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質素で最もぜいたくな雑草食
2010/04/08(Thu)
雑草などを食べていると、いつどこで何を、どう採取するかが気にかかる。今の社会は「いつでもどこでも同じもの」を目指すが雑草はいつも同じではない。
早春の芽ぶきというのは生きものにとって特別な意味を持つ食べものだ。
昨春はタケノコ騒動について書いたが、今年のタケノコは早めに済ませた。まだ地中にあるタケノコを掘りあげ、掘ってすぐに先っぽの数センチを生のままいただく。3~5個分も食せばよいという。えぐみのあるのは無効というが私が掘りあげたのはすでにえぐみがあったのでその有効性は少々気になるところだ。
先日は、海岸そばに住んでいる方からワカメの採取に誘っていただいた。採りたてのワカメやメカブはこれまで自分の知っていたものとはまったく別もの。何を食べるかということはよく話題にされるが、いつ、どこで、どのように採取されたのか、それは重要なことのだ。

初心者の域を出ないけれども私は「食べる」ことそのものは目的にしないので、お金を出して山菜類を手に入れるというのとは何だか違う。私がふだん雑草を食べるのは、自然とのつながりが目的だ。ただ山頂に登ったり、お花畑を眺めたり、森や林の中をうろつくだけでは自然とのつながりが今一つのように感じられた。野草や山菜は、私が自然とつながりを持つのに手っ取り早い。いつ、という時期がどれだけだいじなことか。どこで、という場所の問題がどれだけだいじか。そして草の勢い、生命体の勢いというのが、どれだけだいじなことか。そうしたことが植物を観察していてわかってくる。それが次第に自分の生き方を決める基準としても常識として受けとめられてくる。生きるとはどういうことかというのを野外の植物が具体的に見せてくれている感じがする。現代社会はいつでもどこでも何でも同じということが尊いこととして追求されるから、それとは逆行といえるのだが、時間も場所も限られ、生命の勢いのタイミングにも限定された自然のあり方、生きもののあり方というのは当然といえば当然ことであり、だからこそ心地よく感じられもする。食べることもだいじにしているつもりだが、食べることに目がくらんでしまっては元も子もないではないかと思う。

食糧自給率の数字を見ていて私は相当なギャップを感じてしまう。あれは、食糧はすべて生産されるものとして数字をはじき出す。そういう「食」と、私の日常の「食」とはずいぶん異質な感じがする。自分が「きょうはあそこだ」と思いついた場所で、「これこれをこれだけ摘む」と決め、自ら採取したものをすぐに調理しその日の食とする。雑草がなくても自分は死なないだろうけど、これをやらなければ自分の生活はとたんに味気ないものとなるだろう。草なんかタダなのだから質素といえば質素。しかし、その場所を見つけるまでには相応の時間と体力を費やしてある。そして一本一本、自分の一番気に入った勢いのあるものを選ぶ。分量は、自分の必要で決まるというより、自分の見つけた群生地が痛手を被らないもしくは採取されたほうが草にとっても都合よかろうと思われるくらいのところでおのずと決まるような感じ。
このような採取行動は現代社会では「肉体労働」の代表であり、自分自身の手で行うよりも、分業で他人にやらせるか機械にやらせるほうが、そしてもっと計画的能率的に進めていくほうが、より文明的でぜいたくなこととされる。しかし出かけるたびに確信するのは、こうした自然採取こそ今の自分にできるもっとも楽しくぜいたくな文化活動の一つにちがいないということだ。

食用となる植物が生きていく場所は貴重である。代替地などあり得ない。そして植物のやることには無駄がない。それが雑草を見ているとわかってくる。自然が貴重ということが、現代社会の枠組みの中だけで暮らしていると、まるでわけがわからなくなる。人間の世話も受けずに生きてゆく雑草たちを食卓にのせてみれば、おもしろい地平線が見えてくるかもしれない。
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