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救う身と救われる身とが同時に救われる。それが困難をチャンスに転じるのである。
2011/08/30(Tue)
苦労や困難というのは不思議なもので、逃げれば逃げるほど恐くなる。
一歩自分から踏み出せば、さほど恐いものでもなかったりもするのである。
生活が便利になるというのは、生活のあらゆる場面から魚の小骨でも抜き取るように、苦労や困難が取り除かれることだから、私たちの生活全体が「苦労は買ってでもしろ」という発想の流れと逆の方向を目指しているともいえる。
生きていれば苦労や困難はつきもののはず。しかし夏に暑いのは当たり前が、いつの間にか暑い夏というものそのものがうとましい。苦労や困難のあるほうが異常事態というカンちがいが出てくるのである。こうなると、生きていることのうとましさは募ってゆき、それこそ自分の首を絞める事態となる。

苦労や困難はサイフから金を出してでも引き受けるというのは割に合わない話と思われるかもしれないが、よくよく考えてみれば勇ましい精神、前向きな姿勢そのものである。ひょっとすると、割に合うことだってあるのかもしれないと思われてくる。
苦労や困難からフリーになると我々すぐに油断をしてしまう。のど元過ぎれば何とやらで、スッカリ忘れていい気になるのである。
しかし周囲を見渡せば苦労や困難にあえぐ人はいくらでもいる。
自分の身を犠牲にするというところまでいかないにしても、何か一つくらいできることはあるだろう。せめて「どうしたのですか」と一言声をかけるくらいのことでびくびくすることもあるまい。
自分の悩みに埋没している人というのは、深刻に悩み苦しんでいる。自分の悩みで周囲が見えず、ある意味ワガママの結果ともいえる。もちろん私自身、例外ではない。周囲の苦しみが見えなくなっているぶん、苦しくなるのである。

「自分より不幸な人もいる」とか「あなたより不幸な人はいくらでもいる」とかいうような言葉はよく聞かれるが、的をはずしている。交通事故で闇に放り込まれて間もないころ、「あなたより大きな不幸を抱えている人など世界中にいくらでもいるじゃないの」と鼻先で笑う大病院の精神科医もいるということを実際にこの身で体験してみて、私はそう思った。
悩みを互いに比較して「こっちはあっちより大きい」とか「どれが一番小さい」とか測って決めることなど誰にもできはしない。そうではなくて、苦労や困難が互いにあるからこそ、共に救われる、一緒に乗り越えてゆくということができる。救う身が救われるということもそこで実現されることを思えば、互いの人生や体験を豊かにできるチャンスとすることもあり得るのである。

操体法は、施術してもらう人と、施術する人とが同時に救われる運動療法である。
お金を払った側のほうが改善するというのはめずらしくも何ともない。しかし施術する側は、お金をいただいた上に、体のほうも気持ちよくなり改善されるというのだから、わけの分からない話だろう。
操体法では、気持ちよい方向になめらかに動いて、じわーっとタメをつくり、全身で脱力するということで、体に備わった修復力が発揮される。動く本人の動きに、誘導し支える術者がまきこまれるわけであるから、やりようによっては術者は相手の動く方向やタメの力を利用して、自分自身も気持ち良い動きでタメをつくり、全身脱力を実現することも可能なのである。
さらにいうと、それが施術してもらう本人と、施術する術者とが、共に心地よい動きと脱力を実現することが、最高の出来栄えともなるのである。

ほかの療術で術者が体調をくずしたり、故障をかかえて職業病として苦しんでおられる方もめずらしくないが、操体法ではやり方が正しい限り、そのようなことはあり得ない。働けば働くほどラクになるということはある。こんな施術が他に考えられるだろうか。


※九州・福岡市内にて操体法を学べます。
自分の体の調整をおぼえながら、種々の活動も始められます。
誰でも参加できる定例の講習会、少人数で申し込めるプライベート講習や個別もあります。
お問い合わせはメール freeyourself.sotai★docomo.ne.jp (★を@に)もしくは080-1720-1097まで。
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みんなで一緒に救われたい。みんな一緒に成功したい。
2011/08/26(Fri)
誰かが成功するということは誰かが失敗するということ。受験で合格した人がいれば別の誰かが不合格ということ。勝者と敗者。競争社会の基本はそういうことだろうと思う。

競争社会で生まれ育った私であるが、操体法をやっているうちに、「みんなで一緒に救われる道がある」と思われてならないのである。みんな一緒に成功するっていうことも、あるんじゃないかと思えてくる。うまく説明できないのだけれど、共に救われたい、共に成功したいという気持ちが、ただただ湧いてくる。
操体法スタジオの講習生の方々が活動できる場を提供したい、と思う。
スタジオの中に、操体スクール部門と、施術部門とを創設し、スクール部門で講師として教える活動をしたい方や、施術をやりたいという方のための環境をととのえたいと思うのである。
最近そういうビジョンが次第にはっきりしてきた。自分の活動の方向は、こうではないのかな、と思われることが多くなってきたのである。

人生五十年といえば、もう私は人生が終わっている。そう思うと逆に、これからの自分は何でもできると思われてくる。
これまでの自分の人生を、なぞるような生き方はご免だ。
夢、なのかもしれない。しかし夢も実現させれば現実。
腰の重い私だが、さあこれからどうする。どう出るか。
趣旨にご賛同いただける方々と共に、歩んでいきたいと思う。


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さっぱりした顔で、「いっそやらないほうが安心だ」と言ってみる
2011/08/23(Tue)
分からないことだらけの中を分からないまま、あいまいなままで生活を送っているのである。予防接種にしても抗がん剤にしても、使う・使わないのどっちにころぶかは、そのときの風まかせという人が、私の周囲には圧倒的に多い。一歩まちがえば転落する崖の上を、そうとは知らずに歩いている。見ていてそんな感じがする。

「学校で予防接種を受けるよう指導されて心配なんです。なんか、よくないこともあるんでしょう?」と訊かれ、「心配なら、受けなければ?」と私。
「でも、みんな受けているのに自分だけっていうのはできないって子供が言うんです」
「まあその年齢なら難しいかもね。すぐ死ぬっていうこともないだろうから、受けたいって言うなら受けさせれば?」と突き放してみる。
「いや、でも心配です。よくないことも、あるんじゃないんですか?」「たとえば、どんな?」「だから副作用とか」。
「あなたがそこまで言うのなら調べてみようか」。分からないなと思ったら。不安だなと思ったら。まずはきちんと事実関係を調べればよいのである。調べるうちに判断がつくられてゆく。調べなければいつまでたっても深い森の中をさ迷わなければなるまい。

「あ、でも、期限があって今なら無料でお金いらないんです。無料期間を過ぎると、けっこう高いんですよ」
「本人も受けたいと言ってるし、今なら無料。それなら受けさせれば?」
「いや、でも…いいんでしょうか。受けて」
「さあねえ。私は知らないよ。調べてみようか」

子育て中のお母さんたちは心配ごとが尽きない。私にできるのは両方の意見の資料を集めて渡すこと。判断は本人たちが下すしかない。半月ほど経って尋ねてみた。「結局どうなったの?」
すると、「資料読んでもよくわからなかったんですけど、あんなに考えなきゃいけないことがあるものだったら、いっそやらないほうが安心です」とさっぱりした顔で仰った。
たとえどんなことでも本人たちで結論が出たことがよかった。一件落着。


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体の変化が分かれば意識が変わるのは時間の問題
2011/08/19(Fri)
「病気ではなく人間を見ろ」と言い聞かされてきたせいか、「こんな病気でこんな症状の人がいて」と相談されるたびに、どんな感じの人でどんな生活を送り、どんなことを考える人なのかが知りたくなる。

操体法や生活の改善が、その人の生活や考え方の中でどう関わりが持てるのか。どんな関わりなら持てそうなのか。そんなことのほうが、よほど大切なことのように思われてくるのである。

「本人はどの程度、治りたいのかな」とも思う。
目先の危機さえ回避されればいいという考えもあるだろう。再発したくないとか、過去に自分がそうだったということも忘れるくらいに徹底した完全治癒を望む場合もあるだろう。
自分の場合は望みが高かった。
病気をするということ、痛みや苦しみが与えられるということは、自分の生き方にまちがいがあるからだという考えに、子供のころからとらわれていた。だから「何としてでも治す」という気持ちも強かった。病気を治すというより、生き方をやり直す、やり直したいという気持ちのほうが強かった。
そうした必死さというのは、病気が重いからとか軽いからとかいうのとは、ちょっと違うものである。

病気や症状のことは、誰かにまかせてしまいたい。そういう考えもあるだろう。
少しは自分で取り組もうという考えもあるだろう。
いずれにせよ、その人なりの操体法との関わりをはぐくむきっかけやお手伝いができるのなら、自分で力になれることがあるのだったらと思うだけだ。

操体法を続けていくうちに、自分で体の変化が分かってくる。体の変化が分かってくれば、体に対する意識も変わってくる。本人が全体的にしっかりしてくるのは時間の問題であると思う。


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病気もけがも、体が生きのびる戦略だという考え方-体内の汚れを洗い出す-
2011/08/18(Thu)
雑巾を洗えばバケツの水は汚れる。バケツの水を汚したくなければ雑巾を洗わないままにすればいい。
雑巾をきれいにしたければ、バケツの水で汚れを洗い出した後、水を捨てなければならない。

体質の改善、老廃物や毒素の排泄というのはそういうことだろうというイメージである。
バケツは体。水は血液などの体液で、雑巾は細胞組織。
日々の生命活動の中で、細胞組織には老廃物などの汚れが少しずつたまってゆくが、ゆとりがなければ汚れたままで日常を過ごすしかない。肩がこる、頭が痛い、体がだるいと文句言いながら、やり過ごすほかはない。

しかしここで血流が改善されるといった好条件が加わったり、「そろそろ雑巾を洗っておくしかない」という時期を迎えると、老廃物や公害物質・化学物質などが細胞組織から洗い出されてくる。体毒は血流に流れ込み、全身をめぐりながら最終的には肝臓に運ばれる。汚れは無毒なものに分解され、外に捨てられる。

老廃物や毒素が洗い出されて外に捨てられる。これがふだんからこまめにできていれば何の問題もない。楽しく元気に過ごせるのである。雑巾に汚れをため込まずにドンドン捨ててゆくほうが、体もラクなのだ。
しかし日々、処理不能なほど多くの老廃物や毒素が体内にあれば、雑巾はドンドン汚されていく。いつか大きく洗い出しするほかはないのである。

老廃物や毒素が洗い出されて外に捨てられるまでのあいだは体調がわるいと感じられる。めぐってはならない毒素が体をめぐり、頭痛やだるさが感じられたり、皮膚表面や内臓におできをつくることもあろう。赤い斑点やじんましん、しつこいセキや季節外れの花粉症のような症状もある。筋肉痛や神経痛。それに結石をつくって排泄する場合もある。
肝臓が処理を終えてしまうまでの間は、どうあがいても仕方がない。どのくらいの時間がかかるかは分からないが、このときにまた薬物などで汚染してしまっては、体毒排泄のチャンスを失う。体はせっかくの作業を中断させられ、ここまでのがんばりで得られたものは何もなかったわけである。これでは体も弱るばかりである。
全ての病気は汚れた細胞組織の洗い出し。体が生きのびるための生理現象という見方もできる。


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同じ失敗の繰り返しはしたくない-体のコントロールのレベル-
2011/08/16(Tue)
やってよいことと、やってはいけないこととの区別もつかない。何をどうすると、どういう目にあうか想像できず、痛い目にあうまで失敗したことも分からない。「それじゃ幼稚園だな」とは誰だかの口癖。

はたで見ていると分かるのだが、自分のこととなるとむずかしい。同じ失敗で繰り返し痛い目にあうことをいつまでもやっている。失敗して「痛い目にあった」とわめくだけか、なんとはなしに自分で心当たりがあり、あわてずさわがず結果を受け止められるようになるか。そこが幼稚園卒業レベルの境目であろうか。

何か異変が起きても、自分で心当たりがあって、さわがずあわてず自分の体の様子と経過を冷静に見れるようになったのは、ほんの最近のことのように思う。「自分はいつ死んでもかまわないぞ」という開き直りも、そういうときに湧き起こってくる。
調子のよいときはわけの分かったようなことも言えるが、少しの異変でたちまち総崩れ。そんな場合も少なくない。イザとなればまるで役に立たない。あちこちに頭をぶつけ、いろんな失敗でいろんな痛い目にもあって、あわてたり平気だったりで安定しない。これが小学生レベルというものであろうか。

自分もしくは他人の、そのときどきの健康レベルを読み取る。読み取ったレベルに応じて、やってよいことと、やってはいけないことが決まってくる。そうした上で生活改善・健康増進プログラムを立てる。フィードバックで誤差に対処し、工夫や変更も自由にできるようになる。
こんなことのできる人間がどれほどいるかは分からないが、これが大学レベルとでもいえるだろうか。そのような感じのことをイメージする話を、師匠からうかがったことがある。

「分かる」というのは「分ける」ということ。「こうしたら、こうなる」「あれをやったらああなる」と自分のことが分かるようになれば、何が起きてもあわてないで済む。どう対処しようかとジタバタせずに覚悟することもだいじであり、同じ失敗を繰り返すことも少なくなってゆくだろう。
失敗は仕方ないとしても、不安になったりあわてたりするのは、「なるほど、ああするとこういう目にあうのだな」というところまできちんと分かっていないからである。これでは同じ失敗を繰り返すのもやむをえまい。この点、どんな社会的肩書きや経歴を持っていても、自分の体のコントロールともなれば幼児レベルであることもしばしばである。

操体法は自力療法。各自の実践と研究が正しく行われていれば、分かっていくことも増え、何が起きようとも確信を得ていくのは当然。ことの因果を自分でどれだけ正確に把握できるかできないかによって、幼稚園児のままでいるのか、小学生やそれ以上にステップアップしていけるのかがおのずと決まってゆく。


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「あるがまま、ありのままの自分」を好きでも嫌うでもなく
2011/08/14(Sun)
「悩み苦しみ欠点だらけの自分。そんなありのままの自分がけっこう好きです」という言葉を最近よく聞く。どこかで流行しているのだろうか。
「好き」と「嫌い」は一枚のコインの表と裏。感情というのはあてにならないし、感覚は移り変わる。大好きと大嫌いとの間をいつまでもさ迷い歩くようなものだ。

ありのままの自分といっても、「ありのまま」がカンタンではない。調子のよいときは「こんな自分がけっこう気に入ってる」などとも言えようが、肩がうずいて眠れない夜も、膝や腰が痛くてどうにもならないときも、「これがありのままの自分だから好き」を貫き通すというのなら大したものだ。
「あるがまま、ありのままの自分」とは、「たとえ自分がどんなになろうとも」「たとえどんな自分が今の自分から飛び出てこようとも」ということだろう。
「自分にとって都合のよい自分」と、「自分にとって都合のよくない自分」を区別して選んでいては、「あるがまま」とはいえない。わざわざ「ありのままの自分がけっこう好き」などとと自分自身に言い聞かせる必要もない。

施術とは、これは自分だとかこれは他人だとか、これは身内で、これは知らない人だとか、まあそういう区別をしていてもしょうがない現場である。
目の前にあるもの、目の前に出てくることに集中したいとき、好きとか嫌いとかはむしろ余計な感情である。好きとか嫌いとかからは、ちょっと離れたところがいい。好きでも嫌いでも、どっちだってかまわないなっていうところが自分には一番現実の感じがする。
もちろん人間だから、好き嫌いの感情とまるきり無縁ではいられないのだろうけど、むしろ邪魔になることのほうが多いから、余計なオマケだと考えておく。

若いころは自分が好きか嫌いかを、ものごとの中心に置いていたように思う。自分にとってどれだけ都合がよく、自分がどれだけうれしくなるか、そういうフィルターを通してしてしか人間が見れない。そんな傾向が強かったように思われる。そして結局はそれが視野をせばめ、自分自身とてもつらくなっていくのである。
いろんな人と共に歩んで生きていくことを、操体法を通じて少しは学んで身についてきたろうかと思う。


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真夏ならではのぜいたくな過ごし方
2011/08/12(Fri)
早朝の川辺にテントを張る。朝一番の空気と、まっさらな朝露の草の中を歩き回る。軽快な音を立てて光を散らす流れにさそわれて、顔を洗い、首筋を洗い、腕をひたし、足を突っ込み、膝までつかり、ついにはざんぶりと頭を突っ込んで、髪を洗う。
爽快である。

夜明けのオレンジ色の空を見ると、もうジッとしていられない。白々と明るんでくる空と競争でもするように、とるものもとりあえず外へ飛び出してゆく。山か川へか決めないうちにアクセルを踏んでいる。たいていは、とある川辺に自分で地面をととのえた、ささやかなテント地。自分だけの秘密基地に向けてまっしぐらである。

テントを張ったら散策する。まっさらな新雪の上を歩くときの気分で、まだ誰も吸わない朝一番の空気と、誰も足を踏み入れていない朝露の草の中を、歩き回る。上流の水は冷たいが、軽快な音を立てて光を散らす流れにさそわれて、顔を洗い、首筋を洗い、腕をひたし、足を突っ込み、膝までつかり、ついにはざんぶりと頭を突っ込んで、髪を洗う。
爽快である。
平らな石の上で休む。鳥の鳴く声に耳をすませながら、草の葉にしがみついているカミキリムシと一緒に朝の光を背に受ける。お羽黒トンボがこげ茶色の羽をはばたかせながら水面すれすれを浮遊する。青く光るしっぽのトカゲが妙にキクキクした動きで斜面を登ってゆく。
川面をわたる風が通り過ぎて、少々肌寒い。

テントに戻る。夏の日差しを受けながら、本を読んだり書いたりうとうとしたりして過ごす。さんざん体があたたまったら水に入る。般若心経を唱える声が思わずふるえるほどに、冷たい流れである。じっと耐えてお経を続けていると、魚が集まってくる。体をつつきにくる、いや、かじりついてなかなかに痛い。そこも耐えてお経を繰り返す。そしてまた水から出る。岩の上で甲羅干しをする。風が渡る。

こんなふうに朝を迎えるのが、私の夏一番のぜいたくであり、バテ知らずの夏の過ごし方である。


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自分の中に咲こうとするつぼみがある限り
2011/08/10(Wed)
真ん中からはじけた光の筋が、飛び散ったような花弁。夜明けの空を思わせるオレンジ色の花がブナ林の下草を覆い尽くしている。見渡す限りの花、花である。

ヒガンバナ科の花の群生を目当てに山に入ったが、見ごろを過ぎていた。
にょっきりと地中から伸びた茎は重なりあってギシギシと音を立てそうなくらいに密生している。
ここらは初夏には長い葉が茂り、畑のようだった。やがて葉はいっせいに枯れ果てる。数週間後に花が咲くとは信じられないほど完全な枯草となる。

花は見ごろを過ぎていても、自分の体と気分がのってくるタイミングが山歩きの好日である。花は色が薄らいできて、肌色というか淡い色合いのオレンジになっている。すでに丸い実を結んでいるものもある。そんな中に遅い開花であるが、今を盛りとばかりに咲いている花たちもある。あちらこちらに鮮やかなオレンジ色を炎を灯し、すっくりと立ったその姿は神聖なたいまつのようにも見える。

遅咲きの花もまた、なかなかに立派だと思った。
早く早くとつぼみをつけ、急いで開かせることもいらない。
美大受験の予備校にいたときは私の目の前で友人たちがどんどん合格していったし、文学でも同じ教室の仲間たちが先に賞をとっていった。操体法だって自分より十歳以上若い人たちが先に開業していった。
「もう自分はダメなのかなあ」とあきらめかかっていたのが交通事故にあい、さらにもっとダメになったと思った。しかしそれが契機となったのだから人間わからないものだ。

群生全体が終焉へとさしかかる季節の中で、遅咲きの花たちは妙に目立つのだった。早咲きの花たちが疲れを見せてくるのを見計らったかのように、地中から茎をのばし、つぼみをつけ、一気にはじけてオレンジ色の炎を吐き出している。みんながお年寄りになってゆく日本で、早咲きだった人も花を咲かせないままだった人も、活力をたくわえて咲かせられる花があるのだと思う。早咲きが圧倒的に注目され、話題となる中で、いつの間にか「年をとったらダメになる」という考えをどこかで植えつけられていた私ではあるが、自分の中には咲こうとする力を持ったつぼみがまだいくつもあることを確信する。いくつ咲かせられるか。遠慮せず自分のペースで咲かせてゆきたい。


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感情的に中立な目で、同じ風景を見てもらうということ。
2011/08/09(Tue)
室内でなくしものをする。カギが一番困る。探せばあるとわかってはいるが、自分としてはもう探すべきところはない。金輪際出てくるとは思えなくなっている。
こんなときは感情的に中立な人に探してもらう。「カギがそこらにあるはずです。ありますでしょう?」と声をかけると、面白いように出てくる。

ここ二十年ほどいろんな場面で試してみたが、結果は良好。二人で互いになくしたものを探しあうと、どちらもほどなく見つかる。
今日もまたカギを見つけてもらった。一週間ぶりにカギ束の重さを手にして私は心に誓う。「今度こそ、なくさない」。しかしカギがなくなるということはまたいつかあるだろうと思う。そして私は不便な日々を過ごし、助けてくれる人に行き当たる。そしてきっとまたカギは見つかる。

我ながらバカバカしい繰返しであるが、今日までずっと私が操体法の施術を受けにはるばる遠くまで通い続けてきたのも同じことかもしれない。感情的に中立な目で、同じ風景を見てもらうこと。私が望むのはそれなのだ。自分のこんぐらがった状態を中庸に戻す、有効な方法の一つなのだと私は思う。


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忙しい忙しいと気持ちをバタつかせない。ただ目の前のことに集中する。
2011/08/07(Sun)
一つ一つをだいじに取り組めばいい。その時その時で自分に必要と思うことをやればいい。
「お忙しいところすみません」。自分では使う言葉だが、言われてみると妙な気分。いつもいつも忙しく動いていないといけないような、駆り立てられる気分。しかし私の体は一つだから、一度に一つのことしかできない。用件が二つ三つと重なったとしても、どれか一つを選ぶのだから用件はいつでも一つ。たった一つのことだ。

用事が二つ三つと重なると「忙しい」ということになるのだろうか。用事もないのに「ちょっとお茶でも」と声をかけられると、相手が嫌いということもないのに、時間をとられて惜しいような気持ちになる場合だってあるのではないか。
忙しいといっても一日に24時間しか持たないから、それ以上のことは起きっこない。
気ぜわしい思いでやったことを後になって振り返れば、やってもやらなくてもよかったようなことしかなかったと思う。生きてるということは、やってもやらなくてもいいようなことばかりだから、「ああこれは」っていうだいじなものが一つでも見つかったら儲けもの。私は山歩きと操体法ともう一つ、全部合わせて三つも見つかったのだから、もう何一つもんくのつけようがない。

みんなが同じ答えにはならないけれど、私の活動で何かを見つけるきっかけになる人が一人でもいてもらえたら、こんなに嬉しいことはない。


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人事の尽くしようによって結果の白黒がハッキリする
2011/08/06(Sat)
別の病院で悪化したケースが夏井先生のもとに運び込まれる。化膿した組織の中に骨の切断面が露出。これを穴あきポリ袋と紙おむつで包む。消毒をせず、薬も使わないというやり方に切り替えて、次々と成功例が積み上げられてゆく。

タコの足は再生する。足がもげるのは大変なことだが騒いでもしょうがない。天命を待つ、つまり体に備わった自然の力に身をゆだねるしかないだろう。
家人の足の負傷も同様だなあと思う。ふだんは体の調整になど見向きもしないのが、痛みがくるたびに治せ治せとせまってくる。患部そのものは、本人に備わった力しだい。誰がどうできるというものではない。それを補助したり支援するという意味で、調整をする。体があちこちねじれたりしていては、治りもわるかろうし、余計な痛みで苦しむことにもなる。

大腿骨切断面が、腐った組織の中に露出。アキレス腱を縫合した後の傷が治らない。犬に咬まれて深い皮膚の欠損。夏井睦のサイト「新しい創傷治療」の映像は、一見おどろおどろしいのである。
しかし治ったあとの映像を見てほしい。「うわ、こんなに治っちゃうのか!」と思う。
治った映像から逆回しでたどってゆくと、「生きてる体って、ほんとに心強いものだな」と感じるのは私だけだろうか。

どの例も、ほかの病院で治らず、夏井さんのもとに転院された例である。
夏井さんはバイク事故で足が切断。手術後に傷口の組織が腐敗して夏井さんのもとへ転院された例では、化膿の膿の真っ只中に骨の切断面が露出。これを穴あきポリ袋と紙おむつで包むだけという。2007年のケースである。
夏井先生自身、「いつ骨髄炎が起きるか」とハラハラしていたが、「何も起こらなかった」。
最終的にどれだけきれいな足になったか、映像を確認していただきたいと思う(確認したい方は「新しい創傷治療」で検索してください)。

「人事を尽くして天命を待つ」。もちろん人事は尽くしている。尽くすのであるが、天命を尊重する出しゃばらない配慮の人事である。だからこその成功。
べつの病院でも人事は尽くされていた。しかしその人事の尽くしようによって結果の白黒がハッキリする。
タコの足が再生するのと同じく、人間の体の損傷だって、肉が再生して盛り上がって傷口をふさいでいくのである。内臓疾患も、精神疾患も、基本的には同じ。すべては本人の体に備わった自然の力にかかっているのである。


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どっしりかまえて体と向き合えば、絶対的安心が、そこにある
2011/08/03(Wed)
知人の夫が急に意識を失い、倒れたとき、考えられる限りの検査でも異常は見つからなかった。倒れている人間も正常になる。検査の世界にはそういうこともある。
検査検査で半年も通院したあげく、原因不明ということもめずらしくない。

生命の働きのうち、検査で調べられるのはどのくらいのことなのだろう。
私は足に大きな内出血が何度か続いて、大きな病院に行ったとき、「女性の内出血なんかに、いちいちかまっていられるか」と一蹴されたことがある。
「内出血を前兆とする病気? そんなのいくらでもあるよ。それをぜんぶ検査しろっていうのか、冗談じゃない。半年、一年かけても終わらないんじゃないの?」とまくしたてる。
「困った症状が出たら来い。こんなことくらいで来られるから、こっちは忙しくなるばかりだ」。

「困った症状が出たら」では、未病は治せない。そして困った症状が出ても、治せないことばかりだ。
検査で調べた数値で、生命の働きが分かるとカン違いしてしまう。しかし検査とは、生命という大海原からコップ一、二杯の水を汲む以上のことではないのではないか。

ふだんからきちんと、ふつうに自分の体とつき合ってみるといい。
半年や一年などではない。一生、生きている限り、体は変化し続ける。その変化に寄り添うように、体とつき合ってみてはどうだろうか。
生命の営みの、波の音の変化が聞き取れてくる。うねりや、深海に流れる海流のことなど、いろんなことが、しだいに手に取るように感じられてくる。
病気のときも、あるだろう。しかし大抵のことは生命の働きで回復する。
回復せずにそのままになるか、回復して元に戻れるか。そういうことも、きちんと分かるようになる。

分かればあわてずに、済む。そこに絶対的安心がある。

※九州・福岡市内にて操体法を学べます。自分の体の調整をおぼえながら、種々の活動も始められます。
誰でも参加できる定例の講習会、少人数で申し込めるプライベート講習や個別もあります。
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痛みを感じないほどに固まった組織が息を吹き返すとき
2011/08/02(Tue)
「痛い」と感じるほうがまだしも。痛くも何ともなくなったというのは怖い感じがする。
痛みは警報だ。赤信号だ。そうやって体が教えてくれるのだから、ありがたいことだ。

固まったところをゆるめてゆくと、ご本人も「ああラクになった」。
「ラクになった」を繰り返してゆくと、「最近ずいぶんラクになりましたよ」と明るい声で報告もしてくださる。「じゃあそろそろだな」と私は思う。
痛みを感じると「急にわるくなった」と心配するのも人情だが、どこもわるくなっちゃいない。むしろその逆。今までずっとわるかったのに感じなかっただけ。

「こんなに硬いのに痛くないですか?」問うと、首を振る。
「硬いなあっていう感じはします。押されてるっていう感じもあるけど。なんか、そこはにぶくなってて、なんにもわからない感じもします」。
指がぜんぜん入っていかない。触れた手がはじき返される感じ。岩のようだ。硬くなって固まって時間の経過した組織は、多かれ少なかれ感覚が失われてしまっている。血流も慢性的によくないのだろう。
こういうのを、「痛みを感じる時期を通り越してしまっている」などと言う人も、ある。

講習生どうし、みんなでお互い筋肉の硬さや動きなどの確認をするわけである。
体中がバンバン音をたてるかというほど硬く張っていたのが、本来のふわっとした体のやわらかさを取り戻してきて、よかったねえなどと話し合ううちに、本人に痛みが感じられてくるのである。
ふだんから説明はしている。何度も説明はするけれども、仮死状態だった組織が復活してきて、正常に「痛み」を感じ始めると、驚いて連絡があったりもする。
「ここも、痛い。あそこも、痛い。病院にも行ったけど、分からないし、治らない」。

「だから以前からご説明しているとおり」なんて言ってもムダである。これまでは痛くなかった。痛いと感じられた途端にわるくなったと心配する。「痛くなかったほうが異常だった」とは考えない。これが人情というものなのだろう。
硬いまま放っておかれた期間が長ければ長いほど痛みもしつこい傾向のようだから、早く自分でも取り組んでゆるめるようにと口を酸っぱくして言っている。しかし人間そうそう聞き分けのよいものではない。自分でもとっくに経験済みだ。

「おめでとうございます。ついにやりましたね。さあこれからどんどん痛くなりますよ」と笑顔で言う私を、横目でうらめしそうに見られる。
痛みがあるのは、ありがたいのである。痛みが正常に感じられるようになるまでが一苦労で、手間も時間もかかるというのに、痛みを取り戻したありがたさが分からないとなれば残念至極。
痛みがあればまじめに取り組みもする。痛みは警報だ。痛みは赤信号だ。それを放っていては、また元のもくあみ。

痛みがあるときに実験することがある。
食べる量を増やすと、痛みはどうなるか。食べる量を少なくすると、どうか。せっかくなので試してみてほしい。痛みのメカニズムは不明な点が多いが、「未消化物が万病のもと」という考えは、この生活実験の結果と一致する。「未消化物は痛みのもと」というわけである。

「食べる」か、それとも「痛い思いをする」か、自分でどちらか一方を選べる。どちらか一方しか選べない、ともいえる。
早く痛みから逃れたければ、「ゆるめる」と「食べない」という二つのやり方がある。
やり方はあるが、何を、どうやるか・やらないかは、自分が決めるしかない。ここは正念場である。
どっちを選んでも事実の確認および人生勉強になる。これもまた、ありがたいことと受け取りたい。


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だって自分の体と命のことだもの。自分たちで守らないでどうする
2011/07/29(Fri)
医者も自身の体や命のことは、ふつうにあわてる。家族や身内のこともふつうに迷う。医者が決め手になる答えを握っていると期待する人には残念かもしれないけれど、がん専門医の自分ががんになったらどうするか。それは迷う。専門医だけに、かえって困ることも少なくない。そう近藤誠さんの著書にあった。

医者の仕事のたいへんさを想像してみる。医者は科学者のトレーニングも受けていない。宗教の訓練もまったくない。それなのに、心や体や命のことを全面的に引き受けさせられるような場面に立たされ続けている。多くの人々から科学者や宗教者の役割まで期待されるのが現状。一方的に役目を押しつけられているともいえる。
私は物心もつかないころから、学校の先生の顔を見るよりお医者さんに会うことのほうが多いくらいの生活をしていたので、そういう点は案外ものわかりがよいのだ。医者の仕事は、ケガは消毒しますと医学部で習ったら消毒をする。血圧の基準値が160だとガイドラインで決められていたら、160で降圧剤を処方するし、基準値が140になりましたと通達がきたら、通達の来たその日から140で降圧剤を処方する。

「ほんとうは消毒しないほうが結果がよいのではないか」「積極的に治療したグループのほうが短命というデータがここにありますよ」と言われたときは、保険医の立場というものを意識しながら対処せざるをえない。国の保険制度で消毒するとあれば消毒するし、消毒しないとあれば消毒しない。現場の医者の勝手にはならない。だから治療内容に文句がある場合はきちんと伝えればよい。治療は強制ではない。各自が、本人自身が、選ぶものだ。イヤイヤ嫌な治療を受けさせられているつもりでも、結局は「あなたが選んだんですよ」ということになってしまう。請求書も結果も、あなた自身が引き受ける。あなたの体と命で引き受けるほかは、ないだろう。

操体法の講習にはお悩み相談が舞いこむ。舞いこむたびに、みんなで関心を持って調べる。医者でなくとも、自分の身に起きた病気やけが、家族や身辺の人の身に起きたことについて調べ、考えることはできる。
西洋医学と言わず、東洋医学の面でも、調べる。これはシロウトの強みだ。ふつうの人間である私たちには制度の枠など関係ないのである。
一体、何が起きているんだろう。これは一体どういうことなんだろう。
病院で受けた検査とその結果。処方された薬とその添付文書。具体的なことをみんなで検討するうちに、本人がそのつどそのつど自分の答えを見つける。本人がはっきりすれば、それでいい。それ以上の答えはないのである。家族や身内ではない外野がごちゃごちゃいるところのほうが、かえってものごとのありようがハッキリ見える場合もある。

こんな意見を言う医者もいるよ、などと著書を持って来られる方もある。医者の意見といってもいろいろなのだ。セカンドオピニオンを聞きに行くとしたら、この中でどの人に会ってみたい?まじめだかふまじめだか分からない様子で、ざっくばらんに話し合う。どういう活動をしてきた医者か。どういう感じの人物か。思いつきが飛び交う。
どこかの遠くの知らない人に起きたことではない。家族やお身内、知り合いの方が連れてこられることもある。そうやって、みんなでわいわい対処するうちに、ご本人も少しは元気になって、やる気にもなる。全体の不安が減ってゆく。

火種も小さいうちなら、みんなの力で消し止めることができるのではないかと思う。大きな火事になるまで手をこまねいて、目の前で燃える火を眺めている必要はない。
だって自分の体だ。命のことだもの。そして家族の、身内の、友人の、知り合いの、体と命のことだ。どこか遠くで起きていることとはわけが違う。自分たちで大切にしないで、どうする。
だって、そうではないか。だから、どこの誰に義理立てすることも、気兼ねもいらない。第一、義理で受けることではないだろう。お医者さんが専門家だといっても、自分の体や命のこととなったら、ふつうにあわてるのだ。お身内のことにも、ふつうに迷う。そこはシロウトと同じ。これで大丈夫という答えなんか、残念ながら、ないわけである。

私たちは医者ではない。シロウトであるということがかえって有利な面もある。
立場による制約からは完全にフリー。治療方法も保険制度に固定されずに考えられる。ふつうの人間どうし、いろんな人とざっくばらんに話ができる。
専門家・専門医と思うから頭から尻尾までうのみにする。医者ではない人間どうしで話すのだったら、うのみにする人もない。それがいい。そういうのが、かえってよいのだと思う。
みんなでシロウトらしく堂々と、自分たちの命と体を守ることも、あっていい。そうは思いませんか。


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生活改善は急流の笹舟ではなく、大海の船がゆったり針路を変えるがごとく-自分で自分のことがおのずと分かるようになる-
2011/07/22(Fri)
食べるというのは命の基本。誰もがほぼ毎日やることだから生活改善ビギナーは悩む。何が体によいか。圧倒的に多い質問である。
「何かを食べると健康になる」。そういう思考はテレビの影響が大きい。
テレビや新聞から聞こえてくる雑音を少しずつ減らすのは、生活改善にはバツグンに有効だろう。
「何が体によいか」の解答は、テレビやラジオといった、電波をキャッチする箱から24時間垂れ流しだ。印刷された文字の羅列、新聞記事からも解答が垂れ流されている。もはや考える必要はない。
「さあさあどうぞ。教えてさしあげますよ」と言っている。呼びかけている。
テレビやラジオや新聞たちは、同じことを言い続けている。いろんな情報があるのではない。内容は一つだけ。
「いろんなものを食べろ」。でないと体をこわすと言っている。「毎日何回か食べろ」。でないと栄養失調になると言っている。「水をこまめにとれ」。でないと倒れると言っている。「塩とコレステロールは減らせば減らすほどよい」と言っている。「健康診断を受けないと死に関わる病にやられる」と言っている。「ワクチンを受けるといいことづくめだ」と言っている。「具合がわるいときには病院にかからないといけない」と言っている。

要するに、結論を出している。一つの結論、一つの答えを教えてくれている。これしかないと言っている。ああしろこうしろと呼びかけ続けている。テレビのボリュームを上げると、聴いているほうは自分の行動を規定して欲しくなる。ああしろこうしろという呼びかけに、応じていないつもりがいつの間にか、「あ、そうなんだ」「へえ、そうだったのか」と応じてしまっている。「そうそう、そうだったな。たしかこの前にもそういうことを聴いたんだっけ」。復習、おさらいまでさせられて、たいていは誰でも「いろんなものを毎日食べて、水はこまめにとって」と言えるようにまでなっている。口を開けば「塩とコレステロールは体に毒だ」とささやきあっている。

私は自分の日常を過ごす場所に、外からの電波が流れ込まないようにしている。週に一、二度くらいは出歩いた先で、電波からの呼びかけを見聞きする機会がある。
ものの1分もたたないうちに、私の目は画面を追い始める。心は電波にからめとられて、「ふうん、そうか、そうだったのか」をいつの間にかやらされている。ずいぶんとテレビっ子だった私は、テレビの受け身が染みついている。一時間も経過すると、矢継ぎ早に「ああしろ」「こうするんだ」と引っぱり回されて、頭クラクラ目がチカチカしてくる。これぞまさしくサーフィン。急流の笹舟にでも乗った気分だ。電波の箱から離れて安静にしていると、頭の中は泥水をかき回したみたいなことになっている。残像と残響とがからまりあい、ごみのように浮いたり沈んだり、点滅を繰り返している。数秒ごとに切り替わる画面、数秒ごとに出される結論は、私の生きるペースではないと思い知らされる。
あの画面を目で追い、音声を聞き逃すまい、あの情報についていこうとしていたこともあった。それが「自分のためになる」と感じていたことも、あったのだ。そう思うと何だか気味がわるくもなる。

何が体によいか。知識を集めるよりは、大きな船がゆったりとへさきの向きを変えていくように、おのずと心身の向かう方向が変わってゆけば、よいのではないか。生活の改善とは変化にほかならない。変わるということ。それを互いに話し合ったり論じ合ったりするのは、バツグンに有効。そうするうちに、たくさんのことが、おのずと自分でわかってくるようになる。自分でわかるということほど愉快でおもしろいことはない。他人から教わることじゃない。自分に備わった判断の力が、おもしろいように働いてくる。

すぐに正解を教わろうとするのは教育で身につけた行動なのか。赤ペンを手にして答え合わせをしようとする。解答冊子を握っている「先生」と呼ぶ相手に、「答えを教えてー」とせっつきたくなる。しかしせっかちは失敗のもと。考えることを楽しめばいいと思う。


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治りたいのですがそのためにはどうすればいいですかとはっきり尋ねる
2011/07/19(Tue)
交通戦争といわれて久しいが、学校でムチウチのことも教えてくれないとは何と不親切な社会か。予防接種だ生活習慣病だと、妙に親切に騒ぐほうと、ムチウチのように妙に黙って放っておかれるほうと、この違いは何なのか。一体どこで、どういう判断で、区別されているのか。

気になるところはないか訊ねると「肩こり」。ゴルフボールをうめこんだような不自然なコリ。「事故か何か、あわれたですか?」「先月、車に接触してバイクでこけましたが」
私自身のムチウチ体験を聞いていただく。「あれ~わたしもいっしょです、全くおんなじ」と驚きの声が返ってくる。事故のあと元気だったのに、二、三週間経つうちに体中おかしくなってきて、しかしそれと事故とは結びつかない。「じゃあ、わたし、ムチウチっていうことですか?」と、きょとんとしている。こういう人が、あまりに多い。多すぎる。

ムチウチの厄介さは体験した人には分かる。新聞ネタにもならない、ちっぽけで取るに足らない事故で、取り乱すのも気恥ずかしい。血がだらだらと流れるでもなく骨が折れたわけでもないのに、なぜこんなに苦しいか。苦しみ続けなければならないのか。周囲にも本人自身にさえも、全くわけがわからないことだろう。
医者もあきらめているから、やれ一ヶ月だ三ヶ月だと、治療期間を事務的に区切って済ませている。
全てのケースにおいて本人の納得のいくまで面倒を見ていたら、車社会の経済が成り立たなくなるのは自明である。口うるさい人の面倒は見ないわけにもいかないが、本人が何も言わないのだったらそのままだ。
「このムチウチどのくらいの期間で治せますか」ときちんと質問したほうがいい。「わたしは治りたいのですが、そのためにはどうすればいいと思われますか」とはっきり訊ねたほうが、いいのではないかと思う。

「あら、この足首…」「十年以上まえにネンザしました」。「あれ?この首は…」「ずいぶん昔ですが交通事故やりました」。講習中に、こうしたやりとりが耳に入ってくる。自分に備わった特殊技能かとカンちがいしていた時期もあったが、筋肉に訊けば誰にだって多少は分かる。聞こうとしなくても、案外といろんなことが分かるようになるものなのである。


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生きものたちが生まれ、生きて、死んでゆく夏がやってきた
2011/07/18(Mon)
あたたかい季節は虫を踏み殺すので托鉢をやめ、室内にこもって修行する。そういう僧侶たちがいる。
極端と思われるだろうか。以前の私みたいに。
山歩きには殺生がつきまとう。登山口に向かうまでにすでに、たくさんの命をタイヤや車体でつぶし回っている。それがイヤでたまらなくなり、ずっと手前で車を降りて歩くようにしていた。
足元の虫たちをつぶさないよう、一歩一歩ていねいに足を運ぶ。気をつけていれば小さなアリ一匹だってきちんと目に入ってくる。
そんなふうに目をこらすものだから、文字通り虫の息の生きものたちにも遭遇せざるをえない。足が何本もなくなったものや、いろいろ事情をかかえながら生活している様子なども目に飛び込んでくる。
胸が、痛む。どんな小さな虫にだって、生きものには胸が痛まずにはいられない。
そんな、気の弱いことで、どうする。
我ながらそう思うが、平気を装ってもしょうがない。悲しいものは悲しい。

虫は、たくさん卵を生むのだから、たくさん死ぬのは想定内のこと。虫は虫けららしく、軽々しく死ぬのも当然なのだと自分に言い聞かせてみることもある。
しかし逆をいうと、一匹の虫の命を救うことは、何万何百万の子孫の命を救うことになる。一匹の命を軽々しくなど扱えるものではない。

でっぷりとした体格のイモムシが、地面に横たわっている。目の覚めるようなエメラルドグリーン。鳥たちがみたら大喜びしそうなご馳走だ。生きてはいるが元気がない。背中の一部にはさまれたような痕がある。致命傷か。何とか起き上がらせ、目ぼしい木につかまらせる。せっかくここまで育ちはしたが、成虫にはなれまい。持って数日の命か。その前に食われるか。
どんな処置をしてやったら成虫となり、子孫を持つまでに至るだろう。そう、ふと思った。
たぶん成虫にはなれても子孫は持てない。生きものの世界、そう甘くはない。
生きものが子孫を残すために、どれだけ厳しく互いを選別するか、私だって少しは分かっている。
ちょっとでもダメな異性になど、虫たちは、動物たちは、目もくれないのである。
人間だけだよな、と私はおかしくなる。ほんとに人間て、おかしいよな。ここまでおかしいのは、人間だけだよな。

スズメたちに、こっそり差し入れをしている。これは非常にわるいことだ。人間たちがみな迷惑をする。
川辺のウォーキングコースには、私のように自然の生きものの掟をやぶる身勝手な人間たちがけっこういて、こそこそと差し入れをしている。昔は近所が田んぼばっかりで、スズメたちの口に入れるために栽培するでもなかろうが、人間たちがスズメたちの生活を支えていてくれた。見ようによってはスズメたちは田んぼで餌付けされていたようなものだった。
今は餌も住む場所もなくなって、数十年前の様子と比べ、格段にみすぼらしく見えてしまうものだから、わるいと知りつつ、やってしまう。やったところでどうしようもないのだが、小雀たちの夢中ではしゃぎまわる様子がつい見たくなって、自分のわがままでやってしまう。
どの鳥の暮らし向きにも切羽詰ったものが感じられる。昔の様子とはずいぶん違って、スズメたちはやせて汚れていて情けない。一生に一度でいいから腹いっぱい虫を食べさせてやりたいな、などと思う。

虫たちや鳥たちの生活態度はつつましく、災難や死を受け入れるときの彼らの態度から教えられることも非常に多い。彼らを見ていると、人間は、虫や鳥たちよりもほんとうに高級で立派なのか、疑問に思えてくる。
虫けらのように死にたくはない、などと言って、虫けら以下の死にざまになってはいないか。
生きざまは、どうか。彼らと比べて引けをとらない、と言えるのか。

夏。多くの生きものたちが生まれ、生きて、死んでゆく夏が、またやってきた。


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足のウラに自分の全てをあずけて気持ちよく歩きたい
2011/07/17(Sun)
外反母趾とかタコとか、靴底の減りがかたよるとか、気になるときは靴も靴下も脱いで裸足になって、足のウラが自分をきちんと受けとめてくれているか、チェックしてみてください。

①ゆっくりと、ていねいに、まっすぐに歩いてみる。足の運びはスムーズでしょうか? 足のウラの感覚つかめるでしょうか? ぐらついたりしませんか? どたどた足を運ぶと、いろんな弱点がカバーされ、ごまかされるものですが、あらためてこうして歩いてみると、いびつな感じに気づくかもしれません。
重心安定の法則からいえば、立つ・歩くというのは、足のウラの、親指付近が支えるのが理想ですが、けっこうぐらぐらしませんか?

②適当に円を描いて歩いてみます。右回りと左回りとで、歩きやすさがちがうというのが分かるかもしれません。やりやすいほうだけやっていると、右も左もどちらとも同じ感じで歩けるようになる、かどうかは、何回かやって確認してみてください。

③腰の幅に足を開いて立つ。膝をゆるめ、ぴんと胸を張ったり背筋を伸ばそうとせず、ゆるい姿勢で立つ。
腰が苦しいときは、腰を落として前かがみになり、手のひらを膝にのせたり膝をつかんだりしてラクな姿勢で行います。

足先が開いて逆さの「ハ」の字になりがちですが、やや閉じぎみにして並行に。立ちにくく感じられますが、これで足のウラに体重をのせてゆきます。

足のウラを床につけたまま、重さをつま先から順に、右回りに移動させてゆきます。つま先から右側へ、かかと側へ、左側へと順に移してつま先へと戻る。体の動きはしぜんにまかせてください。足首の硬さ、腰の硬さ、肩や首の硬さが、動きのいびつさ・不器用さ、やりにくさとなって感じられ、ひどいときには倒れそうになるかもしれませんので気をつけて。少しずつ、小さな動きで、試してゆくとよいです。

途中から足先が開いてくずれてきますので、やや閉じぎみに並行に戻しながら正確にやってください。

左回りも試し、どちらかやりやすいほうを実行すると、右回りも左回りもやりやすくなる、かどうかは、途中で何度か確認してみてください。


いかがでしょう。
ひっかかりが感じられたり、だるい感じ、痛みの出るところ、自分の全身のいろいろな情報を把握することがだいじです。
さいごに、ふだんどおり歩いてみましょう。ふだんと比べてどうか。
正しいやり方で実行できた場合には、「あれれ??たったこれだけで?」と驚かれることまちがいなし。
やり方も、少し慣れれば要領はつかめます。
これでも立派なウォーキングです。適当な歩き方のウォーキングよりも立派かもしれない。それはこまめに実行していれば、分かります。部屋の中でも台所でも、どこででも場所をとらずにできます。操体法的ウォーキングです。


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痛いところ・動かないところが悪いのではない
2011/07/16(Sat)
小さなパーツに狂いがあれば大きな全体にも狂いが出る。大きな全体に狂いが生じれば、細かなパーツの機能にも狂いが生じるのは当然だろう。
四方八方からのシワが寄せ集まったところがヒザや肩や腰であったり、頭痛や内臓の不調であったりする。レントゲンに写ろうと写るまいと、そこにわるいものはいない。四方八方からシワが寄せてくるという現象は目に見えないのである。

たとえば胴体が、ねじれている。
胴体の上下、つまり肋骨付近と骨盤付近との、向いている方向が異なる。骨盤付近はやや左のほうを、肋骨付近はやや右のほうを向いている。タオルを絞るときのように、胴体がややねじれている。そんなことは少なくない。

両手を首の後ろで組んで右を向いてみると、肋骨付近が右へ強くねじられる。左を向くと、肋骨付近が強く左へねじられる。左右どちらがねじれやすいかは、個人差もあり、時と場合にもよる。
しかしほとんどの場合、どちらかがよけいにねじれやすく、どちらかがねじれにくくなっている。
こういうのが、全身に大きなしわを寄せる。

肋骨の背中側には、肩甲骨が結合されている。
腕の上げ下ろしに制限がある場合、腕そのものに注目するのではなく、胴体のねじれの及ぼす影響の大きいことに注目し、大きなねじれを先に解消することを考えるのも一つかもしれない。
小さなパーツの不具合のことは、大きな全体の不具合からみてゆくと見通しのつく場合も少なくない。
ごっちゃり寄せ集まった結果そのものを嘆いても突ついても、シワが次から次へと押し寄せてくるのを止めなければラチがあかない。シワの出どころを探るほうが、より確実で、より早い。

動診とは、そうしたシワの出どころを探るためにあると、私は思う。


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