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モノマネって(^o^)ーひとのクセを見抜く(^o^)ー
2019/09/13(Fri)

自分のクセを指摘されるのは苦痛です。
ピアノを習っていたころに、「あなたのは、こう」と、
私のヘタクソな弾き方をピアノ教師にマネされたのですが、
それがとてもリアルでショックでした。
自分のモノマネを目の前でされたら、
「あ、これが自分の姿なんだ」とわかって、
誰でも多少のショックを受けると思います。
自分では自分がそんなふうだと気づいてなかったのかもしれない。
うすうすわかっていたけど、見たくなかったのかもしれない。
自分のクセは、むしろ他人に見抜かれてしまっている。
そのこともショックです。

だから私はやってみせることはしません。
しませんけれど、ちゃんと見抜いてわかってないと、
動きの指導はできない。
ときどき自分ひとりで考えてるときに、
そのひとの動きのクセを思い出して、やってみることもあります。
「なぜあんな動きになってしまうのだろうか」
「どこがどうだから、ああなっちゃうのか」ってことを知るには、
マネしてみるのも有効のようです。
目つき、顔つき、話し方や動作の特徴など、
マネできるところはマネしてみて、
そのひとになりきろうとしたときに、「あ~そういうことかな」って、
わかるような気持ちになることも、あります。


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仏像ですと言われたら黙って拝むのかー運動はただ動けばよいのかー
2016/09/20(Tue)

仏作って魂入れず。これ仏像ですと言ったら、
それで通ってしまうものなど、いくらでもある。

何だって仏と呼んで拝んでかまわない。
それは自由だ。
しかし魂の入ってない仏像は、
美術品、単なる物であって、
それでは仏像としては、なんにもならない。

仏像とはなんだろう。
魂の入ったものだというが、魂は目に見えない。
魂が入っているか入ってないのか。
どう見て、どう判断すればよいのか。
運動もまた、仏。
仏と仏像のちがいのことを忘れずに考えていたい。(了)

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クセのとおりに歪んでいく
2016/09/19(Mon)

やみくもに体を動かしていては、体は歪む。
クセのとおりになっていく。

同じ時間、同じ手間をかけているのに、
故障へ向かうこともあれば、
健康で丈夫へ向かうこともある。

何を望んでいるか。
自分の望みを実現するには、どうすればよいのか。
望みを実現するために押さえるべきポイントは、
どこにあるか。
ここのところは時間と手間がかかる。
時間と手間をここで惜しんでしまっては、
最初からすべて終わっている。

適当で、偶然にまかせていては、
思いつきや思い込みで突っ走っていては、
くたびれ損ということだ。(2)

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たましいは入っているか-よい動き・故障する動き-
2016/09/19(Mon)

「仏作って魂入れず」という。
仏像を彫る。その彫られた仏像が、
美術品となるか。それとも崇拝する対象となるのか。
その区別は、どこにあるか。
仏像に魂が宿っているかどうか。
そこがポイントとなる。

体を動かす。それがスポーツとなるか、
体を土台からつくり直す取り組みとなるのか。
ただのカロリー消費となるのか。
体をゆがめ、故障へと向かう道となるのか。
体をととのえ、健康で丈夫へと向かう道となるのか。

ただてきとうに体を動かしているのでは、
自分がどこへ向かっているのか、
サッパリわかるまい。(1)

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エクボも、あばた? -好きも嫌いも、「きちんと見てない」-
2014/06/11(Wed)
「あばたもエクボ」という。
「好き」というのは「きちんと見ない」ということなのか。

後天的な傷痕「あばた」と、
先天的なチャームポイント「エクボ」の、
区別もつかないというのなら、
きちんと見ないし、理解もしないということになる。

「嫌い」というのは、
「エクボもあばた」ということになろうか。
これもまた、
「対象をきちんと見ない」「対象を理解していない」ということに
他ならない。(続)

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好きもきらいもない-おおらかな感覚-
2014/06/11(Wed)
気に入ったことはやるけれども、
飽きたり、困難に直面すると、あっさり「嫌い」になって、
「次は何をしようかな」と移り気で、
根なし草になる。

気ままなようでいて、それが苦しみのもとであるという。
分かりやすい話だ。

好きも嫌いも、とくにかまわない、気にならないという感覚のほうが、
病気や症状も消えやすい。

そういうのを見ていると、
「好き嫌いを言う自分」「わがままを言う自分」のご機嫌をとっていくと、
ろくな結果にはなるまいと、思われる。

最近の高校生の自己紹介文には、
「好きなことは熱中するが、
すぐ飽きて長続きしない」 と示し合わせたように書かれていて、
じつに驚く。

好きなもので身を固め、自分の気分に振り回されて、
「今の自分は何をしたいんだっけ?」とわからなくなり、
困っているようにも思われる。(続)

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動きの個性を知る-自分を知るという強み-
2014/06/05(Thu)
何の症状も疾患も持たない時は、
「動きのクセなんかどうでもいいじゃないの。放っといて!」
となるが、

腕があがらない、肩がこる、歩行不自由、睡眠障害、
内臓機能の不調などともなれば、

体の動きで発生する、過剰や不足や極端を、
中庸に持っていけばどうでしょうか。
クセを修正し、身体感覚を取り戻せば、
体はもとの状態に戻りますよというのが、 操体法の提案なのだ。

朝と晩に体の調整をやるのは、
生きている限り、体を使っている限り、
何もないということはない、 いろんな不具合が出てくる
ということなのだ。

車なら車の専門がいるだろうが、 自分の専門は、自分自身。
そのはずだろう。(続)

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クセが強くて修正がきかない-自分を知るという強み-
2014/06/05(Thu)
「このくらい、いいや」で済むうちはいい。
しかし、大きな苦痛や災難が降ってきたときに、
自分自身を振り返ってみると、
小さなクセ、自分の傾向の積み重なりが、
見えてくるものなのだ。

いち早くそれに気づいて、クセを、たわめていく。

そういうことを、根本的な体の修正として、
朝と晩に、取り組みましょうというのが、 操体法だと
私は考えている。

どのような動きをするとき、どこに不自然な力みが入るか。

右を振り向lくときはかならず右肩がつり上がり、
耳にくっついてしまったり。
左を振り向くときは目玉だけ頑張って左を向く。
そういうのも、動きにまつわる個性である。

両ひざを右方向へ倒すとき、
わざわざ足首の角度を変える人も多い。
一瞬のその動作に、本人は全く気づかない。

不自然な動作が至るところで行われ、
しかもそれが無意識に行なわれているというのを知ることが、
「自分の動きの個性を知る」ということだ。(続)

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よしやるぞと思う頃には…-いつまでもあると思うな・ないと思うな-
2013/05/02(Thu)
教わろうと思っても教えてもらえなくなる日はいつか来て、あのときが一番めぐまれていたと思い返す日もあるだろうかと考えたりする。
「孝行をしたい時分に親はなし」というが、①よし買うぞと思った時分に~はなし。②よし教わろうと思った時分に~はなし、だ。

絶版の本を買うとき、「よし買うぞと思った時分に、この本はないかも」「よし買うぞと思った時分に、金はないかも」の二つを念頭にエイヤと注文ボタンを押す。
おやつとお酒は平気で買うが、本となると覚悟がいる。飲み食いには「これがないと」と手を出すが、本は買いしぶるというのでは、お猿が買い物するのとほとんどかわらないのだが、酒もあきらめて本を買うという殊勝なことが、いつか自分にもあるだろうかと想像はする。私は衣服をほとんど買わない、化粧品のたぐいには一円たりとも使わない。少々見かけはみすぼらしいが、飲み食いと本のほうに集中している。


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私はどうでもよいことに平気で時間を使う。どうでもよいことに頭を悩まし、どうでもよいことを喜んだり悲しんだりして過ごす愚か者である。
「そんなことで、いつ勉強するんだ? 師匠がいつまでも教えてくれるだなんて、都合のいいこと考えてるんだろう?」と、もう一人の私が説教する。説教するもう一人の私はしっかり者だが、遊んでいる私はふてぶてしくも救いがたい。「まあいつかちゃんとやるから」

「教え手が、もう教えないと一言いえば、それでおわりなんだよ」何かの拍子に師匠とそういう話になったことがある。単なるたとえ話だったはずが、一瞬ヒヤリとした。
我ながら情けないが、講習をやってなければ私はほとんど勉強しないという事実。施術もあるから勉強もする。読み手がいるから書く。
このナマケモノのわたしの生活をたくさんの方に支えていただいている。足を運んで下さる方、読んで下さる方はかけがえない存在、ありがたい存在である。

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②家族や友人とゆったりプライベート実習(2500円/人。三名~2000円/人)
③一人でゆっくり個別実習(一回3000円/人)

 ②と③は日程・時間帯を希望にあわせます。西鉄高宮駅徒歩3分。
 ①と③の組合わせを希望する場合、割引があります。 

※公開講習5月の予定!
  土曜4日・11日・18日・25日と、22日水曜が決定しています。
  いずれも時間は14時以降、飛び入りで自由に入れます。西鉄高宮駅3分。

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 ※ゴールデンウィークも通常通りです。お出かけください。


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心の歩き方はどうなっているか-体のクセを洗い落とす-
2013/02/22(Fri)
傘を握ってバットにみたて、スローモーションでスイングする。傘を握る右手が左手の上ならば右スイング。左手が上ならば、ぐっと体を左に寄せて左スイングである。
ゆっくりと、スイングを繰り返す。右スイングと、左スイング。
どちらも同じ感じだという人は、まず、いない。体は左右対称ではなく、体の使い方も左右対称ではない。だから体を調整してととのえることを知らないままならば、ふだんの動きの偏りから体の偏りが生じ、どこかは酷使され、どこかはあそんでいる。そうした役割が固定化することによって、健康上、何らかの不利益が生じることもやむをえまい。

右スイングの構えでは、右足に体重をのせ、それを左足へと移しかえることで、傘を右から左へと流すことができる。このとき上半身は、右ねじりから左ねじりへと移り変わる。右腰が、ねじりの動きを支える要である。ゆっくりと何度も右スイングをしてみる。角度も変えて試してみる。そうするうちに、「恐らくこの動きなら、このあたりを最も酷使する」などということも、わかってくる。

次に、左スイングを実行してみる。左足に体重をのせ、それを右足へと移しかえることで、傘は左から右に向かって流れてゆく。上半身は、左ねじりの構えに始まり、右ねじりへと収束する。今度は左腰が、上半身のねじれと下半身のねじれを支える要となる。個人差はあるが、右利きの人は左スイングがぎこちない。右利きの人はとくに左側の腰や、肩甲骨付近の筋肉が硬直している人が多いから、左にねじろうとしても、じゅうぶんな角度までねじることが物理的にできなくなっていることもある。

西洋の体の動きは「体をひねる・体をねじる」ものが多い。スポーツにせよダンスにせよ、いかに腰をじょうずにねじるか・ひねるかで、優劣が決定される。ところが日本の先祖伝来の動きは「体をひねらず・ねじらず」である。日本がレスリング得意なのは、必ずしもひねったりねじったりしないで済む競技だからだ。
日本人は、日本人の体にあった歩き方さえ失っていると指摘する声もある。ただ「歩く」というだけでも、欧米と日本とでは原理がまったくちがう。
西洋の人間は、体をひねり、ねじることで歩行してきた人類である。しかし日本人は、体をひねらず・ねじらずに歩行する歴史を重ねてきた。日本人の歩き方の西洋化は「文明開化」の時代に始まる。歩行の変更は、体の中を伝わる力の通り道の変更である。体のバランスが根本から異なり、その影響は全てのしぐさにまで及ぶ。呼吸のしかたさえ違わずにはいられない。異文化とはそういうものである。

「文明開化」のツケが、どこで、どのような形で、今の自分の体を左右しているだろうと思うことがある。「国際化」とは耳に心地よい便利な言葉だけれど、要するに、先祖伝来の体のルールを、欧米方式にあらためなさいということでもあろう。ひねらない・ねじらない日本古来の動きは「なんば」といわれるが、とっくの昔にまぼろし化している。ものの本によると、先祖伝来のなんば歩きを試行錯誤していくうちに、ものごとの感じ方や精神のはたらきまでが根本的に変わってゆくのが実感されるのだそうである。
操体法で体のクセ・動きのクセを少しずつ洗い落としていく作業の中で、そんなところに考えが至ることも、ある。

※三月の公開講習は、三月二十日(水)が決定しております。14時以降の時間帯で自由に参加できます。予約不要です。その他の日程は、決まり次第お知らせいたします。
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治るコツ-できる限り何も思わず体と向きあう-
2013/02/14(Thu)
人に感謝されると、感謝に応えたい、感謝されたいとか、つい思ってしまう。それを励みにするのはともかくとして、善意という名の下心というか心積もりといった落とし穴も控えている。悪意より善意がすぐれているのは確かだが、善意よりもダントツなのは、無為だろう。
やることなすこと何もかも、善意などという下心がやらせることより、もっとよい結果が出るのなら最高ではないか。サイコロを振り出すたびに、出た目がすべて正しい。たとえるならば、そのような状態は考えられないだろうか。

「治してやろう」などという意識が、邪魔。
そんな記述が野口整体の著書には散見される。初心者の頃は、「そうかそうか。治そうと思わないほうが、治せるようになるのだな!」と勘違いし、自分や他人の体に向かうたびに、「治そうと思わないほうが治る。治そうと思わないほうが治る」と念じていた。
要するに、これこそ「治す」「治そう」という意識のとらわれ、こり固まりなのだが、初心者ではそれも仕方ないわけで、だんだんとやっているうちに、「やっぱり何となくうまくいかない…」。とくに緊急の状況では、「これは緊急だからな!何とかしなきゃ!」「何とかしてあげないと!」という気持ちでいっぱいになる。困ったときには「よし、自分を治してやる!」「よし、他人を治してやる!」と思わずにいられない。それが人情というものではないか。

しかし人情で治れば苦労はない。善意のこり固まりから、無為の姿勢へと抜け出していくのは、至難のワザ。
「奇跡のりんご」で知られる木村秋則さんは、「りんごは『つくる』ものではない」と主張する。同様に、「からだは『治す』ものではない」とわかってくるのには、体に向かう時間と、相応の経験とが必要なのではなかろうか。
「治そう」という意識を追い払う前に、自分の中に、そのような意識があるということに気づくのがまた、むずかしい。さらに、「治そうと思わないほうが、治る」という意識を追い払うのもまた、むずかしいのである。
「体を私たち人間の手で何とかしよう」という意識を芽生えさせる、もともとの意識というのは、どこらへんにあるのだろうか。
「テクノロジー(科学技術)で治しましょう」が主流の時代には、自然のはたらき、生命のはたらきという面が死角となっている。自然は人間の意識を超えた存在であるが、科学も医学も自然ではない。あくまで人工である。人間が意識的に収集したデータをもとに、読み取りと解釈を行う中から生まれるものであり、技術は人間の明確な意図から生じている。

操体法の著書には、「自然法則」という言葉が必ず見られるはずだ。自然法則への理解こそが、「治しましょう」などという浅はかな下心を打ち砕く、有効な処方箋ではないのか。私にはそう思われてならないのである。
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二百円のキャベツと二百円の花。どちらを選ぼうか。
2013/02/08(Fri)
キャベツ売場のキャベツの重さは一個1~2キロ。花屋さんの花1本の重さは、種類にもよるが20本30本束ねてやっとキャベツに届くか届かないかである。
それでいて価格はキャベツ1個と花1本がほぼ同じ。
キャベツは重いし、食べられもする。長持ちするのもキャベツである。
「なぜ花のほうが高価なのか」
「なぜ高い代金を払って、食べられもしない花を買う人がいるのか」
そんなことを子供の頃に考えていた。
もちろん代金とは、キャベツそのもの、花そのものの価格ではない。自然の植物に値段はない。労働という人間の手間が多くかかるものは高く、手間のかからないものは安い。また、人々の欲求に対して不足しがちなものは高くなる。役に立つとか立たないとか、そういうことと価格とは、直接は関係がない。

生産の方面から眺めて見れば、キャベツ栽培が重労働になりがちなのに対し、花の栽培は比較的軽い作業になる。運送費用も異なる。キャベツがキャベツになるまでの期間と、花をつけるようになるまでの期間は、どうちがうのだろうか。土や気候のこと。育てやすさ育てにくさ。収穫後の保存性はどうか。人気があって売れるかどうか。
作り手にならないと考えないことのほうが、山ほどある。

消費者とは結局のところ、「安くてよいもの」が目の前に現れることを願う、他力本願の姿勢にならざるをえない。「消費者の高い意識」とか、「ものを考える消費者」とか、言葉では何とでもいえるが、「消費者」という役割をつとめるときには、あくまで自分中心に、自分の気持ちに、自分の都合に、フォーカスさせられる。
「生産者」や「販売者」の役をつとめるときには、どんな自己中心の人間でも、社会の都合、自然界の都合を考えずに済ませることなど、まず不可能だ。

効率よく大量生産できる技術を持つ社会では、生産に関わることがどんどん減少し、生活の中に消費の割合がどんどん増えていく計算だ。生産に関わる人でさえも、関われる部分がどんどん削られていって、何がどうなっているのか、わけがわからなくなる。
全体を見ることがなくなっていって、部分に集中する。部分しか見ないで済む生活に追いやられていく。

生産の縮小と消費の拡大で、自己中心型人間がつくられてゆく構造が、進みすぎた分業社会にはあるのかもしれない。針と糸をほとんど持つことのない、手。土をいじることもない、手。ペンを握って文字を書くこともない、手。
手も足も使わない生活のことが、便利でけっこうな生活といわれるが、人間の発達というのは、動かすべき「手」を獲得し、それに伴って頭脳が発達してきたともいわれる。頭脳はじゅうぶん発達したので、あとはもう手も足も使わないで大丈夫なのですということなんだろうか。体を使わないぶん、それだけ頭のほうも劣化していくということにはならないのだろうか。

人の生活にはもちろん、キャベツも花束も必要なのだが、買うとき、贈るとき、つくるとき、ずしりと重いキャベツと、頼りなげな一本の花との、どちらかを選んでいる自分自身のことを、考えてみたりも、する。
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加減を知らない努力は墓穴を掘る―足るを知らないこころ―
2013/02/03(Sun)
努力は両刃の刃。やりすぎは、やらないほうがましだったというトラブルを招くことも多い。それに気づいた人が「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」と言い始め、「確かにそうだな」と語り継がれてきた言葉なのだろう。

やらないほうがよいような努力をして、やらなければならない努力をしていない。そう感じることはしょっちゅうだ。操体法であれだけ「六割主義」と言われているのに、気づくと安易にものごとを通したがる。そこを立ち止まって考える努力をする。判断を試し、感覚を研く。それが「六割主義」なのだと思う。

ムチウチで歩けなくなったことから、加減を知るということに努力せざるを得なくなった。
山歩きから戻って車から降り立った瞬間が、一つの目安になる。
足首やヒザがいうことをきかず、体が重くてよたよたしたら、明らかにやりすぎだ。
地面に足が着いたとたん、「うわ、軽い!」。気持ちより先に歩が進む。足が消えてなくなっているのではないか。そう感じるくらいが成功である。
事故にあう前の、体調がベストの時期の自分は、下山後によれよれになった体を嬉しがるところがあった。翌日は全身疲れてぼーっとしている状態だから、六割主義どころか、百パーセント二百パーセント主義の感覚といえようが、それでも自分では「六割主義」を通したつもりだった。

「足るを知る」というのは賢人の智恵だ。「六割主義」は「足るを知る」がなければ実行できるものではない。じっさいは非常に微妙な加減が要求される技術だと思う。もちろん山歩きだけでなく、あらゆる面において「足るを知る」ことは賢者への道だ。その道のりは果てしなく遠いが、苦しくはない。「自然」を追求し、ラクを追求し続ければ、おのずと道は「足るを知る」のほうへ向かっている。そのように思う。
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危機に際して役に立つこと-一番だいじなことは一生ものである-
2013/01/18(Fri)
基礎というのはバカにされる。とくに初心者は「先に行きたい」という気持ちが強くて基礎・基本というのは嫌がる。そしていつか進めなくなると「もうやめる」か「基礎に立ち返る」か、それとも「足ぶみ状態でもかまわず続ける」か、三つの選択肢が残される。

基礎を宝のようにだいじにする人々もいる。感覚が狂ったとき、迷いが生じたときは、自分がどうなっているのか自分でもわからなくなっている。わからなくなっている自分を知り、判断を下す手がかりとして役に立つものがあったとしたならば、それこそが基礎・基本である。危機的状況で役に立たなければ基礎でもなんでもない。捨ててもどうでもいいものだ。

受験の生徒に死なれてからずっと、何が一番だいじなことかを考えさせられている。一年間を一緒に過ごし、「この子たちはこれでいい」などと思っていたのが、合格して半年もしないうちに黙って死んでいった。それを知った時はすでに死んでかなりの時間が過ぎていた。長い勤務のあいだに死なれたのは一人ではなく、事故死などもあった。見知らぬ他人の死とはぜんぜんちがう。死が終りとはならず、彼らの死こそが彼らとの関係の始まりといっていい。

私は彼らに何を伝えなければならなかったろう。折にふれて考える。伝えなければならないことを自分は一つでも伝えられたろうかと思いがめぐる。生徒という立場に彼らを据え、何かを伝えるのが私の仕事だった。何を伝えるかは社会のきまりで決まっていた。教科書に書いてあること。受験に出ること。それを上手に伝えられることに対して報酬が用意され、それで彼らも満足していたかのように見えた。彼らとはそういう関係だったんだから、それでいいじゃないかと思いこみたいところだが、そうもいかない。
若かった自分の、生きて過ごした時間と、彼らの生きて過ごしていた時間を合わせて、あれだけたくさん一緒に過ごして一生懸命に取り組んだのだ。それがじっさい危機的状況のときに役に立たなかったとするならば、なんと不毛な作業だったことだろう。

何度考えたって同じところに行き着いてしまう。操体法をやっている間に、私はそういうことを考えさせられていた。あるとき操体法を習いに来られた若い理学療法士の方がいた。「はじめから教科書そのものがまちがっていたとしたら」と思いつめておられる様子だった。大学で教わった、たいそう立派な理論が現場で何の役にも立たない。先輩や同僚のところに足を運んで話をすると、「まあ学校なんてそんなもんじゃない?」とあしらわれるという話だった。
大検から過激に勉強して大学に合格したら「受験で勉強したことは全部忘れてください」と入学式で言われて私はがっかりした。会社の入社式ではきっと「大学で勉強したことは全部捨ててください」と言われているのだろう。
受験勉強は義務教育のなれの果てだ。後に捨てるとわかっているもの、役に立たないとわかっていることを、小学校から国民の義務として九年間も教わるというのは一体どういうことなのか、もう今の私にはわからない。
教師は義務教育で習ったことを一生捨てない。義務教育で習ったことを捨てたくないのなら教師になると辻褄があう。教師は一生、教科書から卒業しなくてよいのだから確かに辻褄はあうのである。

生きる役に立つことをまず教わろうとするのに私は三十年もかかった。生まれて生きて三十年かかってやっと、「ああこれがほんとうに生きるのに役に立つ基本らしい」と思えるものに出会った。死なれた生徒たちにはほんとに申しわけないことしたと思っている。最初からなぜ役に立つことを教えたらいけないのだろう。それとも大人たちは子供たちに伝えるものとして教科書以上に大切なことを知らないとでもいうのだろうか。

基礎・基本というものは、大人の役に立つだけではなくて、どんな小さな子供の役にも立つものでなければならない。そしていったん習いおぼえたならば、死ぬまで一生役に立つ、宝と思えるようなものでなければ基礎・基本という名に値しない。お互いに生きて限られた時間である。まず一番だいじなこと。「何を教えようか。よし、これならばぜったいに役に立つ」。そのように厳選されてきたことが、基礎・基本ということではなかろうか。

生まれて十年や二十年は役に立たないことでも一生懸命やってろというのが世の中のしくみなのだろう。生きてるうちに役に立つことが見つかったときは身につければいい。役に立つことは自分ひとりで見つけろということ。見つからなければそれまでよ、ということか。
それならそれでもいいけれど、それならそうとハッキリ言えばいい。あれだけだらだら勉強させておいて、家庭も学校も成績のことであれだけ真剣にもめて、バカにならない額の教育費を持っていかれる。
「いやまあ世の中そんなもんですよ」とあとで言うのはだまし討ちに等しい。中には本気で「将来の役に立つ」と思い込んでいた私のような人間もいることなんだし、忘れろ捨てろと言われたからって、そんな器用にぽんぽんと捨てられるようなことなんだろうか。根本のほうでは消し難い後遺症が残る感じもするのだが。
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ノンビリの構えは最短距離で快方に向かう
2013/01/16(Wed)
ウサギのストレス実験。前足を骨折させてギプスをつけ、回復までの状況を記録する。
最初はどのウサギも骨折部分を気にしているが、しばらくすると「まあクヨクヨしたって、しょうがないわな」と、多少の痛みも不自由も気にせずに、エサを食べたり身をつくろったりしてノンビリ構える個体も出てくる。
反対に、骨折部分が気になって気になってしょうがなさそうな個体もいる。いつまでもギプスをかじったりしてエサなど見向きもしない。いつまでもいつまでも苦にするうちに心身ともに弱らせてしまう。

ノンビリのほうはストレスがないから早く快方に向かう。ノンビリは輪をかけてノンビリになり、多少の痛みがあってもスッカリ忘れてしまえるのである。
苦にするほうはストレスが大きく、回復も進まない。これではさらに悲観的にならざるをえない。そのままもつれこんで衰弱死するケースも少なくない。死ななければいつかは回復するのだろうが、苦しみに費やした時間は長く、それだけ苦しみをたくさん味わったということになる。この場合の苦しみで得られたものは何もない。生きる上での大きな損失でしかないのである。

「ああまた痛い。またしびれてる。ああまた!」「何でこうなの? なんでこうまで治らないの? ああもう困った困った」と症状をかかえるたびに苦にするのはストレスである。ストレスが、症状を持続する負のエネルギーとして働くこともあるとなれば悪循環である。自分自身を苦の境地におとしめ、「これさえなければ天下泰平だのに」と自らを追いつめてしまう。こころと体を傷めつけ、心身をそこなうのにじゅうぶんなストレスである。

「こんなに節制して、こんなに気をつかって、操体法もがんばっているのに」「ああ治らない」「まだ痛む」とグチで頭がいっぱいになることがある。少しは期待がなければ努力もない。期待もあるから努力するのであるが、努力をすれば少しは期待もする。期待はつねに現実を上回るから、結果にいちいち振り回され、期待を裏切られればストレスの害毒にもさらされる。人相はわるくなり、姿勢もわるくなる。精神衛生上たいへんよろしくない。
期待はできるだけせずに努力をしろということである。努力していることに気がつかないまま、体がいつの間にか動いて実行するということである。治るまでの間をどうやり過ごすか。そこは智恵でカバーするほかあるまい。

やるだけのことをやっているのなら、の場合に限っていえば、受付け窓口というのは時間帯が決まっているのが相場なのだ。体の調整をやっている間はどこまでもていねいにからだの訴えをきく。調整がうまく進んでいれば、あとは時間の問題である。
受付時間の終了と同時に窓口にはカーテンがかかる。痛みや症状に一日中つきあっているわけにもいかないのである。カーテンは次にいつ開くのか。「よし、今の空き時間にちょっと調整するぞ」と思えば、さっとカーテンを開く。カーテンの開け閉めは軽いほうがいい。少なくとも朝一番と夜の就寝時には窓口を開けておく。症状があろうとなかろうと、窓口のカーテンが閉ざされっぱなしというのは論外である。
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人にきけ―行儀のよい客になりきるのもつまらない―
2013/01/14(Mon)
人の話は有難い。体験者の話は実に有り難いものである。
講演や講義のあと必ず講師のもとに足を運ぶ。話し疲れた講師はすでに取り囲まれ、観念した様子だったりする。気の毒だが講義の直後だからこそ、講師の頭も口もよく回転するのだし、いろんな話も飛び出してくる。絶好のチャンスなのだ。
授業をしたことのある方ならご存知と思うが、講義というのは一種のフィクションである。
壇上で話せることは時間も限られ、きれいにまとめられてはいるが、不純物が取り除かれ、雑味のない退屈な味になりがちである。いっそ本のほうがまとまりもよく、詳しかったりもする。本にもならず、講義にもならない不純物の中にこそ、宝ものが隠れている可能性も高い。
壇から下りた人間の生の声も聞かねば、木戸銭を払った価値はほとんどない。そう私は思うのである。

じっさい壇上で話すのが得意な人ばかりではない。講義のあとの雑談や直接のやりとりの中で、ものすごい話が飛び出してきたりする。
だからたとえ講義がイマイチだったとしても、または講義が最高におもしろかったとしても、そのまま帰ってしまうのはもったいない。生きた話し手をつかまえてみて、ほんとうにつまらなかったその時にこそ、さっさとその場を去ればよい。しかしどんなにつまらない講義でも、それを補って余りあるほどの話があとになって出てくる。それが人間どうしの不思議なコラボレーションというものなのかもしれない。
「今日はあとのほうが本番だったのに、先に帰ってしまった人は気の毒だったな」と思われることもある。本に書かれてあるようなことを、ただ聞いて満足するのではもったいない。生きた人間が目の前にいるのだ。一方的に話されることを行儀よく聞いて終りというのでは、お互い何のために時間と手間をかけて集まるのだかわからない。

優等生みたいなお客さまになるのはつまらない。聴衆になりきってしまっては得られないこともたくさんある。新聞社かテレビ局の取材で出かけるつもりにでもなって下準備をしておくと、講義内容もわかりやすく、あいまいにぼかしてあるところや説明を回避してあるところなどにも気づくようになる。
そこまでやらなくても、講師を取り囲む集団の中には実によく下調べをしている人や、講師よりも詳しいことを知っている人もいる。そういう人たちとのやりとりにじっと耳をこらしていれば、釣り糸に引っかかってくる魚は案外に大きい。思っていたよりたくさんの収穫があるとわかるだろう。
講師が壇上を下りた時が終わりではない。生きた人間が目の前にいて、自分の知らない豊富な知識や体験を惜しげもなく吐き出そうというのだ。なんと有り難い、なんともったいないことではないか。

何年ものあいだ、受験勉強を独学した。参考書を開くごとに、見たことも聞いたこともない数式に頭をかかえ、何時間も格闘するクソ勉強が何年も続いたのである。ストレスばかりで不毛な独学の末、めでたく大学に入って最初の講義を受けた時の感動は今も忘れられない。体験者の生の声は、実に有難いものだと涙の出る思いをした。
しかしそんな自分も大学生活に慣れるに従って、いつでも教えてもらえるという安易な気持ちが芽生えてきた。教えてくれる人はいくらでもいる。みんないつまでもいてくれる。だから勉強なんかいつだっていいやという気持ちになっていた。
ほんの最近になって、あのころの研究者に質問したいことが出てきたりする。もう亡くなっている方もいる。
「いつでも」じゃなかったなあ。「いつまでも」じゃないよなあ。
今。「ただ今。このとき」がすべてなのだ。「あとで」「またいつか」ではなく、「ただ今このとき」のチャンスに妥協なく力を出し切りたい。そう思う。
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案外できそうでいて、なかなかできないこと-モンスター病に心身をおかされない-
2012/10/27(Sat)
「先生」「社長」と何年も呼ばれるうち人間が変わるケースはめずらしくもない。心身を病む病気の一種で病原菌を誰もが生まれつき身に宿している。環境や免疫などの条件によって発症や進行の度合いは異なる。

飲み屋業界で一番嫌われるのは「先生」だよ。
酒の席で師匠が語っていた。あの頃は全く何のことだかわからなかった。
「先生と呼ばれる職業の人間には気をつけろということだ」
酒を飲むと手をつけられなくなるのが教師や医者、社長、弁護士、役人など、ふだんから「先生」と呼びつけられる人間。飲み屋の業界では常識という。「なぜかしら?」つい口に出すと、「ストレスだからだろ」。
二十年近くも前の何も知らない私が、ふうんと口ごもる。

「先生」だけとは限らない。「先生」と人を呼んだとき、つい「私は患者なんだから」「私は生徒なんだから」と思う。買い物をするときは、つい「私はお客だ」と思い、おとうさんおかあさんと呼ばれれば、「私は親なんだから」となる。
それがわるいということではなく、そこに病原菌の活動する場が用意されている。その危険を感じ取るならば、モンスター病を完全に防ぐことはできなくとも、自分や他人を苦しめずに済むのだと思う。

不登校の相談を受ける現場に長くいた。「先生」と呼ばれる人間が、「ご両親」となって相談に足を運ばれるとき、ただの人間に戻れる人と、そうでない人とがあった。家庭の中でも「ただの人間」に戻れなくなっていると訴える子供さんもおられた。「うちの親は神さまを味方につけているし、自らも命を救う救世主と周囲には扱われている」と泣きながら訴えたのは、医者でもあり牧師さんでもある親御さんを持つお子さん。家で手のつけられないほど暴力をふるうという「先生」の話もめずらしくはなく、言葉の暴力ともなると日常茶飯。両親が「ただの人」で物足りないなどと思うこともあった自分は大いに反省したものだった。

困ったとき。お世話になるとき。「先生」と呼ばれている人のもとへ私たちは出かける。助けてもらう身なのだから、少々ぞんざいに扱われても耐えなければならないこともある。そこは黙って耐える。しかし耐えながら、「先生」が「先生」に値する技量の持ち主であるのか。よくよく目をこらし、時には調査もし、何度も判断しなければならない。
ぞんざいな先生は危険がないほうで、一番気をつけなければならないのは「いい人」を装う技術をカメレオンの保護色のように身につけてしまった先生。不自然に「いい人」は自然体の人間にはありえない。周囲の注意深い目にさらされていることは「先生」たちのほうがよくわかっている。だから自分にも他人にもウソをつき続けていると、気づかぬうちにストレスでモンスター病が重症化するのではないか。

類は友をよぶという。自分の「先生」は、自分の判断力をそのまま表す通知簿。眼識のくるった人間は、とんでもない人物を平気で「先生」と呼び、心の底から「先生だ」と思い込んでいるかもしれないのである。先生を選ぶ側の判断力が、問われている。
二十年ものあいだ、師匠は私にとってほんとうの先生であり続け、酒場で荒れることもなく、「いい人」でもなく、いつもスッキリ自然体。それは案外できそうでいて、なかなかできないこと。それが今はわかる。得難い先生を得た自分の幸福の価値は、時間を追うごとに上昇こそすれ下降しない。師匠にはこの二十年間いろんな技を見せていただいてきたが、「いつもスッキリ自然体」は中でも一番のスゴワザ・離れ業らしいと気がついた。これは一番難しそうだが、一番身につけたいと思う技でもある。
これまでさまざまな「先生」に囲まれて過ごしてきた。モンスター病の菌にやられて、ふつうの態度がとれなくなり、ふつうの話さえふつうにできなくなっている姿を見かけることもある。それは自分の目の中だけのことだから、検査数値のように「ほれ」と証明することはできないが、自分の身をつつしむ戒めとせねばなるまい。

モンスター病の感染は誰にも防げない。人間である限り、病原菌を持たない人などないからだ。病気の活動をコントロールするのは自分自身に課せられた一生の課題かもしれない。仏教の教えなどにもそのヒントを見つけることができる。
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ふだんの何気ない動きの中に、体のかたさがひそんでいる。
2012/09/17(Mon)
弱れば寝返りがうてなくなる。寝た姿勢からスムーズに起き上がれない人などはいくらでもいる。エイヤと声を出したり勢いで起きるのでは、すでに体がじゅうぶん固い。

仰向けでもうつ伏せでも、力を用いるのではなく、ゆったりしぜんに起き上がるともなれば、できる人は案外と少ない。
右を支えとして起き上がれはするが、同じように左を支えで起き上がれるというのもむずかしい。右か左か、どちらか一方ならできるが、逆の側で同じように起き上がれる人など、まずないだろう。

上半身に力をこめることなしに、手足にじょうずに体重をのせかえてゆきながら、無理なく体重移動で起き上がるには、どうすればよいのか。
自分の体と相談しながらやってみる。
すると、やりにくい理由もわかってくる。自分の体がかかえる課題が、より具体的に把握できる。

仰向けから起き上がるほうがやりやすいか、うつ伏せからのほうがやりやすいかは、体のどこに固さが分布しているかによって異なる。
仰向けに寝た状態から無理なく起きるやり方の一つ。体を左右どちらかに寄せてゆき、身を縮め、手足を支えとして身を起こす。そのさいに腰がねじれ、腰から首筋にいたるまで左右のどちらかの半身が引き伸ばされ、どちらかは縮まらなければならない。
このとき大抵の場合はどこかにツッパリを感じたり、痛みを感じたりするのである。

じゅうぶんに伸びない筋肉の固さがツッパリとして感じられたり、痛みとなって感じられることもあろう。じゅうぶんに縮まってくれない筋肉の固さが圧迫と感じられたり、痛みに感じられたりすることもあろう。
①一番やりやすい起き上がり方を、自分の体と相談しながら見つけていくのに、そう時間はかからない。誰に習わなくても誰にでもできる。本来ならカンタンな動作である。
②やりやすい起き上がり方を見つけたら、次はまったく左右逆の動きを体と相談しながら見つけていく。これは少々勝手がちがうから、高度テクニックである。
一番やりやすい起き上がり方を、いくつかの段階に分ける。まず、体をどちらに倒しているか。どこで支えているか。段階別に、鏡で映したように、左右逆の動作を忠実にやってみるのである。

非常にやりにくい。自分の体なのに勝手がわからない。
しかしこれもまた、やればできないこともない。
やりにくいほうと、やりやすいほうと、勝手がわかったら、自分の体の動きにかなり詳しくなっている。
なぜやりにくいほうはやりにくいのか。なぜやりやすいほうはやりやすいのか。
どのあたりが伸びにくく、どのあたりが縮みにくい。どのあたりがねじりにくい。
そんなこともおのずと知れる。
わかってどうするのか? 体の不正を少なくしていくのである。

③やりにくいほう、やりやすいほうがわかったら、やりやすいほうの動作を三回、繰り返してやってみる。
一回やるごとに、全身を脱力してじゅうぶんに休むことが大切である。
④三回やり終えたら、やりにくいほうの動作をやってみると…あら不思議!できるわ!となったら成功である。
成功したら、それで終了。やりすぎるとせっかくの成果が水の泡となる。またやりたいのなら一時間や二時間の間をとって、やるのならいい。朝晩布団の中でやるのもいい。
「ぜんぜん変化なし」と思ったら、やり直す。やり直しは雑になりがちだが、やり直しほどていねいに行う。
やり直したあと、やりにくいほうの動作をやってみて、「あ、最初よりやりやすくなった」と思ったら、そこでやめておく。

起き上がり方は、仰向けとうつ伏せと合わせると計4種類ある。
4つのうち一番やりやすいほうからやっていくと、さいごはどれもまあまあ勝手がわかるようになる。
力をどこまで使わずにスムーズに起き上がれるか。
体に無理のない動きを身につけるための、一つの遊びである。
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体運びの原理。心運びの原理。その根本から切替える-心と体のクセをとる運動療法-
2012/08/05(Sun)
同じ教室で同じことをやっているのに成功例と失敗例が混在する。個人差があるという事実。
その個人差がどこからくるのか、わからないまま、ただまんぜんとやっていても、体の変調を防ぐことも改善することも具体的にはままならない。

「個人差」は人を黙らせるには便利な言葉だ。弱っていた人・衰えていた人が、みちがえるように元気になるケースもある一方で、とりたてて効果もみえないケースや、時間の経過とともにかえって内臓機能や関節機能に変調をきたすケースもある。それを「個人差ですから」と言って済ませてばかりもいられないだろう。
坐禅では、病気や何らかの体調不良をかかえたままでいるようでは、やりかたが正しいとはいえないという。
坐禅の実践により、死の淵からみちがえるように生還した先人の例が多くあるが、死に至ったケースもある。
成功例にも失敗例にも、その要因は必ずある。両方の例から学ぶことも大きいのである。
成功例を見習うか。失敗例を見習うか。その答えは明らかだ。

心も体もあらたまり、精神面でも体力面でも改善の方向へ向かっていくのが、正しい生活実践が行われている唯一の証明である。
問題の発生と継続があるようなら、自分自身の取り組みを見直すか、それとも「個人差」とか「老化」とか、「自分のだけは特別だから治らない」などと都合のよい説明であきらめるかが、分かれ道。
あれがいけない、これがいけないと、頭の中で忙しく考えているだけでは何一つ進展はない。「あれがいけない」と思うなら、自分で改めてみて、どの程度効果があったか、確かめるほかに証明しようがないだろう。
しかし一千万円の借金を返済するのに、五円玉や十円玉でなんとかしようとあくせくしても間に合わない。

体操でもヨガでもウォーキングでも、やりかた次第では体に変調をきたす。
どんな健康法に取り組もうと、体運びの原理という根本が正しくなければ、やればやるだけおかしくなってしまう。
体の運びかた次第で体は変調をきたすということ。
それが操体法でいう動きのクセ・体のクセということだ。
年をとるほど、動きのクセも長期にわたって強化されやすいから、固定しているケースも多く見られる。
それを「老化」と呼ぶのなら、クセの強化と固定をはずせば老化の呪いから解放されるだろう。
思考回路にもまた同様の傾向が見られ、がんこな症状を長くかかえているケースにもまた、体の運び方・心の運び方に強いクセが固定されているのが散見される。
クセの強化と固定をはずせば、「個人差」で足踏みしていた効果も期待できるかもしれない。

体運びの原理、心運びの原理、その根本から取り組むことで、「老化」や「個人差」の壁をどれだけ取っ払えるか。自分の一生をかけての実験である。
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殺さないという生活改善-殺すしかないのだろうか-
2012/07/22(Sun)
ビルの外階段で出くわすと、私もハッとするが、あちらのほうもビックリしている。気の毒なほどのあわてぶりだが身を隠すところもなく、観念したように這いつくばってジッと息をひそめている。
ごきぶりといえども「殺されたくはない。死にたくはない」と真剣な姿である。

迷わず踏み殺していた以前の自分。人間なら誰もがそうすることだといつの間にか思っていた。
「虫を殺しなさい」とテレビは勧めるし、「殺すのは当たり前」と毎日教えられてきた。
「みんなで虫を殺さないと人間が楽しく生きていけなくなる」という意見もある。「虫一匹殺す殺さないでうだうだしているなんて情けない」「弱虫だ」「病的だ」という意見もある。
「殺す」と「殺さない」の間には、大きなギャップが私にはあった。

ハエ一匹を殺そうとしても周囲がいろいろとうるさい国もあると知った。殺虫剤の宣伝なんかできない。殺す人もいると思うが、社会全体の風潮は「殺さない」「いじめない」。殺すなら人に見られぬようコッソリやらなければならないだろう。
そんな国で人がバタバタと死んでいるか。虫を殺さないぶん不幸になっているだろうか。
私なりに長く真剣に考えたのである。

「虫を殺さないなどキレイゴトにすぎない」「気味がわるいから殺してよい」という意見が多いように思うが、文化的な意見の一つとして成立しても、それが必ずしも科学的な事実に基づくわけではない。
「虫が気持ちわるい」という生理も、社会の風潮でガラリと変わる。
わたしは人間だからごきぶり一匹に生命を脅かされることはない。あちらさんがあわてるのは分かるが、人間の私があわてることはない。虫などに動揺させられる自分でありたくもない。
この一匹を殺そうと殺すまいと、世の中にたいした違いはない。気味がわるいからというのがそのまま殺すという行為につながっていくのは、むしろ殺伐としている。

夏は虫が増え、ほんとうに虫を殺してよいのか逡巡する機会も増える。
虫一匹を殺すにしても、身心には確実に不協和音が流れている。家人がホイホイを置くこともあるが、捨てる段階で誰もが嫌がるのである。ごきぶりが嫌というより、何となく嫌。虫などにそこまで関わりたくはないというのが正直なところ。
人間ほうでは虫が入ってこない工夫もできるし、入られても実害をこうむらない対策もとれる。
出くわしても、お互い一切干渉しあわなければ、恐くも何ともなくなる。ちょっとびっくりすることはあるが、あちらさんはあちらさん。わたしらの知ったことではない。

家人は「一匹殺せば百万匹の子孫を殺せる」という使命感に燃えている。「わたしがこの一匹のごきぶりを殺すことで、世の中のごきぶりの生息数は減る。この一匹を殺さなければ生息数に歯止めがかからなくなる」と、あくまで「世界の害虫撲滅運動」に積極的な姿勢で参加し続けている。
人間は他の生きものをいろいろ絶滅に追いやったとされるが、いかに家人が殺し続けても、虫全体にそれほどの影響が出るとも思えない。

虫を殺さなくても、べつに人は不幸にもならないし、死にもしない。むしろ殺すほうについては何らかの身体面・精神面に損失が出るかもしれない。虫一匹を殺すにしても、人は何らかの抵抗を心や体で受けとめずにはいられないからだ。
虫を殺さないというのも立派な生活改善の一つとなりうる。
生命がおびやかされない限り、殺す必要ないのではないか。それが今の自分の結論である。
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