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生きてる実感を見失わないということの難しさ
2009/12/27(Sun)
中高年の自分から見れば高校生などは若くてうらやましいと映る対象であるはずだが実際に接すると実に不自由な体だ。うつ伏せの姿勢がラクにできない。右を向いても左を向いても肩や上半身が浮いて傾く。腰や背中に触れるとガチガチである。
こういう人と話をしてみると「自分は健康人だ」と言う。日常生活べつに困らないし。かまわず聞いていくと「立つのは苦手」という。少し立っていると腰がだるく感じる。「長く寝ていると腰が痛くなる」というのでどのくらい寝るとそうなるのと聞くと、へらっとして「時間あれば一日中かな~」。そのうち、「やっぱ体うごかさないとダメですかね~。歩くのは苦手で~」。運動のためと称してわざわざ運動時間を設けなければならないこの「豊かで便利な」現代生活にまとわりつくどうしようもない不便に思わず苦笑する。…続く 福岡操体法スタジオ「『便利な』生活の中で見失われそうな生きてる実感」へジャンプします。
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あなたにとっての名医は生まれたときから専属でついています
2009/12/18(Fri)
予防接種しないと医者にみてもらわないと現代医学の治療を受けないと、と右往左往しなくても最強の名医が一人一人に与えられている。人間はどんな優秀な人でもミスをするがこの名医は決してミスをしないというからありがたい。…続き 福岡操体法スタジオ「決してまちがわない名医が誰にでも専属でついている」へジャンプします。
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テレビや新聞とは別の意見を自分はいくつくらい知っているだろうか
2009/12/09(Wed)
インフルエンザ対策に社会的判断を下したのは行政である。役人たちの判断に疑問を呈し続けている専門家は元国立公衆衛生院疫学部感染症室長の母里啓子さんをはじめ少なくない。どういう考慮で下された判断なのか、それぞれが自分の頭で考え直してみる必要があるかもしれない。あらゆる健康問題については行政の方針があり、行政の方針は法律によって大々的に進められる。テレビや新聞もこと健康に関する限り、行政と歩みをともにする傾向があるらしい。しかしだからといってそれが最高のやり方とは限らないし世界の医学的傾向でもない。一握りの人間の判断や決定に自分の生命や健康をあずける必要はない。ましてやその道のシロウトが下した十把一絡げの判断など危なくてしょうがない。

早期発見・早期治療でガンも撲滅されつつあるという意見はテレビや新聞でさかんに報道されるが、健診や検査で見つかる「早期ガン」とほんもののガンとは別ものだという指摘はずいぶん以前から専門家によってなされている。「治療されたガン」の合計数はずいぶん増えているが、治療しなくてもどうということのないものまでどんどん切って「医師らが治したガン」の数にカウントし、数の上では「撲滅されつつある」ことになっているが、じっさいほんもののガンとなると有効な手立てはさほどない。それどころかかえって大きな苦しみをもたらし死を早めているという。経験も実績もじゅうぶんの医師、近藤誠さんの意見である。
たくさんのガン患者を食事療法で治療してきた実績を持つ人も、森下敬一医学博士をはじめ、少なくはないが、これは行政の方向とは別のものなのでテレビや新聞で報道されることはまずありえない。報道は案外と行政や企業と意見を一致させながら動く。健康問題に関する限りはそう言わざるをえない。テレビ製作を担当するのはテレビ製作のプロである。まずは自分たちの立場をわきまえ、仕事を守るのが先だ。しかも彼らは生命や健康についてのプロではないからどっちにしろ危なくてしょうがない。テレビや新聞の意見と自分の意見をすり合わせていては自分や家族の生命も健康も守れないのかもしれないのである。

自分の頭で考えているようで、いつのまにか全員の意見がテレビや新聞に一致しているように思われるのはなぜだろう。テレビや新聞の意見以外にも新しい事実はいくらもあるが、それに触れる機会があったとしても「常識からはずれている」「極端な意見」「あやしい・うさんくさい」ように思われ、油が水をはじくようにはねつけてしまうものなのかもしれない。しかし何かの拍子に一つの事実がひょいと飛び込んでくる瞬間というものもある。その瞬間、テレビや新聞の意見はたくさんの意見の一つ、もしくはマスメディアとしての偏りを持った多くの意見の一つに成り下がる。そうなってくると芋づる式に別の意見がいくらも出てくる。どうしてこれまで見えなかったのか聞こえなかったのか不審に思うくらい、身近なところにもあることは、ある。
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バランスをとっていくということ
2009/12/05(Sat)
一度外で寝ることを覚えるとやめられなくなるものらしい。もうやってないんでしょ?と心配顔で訊かれるたびに、こういうことは黙って実行するのが一番スマートなやり方なのだと思う。大学でカナダ文学の講義を担当していたカナダ人女性のことをふと思い出す。まだ日本に来たばかりでなにもわからないと言い、教壇の上で戸惑っているようだった。「カナダではこんな高いところから一方的に講義をすることはなかったし、現地の先住民のお母さんたちが教室に赤ちゃんを連れてきていたりもしたわ。泣きもせずとっても静かにしていた」などとカナダでの様子を話してくれた。東京の生活になじめそうにない人で、見ていて痛々しい感じがしたものだ。「あなたたち日本人は森の中に寝に行ったりは、しないの?」ある日、彼女は朗らかそうに質問したが、教室の反応はほとんどなく、反感ともとれるほどの無視にさらされた。彼女はそれでも一生懸命、説明し続けた。自分の話すことばがどのくらい通じているのか、はかりかねる様子で口早に説明を続けていた。それによると、自分のいたカナダの町では一般の勤め人も週末になるとテントや寝袋をザックに背負い、森の中で過ごしに行ったりするのだという。それをカナダの決まり文句では何とかいうそうだが私には全く聞き取れなかった。自然の中で野宿を楽しむ? 東京のど真ん中で、そういうことをしないのかと質問するこのカナダ女性のことを、私は少々クレイジーだと思った。もう二十二、三年も前のことになるだろうか。

一度外で寝ることを覚えてしまうと、やめられなくなる。というか、人工的な住環境で平気で寝起きを続けるほうが生きものとしては異常事態だということに気がつく。トラックやバイクのエンジン音は絶えることがなく、時には床が揺れるのを感じることもある。日照も空気ももちろんよくない。鉄筋コンクリの建物で暮らすと寿命が縮むという研究もある。寿命が縮むというのは単に長く生きられないということではない。日常生活の質の低下、心身に無理を強いられることを意味する。それに気づいたり実際にうつ病の発症などで田舎暮らしを始めたという話は挙げればきりがない。しかしこっちかあっちかの二者択一ではなく、他にどうにかならないかと思うわけである。拠点を大幅に変えることなく、もう少し快適にできないかと考えた結果、いや考えもなく動き続けた結果、行きついたのが週2回ていどの野宿生活だ。適地はなかなか見つからないが皆無ではない。最近はどこを通りかかっても「ここならテントを張れるだろうけど空が見えないな」とか「ここは快適だけど傾斜があるからなあ」「ここは駐車した車から離れすぎる」「人が来る」「イノシシのヌタ場だ」などと土地の鑑定ばかりしてしまう。よい地面はとっくに何かに利用されているし、人間が利用していないところは動物たちが使っている。全ての条件を満たすところはないが、たった一晩を過ごすだけのこと。うまく折り合いをつけるということも学ばさせられる。失敗もある。布団で寝るのはほんとにラクだという発見もある。しかしラクな布団も長続きはせず、いくつかのキャンプ地候補からその日の夜のねぐらを決めて出かけてしまったりもするのだ。そうした行き来がじょうずにできているうちは自分なりのバランスがとれた状態だといえるのかもしれない。
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しないでもいいがしないでは済まないような日常の中で
2009/12/03(Thu)
昨夜、ベランダが意外に明るいのに気がついた。ああ月が。満月あるいはそれに近い。そう思ったらそのまま支度をして外に出た。
ここ一ヶ月ほど知り合いの仕事の関係でややごたついている。「やらない」と一言断れば済むようなものだが、そういうわけにもいかない事情もあり、小さいしわ寄せが重なっている。気づかぬうちに、幾重ものしわしわが重なって頭の中にもやがかかったようになる。気ぜわしい感じがつきまとい、熱がこもっているような力みがつまっているような、妙な具合になる。

そういえば子供のころもしょっちゅうこんなものを抱えて持て余したものだったと思う。家族でわいわいしているうちに、学校でがやがややっているうちに、なにかいっぱいいっぱいになってわけがわからなくなってしまって、それで抜け出して一人になるようなことが少なくなかった。出かける先も決めないままぶらぶらするうち、足は人気のないほうへと向かい、細い小道の続く野原や空き地に出る。歩きながらかたわらの深い草むらの草といっしょに風を受けていると、熱っぽいもやが吹き払われる心地がして、やっと息がつけたというか体からほっと力が抜けるというか、そんな生き返ったような気持ちがしたものだ。
誰もいないだだっぴろい冬のキャンプ場に車をとめる。ヘッドライトを消すと、いきなりのようにしんとした静けさに包まれてしまう。月の光が地面の草一本一本をくっきりと浮かび上がらせ、木々の根元に濃い影だまりをつくっている。運転席を降り、暗い風景画の中にそっと足を下ろしてテントを張る場所を見つくろう。近くの木立からキイキイ甲高い声がしたかと思うと、大きな陰のかたまりから小さなものが飛び出してきて真っ直ぐこちらへ走ってくる。いさかいでもして追われたのだろうか、私の存在などまるで気づかない様子である。おいおいと思わず呼びかけると、その小さなものはゆるやかに左手へ逸れてゆき、そのまま茂みに突っ込んで行ってしまった。タヌキのようにもあった、などと思いながら草の短く刈られたところにテントを張り、寝袋におさまって夜空を見上げる。夜露に濡らされながらまぶしいほどの月の光を浴びて夢とうつつの間をさまよう。たわけた夢を見たかと思えば目を見開いて月の在処を確かめ星座の位置を確かめするうち、前後の見境もなく眠り込み、気がつけば近くの寺の早朝の鐘の音の、おおんおおんおおんという響きの中で目が覚めている。

テントを手早くたたんでしまい込むと、ついさっきまで自分のねぐらだったところもただの草地でしかない。いつものようにそこらの小高い丘を歩き回り、鹿の啼き交わす遠くかすかな声を耳にしながら朝日の中で体を動かしたあと、仕事場へと直行する。しないでもいいような、それでもしないでは済まされないような、そんな日常へと向かって、車を走らせる。
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