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治療をしてどうなりたいですか?ってきかれたことがないけれど
2009/05/10(Sun)
考えてみればおかしな話だ。治療をして自分はどうなりたいか。それは一人ひとりちがうはずである。しかし私の通院経験では「うちで治療を受けてどうなりたい?」と訊かれたことはない。
もちろん、手術だろうが薬だろうが生活改善であろうが、いかなる治療法も病気をなくし回復するというところにゴールはある。しかし「とにかく痛みをすぐにとりたい」「死にさえしなければ、生きてさえいればいい」「自分の力でふつうに生活できるように」「激しい職務にも耐えられるように」など、考えは人それぞれで、「治療をしてどうなりたいのか」は個人の人生観や生命観とも関わる重要なことがらである。だから治療法にもいろいろあって、自分が求めるものを選び、決め、そして自分の治療にみずから取り組み耐えていくこともできるのだろうに、実際にはそんなことを訊かれることはなく、それどころか、「いったい自分はこの治療を受けていてどうなるんだろう」とか「ここは自分をどうするつもりなんだろうか」などと思いわずらうことさえあるくらいなのだ。
しかしいきなり面とむかって「治療してどうなりたいですか?」と質問されたとき、具体的にハキハキ答えられる人はどのくらいいるだろうか。

「3つの願い」のお話を子どもの頃に知ってから、自分なら何を願うだろうかと折にふれ考える。
料理屋の夫婦の目の前に、突然あらわれた神さまが「3つの願いをかなえてやろう」と言うのである。夫婦はうろたえ、戸惑う。長生きがいい。いや苦労ばかりの長生きじゃ何もならない。金持ちがいい。思案をするうち腹が減り「おいしいソーセージが食べたい!」思わず言ったものだからソーセージがどかっと降ってくる。あわてた夫婦はケンカを始める。売り言葉に買い言葉。「そんなソーセージなど、お前の鼻にくっついてしまえばいい!」夫が叫ぶと奥さんの鼻にソーセージがくっついている。願いはあと一つ。「ソーセージが鼻からはずれますように」。
この夫婦の愚かさはとりもなおさず私自身の愚かさ、誰にでもある愚かさでもある。自分が何を願うことが一番よいことになるのだろうか。そう自分に問いかけるたびに戸惑いを感じないことはない。「3つの願い」のお話が時代をこえて伝わってきた意味はそこにある。

苦しみの中にいるうちは、自分が何を望むのが一番よいことになるかなど、思案するよゆうもないかもしれない。しかし一つの苦しみを乗り越えれば、その先にはさらにまた次の苦しみが待っているというのがこの世の常ではある。「自分はどうなりたいのか」。その問いかけは、いろんな段階ごとにていねいに考えてゆく必要があるのではないだろうか。問い続けることによってはじめて治療法を求め、選び、決めるということが可能になるのではないかと思う。
「治療して自分はどうなりたいか」という質問にハッキリ具体的な返事ができないのは、交番に行って道をたずねるときに「私はどこへ行きたいんでしょうか」と言うのと同じことになる。交番のおまわりさんなら「キミぃ、どこに行きたいかくらいは決めてくれないとこっちも困るよぅ」と言ってくれるかもしれないが、病院のほうは「そうですか。それならこちらで適当にみつくろっておきましょう」というおまかせ治療になるだろう。どこのどんなところに足を運んだかによって、その後の明暗がわかれるのは、こういう場合に起きるものなのかもしれない。そう思う。
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