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あなたの体は喜んでくれているか
2010/06/28(Mon)
陶芸と健康法は似ている。炎の芸術、陶芸は火が加わって偶然による作用がまた魅力であるが、火は偶然ではなく自然のルールに忠実で、人間の感覚にとらえきれないものを偶然と呼ぶだけのことだ。火には火の自然のルールがある。自然のルールを免れるものなどこの世に一つもない。

「この子は赤ちゃんのとき健康体操教室に通わせていたのに」。
そう聞いて、ああなるほどと納得がいった。2歳から数年間、体操教室に通ったというその子は体が尋常でないほど固い。一体どうしたらこんなに固くなれるのかと疑問だったのが氷解した思いだった。ついでにいうとその子はもう長年難病に苦しんでいる。
操体法にも赤ちゃん用があるけれど、それはいくつかのポイントをやさしく刺激してやるというもの。やさしい刺激に応じて赤ちゃんは「自分の好きなように」体をくねらせる。「好きなように」動いた動きによって、体に備わった自然の調整機構がはたらき始める。

生きものへの働きかけには、よそからの意志や強制の入る余地をどれだけ少なくできるかがポイントだ。体そのものの持つ力を発揮させてやるには人間の勝手な願望や希望的予測をできる限り排除するのが重要ポイントだということを、自分自身いつも戒めにしている。赤ちゃんなどは「やめて!そんなふうに動かされると違和感があるんだから」などと言葉で表現しないから、快・不快の反応はよほど注意深くしないと見落としやカン違いが容易に入り込んでしまう。拷問に等しいことをやったとしても気づかないかもしれないのである。
人間のやることには副作用や思い違いや計算ミスを免れることは一つもない。「これは赤ちゃんにいいんだ」「体にいいはず」では自然のルールを読み取ることはいつまでたってもできない。自然のルールを踏みはずせば、すぐには被害が出なくとも踏みはずした分の請求書は確実に支払わされる。かなしいことに自然の時計の針は人間の時計とはスケールがまったくちがう。請求書が来たときにはこちらではもう何をどうしたのだかすっかり忘れている。何のツケを払わされているかわけがわからないまま支払う。人間中心主義は自然には通用しないのだ。

今朝のウォーキングではそのような考えがとめどなく浮かんでは消えていた。ふと「このウォーキングは私の体によろこんでもらえているだろうか」と思った。私の体が、こんな私との出会いに感謝してくれていればいいが。そんなようなことも思われたのである。妙にも聞こえるだろうが、そのとき自分は確かにそのようなことを感じていた。
「私」というものはどこにあるのか。体は、私であるのか。いや、「私の体」というからには私と体はイコールではない。それでは心が私であるのか。いや、心が自分の意のままにならないという事態はよくあることで、心は私とイコールではない。こうした問答は宗教ではめずらしいものではなく、『ブッダの言葉』にもブッダが弟子に同じような質問をしている。あなたはどこにあるのか。あなたは体か。あなたは心か。弟子は自分が体とも心ともイコールでないと返事せざるを得ない。よくよく探してみると「私」などは実体のないものなのだということがわかってくる。そのような実体のないものに執着するのは愚かなんだよとブッダは教えてくれている。
そこまで執着をなくすことは今の自分にはできないけれど、実体のないものに自分が執着しているということは理解できる。そしてそれが大変愚かなことであるとともに、自分の苦しみの源であるということも。
「私の体は、私の心は、私がこうすることで喜んでくれているだろうか」という発想で体を動かすと、自分の思い込みの強さが少し減る。かたさがいつもよりすっと消えていくのがわかった。「自分というものをぜんぶ捨て切れるとコリは最高にとれて最高にラクになる」と師匠が言っていたのを私は思い出していた。

ああ健康法と陶芸は似たようなものだなと、そのときふと思った。陶芸を初めて体験すると、窯に入れる前の自分のつくったものと、窯から出てきた後のものとが、あまりに違うのでおどろく。「これがあなたのだよ」と言われないとわからないくらいに変わり果てているのだ。陶芸は、おおらかな心持ちでないとできないというようなことを言う陶芸家もいる。結局最後のところは偶然にまかせるしかない。偶然にまかせる要素が大きい。それが楽しいんだという。
陶芸家は火は偶然ではないということも承知している。火には火の自然のルールがあり、窯の火は偶然に燃えたり温度を決めたりはしない。人間の感覚レベルでは偶然と片付けるしかないので偶然というだけのこと。所詮、人間には限界がある。窯を開けるたびに、陶芸家は自分の限界を思い知らされることであろう。
それでも陶芸家は成功なり失敗なり経験を積み重ね、積み重ねた経験による推測を怠らない。自分の計算と、自分の計算を圧倒的に上回る要素とを、計算し、偶然を偶然で片付けはしない。
こうした陶芸家のような姿勢で自分の心や体に目を向けなければ、ほんとうのところはわからない。ほんとうのところがわからないからこそ、このような姿勢が必要ともいえる。ちまたで「治った」「効いた」と安っぽくいわれるほどにはカンタンに済まされないものなのである。
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