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自分のからだのほんとうの実力というものを知らない
2010/06/25(Fri)
人間が自分たちの科学技術を高度技術などと自ら誇るようになると自然の力を見くびるらしい。肉体労働が生活から失われると体の大切さ・有難さが日常では実感できず、自分たちが日々生きていられるのは自然の力の発揮によるものだという根本が忘れ去られるようだ。
しかし自分の体の可能性はふだん自分が思っているよりも大きいということが、ほんの少しでも実感できると感動がある。まちがいなく誰にでも感動があるというのを私は自分の目で見てきた。今の時代ほど身体が見くびられている時代もないのかもしれない。自然に備わっている自分たちの能力が、自然の力が、ひどく見くびられているのではないかということを、強く思うのである。
操体法がすごいということを言っているのではない。人間の技術がすごいのではない。最終的には自然にもともと備わっている自分の体の治癒能力がなければ操体法だろうと手術だろうと回復の見込みは一切あり得ない。

一人で自分の体の中を隅から隅まで、奥の奥までもぐりこんで旅をするのもおもしろいが、戸外で人の往来をやり過ごしながら体を動かしたり、何人かいっしょに体を動かしたり、そのときそのときの状況でまた発見があるのでいつも新鮮で飽きることがない。
今回のワークショップの参加者から、「あ~やっとわかった。この感じね~。いや~すごいすごい」という声があがった。月に一度だけでも一年二年と継続していけば、それだけ体の感覚も手に取るようにわかってきて、がぜんおもしろくなる。
ぱっと速く動くのと、ゆっくり動くのとでは、使われる筋肉がちがうし、伝わる力の流れから筋肉どうしの協調関係からぜんぶちがう。見かけは同じでもまるきり違う動きがいくらでもある、とそういう話を何度も何度もさせてもらっているが、こればかりは「ほら自分でやってみて」とやってもらい、「ああ~ほんと!」と体験して納得してもらう以外に伝える方法はない。日赤病院の整形外科の医師から「わたくしども医者は筋肉の勉強はしておりませんので患者さまの筋肉のこわばりにつきましてはこちらでは治療ができません」とはっきり言い渡されたことがある。医師免許の試験では解剖学的な筋肉の知識や生理学的な筋肉の知識を問われはするが、「どこをどういうふうに動かすのにはどういう筋肉がどう協調しあって動くのか」「どこがどう動かなくなった場合は、どういう筋肉の協調関係に問題が発生していると考えられるか」といったような力学的・機能的なことについては知識ゼロで医師をやっていけるということだから、「自分はシロウトだし」などと遠慮なんかせず、「お医者はプロなんだから」と自分の体を他人に丸投げせず、自分自身の体で実験と観察とをどんどん積極的に続けていくとおもしろいことが次々と発見できる。

手でこぶしをつくるという単純な動きだけでも実感できる。ぐっとこぶしを握ったりゆるめたりという動きをしてみて、手だけでなく腕や肩、全身に伝わってくる印象をおぼえておくとよい。それから次に、ぐぐーっと時間をかけながらゆっくりと握りこぶしをつくる。そしてゆっくりと力を抜いていく。腕や肩や首筋、そして背中にまで、いや足元にまで全身に力が広く伝わっていくのが実感できるはずだ。速く握ることを繰り返して筋肉痛になるのと、ゆっくり握りしめることを繰り返して筋肉痛になるのとでは、その筋肉のダメージを受ける場所もダメージの性質も違っていてあたりまえである。その違いはどういうところにあるかを、より具体的に感じ取っていく。
操体法は、「自分で動くということを通じて筋肉に発生した問題を解決しようという試み」ともいうことができる。どう動けばよいのか基本の動きはいくらもあるけれども、体操のようにただかたちをまねるのではなく、体全体に張り巡らされた感覚神経からもたらされる情報をキャッチするということが根本にある。動きにともなって感じられる「気持ちいいな」と「痛い・つらい・ヘンだ・これは気持ちよくない」といった快感と不快感とを手がかり足がかりにしていけば有効ですよ、やってみてごらんなさいというわけである。

同じ動作やポーズでも、どの筋肉を中心として、どういう筋肉とどう関係しながら動きがつくられていくかによって、動きは千差万別となる。自分の左の足もとに落ちている物をひろう動作一つでも、先に左を向いてから前屈するのと、先に前屈してから左への動きを加えるのとでは、体に伝わってくる感じがまるでちがう。やってみると誰にでもすぐにわかることだ。
ふだんはこんなことに関心を持たないが、ぎっくり腰や寝違えなどをやると、ちょっとした動きの違いで何でもなかったり、ぎくっと激痛にやられたりするので大変わかりやすい。また、「ふだんはどうということはないのだけれど、どうかした拍子に痛みが感じられる・ひっかかりが感じられる」といった訴えも多く、その「どうかした拍子」というのは偶然ではなくて、問題のある筋肉が、問題のある状況にさらされたときに痛みやひっかかりが感じられるのだから、少し慣れてくると「こういう順序でこういう動きになったときに、どこが、どういうふうに、おかしくなるのだな」とはっきり具体的に自分でわかるようになる。そこまでわかれば出口はすぐそこである。基本的な動きで左右の不均衡をそろえるやり方でもよい。押さえて痛みが一番強い圧痛点をとらえ、痛みが消える動きを何度か繰り返すでもよい。ほんとに感覚が正しければ、体をちょっとゆするだけでも「あ?」という間に変化するのがわかる。やり方はひどく単純なのだ。

言葉で書くのは実にたやすいことなのだが、ほんとに体験してもらうのには工夫がいる。その工夫をこらすのが自分の役目と思っている。人間が自分たちの科学技術を高度技術などと自ら誇るようになると自然の力を見くびるらしい。肉体労働が生活から失われると体の大切さ・有難さが実感できず、自分たちが日々生きていられるのは自然の力の発揮によるものだという根本が忘れ去られるようだ。
しかし自分の体の可能性はふだん自分が思っているよりも大きいということが、ほんの少しでも実感できると驚きがあり感動がある。まちがいなく誰にでも感動があるというのを私は自分の目で見てきた。今の時代ほど身体が見くびられている時代もないのかもしれない。自然に備わっている自分たちの能力が、自然の力が、ひどく見くびられているのではないかということを、強く思うのである。
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