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生きものは走ってくる車から逃げることはしない
2010/07/09(Fri)
命はだいじと言われるが、命は意外にも粗末に乱暴にあつかわれている。そのような現場を直接目撃することはできるだけ避けたいものだが避けきれるものではない。心の準備もないままに、命が乱暴に引き裂かれるのを見ていなければならないこともある。
野や山で目撃する弱肉強食にはそれほど心は落ち込まない。どちらにも生活がかかっていて命がけなのだから文句のつけようがない。日常でもっとも衝撃的な場面は車にまつわるものだ。とくに春先から夏にかけては、こんな都市化の進んだ町でも生の営みがさかんになり、新しい命が道路にまではみ出してくる。免許を取った自動車教習所では、「人間だとわかったらひいてはいけないが、それ以外は落ち着いてひいておしまいなさい。いろいろ考えるとかえって事故のもとだから」と教官が言っていた。道路に出てくる命については訓練も説明もないのだった。

免許を取ってすぐの頃、舗装道路の真ん中でじっとしているツバメの子を轢き殺した。遠くから、ずっとずっと遠くから、何かが道路にたたずんでいるのはわかっていた。私の車以外、通行人も車もなく、道路の上にはただ一つ、黒い小さな影があるだけだ。あれは確かに生きもののようだ…あれはツバメじゃないのか…と状況を把握していっていたにもかかわらず、私はスピードを落とすか落とさないか迷っていた。ツバメも自動車は恐がるだろう、近づいて行けばいつかは飛んで逃げるはずと思った。しかしそうではない。生きものの場合、そういうことはぜったいに期待してはならないのである。
運転に慣れた家人に同乗してもらっていたが、助手席から何のアドバイスも聞かれないまま私とツバメとの距離は縮まっていった。私の目の中でただの黒い影に足や尻尾が生え、頭ができて具体的な形となり、その小さな、かっちりとしたツバメの丸い頭は確かにくるりとこちらを向いたのである。小さな光をたたえた瞳をまっすぐに向けたその顔を、私は一生忘れることはないだろう。運転席の私のまなざしと、道路上のツバメのまなざしとは、確かにそのとき重なった。そのまなざしは私の目を射ぬき、迷いは少しもなかった。助手席のほうから「はっ」と息をのむ声が聞こえ、次の瞬間ツバメは私の車の下にのみこまれていった。私たちは二人とも大きく後ろをふりかえった。車の後ろに延びてゆく舗装道路が日差し受けてまぶしく輝いていた。真っ白で一点のしみもない、のっぺらぼうな路面が、ただただ胸にこたえた。混乱の中で、私は車に乗るということの持つ暴力性とか犯罪性といったようなものを感じていた。車に乗るということは加害者の側に立つということだというが、加害者の側に立つというのはこういうことだったとはわからなかった。免許を持つということの中にはひどく暴力的な部分が確かにあるとさえ思われたのだった。

車には毎日乗る。朝、乗りこむたびに、祈る。祈っても気がラクになるわけではない。しかし祈らざるをえない。道路上にぽつりと落ちた生きものの陰を見つけるのは非常に得意になった。別に得意になったことを自慢しているつもりはない。勝手に目が路上に集中している。生きものを見つけたら、その処理には心のゆとりと工夫とが必要になる。これまでに何度も失敗して苦い思いをした。人間とのつきあいを優先するか。生きものの命を優先するか。同じ場面は二度とない。自分の車だけではなく対向車や周囲の車が轢き殺す場面を目撃する。轢き殺したくて轢き殺しているドライバーはいないだろう。教習所でも、どんな生きものが道路上に出てくるとどのように見えるのか、とか、生きものは基本的に自動車を恐れないし避けないとか、後続車がなければ停止して生きものを逃がすしか方法はないだとか、窓を開けて「そこ、どいて!あぶないよ!」と大声でわめくほうが相手は恐がって逃げるだとか、時には車から降りて追っ払うほうがはやいだとか、そういう具体的な対処法を教えてくれてもよいではないかと思うこともある。道路上に飛び出してくる生きものたちを回避するということは、そのまま人間を轢くのを回避する訓練ともなる。「人間はひいてはいけないが人間以外なら堂々とひきなさい」というアドバイスどおり、人間以外のものを回避する努力もはらわずにいたドライバーに、急に人間が飛び出してきたのをうまく回避できるという保証はどこにもない。

今朝、一台の車がすいた道路をとばしていた。そこは河原の土手に沿った、いわば緑地帯わきの道路である。一羽のスズメが草むらから飛び立って、道路を斜めに横切り始めた。私はドライバーを見た。車はオープンカーであり、彼はしっかりとスズメの動きを目で追っていたが回避の努力を払おうとはしなかった。ほんの少しのタイミングのずれだった。あと1秒か2秒もあれば、彼は余計な殺生でこの日の朝を迎えずに済んだ。鳥はもう少しのところで車体にひっかけられ、風にまきこまれて浮力を失い、右前のタイヤがしっかりそれを踏みつけた。通り過ぎるとき男性が少し振り向いたのが見え、スピードを落とすことなく走りさった。私は鳥のもとへと向かった。あの節約された1秒や2秒が、男にどんな意味を持つものだったかは私のあずかり知らぬことだが、この鳥にとってあの1秒や2秒が決定的に大きな意味を持っていたのは確かなことだと思った。私が道路を渡るふりでもしてやればドライバーは反応してスピードを落としたにちがいなかった。くちばしにまだほんの少し黄色い部分の残る、巣立ちしたばかりのような子だった。こんな命の終わらせ方はほんとにイヤなことだ。しかしこういう命の終わり方を否定することもまたできない。そんなようなことを思いながら拾い上げ、土手のくさむらに置いた。この子を喜んで持ち帰ってヤキトリにでもして食べてやったら、いっそのこと気が済むのだけれど、などと思いながら、自分にはそんなこと到底できないのもわかっている。

このようなことは数限りなくこの世の中で起きている。命はだいじというけれど、けっこうバカバカしいような死に方で生きものは命を落としている。それをいちいち悲しむ必要はなく、それをたった一つや二つ防いだからといって、あるいは防げなかったからといって、考えこむのはムダかもしれない。しかし防ごうと思って行動するうちに、案外、防げるようにもなる。防げたら、どうなんだと問われても答えようはないけれども、防げたときは無条件にうれしい。達成感がある。手間はほとんどかからない。ただ一瞬の判断だ。道路上に出てくる陰は、ある意味、自分への挑戦のようでもある。さて、これを平和的に救えるか。救えないか。どう判断してどう行動すればうまくいくか。失敗例はいくらもある。たくさんの悲しい失敗から一つの成功例をつくっていく。そんなことがむしょうに価値のあるものに思えてしかたがない。悲しいのだけれど、悲しいだけでは済ませたくない。今日はブログ書く予定ではなかったが、小鳥の墓標のつもりでこれを書く。
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雨の日の河原に大きなテントを張る
2010/07/07(Wed)
マリンブーツで河の中をじゃぶじゃぶ歩いた後、テントの中で雨降りを眺めて過ごす。湿気、すばらしい。大好きだ。そう思う。桜が咲いたら花見に出かけるように、雨が降ったら雨を眺めに出かけるのがいい。河原で過ごしていると田んぼのある風景の中で暮らしていた頃の感覚がよみがえる。雨に打たれる庭木を眺め、軒先からいくらも落ちてくるしずくを眺め、永遠に続く雨だれの音に身をゆだねて過ごしていた頃の、満ち足りた気持ちがよみがえる。エアコンのリモコンにすがりついている人たちのことが思われる。こんな心地よい雨の気持ちを味わったことがないか、その感覚を忘れているのか。

物心ついたときから雨は好きだった。それがいつの頃からかうっとうしく思われ、雨に知らぬふりを通すようになっていた。鉄筋の建物で暮らすようになってから、雨はただの湿気くらいの意味しかなくなってしまったのかもしれない。湿気は「むしむしする」と嫌われ、エアコンはフル活動で空気から水気を絞り続ける。「暑い」という声も聞こえてくる。もちろん私だってむしむしすると感じ、暑いと感じはするけれど、リモコンを片手につぶやくそんな言葉には、湿度や温度の変化に対する過剰な嫌悪、ほとんど恐怖に近いものがこめられているように思われる。エアコンをつけても部屋の温度が安定するまで少々の時間が必要だがそれが少しも待てない。体温が上昇すると体の一部が溶けくずれでもするのだろうか、そのあわてようといいヒステリックな様子といい、見ていて気の毒に思われる。今の時期からこんなに強いエアコンの風を浴びていて、この人たちの体はこれからの季節を気持ちよく越せるのだろうかと、おせっかいな気持ちもないわけではない。

体の水はけをよくするのはだいじだ。体内の血液や水のめぐりが順調であれば体に熱がこもることはなく、湿気も暑さも恐がる必要はない。たいていの湿気も温度も気持ちよく過ごせるように体はできている。自然の季節のめぐりをそのまま感じて過ごすことが一番快適に感じられもし、最終的には一番ラクに生きてゆく選択にもなる。しかもここは日本。地球上でも温暖でマイルドな気候のほうだ。エアコンを使えば使うほど、自分が気持ちいいと感じる幅がせばめられてゆく。快の領域がせまくなれば不快な領域は広がる一方である。最終的には自室に閉じこもるしかない。エアコンにつくってもらった環境の中でしか暮らしたいとは思わなくなる。

このまま一晩中、河の音をまくらにして朝まで過ごしたい。心の奥まで水に洗い流されていたい。そうも思ったのだけれど、夜半に増水しやしないかとやきもきしてまで過ごす執着はないのでテントをたたむ。片付け終わった後の地面には、さきほどまで寝転がっていた自分の痕跡がかすかに残っている。わずかに切り取られた貴重な時間がそこには確かにあった。「ありがとね。ここはほんとにいいところだった。また来るよ」。
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