたいものを好きに食べたら、余るものは勝手に余らせておけばいい。余った分は山の生きものにささげるとか穴を掘って埋めるとか、もっといいのは作り過ぎないということです。捨てていくうちに、だんだんと余らせないくらいの分量もわかってきますよ。食べ物を捨てるというのは後ろめたいことですからね」。
酒も味がしなくなったら、おしまいだ。飲み食いにこだわってもしかたない。やっとあきらめがつきそうだ。
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死にぎわのことを、自分で、きめる。
2010/08/26(Thu)
小学高学年の頃、いつやってくるかわからない「死」に支配されるのがイヤで、死ぬ時は自殺と考えた。しかし死んだ姿を人目にさらすと思うといたたまれない。それなら庭に放し飼いにしていた猫たちのほうが、よほど立派なように思われる。死ぬべき時を悟ると、誰にも見つからない死に場所を見つけ、誰にもさまたげられることなく一人でひっそりと、死ぬ。そういう死に方は、子どもの自分にも納得できた。

わたしは不安定で体調も急変する子だった。子どもが右へ左へと変化するのにあわせて親も右往左往するので、近所の行きつけの病院では小児科医の老夫婦から「病院に連れてきすぎ。少しは落ち着いて子どもさんの様子をみなさい」といましめを受けていた。今の日本の医者では考えられない話ではあるが。
親が何かにつけ、しんそこ心配するので、自分もいつ死んでしまうか、わからないようなものだと思って過ごしていた。死ぬのは、いやだった。闇に封じ込められて身動きできなくなる。それが子どもなりに感じた死というものだった。闇もこわいし動けなくなるのもこわい。急に高熱が出たり、体じゅうの皮膚にぽろぽろと、じんましんが広がっていったり、鼻から血が出ていつまでたっても止まらなかったり。そんなことがあるたびに、「これで自分は死ぬのか?」と不安になり、「これは天罰だ」と思い、「あらためますから、こんどだけは、どうかゆるしてください」と一心に祈っていた。その反面、どう考えてもいまここで自分が死ぬとはとうてい思えないのだった。しかし「この子は死なないだろうか」と親に何度も顔をのぞきこまれると、死なないという自分の確信はじつは大きなまちがいで、死なないはずのものがどうかした拍子に死んでしまうというのが、死のほんとうのこわさなのかもしれない、と、そう思えてくるのだった。このようにしてまだよく死というものを知らないうちから、死へのおびえだけを、周囲から吹き込まれているようなところが自分にはあったのではないか。

近所の老夫婦の医者ではあきたらなくなると、親は子どもをより大きな規模の病院に連れて行くようになった。それでも不満なときには紹介状を持って大学病院に連れて行き、精密検査を受けさせる。出てくる結果はいずれも「神経性のもの」「自律神経失調症」といったたぐいのもので、ほんとうに治療を受ける必要のあるものは出てきはしない。そのたびに私は心の中で「ほうれ見ろわたしの思ったとおりじゃないか」と自信を深めた。しかし大きな病院の医者になればなるほど、老夫婦の医者とはちがい、「万が一にも死ぬようなことがあるから」「放置できない」「だから検査しましょう」という姿勢で親を刺激した。親は何かあるたびに、いや、何もなくとも右往左往させられ、子どもの私は「検査の結果が出るまでの間に何が起こるかわからない」と処方された強い薬を飲まされては不貞腐れていた。あるときなどは検査にストップがかかった。「今年はこれ以上エックス線を浴びることはできません。年間に浴びる量が決まっていて、それを無視して検査を受ける必要は認められない」というような説明を受け、親は検査をあきらめざるをえなかった。検査をせずに帰宅をしても、苦しむようなことも死ぬようなことも起こらなかった。子どもの私は病院へのお百度参りにいい加減うんざりしていた。親の心配にもつきあいきれないし、医者の配慮とつきあうのも心の底からイヤだった。しかしそれを口には出さなかった。私たちはお互いに思ったことを口にできるような関係ではなかったのだ。今になって考えてみると、そういうことではなかったかと思う。

いささかヒステリックともいえる病院通いは乳幼児から中学にいたるまでの十年くらいのものだったろうか。私は小学校へ行かない子どもになっていた。いつ死ぬかもわからないのに、あんなところバカバカしくて行けるか、みたいなさめたところがあった。縁側に立ち、自分の死を思い、うつうつとして物干しによりかかっていたところ、何かの拍子に支えのひもが切れ、二本の竿とともに庭へところがり落ちたことがある。地面に落ちる瞬間、「あっ、これはほんとに死んでしまう!」と心の中で叫んだのをおぼえている。まったくの無傷で立ち上がったときには気まずくて、「こんなんでは自分はいかんな」と反省をして翌日は学校に行ったのではなかったか。そんなことも、あった。
小学高学年になると、いつやってくるかわからないような死に支配されるのがイヤで、自殺を考えた。どうせ死ぬのなら自分で決める、決めてやる。死ぬときは自殺だと思うだけで安心した。しかし自分に、自殺、できるのか。いつ、どんな死に方を、するのか。具体的なことになると皆目見当がつかない。ちょうど三浦綾子さんの『氷点』が家に置いてあり、具体的なやり方を見せられた気がした。「そうか~列車でどこか遠くへ行って、寒いところで死ぬのか~」。しかし死んだあとに自分の体を誰かに見られる・さわられるというのはどうにもイヤな感じがした。死んだ姿を人目にさらすなど、いかにもみっともなく思われる。発見した人は驚くにちがいなく、死体を片付ける人は「しょうがないヤツだなあ、まったく、こんなことをやってメイワクだよねえ」などと嫌がるにちがいない。それならば、庭に放し飼いになっている猫たちのほうが、よほど立派なように思われてくる。死ぬべきときを悟ると、ふいっといなくなってしまう。誰にも見つからない死に場所を見つけて、誰にもさまたげられることなく一人でひっそりと、死ぬ。そういう死に方は、子どもの自分にも納得できるものだった。

その後、家庭の事情により中学を卒業すると同時にわたしは家を出て、自分の死を空想するよゆうがなくなってしまった。子どもの頃に想像した死のあり方は、抽象的で観念的なものでしかなかったかもしれない。しかしそれから少しはいろんなことを見聞きもしてきたと思うが、今の自分の理想とする死を一言でいうと野垂れ死にである。好きな風景の中で、自分が自然の一部であることを感じながら、虫や小鳥たちのような死に方で死ぬのが、自分には一番いいように思われるのだ。この点についてはあの頃の自分と意見が一致する。「ふむ。あんたけっこういいセン、いってたんじゃないの」と一人こっそり、つぶやいてみる。
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「つらい」で終わらせず、どこがどうなのか、筋肉のコリでみる
2010/08/26(Thu)
朝がつらい。ただただつらい、どうしようもなく。そんな時は筋肉をチェックすると「なるほど」と思う。こんな目にあうまでは体調と気分とが、筋肉の硬さと直結しているなどとは思いもよらないのだった。「直結している」という話は聞いていた。橋本敬三の本にもそういうたぐいの記述がある。「やまいのすべてはコリが原因。筋肉が一番のポイントだ」と力説してある。だから「人の話だとそういうことらしい」「本ではそういうことになっている」という理解はあった。
しかし「筋肉の問題」というと、外科や整形の問題じゃないのと思われもし、なんでもかでも筋肉の問題にぶちこむということは受け入れがたい。ハリや経絡の世界では骨格筋と内臓の働きが直結していても何の不思議もなく、ついでに心も体と直結していて別に不都合はないのだが。
つらさから抜け出すことは筋肉をほぐすこと。筋肉をほぐせばラクになる。身体的なつらさも精神的なつらさも、とにかくまずは筋肉ということであれば、話はカンタンである。つかみどころのない「つらさ」に光を当てると影ができ、具体的な形が見えてくる。それが筋肉の硬さ。コリである。相手の正体がわかったからにはそれを解消すればよい。コリをできるだけカンタンに、手早く消す。できれば元に戻らないように。そういうわけで、私は毎朝、自分なりに真剣である。

事故でむちうちをやって以来、消化器のほうまでおかしくなり、おまけに「うつ」である。朝ががぜんつらくなった。なぜ朝か。朝は体が固まっている。医者は「筋肉をほぐせばいい」と言う。しかしどこを、どう「ほぐせ」ばいいのかは「わたしら専門外だからそれはわからない」。どうせが他人のからだ、だしなあ。自分で自分の体の中から「どこを、どうほぐすか」を見つけ出すしかないのである。
ねらいめのポイントが、身体にはいくつかある。いくつも、あるのだが、中でも一番効率のよい場所がいくつか、あるのである。それは長年研究会に参加してきて知ってはいる。それを一つひとつ自分の体で探っていく。知識ではなく体験でわかってくる。腰、背中、肩、首。ポイントをさぐると、朝はもう鬼のように固まっている。肉というより岩? 化石か? というほどに固まっている。これだけ固まっていればつらいの当然だよな~前の晩あれだけほぐしてあったのにな~と思う。

朝の目覚めのスッキリ度と、身体の筋肉のやわらかさの間には、はっきりとした関係がある。そのことは、べつに科学や医者のお墨付きをいただく必要などないわけで、まさにこれこそ「論より証拠」である。
朝の体ほぐしには、ずいぶん時間がかかっていたが、どのくらいの時間でどの程度やっておけばどのくらい大丈夫なのかがだんだんとわかってきた。コリをほぐすと、絶好調とはいわないまでも、「ああほっとした」というくらい体は軽くなる。毎朝、自分でそうやって「つらい朝」を「ふつうの朝」にしてきた。専門家に頼るより、自分で身につけていくほうが心は安定し、安心でもある。ここまで自分が困らないとここまではやらなかった。「話ではそういうことらしい」「本ではそういうことになっている」からは一歩も出られなかったのではないかと思う。
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くさいもののフタを閉めましょうか・開けましょうか
2010/08/23(Mon)
病気は悪者。すぐ押さえつけて退治するものと相場が決まっている。しかし病気も生きる営みの一部だという見方もある。生きていればクサいものもたまる。たまったものは出さねばならない。クサいもののフタをゆるめ、中身をある程度出すのが病気。病気は今後、元気に生きていくためのステップ。そんな考え方もある。

病院派というか現代医学一筋の人と、病院批判派というか現代医学はダメという人がいるように思うが、使い分けをすればいいだけのことだ。「クサいものにはフタをします」派と「クサいもののフタをはずします」派のどちらかを、その時々で使い分けるということである。
たとえば頭痛がする。「痛みをとりたい」という向きもあるだろうが、「痛みの元から解決したい」という向きもあるだろう。前者は病院で薬をもらえばいい。薬は神経の働きをブロックする。痛みの発生源はそのままにして、痛みを感じないようにする。薬が切れると感じるので、痛み止めの薬を手放さない生活になる。薬の種類や量を医師に定期的に調節してもらう。それ以外の方法といえば自分でどうにかする。頭痛を耐えるか生活上で自分なりの工夫をするほかない。
「クサいもの」はあるのだけれど臭いが外にもれ出てこなければよい。それが対処療法の基本。しかしフタをしたままだと「クサいもの」が増えてもわからない。病院に通うとそれなりにケアしているつもりにはなるが、実のところ「クサいもの」はそのまま放っておかれている。「クサいもの」があるなら後腐れのないよう全部出してしまいませんかというのが東洋医学的な考え。将来出てくるであろう症状、未病をも治そう、治せるという発想である。

どちらがよいということではなく、発想にどういう違いがあるのかを押さえておく。
「病院はキライだ」「ゲンダイイガクはダメ」といつまでも不満をとなえながら、病院やゲンダイイガクと一生つきあい続けるというパターンは多い。「どうして病院キライなんですか」「どうして現代医学はダメですか」と尋ねられてもまるで要領をえない。しいて言うなら「通院しても思ったほどの結果が出ないから」ということになる。「あなたの思う結果とは何がどうなることなのか」。それを明確にする必要があるのだ。
身内に「東洋医学系大好き」がいるが、いろいろやるうちにとうとう「クサいもののフタ」がゆるんでしまったらしい。本人ははっきり理解していなかったらしいが出てきたものはしょうがない。あるていど出て行くまで待つしかない。生活の改善がうまくいけば、クサいもののフタがゆるむのは時間の問題。本人が望もうと望むまいと、体はクサいものを出さなければならないし、クサいものを出すのにはそれなりに体の力が必要なのである。

『がん-ある「完全治癒」の記録-』という本の体験に即していうと、クサいものが出ていくというのは、カゼのような症状や、胃腸の具合がおかしくなったり腎臓の結石ができて激痛に見舞われたりという体の変調のことである。クサいものが出て行くときには痛みや苦痛をもたらすが、出ていくたびにごほうびもある。カゼの症状がおさまったと思ったら、何年も悩んでいたガンコな背中の痛みが消えたり。結石がぽろりと出たあとに、ガンが消えていたり。何十年も下痢気味なのがよくなっていたり。気分がよくて体調がよくなって、などということを実感するわけである。これはリクツというより本人と体との体験である。一度でも体験すると誰でもハッキリ実感する。ああこれがそうなのか、と。

病院の世界では「病気は悪者」。押さえつけて退治するものと相場が決まっている。悪くなったところは「ダメになったところ」だから「切って捨てましょうね」が基本。傷んだリンゴの部分を削り落とすのと同じように、ガンになったところは切って捨てるしかないとされる。生き物の体はつねに変化し回復に向かおうとするという事実を今の医学は受け入れているだろうか。『がん-ある「完全治癒」の記録-』では、病院長の全身に転移した末期がんが1年2ヶ月の食事の改善ですべて消えたわけだが、病院長をはじめ医療関係者は狂気のごとく喜ぶ。ありえない奇跡だという。自分たちがみてきた患者さんは全員死んでいた。がんが消える、病変が治るというのは病院の医学では事実ではなく奇跡のほうに分類されている。

東洋医学の世界では、クサいものがたまったりためたものを出したりの繰り返しそのものが、生きるということであるとされる。生きていればだんだんとクサいものは溜まってくる。一定量ともなれば体はそれを捨てようとする。およそ「病気」と呼ばれるものは、体がクサいものを出そうとしている状態。生きる営みの一部なのである。クサいものを出した後には体は軽くなっている。出さないで溜めこめばそのまま半病人の日々が続く。そういう考え。考えというよりは、何千年もの観察と体験によって出てきた結論である。『がん-ある「完全治癒」の記録-』では、病院の院長が「医学部も出てない」食養の指導者に指導を受ける。食養の指導者たちはがんが消えたと聞いても奇跡扱いはしない。治った例をいくらも自分の目で見てきているからだ。
根本から取り組むのは「病院で薬をもらう」とか「医者に切り取ってもらう」という受身では済まない部分がある。「クサいもの」のフタをゆるめて中から出てくるものによっては、自分のそれまでの生き方や考え方を深めたり広げたり切り換えが求められることもある。ついそれがめんどうで、「今じゃない。もうちょっと先になってから」と先延ばしをする。そういうときに神経のまっとうな働きをごまかしたり、ちょん切ったりするという小手先の技、医療技術という選択肢がある。

どちらのやり方も理解をしておくといいのではないか。選択肢があるのはわるいことではない。理解したうえで、自分の都合でどちらかを選べば、自分なりの判断と決定ができる。あきらめもつく。体のこと、命のことは自然の働き。やり直しがきかないこともある。自分の体や命には少々のお金や時間をかけるだけの価値があると思えるときには徹底的に根本的なやり方でやってみるのもいい。新しい発見と驚きがあるはずだ。
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鳥たちのいる川の風景
2010/08/19(Thu)
釣りをしている人の背後でじっとしている一羽のゴイサギが「今日はもうたくさん食べさせたじゃないか。少しは自分で働きなさい」と説教されていたという。それでもゴイサギは前を向いてじっとしている。そんな写真がある。
川にいる鳥でサギというと白いイメージを持つがアオサギは灰色である。体長90センチほどといっても細長い脚とひょろりとした首とで身長をかせぐ感じ。このアオサギが釣り人たちから釣ったサカナをもらうということが全国的に見られる。動物学のテーマになりそうなくらいの事例がある。

釣り人が釣りをするのはサカナを食べたいからとは限らない。キャッチアンドリリースといえば聞こえはいいが、持って帰って食べたくなるような川ではないことも多い。うちの近所の大きな川も水道水を供給する川とはいえ、サカナたちには気の毒なほど水が汚れている。散歩中の犬が飼い主の手を振り切って川に飛び込む光景をよく目にするが、飼い主は一様に「やめてー!」と悲痛な叫び声をあげている。洗っても洗ってもヘドロのにおいが消えないという。父が学生のころはこの川で泳ぎ、大きなウナギやフナを手づかみでとっていたと聞く。川べりを散歩するたびにその話を思い出す。
キャッチアンドリリースはサカナの命を救うのか。釣り雑誌の編集の方に尋ねてみたところ、サカナの体に対しての釣り針は、人間でいうとぶっとい鉄の棒が突き刺さるようなものだという。
「あんな太いものが刺さって大丈夫ということはまずありえない。実際に釣り堀では片目がつぶれていたり弱っていたりでまともなコンディションのサカナはいない。キャッチアンドリリース禁止でお客さんが釣ったものは必ず自分で持って帰らせるという釣り堀さえある。キャッチアンドリリースは釣り人の気休め。釣りは殺生。釣りをするというのなら、相手の命を奪うというくらいの覚悟はしておいてほしい」

自分は女だからだろうか、食べられないサカナをわざわざ釣りたいとは思わない。釣りは何度か経験があるが、自分で釣ったものは自分で食べたくなる。リリースにはむなしさがともなうだろう。もっと大きくなってからねというならまだわかるが、ぜんぶリリースすると決めて釣りをするというのは私などにはわからないことだ。あいまいなキャッチアンドリリースをするくらいなら誰かに食べてもらうほうがよほどいい。
一枚の写真がある。釣り人の背後に白いサギと灰色のサギがじっとひかえている。釣りをしている男性は「待っていてよ。大物釣ってやるからな」と声をかけていたという。無表情なサギたちがまっすぐ前を向いているのに対して男性の表情は実にうれしそう。そういえば子どものころに近所のおじさんが釣ってきた雑魚をなべで煮て野良猫にふるまっていたのを思い出す。毎朝川に出かけていって夕方煮る。口をきくことはめったにない人だったが、猫たちがサカナを食べてしまうまで眺めていたのを思い出す。
別の写真では、高い鉄塔のような建物の上に数羽のアオサギが釣り人たちをじっと見下ろしている。何メートルおきかに決まった位置があるのか、めいめいの場所に立って控えている。釣れたのが見えると舞い降りてくるというが、一斉に舞い降りてくるのだろうか。順番があるのか。全員の口に行き渡るほど釣れるのだろうか。
叱られているゴイサギもいる。ゴイサギは黒っぽくてずんぐりした体格だ。釣りをしている人の背後に来てじっとしている一羽のゴイサギが、「今日はもうたくさん食べさせたじゃないか。少しは自分で働きなさい」と説教されていたという写真。それでもゴイサギは前を向いてじっとしている。そんな写真。

老人の熱中症の記事が毎日のように新聞に載る。熱中症で倒れる場所は、閉めきった室内であることが多いという。川辺の炎天下で何時間も釣りをしている男たちはいかにも暑そうであるが、見た目ほど暑い思いはしていないだろう。私は最近、川で気に入った場所があって、そこに腰掛けて長い時間を過ごしているが、暑くはないのである。背中を太陽にさらしていると、背中に汗が流れていくが、そこに絶えずゆるやかな風が吹いてくる。背中というのはそのようにできているのか、白いサギやアオサギや、スズメやドバトやカラスたちも、平気で背中を炎天下にさらしている。一人でじっと腰掛けていると、何羽かのドバトが舞い降りてくる。残飯など何度かばらまいたことがあるのを覚えているのか。立ち止まった人には誰にでもアピールするのか。「きょうはないよ」と声をかけて知らんふりをしていても二羽三羽と増えてゆき、結局11羽集まる。もらいがなくともかまわないふうに水浴びを始めたり座り込んだり羽をつくろったりする。私はハトたちに群れの一員として認めてもらえたような錯覚におちいる。彼らは私に期待もしなければ落胆もせず、責めることもしない。「あしたは何か持ってくるよ。忘れるかもしれないけれど」そういって立ち上がっても、ハトたちはべつにこちらをふり向きもしない。おのおの好きに羽づくろいをし、好きに地べたにねそべって過ごしている。
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生きている実感-安全が危険で危険が安全になるということ-
2010/08/09(Mon)
生きのよい状態、生きている実感というのは、自分が生きる上では最重要のものに入る。他人がうらやましがる条件をそろえていっても、自分が気持ちよく過ごせなければ何の価値もない。

「山歩きなんて自分から死にに行くようなもの。やめときなさい」というのが私が山歩きを始めた頃の周囲の反応だった。以後10年余りに起こった災難や事故はいずれも山とはまったくの無関係。数年前の福岡の地震のときなどは九重にいて、ふつふつとさかんに煙を噴き出す硫黄岳の山肌をじっと眺めていた。「地震です。家の中ぐちゃぐちゃ」という文がメールで送信されてきて「一時公園に避難します」「余震がきています」…。次々と送られてくる送信文は家人のあわてぶりを伝えてくる。町のほうが、どこよりも安心であったはずの家の中のほうが、山よりもよほどこわいっていうこともあるじゃないかと一人で苦笑した。
先週山谷に滞在したことについては周囲の反応が分かれた。「なぜそんな危険な所に行くのか」という意見と、「おもしろそうだからやれよ」という意見。どちらも山谷は危険というのがベースにある。しかしそんなふうに言われると、危険な場所とか安全な場所とかいうけれども危険ていうのは何だろう、安全ていうのは何がどう安全というのだろうと、そんな疑問がわいてくる。

山谷は危険だという考えの裏には、自分たちが住んで活動しているエリアは安全だという考えがある。しかし安全と思われる所でも日々いろんな事件が起きている。そしてまた、安全きわまる場所でも自分にとって危険なことが起こりつつあるということもあるだろう。たとえば生活に特別困ってもいない、仕事が嫌いというでもなく、毎日ほどほどに忙しく楽しく過ごしている。それでもむなしい、死ぬほど息苦しい。そういうことはないだろうか。ぜいたくな話かもしれないが、もともと人間はぜいたくにできている。パンがなければ生きられないがパンだけでも生きられない。山歩きを始めたころの私は確かに行き詰まっていた。エサを十分に与えられている家畜もしくは動物園の檻の中で毛並みを悪くしている不活発な獣になった気分で過ごしていた。設備の整った囲いの中では文句も言えず、幸せに過ごしてみせなければならなかった。周囲の目には私はじゅうぶん日常を楽しんでいるように映っていたはずで、それがわかるだけになおのこと、つらかった。

出かける前はイヤでイヤでたまらない感じもある。いつものことだが旅に出る前は安定した日常から離れがたい気持ちと、行く手に待ち受ける予測不能なものに対して軽い緊張におそわれる。しかしそれらを受け流して出かけてゆけば、おのずと集中が高まって、滞在から戻ったときには出かける前よりもやけに威勢がよくなっているのがわかる。安定は滞りを生みやすく、自身で気づかないままマンネリに陥り、バランスはいつしか崩れだす。安全な場所がいつまでも安全とは限らない。安全は与えられるものではなく、つねに自分で見出していくもの、つくり出していくものといえるかもしれない。
どんなに危険といわれる場所にでも出かけていく人はいる。わざわざ危険を求めるために出かけていくということも、ないわけでもなかろうがそれだけではない。それぞれがその時一番生き生きできる場所へと向かっているのではないだろうか。どんなに危険といわれる場所だって年がら年中危険なことばかり起きるわけじゃない。人間の住むところにはどこにだって人の日常というものがある。危険な場所と決めつけてしまえば、危険な場所にも設けられているはずの安全域は見えなくなる。安全な領域をどれだけ見出していけるかで、行動の自由度が小さくもなり大きくもなる。自分なりの工夫やカンも必要になってくる。そこに自分の持てる力を引き出し、生き生きとした状態を回復する機縁もある。生きている実感はまさにそこに、ある。
生きのよい状態、生きている実感というのは、自分が生きる上では最重要のものに入る。他人がうらやましがる条件をいくらそろえていっても、自分が気持ちよく過ごせなければ何の価値もない。こうして自分本位に、自分の快不快感覚に忠実に生きてゆくと、自分は確実にバカといわれる人間になってゆくだろう。単純なことをバカみたいに喜ぶ人間になる。そんな予感がする。そしてそれでいい。
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居心地のよいところをさがしながら
2010/08/08(Sun)
この一週間、東京で生活していた。昼間は目白の大学にいてその後は宿に戻る。山谷地区の宿である。明日のジョーの舞台となった泪橋に近く、早朝は隅田川から浅草周辺に散歩に出かけていた。以前からそうやって過ごしてきたような生活ぶりだった。

目白の大学の真向かいには緑地があり、時間がくるまで木陰のベンチで過ごした。隣の敷地には元首相邸宅の一部が残っており、大きな門構えと表札にはなかなかの迫力がある。緑地の噴水がざあっと大きくしぶきをあげるたびに水遊びの子どもたちから歓声があがる。大人たちは芝生の上で気ままにくつろいでいる。人々の笑いやおしゃべりをのせて風が絶えず吹いてくる。大学の、鉄筋コンクリートの立派な講義室に入る前に、緑地で過ごしてバランスをとる必要が私にはあった。

大学が済むと宿に戻る。ネットで予約したときはそうとは気づかず、三ノ輪という駅名や泪橋という交差点を見たときに、以前来たことがあると気がついた。その頃の山谷は今の山谷とはぜんぜん違っていたし、その頃の自分も今の自分とはぜんぜん違う。山谷は日雇い労働者たちのエネルギーに満ちたドヤ街だった。しかしその後、経済構造も変わり、外国人労働者やフリーターが仕事に割って入るようにもなり、雇う側の事情も変わって山谷はすたれていった。二十年以上も前の私は山谷を一人歩きすることはできなかったと思うし、そうしようとも思わなかったはずだ。夜の炊き出しに何度か連れられて行ったが、全身の肌が針でつつかれているような、ぴりぴりした感覚をおぼえた。喧嘩もあった。怒鳴り声も絶えなかった。二階の窓から「食べ物なんかくばるな! こっちは迷惑してるんだ」とつんけんした声を浴びせられることもあった。地域の住民たちと日雇いの労働者たちの間には摩擦があったのだ。腹を立てて家から出てきた人が、「玄関先やお店の前にダンボールを山ほど持ってこられて寝転がってもらっては困る。こっちも困っているんだ」などと私たちに説明したりもした。炊き出しで食事や服を提供していた人はもう亡くなってしまったが、山谷の日雇い出身だった。労働者たちが協力しあい、自分たちの生活を自分たちでつくっていこうという考えを強く主張した活動家だった。今では状況は大きく変わり、山谷を知らない外国人のバックパッカーが安い宿として宿泊し、出張のビジネスマンや私のような者もまぎれこんでくるところとなったが目白と山谷を往復していると、福岡の日常では感じられることのない「格差」というものをつくづく思わないではいられない。

旅の生活で朝がどんどん早くなった。夜の来るのが早いのだ。福岡の午後7時はまだ明るいが、東京ではりっぱな夜。ああ東日本にいるんだなと思う。三日もたたないうちに朝4時5時に目が開くようになり、隅田川まで出かけてゆくようになった。隅田川公園の散歩で目にする光景もまた「格差」である。家のある人ない人がごたまぜになって早朝の公園で過ごす。一目で互いにわかる。野外で暮らす人か。守る家を持つ人か。以前の私なら罪悪感なしにここを歩きまわることは不可能だったと思う。野外で暮らす人は絵に描いたような不幸の見本。守る家を持つ人は野外で暮らす人より「上の生活」もしくは「上の人間」。そういう見方をいつの間にかたたきこまれていた。しかし「格差」は「格差」で確かだけれども、「上」だとか「下」だとか、不幸だとか幸せだとか、かわいそうだとかかわいそうでないだとか、そういうのとは別の話。誰もあんたに助けてくれなど頼んじゃいない。以前の自分に向かってそんなことを言いながら、隅田川沿いを歩く。
目白では子どもの発達異常と精神疾患について話を聞かなくてはならないのだった。毎日聞くうちに、あらゆる子どもは知能検査や発達検査を定期的に受け、異常を早期に発見してやらないと障害となって子どもが健全に育たないというような考えが伝わってきた。「のちの将来に恐ろしいツメアトを残す」から「できる限り早期に芽を摘むのだ」と、そう何度も聞かされた。早期に発見したら、ただちに治す。治してやらないといけない。知能の働きが「平均」以下なら「平均」へ近づけてやらなくてはいけない。そのための専門家がこの社会には多くいて、医療機関やサービス機関も用意されている。専門家は人間の精神の発達を計測できるし、知能の発達も計測して、数値を計算式にあてはめて算出できるという。じっさいの年齢に対して精神年齢だとか発達年齢だとかを検出し、偏差値的に見る。検査にひっかかった子どもは何らかの障害に分類され、障害を放置またはその手当てがうまくいかなかった場合には将来、人殺しや犯罪者になるしかないという。進行したら治らない。放っておけば、もしくは扱いをまちがえば、不治のものばかりだ。そのように聞こえてくる。テレビカメラでも回っていたらこのように不用意な物言いはされはしない。それだけに直接の言葉を聴くことで彼らの考え方や人間に対する態度がよく伝わってくる。参加者の中には話が「何となくおかしい」と感じた人もいたようだ。

目白の教室の考えは特殊なものではなく、広く社会で流布され共有されている考えであるとも思う。そういう社会の視点でいえば、隅田川周辺で野外生活を送る人間などは「異常」をかかえた者、「障害」をかかえた者であり、「治療の対象」であるのだろう。人間に対してそういう見方・扱い方をするのが国家の福祉というものかもしれない。制度的に国民を「救済」するためには検査によって鑑定し、分類し、等級をつけなければならない。人間を「正常」と「異常」に区分し、「健常者」と「障害者」、さらに障害をガイドラインの規定に従って細かく分類し、対処の仕方が決められる。
そういうふうなやり方・考え方が、人間にとってどういう益をもたらすことになるのか、私はさっぱりわからなくなって困ってしまった。何となく日本の社会はこういうふうだろうなと思って済ませていたのが、現場の専門家に直接接して話を聞くと、輪郭がはっきりしてきて奇妙なお化けのようなかたちが浮かび上がってくるみたいだった。私は自分がいてはならないところにいると感じていた。人間を検査して分類して助けるというような、そういうやり方は非人間的もしくは人をバカにしているとしか思えないのだった。しかしそんな自分の感じ方は、軽いおしゃべりの場でなら許されるとしても、社会的には受け入れられないだろう。「こいつ何を言ってるんだ」という反応がせいぜいで、目白の教室でも質疑応答の時間で発言すると、いたたまれない感じがした。

山谷に宿泊したあとは都合もあり、最後の一泊は別の地区のウィークリーマンションに宿泊することになっていた。山谷を出ると一瞬やれやれとなった。山谷の宿ではトイレが共同。私の宿泊した所は一か所が女性専用で、あとは男女共用だから入りたい人は入ればよい。この点に少々の不便と緊張があり、二日ほどはトイレのために夜部屋を出るということはなかった。風呂は男性のみで女性にはシャワーが24時間開放されている。そういうことを自分の中でやりくりすると快適なのだが、トイレ・風呂つきのマンションの一室に入るとついやれやれという思いがあった。
しかし、その「やれやれ」も1時間も持たなかった。のりづけをされ、白く清潔に保たれた布団カバーやシーツは強烈な合成のにおいをまきちらし、目、鼻、のどを攻撃してくる。窓を開け、室内の家具を片隅に移動して床のスペースを確保する。そこに野外用シートを敷く。これも自分のいつものやりくりであるが、シートで確保された自分のスペースは山谷の宿の半分以下なのだった。床で仮眠をとりつつ最終試験の用意をする。ふと気になって「ご利用の案内」に目を通す。チェックアウトの時間を過ぎると自動的に60分ごと1050円の徴収とある。やはりなと思った。ここの受付の人間たちの、マニュアルを一方的にしかしゃべらない機械のような様子が思い起こされたのである。こうなるとつい前日までの山谷の宿が妙になつかしく思われもする。受付にいたのは若い男女であったが実際的でしっかりとした人間だった。当たり前だ。そうでないと山谷で仕事をやっていくことはできない。応対が、こちらの発信に対する受け止め方が、印象深くもあった。最初の日には「ここは、こう使える」「ここはこの点に気をつけて」と念の入った説明があり、いちいち合点がいった。「ここって山谷ではないですよね…」とおずおず尋ねた私をまっすぐに見て「ここは山谷ですよ」という声の調子も毅然としていた。連泊者は24時間出入りが自由だったし追加の料金というのは基本的に発生しない。台所も自由に何でも使える。そういうこと一つ一つが思い起こされては比較されるのである。
目と鼻の痛みは何時間かおきにやりきれなくなり外に出るほかはなかった。一見、明るく往来もある安全な夜の街なのだが、一人ひとりをよく見ると、守る家を持つ人々が残業帰りで疲れ果て、妙にせかせかしている。それがこの町全体のファミリー気分とでもいうべきものなのかもしれなかった。そんな夜の町を無防備にほっつき歩きながら、山谷に流れていた空気のことを思い出していた。
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