☆気づいた途端に尻もちをつき、お花畑の真ん中で目が覚める☆
2012/05/17(Thu)
だまされた。住所をあかさないので周囲はダメとは思っていた。私たちは夢のお花畑で彼とともに踊ることを選び続けて破局を待っているようなものだった。
毎週顔を出していたのがぱたりと姿を消し、家人の口からも名が聞かれなくなった。最初のころにハッキリと、「あんたはいい方のようだけど、住んでいるところも明かさないというのは家族としても心配なのだよ」とみんなの前で言えたらよかったと思う。誰もが口をつぐんだまま数年が過ぎ、ほんの最近になって、「あれは結局どうなったの?」とはじめて言及した。「だまされた」とうめくような返事がかえってきた。
私たちはだまされるけど、だまされたことを認めるには意識の壁が立ちはだかる。それでまたカンタンにだまされてしまう。

話の愉快な先生が、いた。仕事上のつきあいが長かった。あるときお身内から実情を伺い、背筋が凍りついた。半信半疑だったが、その後ぱたりと音沙汰がなくなった。生徒たちのほうが正確だった。「なんとなく気持ちわるい人」と言って、高校生たちには好かれていなかった。
一言でいえば不自然ということにつきるのだろう。
不自然によい人、不自然によい対応をする。それはプロの領域。利害がからんでいる。つくられた心地よさ。山野草ではなく、人工のお花畑。ふと気がついた途端に尻もちをつき、尻の下で大輪の花々が、ぐしょりと汚ない音を立ててつぶれるのだ。
そういう生徒たちだって、またよくウソをついた。ウソの裏には切実な本能がはたらいているのだから見抜けやしない。ここは推理をはたらかせ、周囲から事実関係を確かめて、どこがどのようにウソなのか、ウソのもとになった本当の事実は何なのか、判断しなければならない。そのうえで本人にもう一度確認する。

まわりの人間一人一人にだって、こんなのもの。
そこらじゅうエサみたいにばらまかれてある、見ず知らずの人間の情報なんか、ぜんぶが全部おかしなものだったとしても不思議でもなんでもないのかもしれない。きちんと事実関係を確かめた上で、どこがどのようにウソなのか、ウソのもとになった本当の事実は何なのか、いちいち判断する時間もとらないし、たとえ時間があったとしても、そうカンタンに判断などできはしない。
情報社会は情報でだまし・だまされ続ける社会にほかならない。人工のお花畑で踊るのに慣れた足が、いつまでたっても地に届かないのもしょうがないことなのかもしれない。
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☆お金。交換を保証されたもの。そこから何ものにも替えがたいものを得る☆
2012/05/16(Wed)
示談書に、サインできないでいた。それ以外の社会的解決法は用意されていない。
お金は交換できる。交換できることを社会的に保証したものが金銭だ。
しかし人の体験は、何ものにも交換できない。失礼な。
強いていえば、そういうリクツになるだろうか。

新聞やテレビでは「和解!ついに解決!よかったよかった」みたいな報道をよく目にする。社会的には「よかった」としか言いようがないが、被害にあった側の本当の解決というのは、まだまだ遠かったりもするのである。それが今はよくわかる。立場がかわると目に映る風景がこんなにもちがうとだけ、思う。

示談書では自分の言い分は通ったから一つの達成だ。ここでサインせずに終わらせれば筋は通るのである。
神棚にあげ、毎日お経をあげて考えた。未解決のことは神棚にあげておくと、たいていは答えがピンと出るが、今回はそうカンタンではなかった。
社会的解決と、自分的な解決が、必ずしも足並みそろうことはないという、あたりまえの結論以外にない。

「ほんとうの解決は、これからだろう」。サインし、印鑑を押し、それからまた未練がましく数日おいて投函に至る。地面にめりこむ足を引っこ抜きながら、引きずって進むような、作業。
お金は、交換できる。交換できることこそが、人々の望むところだ。
交換したくない。というか、交換できない場合には、どうすればいい。

これをまた、何ものにも替えがたいことに交換して、高める。
そういう作業だけが、私の手元に残された。
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☆現代のガリレオたち−壁がくずれるのを待つか。意識の壁を壊して実をとるか−☆
2012/05/15(Tue)
今は子供も知る地動説。そんなカンタンなことも分からないとは当時の人々がよほどのバカだろうか。それとも地動説がむずかしいのか? どこが、そんなにむずかしいだろうか。
中心に地球。そのまわりを他の天体がぐるぐる動くか、中心に太陽。そのまわりを地球をはじめとする他の天体がぐるぐる回るか。それだけの違い。
べつにどっちがむずかしいとか理解しやすいというでもなさそうだが、地動説が現代まで長らえて広まる過程は、それほどカンタンでもなかった。
それはなぜだったろうか。歴史をひもといてみる。

骨髄造血理論と腸造血理論についても同じことがいえる。
どっちがむずかしいというのではない。赤血球をつくる場所が骨髄か、腸の粘膜なのか。ただそれだけの違いである。
理論に矛盾がなく、半世紀以上にわたる実績を出しているのは後者のように思われる。
人体で骨髄が一番集中しているのは四肢、手足だそうだ。手足を全て失えば、骨髄もずいぶん少なくなる。しかしそれで血液不足になったという人は一人も見つからない。失われた骨と、残りの骨との量を比べれば、どこかで補うにはほぼ不可能にも思われる。この点について骨髄説からの説明は一切ない。

断食や節食で体調がよくなり病気も治ることは昔から知られるところだが、これについても骨髄説は説明できないでいる。
血液をつくる材料=食べものが入ってこなければ、血液が不足して生命の維持も危ういだろう。
しかしじっさいは人はかなり長期にわたる断食に耐えられる。とくに貧血ということもないのである。
腸造血説は、血液の問題にとどまらない。
血液の不足を補う手段として、体の細胞が赤血球に戻るというのである。この時ばかりは骨髄からも赤血球が出てくるのが観察され、病的な細胞もくずれて赤血球になっていく。その後に質のよい食べものを摂取すると、健全な赤血球がつくられて新しい血液が体じゅうをめぐり、健全な赤血球から健全な細胞が新しくつくられる。食べものが、まさに血となり肉となる。

赤血球の役割が、単に酸素を運ぶというだけでなく、体をつくる材料だという。
だから血液をきれいに、健全にすることが、病気治療の中心に据えられなければならない。そして実績も出している。
体の状態にあわせて、赤血球が細胞になったり、体の細胞が赤血球に戻って血液をつくったりを繰り返す。腸造血理論は、細胞の成り立ちや入れ替わりについても、新しい理論へと広がりを持つものである。

森下敬一医学博士は腸造血理論で食事指導を続けて半世紀以上。とくに癌治療の実績はよく知られている。
私も必要に応じて「本を読んでみられてはどうですか」「話だけでも聞きにいかれてみてはどうですか」と声をかけることがある。しかし手術や薬物や「高度技術」的治療ほどには関心が示されない。受けつけないというか、へんな迷信、意味不明の言葉くらいにしか耳に届かないのだろう。
現代にも天動説・地動説問題はいたるところにあって、病気治療の世界にもガリレオはいる。そういうことなのだろう。
制度の壁、意識の壁は、いつの時代も厚く、堅固である。しかし、いつか壊れるときがくるというのも事実。いつ壊れるか分からない壁がくずれ始めるのを待つか。それとも自分で自分の意識の壁を先に壊して、実をとるか。
各自の判断にまかされている。
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どんなときも人生がバラ色の輝きを失わないために
2012/05/14(Mon)
足をくじいてまともに歩けなくなると意識が足に集中する。「この足のことさえなかったら」。足のことがなければ人生はバラ色に近い。足がひどければひどいほど、足の問題のない人生が輝きを増してゆく。

「足のこと」が去るにつれ、バラ色も少しずつ色あせてくる。
「足のこと」が消えた瞬間、あれほど願っていたバラ色の人生が、ただふつうの人生に戻っている。「なあんだ、ただの元通りじゃないか」と、あたりまえに思い、感謝のヒマさえないわけだ。

「足のこと」が消えた瞬間に、新しい悩みのタネがバラバラ降ってくるのだからしょうがない。
「これさえなかったら」「いや、それとこれと、ついでにあれもなかったら、そしたら今度こそ、いうことないんだがなあ」などと、いつの間にか思って過ごしている。
グチや不満の中で生きていたくはない。わがままなふくれっつらをして生きていたくはないと思うのである。
どんな状況にあっても、せめて晴れ晴れとした顔を、していたい。

足の問題をかかえているときも、悩みのタネはそこいらじゅうにばらまかれていたのである。しかしそれほどひどくは芽が出ていなかった。意識が足に集中していたからである。
足の不幸に集中している限り、その他の不幸は気にならない。その他の面では比較的幸せと感じられるのである。
自分の不幸に集中していると、その他の不幸は気にならない。他人は比較的幸せなのだと感じられ、自分のほうはどんなささいな不幸に見舞われても、どん底であえぐしかなくなる。

逆をとろう。他人の世話に集中していれば、自分のことは比較的気にならない。自分が不幸のどん底ということは、まずなくなるのである。我欲を捨てろ、むさぼりを捨てろという教えの意味は、案外こんなところにあるのかもしれない。
不満のタネがいつまでも尽きないのはなぜなのか。
不満のタネに毎日せっせと水をやり、肥料もあげてだいじにだいじに育てているのは、一体誰なのだろうか。

必要に応じて自問する。
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人生の当たり年に何を望み、どう過ごしたいか
2012/05/13(Sun)
初めて出かけた年がたまたま当たり年。期待して翌年から出かければ今ひとつ。そんなことを何度か経験した。
花を追うとキリがない。花にあわせて行動するのは不便だが、その不便がまた楽しみでもある。
家人は花好きを自称するものの、花に都合を合わせるほどではない。花を見る苦労をした経験がないから「その気になれば花なんかいつどこにでも咲いているだろう」くらいの気分。写真集を開いて楽しむように花が楽しめると最初から思いこんでいる。

「花」という言葉を「成功」という言葉に置き換えてみる。
絵に描いたような他人の成功を見聞きしていると、成功という花はそのように咲くと思えてくる。どんないきさつで成功の花が開いたかは余程の事情通でない限り、分かったものではない。むしろ本人たちにさえ分かってないことのほうが大きいかもしれない。
私たちの日常は季節を知らない花盛りのお花畑。
絵にならないところはごっそりカットされた絵。誰もがついていけるエピソードだけをパッチワークした物語。
そんな絵を描き続け、パッチワークの物語を書き続けて、視聴者や購読者を増やす。
そんな絵描き、もの書きのプロ集団がマスコミとはいえないだろうか。

人間どうし、自分とあまりかわりのないように見える人が成功したと聞くと、「それじゃあ、わたしも」という気になるのはあたりまえ。それで大いに発奮すればいい。
しかしめったやたらな努力が長続きするとも思えないし、努力なしの成功を望めば、どこまで行ってもつらい、くやしいという気持ちにさいなまれるだろう。
中学の同級生たちが東大・京都大に進学したのを知って、くやしさのあまり猛勉に踏み切ったのは18歳のとき。大学合格に至るまでの実情は、自分自身しか分からないこともあれば、自分にもまるで分からないことも多い。振り返ってみれば、思ったほど偉くもない。むしろ愚かさが目立つ。
しかし努力が一つのかたちになるところまで、努力をやめなかった。その実体験だけは、得た。得たものもあれば失ったものもあるとは思うが、あのときは、ああする以外に思いつかなったから必然だ。後悔は、ない。

毎年咲かせる花だが、勢いのある時期はほんとうに限られている。
外から見れば偶然のように見えるが、バラ自身にとっては偶然ではない。必然である。
当たり年がなかなかないのを知ってこそ、勢いのある花が咲いたときの喜びは格別である。
人生もまた、同じ。
来年こそは。
そんな思いでバラ園を後にする。
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自分の「ちょうどよい」が静かに実現されてゆくのが一番。
2012/05/12(Sat)
けがや病気で動けなくなると、「一日も早く治したい」という気持ちと「ゆっくり休もう」という気持ちとが交互にあらわれたり混ざったりする。
本来は、はやくもなく、ゆっくりでもない。それぞれの、時と場合に応じた「ちょうど」が実現されてゆくだけだ。
一刻も早く治るにこしたことはないが、それを思うだけで回復の方向がもつれてくる。
ゆっくりがいいかというと、それもまた、思えば回復の方向は人為的になる。
選択ではない。必然だ。ほんとうにダメなときはほんとうに動けない。必然だから、どんなに真面目で勤勉な人もあきらめをつける時だ。

むちうちには保険会社からの補償が平均3ヵ月。ひどくても6ヶ月という不文律の社会的目安が存在する。
診断書を毎月提出する医者の立場では、「保険会社が何ヶ月まで補償するか」を予測することがだいじという。でないと「焦げつき」が発生する。保険会社も払わない。患者のほうでも責任ゼロ百だから支払わない。「そんなケース最近けっこうあるから」。何か所かの医者に、説明されるともなくされた。
社会的な補償の問題と、自分自身の体の状態とは、きちんと区別して考える。
それが被害者にとって混乱しないためのだいじなことだと、身をもって知った。

ただでさえ苦しみから早く抜け出したいと思いがちなところに、保険会社の担当者が連絡してきて「早く治ってください」とあからさまな催促をする。体のことなど何も分からない人からあれこれ毎日言ってくるのが非常に不愉快で、すぐに弁護士や知り合いの病院長に相談し、文書以外の不要な連絡を一切やめてもらった。
保険の担当者の「早く治って」コールの意味を知ったのは、ずっとあとになってから。
被害者の体調不良が長引けば長引くほど補償期間はのび、支払金も増える。そういうしくみなのだ。支払金を一円でも削減するのが担当者の仕事。だから「一日も早く」。考えてみればあたりまえの話だが、世にうとい頭では思いもよらず、いらぬ不信感がつのった。
早いうちに相談に出たのは幸いだった。解決の力になってくださったT先生にはとくに感謝している。

社会的な解決はしても、体のことは自分で引き受けるほかはない。保険業界も担当者も医師も弁護士も一切関係ない。被害者という肩書きも不要。そんなのはかえって邪魔である。
私と。そして自分の体と。ごく非常にプライベートな関係なのだ。利害にまみれた視点から「早く治れ」などと口出しされるのはまっぴらご免だ。
はやくとか、ゆっくりとか、そういうの、どうでもいい。それが一番シンプルだった。
わたし自身の「ちょうど」が、「ちょうど」のタイミングで静かに実現されてゆく。
ここから振り返ってみれば、まさに「ちょうど」の連なりと積み重なり。ここから先もまた、恐らくはそうであろう。思いわずらうべきことはもともと何一つなかったのだ。
そう思う。
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☆便利な生活は生き物にとってつまらない−体でおぼえる楽しい体験が奪われてゆく−☆
2012/05/10(Thu)
不便な生活に戻ろうというのではない。しかし便利な生活でどんどん失われ、どんどん奪われつつあるもののことは忘れてはならない。生活のどこかで補う必要をみたすものとして、操体法と山歩きは意味があると私は考えている。
掃除機の普及で、自分たちの生活はかえって不潔になったかもしれない。それと同時に、はたきの使いかた、雑巾のあつかいや、いろいろと体でおぼえる訓練の場を失った。私たちがずいぶん掃除がヘタになっているとしたら、能力の点では大損をしたのである。

幸田文さんの著書を開いて、りんとした心の張り、気合を感じない人はいないだろう。文章の好き嫌いはあろうが、ピシピシとビンタを張られるような気持ちで文字を追うことが私にはある。
あれは幸田さんに特殊というよりは、昔の人の暮らしにふつうにあった緊張感だろう。
薪割りもずいぶん訓練させられたようだが、現代の生活にはそんなチャンスもない。
頭を使いながら体を動かすのが人間にとって一番楽しいことなのに、一番楽しいことを奪われているのが、今の便利な生活空間の中味なのだ。

冷蔵技術で食中毒は減り、食物を腐らせる無駄も減っているだろう。
しかし冷蔵庫のない時代にも食中毒を出さず、食物を腐らせない方法があった。
でなければ食中毒でみんな死んで、今はもう誰も残っていないのである。
冷蔵庫がないぶん、生活の中で鍛えられる。何がどのくらいの温度で、どのくらいの時間を経て腐敗していくか、各自が観察する場面に立たされる。どこまでなら口にして大丈夫か。どう保存すればよいか。判断や予測、工夫が試される。
日常生活の現場において小さな勝負で勝ったり負けたりを繰り返しながら、日々頭を働かせるはずだ。
「不便な」生活の中で、仲間どうし学びあい、助け合う必要もあったはず。じっさい、今より助け合いの機会も多く、助け合い精神も発揮されていたと聞く。

近年、認知症が増加傾向にあるというが、昔の人は「不便」な生活の中にボケ防止策をいつも持っていたのである。
生活がよくなった分、失うものがある。「生活が便利」ということは、それだけ体を使わず、頭を使わないでラクをするのだから、これはもう落とし穴だ。
こういうの、人間だよなあと思う。人間の生活なんだから、単純に出した答えでは、まったく通用しないのだ。

そこそこの不便はたのしい。おもしろい。便利な生活は生き物にとって、つまらないのである。
慢性の運動不足と、体を動かす体験が不足しているために、こころとからだがうまくつながらない。不足しているのは日常生活での体験。「生活での体験が脳の発達を促す」というようなことは、あらゆる分野の本で指摘されているのだが。
体のことが自分で分からないと不安になるのも当然で、生きものとして保証されたほんとうの健康を享受することもないといえるだろう。
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☆骨肉の砕かれる音を聞きながら、その胸の内に去来するものは☆
2012/05/09(Wed)
仲間が襲われ、食べられている光景に、常に身を置いて過ごすシカたち。くずれないその淡白な表情の裏には、どんな思いがあるのか。ないのか。映像を目にするたびに、思う。
草食動物たちはただ黙って捕食者に食べられてばかりではない。反撃して相手に致命傷を与えることもあるし、助け合ったり団体の圧力で退散させることもある。多くはその脚力と体力により、捕食者たちを退ける。
持久力でいえば肉食動物など草食動物の足元にも及ばない。草食は圧倒的に有利なのだ。捕食するほうもされるほうも、お互いよく分かっている。だから襲われるには襲われるだけの、食べられるのには食べられてしまうだけの、条件があるのである。
ちょっとした不運。ちょっとした体調不良。ちょっとした気迫の不足。ほんのちょっとの判断のミス。それで命を落とすことになる。

群れで暮らすシカたちは日々お互いに命をかけて学ぶ。命がけの成功、そして命がけの失敗を、目の当たりにしながら学ぶわけである。
互いから学び、互いに助け合わなければ、生きのびることはむずかしい。
程度の差こそあれ、人間である自分たちにも基本的に言えることだ。自分の周囲の人間に起きていることに無関心では、肝心のときに運命が分かれる。
情報を交換しあいながら学びあう仲間。助け合う仲間。自分には一番大切だ。
そこまで近しくはなくとも、直接・間接的に自分の身のまわりの人の身に起きていることにアンテナを張る。

誰の身に、いつ何が、どのようにして起こっているか。メディアの手で加工されていない、周囲の生の情報を見聞きして、何を感じ、何を思うか。
仲間が食べられているのに気がつくか。骨肉の噛み砕かれる音が耳に入っているか。襲われる様子はその視野に入るのか。聞くでもなしに聞き、見るでもなく見ているシカたちの、あの表情の裏に、どのような思いが去来しているのだろう。
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☆鼻水を、ゆるす。アトピーも発熱も腫瘍も、もうゆるす☆
2012/05/08(Tue)
生まれた時から鼻水たれ。「治さねば」という考えで10年いろいろやらされた。危険な手術。強力な薬。それでいろんな障害をおこしていた。肝心の鼻水は悪化していった。
大人たちは「鼻水を治しましょう」という姿勢をくずさなかった。体を少々こわしてでも。命を少々危険にさらしてでも、ということだった。
体を少々こわし、命を少々危険にさらしたが、それで半世紀経った今も鼻水たれ。
こわしてさらした分のツケは今も一人で払い続けている。

甘味を断ち、油や動物性の食品全般を減らしたら、病院や漢方薬でやらされたどんな治療より大きく改善したのが子供ながらに分かった。それで病院通いが不要になった。11歳のときのことだ。
治療に支払ったお金の合計。通院にかけた時間や手間の合計。精神的不安と恐怖(副作用と後遺症は後々分かってくる)。
これをはかりの一方にのせてみる。他方には、甘味を断つ手間をのせてみる。
ハッキリと子供の頭で考えたわけではないが、どちらが効率よいか。
大人はいろいろ理屈をつけたがるだろうが、私は子供だったから、迷路の出口はすぐに分かった。

病人に勝手にこんなことされたら、医者は顔を青くするだろう。
私の治療に支払われたお金の合計を、子供の私のように考えることは、絶対にできないからだ。

病気もあんまりかからないし、病院通いも長くならなかった人には、こういう事実を体験したこともなく関心もないから、分からない話だろうとは思う。
しかし全体的に、これに似たような体験は増えていっているのではないか、これからも増えていくのではないかと、私は案じている。

アトピーは、操体法と山歩きを中心にすると完全に消えた。しかし鼻水ばかりは出てくる。
鼻の通りは、よい。大人たちの方針に従っているあいだ、左右の鼻の穴は同時に空気を出し入れしたことは一度もなかった。両方とも完全に不通なことが多かった。だからこれはむしろ飛躍的な改善といえる。
しかしわたしの心の中に、ふいっと、「この鼻水を治してみようかな」という気が起こることがある。
「このくらいまでしか治らないかな」と思うのだ。
これまでも、いろいろ自分でやってみた。もちろん改善はする。しかし長続きしない。
体については「わるいところは何がなんでも治さねばならない」とがんばる気持ちが起きるほうだ。「わるい体は死んででも治さなければ」という命がけの気持ちにさえ駆られる。
だからときどき、「自分のこれを治してみようかな」などという気の迷いも生じる。

「この鼻水があるから自分は元気で生きてこられた」。ふとそういう思いが起こる。
「アトピーがあったからここまで生きてこられた」。そういうようには考えられないのかな。
体がまちがった選択をする。だから私たちはしっかり監視して、正しい方向へ導いてやらなければいけないのだろうか。体が選ぶ方針よりも、私たちが選ぶ方針のほうが、正しいのだろうか。

もちろん鼻水たらしながらより、たらさずに生きるほうが、よい。皮膚をただれさせたり、発熱したり、体の内部に腫瘍ができないほうが、一見、望ましくもみえる。
しかしそれは人間の価値。社会的価値である。体の活動のあらゆる実行は、「命を維持し、元気に長らえる」というテーマに忠実なはずだ。生命の歴史数十億年の間に身につけてきた体の智恵が、そうそうカンタンにまちがったことをしていては、ここまで生き延びてこられるわけもない。
それどころか、私たちが鼻水やアトピーや発熱や高血圧や腫瘍やその他の生命活動のことに、とかく口出し手出しする方針で生きていくと、この先の生命の歴史がどうなってゆくか。その方面についての保証はまったくない。

そういう目で見てみれば、「鼻水たらしちゃいけないよ」「高血圧なんかダメじゃないか」「腫瘍なんかつくったら危ないだろう?一体なに考えてるんだよ」などと体とケンカして張り合うのは愚かなことかもしれないのである。
「よし、ダメでお馬鹿な体を、私が治してやる」という考えでは苦労が多く、かえって迷路に追い込まれる。ストレートに体に治してもらう。自然の力で治していただく。
結局はそれしかないのではないか。
どこまで体を応援できるのか。体の決めた方針に協力できるのか。体の力がじゅうぶんに発揮されるよう条件をととのえて余力をつくってやれば、気づかぬうちにいろんな改善・回復が、それと分かる。

自分が11歳からじっさいに体験してきたことのすべてである。
危急のとき以外については、よほどでない限り体の方針・方向性を尊重する。文句を言わない。口出しもしない。
「分かったよ。協力はする。でも鼻水はゆるす。アトピーもゆるすし、発熱だろうが腫瘍だろうが、それぞれにそれなりの理由あってのことだろうから好きにやってくれ」ということだ。
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☆開いたページの中から生きた体験が飛び出してくる☆
2012/05/07(Mon)
「読みました」でおわりなら読まないよりましだが、何気なく開くたびに「あ、そうだったのか!」と思い当たることがあり、「ええ?そういうことだったの!?」と思い知ることがある。
開いたページの中に、自分の考え方や感じ方が変わるような冒険と感動が、どれだけあるか。
いつでもそばに置いて、ちょくちょく開いて、開くたびにハッとさせられる。何度でも開く価値のある本は、まったくもってだいじだ。

読むのより書くほうがよほど時間がかかるのである。その人のそれまでの人生すべてをかけた体験が、その文字・その言葉に化けている。それをまたどうやって、生きた体験として自分の中に吹き込んでいくのか。
読書はちょっとした集中力を要求する。
本の中に、自分のほんとうに得たいものが入っているのかいないのか。繰り返し読むうちに決まる。
得たいものがなければ思い当たることも思い知ることも感動もなく、読むに値はしない。

「これはテキストにあったじゃない」「ええ?そうだったっけ?」などというやりとりで、また本を開いて確かめる。そうやって、書いた人が身につけた価値あるものを、だんだんと身につけてゆく。
得たいと思うものが入っているのなら、自分の血となり肉となり、骨となるまでしがみついて本の中味を吸い取ってしまいたい。

そんな本との出会いは、まったく貴重で価値がある。
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☆正直という詐欺−人はまず自分にだまされる−☆
2012/05/06(Sun)
「あの人は正直にほんとうのことを言っている」というが、「正直」が話をすると事実になるだろうか。一たす一は三と信じている人が正直に話せば一たす一も三になる。二かける三が十になったりもする。
「あの人」がほんとうと信じている。
それだけのことだ。

一たす一が三であっても大抵は、すぐにどうとは困らない。でたらめでもそこそこ通用するからこそ、この世はでたらめであふれているのかもしれない。
もちろん、でたらめでは困る場面も、ある。でたらめではやはりいつかは最終的に困ったことになるのである。そんなとき走り回って「一たす一は三」「二かける三は十」などというリクツをいくらかき集めてきたところで、混乱するばかりでにっちもさっちもいかない。

病気やケガでつくづく困ったとき、いかに自分がでたらめだったか、そのでたらめさ加減を、こうでもかとばかりに思い知る。そこを「いや、わたしはまちがっていない」とがんばり通せば痛い目にもあう。ここはずっとずっと頑張り通してさんざん痛い目にあってきた私自身の正直なところだが、これもまた、私の体験と見聞に限られた正直にすぎないのであって、どこまで役に立つほんとうのことかは保証の限りではない。どう判断し、どう役に立てられそうかは、各自で工夫して確かめるほかはない。

感覚が鈍ければ、「自分では心底正しい」と思うことが、平気ででたらめだったりする。じっさい人は自分の感覚に一番だまされやすい。他人がだますのではない。自分の感覚や判断力にだまされているのである。
自分のでたらめを、少しずつでもほんものにしたい。それが私の願いだ。
そのために、いつも感覚を磨く必要がある。
感覚が磨かれていけば、だんだんと自分のカンの狂いにだまされることが減ってゆき、カンの狂いも修正されていく。
感覚を磨くには情報だという意見もあるが、私はそうは思わない。感覚が狂っていれば、正しい情報をウソだと思いこみ、ウソの情報を事実と思いこむ。どんなに正しい情報が目の前にあっても素通りするだろう。

体の狂いを修正すると同時に身体感覚を磨く。自分のカンの狂いにだまされず、カンの狂いを修正し、自らを窮地に追い込まない一つの方法として、私は尊重している。
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☆理論で飛ぶはずのない飛行機が今日も空を飛ぶ☆
2012/05/05(Sat)
飛行機はなぜ飛ぶか。実は科学で分からない。私たちは科学で飛行機を飛ばしているわけじゃない。科学的に確かと思われる説明の99.9%は仮。不完全。まったく見当外れの可能性も含む。
『99.9パーセントは仮説』というおもしろい本。ときどき読み返す。

99.9が仮説で0.1が事実。100対0.1。つまり千に一つしか事実はない。残り999は仮説の段階にとどまっている。
厳しい見方なのかもしれないが、ひょっとしてまだまだ点数が甘いのかもしれない。

体という小宇宙。そして空に広がる大宇宙のことを、人はどれだけ解明してきたか。
宇宙全体の96%の物質は未知、観測不能という。残りの4%も、そのうち99.9%がプラズマだそうで、これは神秘の世界などと言われる。
100対4。そのさらに99.9対0.1。
100分の4かける100分の0.1で、こちらは千に一つどころか万に4つの事実である。
これでは私たちが知っているはずの物質についても、一体どの程度が分かっているといっていいのかさえ分からなくなってくるではないか。

自分たちの体についてはどうだろう。物質についての理解よりも、物質でできた体の理解のほうが進んでいるとはちょっと考えられなくなる。
こうしたことは別におくとしても、生理学の教科書を開けば、ほとんどどの項目にも「この点については意見がわかれる」「ほとんど解明されていない」「不明である」という記述のオンパレードである。

分かっていることはたくさんあるのだろう。たくさんあるが、たくさんというのと、全体のどのくらいを占めるかというのとでは、意味がちがってくる。分かっていないことのほうが96%で、分かっていることが残り4%だったとしたら、その4%さえもだんだんとあやしくなってくる。そういうことも考えられないだろうか。

生理学の教科書を勉強し始めたころは、おおざっぱな気分で臨んでいた。すでに解明された部分は全体の6割くらい。解明されていないことは残り4割くらい。解明されていないことは、重要ではないからだろう。重要なことなら、もうほとんど分かっている。そんなイメージを、いつの間にか持っていた。「科学の進歩、人類の明るい未来」なんていうキャッチフレーズを朝から晩まで聞かされ続けていれば、しょうがないことだ。
解明されていないことがたとえ96%だろうと99%だろうと、だいじょうぶ、今に解明されるはずのことばかりだから。

しかしどうやらそうではなかった。
単純に物質レベルで考えてみても、体という小宇宙もまた、大宇宙と同様に、未知・測定不能なことが96%を占めているとしても驚くにあたらない。そしてさらに残りの4%のうちの、0.1%くらいのところで、科学も進歩した、医学も進歩したと言っているのかもしれない。
そこに、生命の働きということを加えると、はたしてどういうことになるのか。

医学は解明された部分を100と仮定して成り立つ世界である。今の医学では物質レベルと生命レベルとの解明された部分を100として、迷わず注射をしたり薬を出したりする。だからまったくの見当はずれのことも、当然ありうる。それは覚悟しておかなければならない。

私たちの日常は、解明したことを100とした世界に他ならない。解明されていないこと・不明なことを限りなくゼロに近いものとして、今日も空に飛行機を平気で飛ばしているわけである。
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☆「知っている」と言う小学生。「わからない」と言うアインシュタイン☆
2012/05/04(Fri)
小学生が黒板に胸を張って足し算の答えを書いている写真。その隣には黒板の数式を前に首をひねって考えこむアインシュタインの写真。

小学生の顔は得意に満ちている。「ぼく何でも知ってるよ。ぼくに聞いてよ何でも教えてあげる」。
人に教わったことしか知らない。教科書に精通している受験生の全知全能の世界。
先生に答え合わせをしてもらえば百点満点まちがいなし。自他共に了解済みの世界。

他方、アインシュタインの顔は疑問に満ちている。「わたしには、わからない」。
誰にも教わらずに自分で答えを追い求める人の持つ、孤独感。
答え合わせは自分自身。それは長い長い時間の流れの中にある。

テレビやラジオのコメンテイターたち、そして新聞記事は、どうだろう。
彼らの態度は小学生か。それともアインシュタインか。
そして自分自身はどうだろう。自戒したい。
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☆人類の二足歩行にはどんな未来が待っているか☆
2012/05/03(Thu)
つい見とれてしまった。
頭をもたげ、背筋はシャンと旗ざおが立つようで、その晴れやかな顔はまさに風にはためく旗を見るような。そして何より軽やかに歩行のリズムを刻む、その足元。

目の前を、ベージュ色した一匹の犬が、地面をふみふみして通り過ぎてゆく。
前足が地面におりるたび、やわらかな足首がいちいちていねいに重みを受けとめているのがわかる。すとんと地面に足がおりるたび、すっくと膝が、伸びる。
人間の、痛む膝や、じゅうぶん曲げ伸ばしのできていない不自由な膝をよく見かけるからだろうか、犬たちの素晴らしい歩行にはいつも目を見張る。
四つ足の歩きは、いつ見ても、いい。

右の前足がすとんと地面に下りる。すると左の前足の膝がゆるみ、足の先が宙に浮くのが、紙との接触を待つ筆のようにほどよく脱力しており、それがすぐにまた、すとんと地面を打つ。実にいともやすやすと、交互に地面を蹴っていく。
後ろ足のしっかりした支えがあって実現できることだろう。こんなことが日常でごく当たり前に行われているのが奇跡のように美しい。そう思う。

二足歩行には二足歩行の自然というのがあるとは分かってはいても、四つ足の完成度というものを思い知らされる。人間も疲労困憊すれば四つ足の姿勢をとらざるをえない。二足歩行のベースには、あくまで四つ足歩行が隠されているのである。
二足歩行はこれからさらに完成度を高めてゆくのか。それとも四つ足に先祖がえりする可能性もないとはいえまいなどと、考えてしまう。
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☆飲み食いのことで終わってしまえばそれまでだけど☆
2012/05/02(Wed)
パン作りの小麦粉を練る。生地の弾力が心地良い。手触りが変化してなめらかになっていくのも心地良い。
感覚はこういうことでも磨かれているのに、筋肉の手触りがなぜ分からなかったのかが不思議である。

水や塩の加減でもこね具合はまるで違う。ふくらみかたも弾力も、まるで違い、焼きあがりも違う。その違いが楽しくて夢中になった時期があった。そういう微妙な違いが分かる感覚だのに、「筋肉もそれと同じでいい」という頭がなかった。「ここが固いだろう」といわれて触っても、サッパリ分からない。「ほら、ゆるんだ」といわれても分からないから退屈なばかり。「そんなちょっとの違い、分かるはずない」と思っていた。「体はべつ」という頭もあったかもしれない。「治療は料理とはべつ」という頭もあったろう。
結びつかなかった。

「なあんだ。同じじゃないの」と分かってきたら、がぜん体のことがおもしろくなった。
料理をやってきた人なら分かるはずなのだ。
野菜や果物を選ぶのがじょうずな人も、分かるはず。
体のどこがどのくらい固いか。どのくらいゆるんだか、ゆるまないか。そのくらい、さっと触れれば分かるはずなのだ。
小麦粉だってお野菜だって果物だって、生きものだ。人間の体も筋肉も生きものだ。そこらあたりの共通点で、私たちは分かるようになっている。
残念ながら最近は、野菜や果物を手にとって手触りを感じながら買うということが少なくなったようだが。

小麦粉を練ってこね始めた瞬間から、パンを焼いたときの匂いがただよい、パンの味が口中に広がっている。野菜を手に取ると、その野菜の味が手から伝わってくる。果物も、そのマズイ・ウマイが手に取った重みや感触でたちどころに分かってしまう。「食」の感覚は鋭く、「食べること」に結びつくことには感覚がはたらく。

飲み食いへの強い関心から出発し、あとはどうしたら、飲み食い以外のほうへと広げていけばよいのか。
そこが問題だ。そこは大きな問題になるのかも、しれない。
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☆渦巻く銀河のどこかで起きている、いくつかのこと☆
2012/05/01(Tue)
突然の事故で、お子さんが危篤になり、生命維持装置につながれた。
「生きていてくれさえしたらいい」と何度も何度もおっしゃった。成績なんか体なんか素行なんかどうでもよかった。生きてればそれだけでよかったんだとおっしゃり続けて二ヶ月が過ぎ、生命維持装置ははずされ、お子さんは息を引き取ったと聞く。
この女性にはじめて会ったころのことを、思い出していた。
「うちの子の、あの根性を、叩き直さなければいけない。成績もいけない。体つきも、目つきもいけない。第一、素行がよくない。ちっとでも目を離されてもらっては困る」。
電話がくると一時間でも二時間でもお子さんのことを話し続けておられた。

「子供がいた、ということだけでも、よかったではないか」と、ほかの女性が、言う。
子供が持てさえすれば、よかった。子供の身を思って泣くことさえ、私にはできない。
それぞれに、苦しみ、悲しみが、ある。
子を思う楽しみは、子を思う悲しみとが、一枚のコインの裏表になっている。
子を持たないさびしさは、子を持たない身軽さと表裏一体となっている。
どっちが得をして、どっちが損をしたといえるだろうか。どっちがより気の毒で、どっちがより羨ましいご身分かということを、誰が判定できるだろうか。

「新しい家を建てたから遊びに来て」と誘われて出かけていった。床下には炭をうめて、アトリエも広くて、と案内される空間は、仮暮らしを続けてきた私の目には少々大げさなような印象だった。夫婦二人が過ごすにはどうだろうかなどと思ううち、急に静かになったので気がつくと、彼女は一人で泣いているのである。「最近すごく不安なの」という。申し分のないこの生活がいつかくずれるなんてイヤだと言って、泣き出したのである。
仏教になど関心を持たないような人が、説法集からそっくり取り出してきたようなことを言うので驚いた。幸せを持て余すという、少々ぜいたくなほうの悩みである。
気の利いたことが言えればよかっただろうが、口から出てきたのは、「わかった。じゃあこの家を私がもらってあげる。きっと気がラクになるわよ」。
半分本気だったが、冗談と受け取られたらしい。彼女は急にけらけらと笑い出し、すっかり機嫌を取り戻した。

こんなようなことの一つ一つが、目にも見えないちっぽけな星の集まりが銀河をなしてぐるぐるめぐっているように、もっともっとたくさんのことと一斉に、この世をめぐっているだろう。
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☆ラクじゃなければ節制じゃない。ただのストレスだ☆
2012/04/30(Mon)
真面目な性格でことにあたるとバカをみる。しかめツラしてやるものではない、べつにノルマじゃないのだから。成績つけてノーベル賞もらうでなし、制限数値を超えたらおまわりさんに罰金とられるでなし。
自分も周囲も楽しく愉快で過ごせるように、節度の精神を身につける。それが節制だと思う。

腹を下したのであえて暴飲暴食するという人もないだろうが、ふだん散歩もしなかった人が、足を故障したからといって一足飛びにジョギングや山歩きに興味・関心を持つというのはよくあること。
けがや病気は節度を知るまたとないチャンスだが、その体験にとぼしいと、節制までが過激になって節度を失いがちではなかろうか。
デジタルな節制はとくに墓穴を掘りやすい。
一日何回だとか、睡眠一日何時間だとか。一日野菜何グラム、水は何リットルで何キロカロリーだとか。速度何キロ、距離は何メートルだとか。そんなややこしいこと人間が楽しく実行できるわけがない。
じっさい糖尿病を予防するという勧めで数年間の節制に取り組まれた結果、うつ病を発症した上、糖尿病にもなったという笑えない話もある。
きっちりデジタルは機械の生き方。人間はアナログでいくのが相性がいい。

職のあるなしに関わらず、体は死ぬまで休みなく働き続ける。
食べたものの処理(消化と解毒・排泄)は体の労働の中でももっとも重要だ。体調だって気分だって、ここがどれだけうまくいっているかに左右されている。
朝ごはんもしっかり食べたうえ、夜の九時十時でもちょっとつまんで、なんてやっていれば、体は残業続き、長時間労働である。そこにちょっとした病気やケガなどが加われば、「早く治ってくれ」と拝み倒したところで、体は対応できなくなる。
長く患っていれば「治るのかしら」「わるくなっていくのでは」と不安にもなり苦にもなる。不安は痛み苦しみを倍増する。それでよけいに苦しむ結果を招く。

体を重労働から解放して負担を減らし、心身に余力をつくる。その余力でさっさと治してしまえば元の生活に戻ることもできる。
苦にする。気にする。これはまさにストレスそのもの。いちいち頭で考えなくても、節度のある行動が、時と場合に応じてサッと自動的に出てくる。それがストレスのない、自分にあった節制だと思う。

節制は、心も軽く、身も軽くするためのものだ。
どれだけラクに生きられるか。それを追求するのが節制とするならば、節制をスッカリ忘れていることこそ理想の節制といえるのかもしれない。
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☆一番の弱みが精神ならば強みもまた精神、かもしれない☆
2012/04/29(Sun)
精神を生かすのにはむしろ物資は不足気味がよいと聞く。
物がじゅうぶんにあると、なぜか精神のほうは衰弱し、適応力が奪われやすいともいう。
適応する能力が奪われるのは、物を奪われることよりも困ったことになるのかもしれないと思う。

日本は非現実的な精神一辺到で戦争に負けた。そんな解釈をよく耳にする。精神に頼り、精神を信じすぎた日本人はバカになり、何も見えなくなっていた。次からは精神のことは忘れて現実に向き合って経済のほうを中心にしようということで、日本は今日のゆたかさと大成功を得た。そんなストーリーもまた、よく耳にする。
精神という言葉が好きじゃなかった。「精神一到なにごとか成さざらん」。精神といえば「目を吊り上げ、歯をくいしばり倒れて死ぬまで一直線に走り続ける」というような力みのある行動を思わせたからだ。
じっさい、そういう使われ方をされている。悲喜劇を思わせる言葉だ、精神って。そう、思う。

しかし心の底からわいてくる気持ち、これが精神というものなのかなと思われるもの。その効果がじつは絶大というのも事実ではなかろうか。
金がダメとか物がダメというのではない。金があっても金にたよる精神ではなく、物があっても物にたよる精神ではない。人がいてくれるからといって人にたよるのでもない。自分に備わった感覚や精神を総動員して生きてゆく。

そんな姿勢を養うことを、操体法では「気持ちいいことを積み重ねて生活する」ということにしてしまうところが画期的だと私は思う。実行して気持ちいいことばかりなんだから、精神を養うといっても、こんなにラクなことはない。「目を吊り上げる」ことも「一直線」も、かえってそういうのは操体法に反するというのだから。
きちんと冷静に感覚をはたらかせながら、ラクということを判断する。気持ちいいということを、吟味する。
そういう生きるためのこころもちのようなものを、自分も実行したいし、操体法の講習や施術に足を運ばれる方にも提供したい。そう考えている。
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☆噛みつかれる条件。噛みつかれない条件☆
2012/04/28(Sat)
野犬や野良猫が好きだった。大人たちの禁止にも関わらず、野犬の群れにこっそり一人で近寄るようなところが子供時代の私にはあり、じっさい彼らは警戒をといてよく頭をなでさせてくれもした。
一頭一頭の性格が、一目で分かるような気が、した。群れ一つ一つの性格も読みとれる感じが、した。姿を見せたと思ったら、再びどこかへ立ち去ってしまう彼らの世界にわけもなく惹かれ、そんな私を彼らも認めてくれているように思われて、平気で近づいて行った。
一歩誤れば危険なことを、なぜ事故もなくやれていたのか。偶然とか運がよいとかも含めて思い起こすことがある。偶然にせよ運がよいにせよ、噛みつかれないは噛みつかれないなりの条件があるだろうからだ。

治療の世界では「犬や猫に嫌がられないように鍼を打てたらほんもの」などということがまことしやかに言われるが、治療のうまい人は犬や猫、そして赤子の機嫌をとるのもうまいようだ。人間と犬ネコの、どちらがご機嫌をとりやすいか。
もちろん場合によるが、犬や猫は肩書や言葉にだまされない。操体法のT先生は少々恐いところもあったが案外に動物好きで、「この製品はすごいぞ。犬ネコが喜んで近づいてくるんだ」などと褒め言葉で使うくらい、犬ネコの感覚を信用されておられる様子だった。
「これは何万円もするホンモノで実績もある」と犬ネコに説明したところで「プラセボ効果」が期待できないのも確かだろう。

犬や猫が好きな人は、触っているときに、相手がどこを触ってほしいと思っているか、無意識に読み取ろうとする。犬ネコもまた、「ここを触ってほしい」「そこはイヤ」などとボディランゲージで応じてくる。それが対話にもなる。自分の元に長くとどめておきたいと思ったら、「気持ちいい」ことをしてあげるしかない。
これはまさに治療の基本だと思う。
「気持ちいい」ことで一番手っ取り早いのは食べ物。しかし満腹すれば見向きもされない。その点、触れる、タッチするというのはずいぶん長持ちで、食べ物より優先されることさえ、ある。
どこを、どのくらいの力加減で触れると、目を細めてくれるか。その場でころんと寝転がってくれるか。
自分の飼っているペットなら適当でかまわないが、いつ、どこの、どんな犬ネコにでも通用するコツを身につけようとするならば、これは操体法の立派な訓練になる。
ただし食べ物には頼らない。モノには一切頼らずに、である。

橋本敬三医師の残された論想集や著書の中に、「圧痛」を説明しているところがある。
圧痛とはやさしく触れると、反射的に緩解、つまり反射的にゆるんでほどけるところだと書いてある。触れて気持ちよいところ。そこにやや圧を加えると、くすぐったいとか、さらに圧を加えると、圧による痛みを感じるのだと説明が続く。
犬ネコの、警戒をとき、目を細めてメロメロとたちどころにくずれてしまうツボ。あれは基本なのではないかと思われたりもする。日がな一日道端にしゃがみこみ、犬ネコのツボの研究に費やしていた子供時代。ああ三歳ごろと自分はあまり変わらないなあと、あらためて驚く。
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☆便利な不便と、不便な便利☆
2012/04/27(Fri)
戸外でからだを動かすと、頭も心も休まると同時に、いつもと異なるスイッチが入って生き生きと活動を始める。山歩きを始めたときの発見だった。

私の祖父祖母の時代、ずいぶん遠いところまで平気で歩いて移動していた。戸外での肉体を使った労働も多く、それは不便でたいへん苦労な時代に思われる反面、間が抜けてのんびりした時代のことのようにも思われる。
しかし実際にはそうではなかったろう。
戸外での労働は体を動かす苦しさと同時に、体を動かす喜びももたらしてくれていたはずだ。
それはまた気晴らしでもありうる。自然の厳しさを味わいながら、季節の移り変わりや自然との一体感を感じ取っていただろう。機械にたよるわけにもいかないから、のんびりどころか頭も感覚も今よりフルにはたらかせていた生活だったはず。

車の運転や、パソコンの前に座って仕事をするのは、一見ラクに思われるが、やってみればあれほどツラい労働もなく、心身ともに消耗が激しいのである。
エアコンで平均化された気温の中で、皮膚感覚をはたらかせることもほとんどない。
自分の感覚をたよりにしてものごとを決めるのではなく、感覚はむしろ封鎖して、上下関係で決められたことを決められたようにやれと要求される空間に一日閉じ込められている。景色も見えず、鳥の声も聞かれない。オフィスワークで生きものとしての人間が健全で幸せな生活を送れるのか、はなはだ疑問にもなる。

「現代は便利でけっこうな時代」といわれたり、「現代人はストレスをかかえて大変なんだ」といわれたりして、昔と比べてどっちが「けっこうな時代」なんだか、足して二で割ったらちょうどになるんだかならないんだか、さっぱり分からない。
人は幸せを追及するために、生きて労働するというのは、きれいごとすぎるだろうか。
昔の人の写真と、今の人の写真で比べてみる。
どちらの人間がいい顔をしているように見えるか、客観的に見て自分で決めればいい。
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