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ネコはロケットを飛ばさない
2009/08/31(Mon)
イザというとき、ネコと人間どちらが強いか。カンタンに結論は出せない。本当の危機には備えが通用しない。備えがあるのも強みだが、備えをしないのも強みなのかもしれない。体を張って生きることを選択したネコ族たちの身体の持つ底力ははかり知れないものがある。
バーベルのそばに寝そべってまん丸い目でこちらを見ている子猫の姿がCMにあったが、ネコはジョギングにも健康体操にもまったく興味はない。好きなだけごろごろ寝ている。それでいて机の上にでも窓枠にでも気が向けば正確なジャンプで登れるのだし、目のくらむような高さのへいも平気で歩き、飛び降りる。身体機能バツグン。筋肉の出来が違う。人間には真似できない。ネコ科ならではのものだ。…続き 福岡操体法スタジオ「ネコが宇宙に向かってロケットを飛ばさないわけ」
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血液型で人を見るのは人類の血液が4種類だと認めることになりはしないか
2009/08/29(Sat)
百年近くも前に発見されたABO方式。これで性格を占うのなら人間の血液はRhを含めてせいぜい8種類に限られることになるが現在では血液型は数億、数兆にも区別ができる。同じ血液を持った人間などいないということなのである。 …続き 福岡操体法スタジオ「人間の血液型は4種類?それとも数兆種類?」へジャンプします。
医学が「進歩」するにつれ、人間の精神や心のはたらきの違いは認められる一方で、人間の身体のはたらきのほうは機械のように「みんな同じ」という人間機械論が強化されていく。血液も心臓も腎臓も機能すれば誰のものであっても「同じ」、だから交換も可能だし、そうした部品のようなものを寄せ集めたものが人間の身体であるといった見方がいつのまにか身についている。そして「正常値」がいつのまにか決められていて、体はその基準値をはみ出すと「異常」という烙印を押されて医療処置を受けなければならなくなる。よけいな医療処置はあらたな不都合をもたらすから身体にとってはなんとも迷惑な話。息のつまるような身体の管理にさらされた時代に私たちは生きているのだと思う。
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今年最後の夏の日を砂もぐりにかける
2009/08/29(Sat)
フグの毒にあたったら、川でも海でもよいから砂に深くもぐれ。土の中でもかまわない。体の毒は砂や土が吸い出してくれる。昔の言い伝えにそうあるらしい。 …続き 福岡操体法スタジオ「最後の夏の日は、絶好の砂日和でした」へジャンプします。
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他人の磨いたダイヤの輝きでは満足しなくなったとき
2009/08/25(Tue)
我慢することはない。自分で自分の体を調整するのはタダだ。心ゆくまで時間と手間をかけ、思う存分ラクになればいい。そう気づいた瞬間から、私はがぜん欲張りになったように思う。

他人に自分の体の調整をまかせていた頃の私は他人に磨いてもらうダイヤの輝きでじゅうぶん満足だったのだ。しかし「ラクになった」「よくなった」イコール「以前とくらべて」「ひどかった時期と比べて」という条件つきだったのである。
 …続き 福岡操体法スタジオ「ほんもののダイヤがほしければ自分で磨くしかない」へジャンプします。
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お店に置いてきた夢を、閉店まえに回収しに行く
2009/08/22(Sat)
セール初日。午後であった。お店はすでにあってないようなものだった。
福岡で一番好きだった山用品の店が閉店される。東京の本店、横浜、大阪の支店なども閉店されるという。閉店セールの初日と二日目に出かけていった。
福岡操体法スタジオ「無頓着に買われていく山用品の店の閉店セール」へジャンプします。
福岡操体法スタジオ「守りのゆるい閉店セールのお店にて」へジャンプします。
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軽いケガの治癒にはどのくらいの時間がかかるのか
2009/08/21(Fri)
交通事故で負傷したときは三ヶ月時効説ともいうべきものが存在する。負傷者本人はわからなくても医者も保険会社の担当者も「三か月を目安とする」。治ろうと治るまいと「三か月で治ったことにする」のが日本社会の常識である。負傷者が「三か月時効説」を受け入れず、自分の体の時間の流れに誠実になろうとすれば「後遺症認定の申請書を出しましょう」と勧められる。「治療を続けても改善は見込めない。あなたには治らない後遺症が残った。それを認定機構に認めてもらえ」というのである。
ケガがいつ、どのようになったら治ったといえるのか治らないといえるのか、その独自の基準を今の病院は持たない。交通事故の記事には「全治○週間の軽症」とか「全治×か月の重症」とかカンタンに書いてあるが、あんなもの目安にもなりはしない。形式的に誰かが決めただけのこと。事実に基づくものではない。

昨年の11月にせいだいにやらかした足首のねんざは、そういう意味ではもうとっくに時効が成立している。とりあえず自分でも治ったということにしていたのだが、先日、何かの拍子に不気味な音を立てて痛みが走り、以降、劇的な改善をみせた。それまでの9か月は「治っていなかった」ということを見事に証明してみせたともいえるのである。…続き 福岡操体法スタジオ「一瞬の、コキンという音一つですべてが変わってしまう」へジャンプします。

足首のねんざに9か月というのは回復が遅すぎと思われるだろうか。早いか遅いか、私にはそういうのはさっぱりわからないが、子ども時代の足首のねんざを数十年単位でかかえこみ、それと気づかずに不調に苦しむ人も少なくないというから、治ってスッキリしただけでもずいぶんありがたいことである。
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空を駆けめぐるようにいくらでも歩いて疲れ知らずでいたい
2009/08/14(Fri)
疲れない歩き方というのが私にとっての「正しい歩き方」。歩き方レッスンというとついのぞきたくなるが役に立たないことはわかっている。なぜなら安全で正しい歩き方をよく知っているはずの、山歩きのベテランが、何でもないところで足を滑らせて命を落とすのはめずらしくないからだ。事故となった途端に判断ミスや天候などの諸条件の話になったりするが、滑落事故の場合では結局のところ、一歩一歩の足運びが命を支えているといえる。「足が疲れる」というのは一番危険な歩き方だといえるだろう。

ウォーキングの歩き方、山の歩き方など、歩き方講座は人気があるけれど、歩くというのは実際には習わなくてもできることだ。正しく体を調整すると、なにも意識していなくても本人なりのベストの歩き方が実現されている。努力不要。お手本もいらない。本人が「足が軽いなあ、歩くのがずいぶんラクになった」と感じるだけでよいのだ。…続き 福岡操体法スタジオ「ほんとうの歩き方レッスンで正しい歩き方を身につけたい」へジャンプします。
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はずれる期待とはおさらばして、本当の希望をはぐくみたい
2009/08/10(Mon)
病気になると「一気に目覚しく健康体になる」ことを期待し、そうでなければ「全然なおらない」と落胆する。一喜一憂を繰返すうち疑心暗鬼となるのが病気のほんとの怖いところだと思う。

一気に健康体になれるものなら、それが一番いい。そのことだけを念じて信じてゆけるものなら実現しないとも言い切れないが、たいていは信念がはんぱだから、大きく期待→大きく裏切られるということを繰り返すうち、またダメなんじゃないかとビクビクし始め、「少々のことではなおらないに決まってる」と強迫的に思い込んでしまうようだ。
病気をするとまたいろんな人がいろんなことを言いにくる。「こうすればいい」「ああしたからいけないんだ」という具体的なものから「名前がわるい」「前世がよくなかった」とかいうようなあいまいなものまで実にさまざまであるが、病気が治ったとわかるとぱっと散って行く。人っていうのはそんなものなのかなと思う。…続き 福岡操体法スタジオ「自分の期待がはずれなくなる『前とくらべて、どうか』」へジャンプします。
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小さい違いが大きな結果の違いを生むとしたら
2009/08/07(Fri)
体の動かし方のちがいについて考えている。橋本敬三医師の姿が残るDVDで映像を見る限り、体をこわす動きと元の体に戻す動きの差は紙一重だ。
「このままにしておけばいいのに、さらにこう、するから、自分でわるくする」説明を聞きながら「いい動き」と「わるくする動き」を見ていて思わず「うーん」とうなってしまう。見れば違いは誰にでもわかると思う。しかしその程度の違いを自分の動きの中に見つけて改善するということになると、おぼつかない。
しかしそんな紙一重の差が大きなちがいを生むとしたら一大事ではないか。…続き 福岡操体法スタジオ「体をこわす動きと元に戻す動きは紙一重だということ」へジャンプします。
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地上に生きられる動物の数には限りがあるのではないかということ
2009/08/04(Tue)
どんな肉を食べるにも、まず飼育。食べたい肉を育てる。それが畜産である。畜産で食べる肉を増やせば地上に生きる動物の数も増える。畜産動物の数が増えると野生動物はそれだけ数を減らし、人間の数も制限することにつながる。というのは、動物が生きるのには食べ物と飲み水が必要だが、畜産で動物を増やしたぶん、穀物や水をどこかから別に持ってくるということもできず、人間が食べたくても食べられない穀物、そして人間が飲みたくても飲めない水をも、牛のもとに運んでいって飲ませ食べさせるということになるからだ。食糧問題・食料危機といわれる問題も、地上で利用できる水と、生産できる穀物に限界があるから言われることである。

将来映画化されるかもしれない『まだ、肉を食べているのですか』という本。この題名は見ればそのままという感じだから長いこと敬遠していた。何をイメージするかというと、「肉食と健康との関係」または「流通している肉の安全性について」。
しかしだんだん読んでいくうちに、文具やテレビを増産するのと同じような感覚で、牛や豚などの動物を増産することはできない話なのだと感じる。地球の自然環境と生態系に対して酪農や畜産がどれほどの負荷をかけ、土地を荒らしていくかということを、ひしひしと感じてしまうのである。 …続きは 福岡操体法スタジオ「 『まだ、肉を食べているのですか』という書名について」へ

そういえば岩波新書『バナナと日本人』や『エビと日本人』という本のことを思い出した。日本人が輸入バナナや養殖エビを「うまいうまい」と食べることが、どういうことで成り立っているか、喉がつまりそうなレポートだったと思うが、それらもまた読み返したいと思う。
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